百四十七話 『閃光、火花』
肉が湧いた。
回帰の剣の突き立ったマリエラの眉間がぼこぼこと音を立てて陥没し、代わりに彼女の耳や鼻、口からどろどろに溶けた肉が押し出され、噴き出す。
はらわたのように、あるいは崩れた脳組織のようになった肉は爆発的に排出され、巨大な眼球を眼窩から押し出し、不死の巨人の残骸や触手の大群を呑み込み、マリエラの全身を瞬時に覆いつくし……。
そうして人型から球形に近づいた巨大な肉塊が、落下をやめ、空中で静止した。
何の力の作用か、物理的な疑問をさし挟むひまもなく。
次の瞬間にはマリエラだったものが赤い閃光を放ちながら、どくんと脈打った。
肉の表面を亀裂のように走る閃光。ばりばりと裂けるような音を立てて地を照らす魔力の光。
どくん、どくん、と巨大な心臓のように脈打つ肉塊が、赤い粒子をこぼしながら膨張していく。世界に響くめりめりという音。にぶい桃色から、しだいに真っ赤に変色し、強く凶悪な光を帯び始める肉。
鍛え損ねた鉄の玉が、熱い空気を吸いすぎて真っ赤になったまま破裂する。その寸前を思わせる光景だった。
破裂。破壊。――爆発。
まさか、と誰かが言った、その時だった。
湧き立つ肉の奔流に手足を巻き込まれ、なかば肉塊に取り込まれていた魔王が、炎の翼を再び広げて羽ばたいた。
熱風は膨張した肉塊を燃やし、アッシュ達の頭上で渦を巻く。魔王が羽ばたくたびにマリエラの絶叫がどこからともなく響き、地を震わせる。
やがて魔王と肉塊は、魔力の粒子の線を引きながら上空へと舞い上がった。
コフィンの王都から、はるか大空へ――垂れ込めた灰色の雲へと、昇って行く。
ルキナ王女が、魔王の名を叫んだ。アッシュもそうしたかった。だが胸が、のどが、どうしようもなくひりついて、詰まって、できなかった。泣き声さえ口の外には出ず、頭の中でまるで割れ鐘のような不快な音となってはね返るだけだった。
肉に埋め尽くされていた視界がみるみる開け、世界に高さが生まれた。風にもまれる木の葉のように、青く燃える魔王は死の肉塊をゆさぶりながら、雲へ近づいて行く。
アッシュは心の中で何度も何度もダストの名を呼んだ。炎の魔王の最奥にいるはずの、アッシュにたくさんのものをくれた人の霊魂に語りかけた。彼と過ごしたたった数日の思い出が、脳裏によみがえっては尽きることがなかった。
せめて、最後に耳元の声を聞きたいと思ったが……。
アッシュの耳には、最後までマリエラの絶叫と、熱風の荒れ狂う音しか、聞こえなかった。
――目もくらむような光と轟音が、世界を支配した。
魔王と肉塊のいた場所に夕陽のような光の玉が生じ、それがやがて形を崩して、細かな粒子の渦となる。
巨大な怪物としてのマリエラを、その生命を成り立たせていた魔の力が、回帰の剣によって均衡を崩され、行き場を失って爆ぜたのだ。その粒子は霧散し、やがて大気に溶けてゆくのだろう。
アッシュは空を流星のように飛んでは消えていく赤い粒子の中に、青白い火花の群を見た。
ぺた、と地面にひざをつき、震える息を吐いた。涙も枯れたはずの目が、熱い何かで濡れるのを感じた。
アッシュの中から、何かかけがえのないものが、抜け落ちて、消えた。
「神喚び師は死んだ。魔王も、消え去った」
……聞こえた声に、ごろりと目を転がした。
地の上に立ち上がったルキナ王女が、肉断ちの剣を手に、空を見上げている。涙で濡れながらも硬く整った顔が、ゆっくりと視線を地上に下げ――
すぐそこで血のあぶくを吐きながら、地べたを這っているユーク将軍を、見下ろした。
「……よもや……この期に及んで……」
逃げよう、などとは。
怒りと、憎悪と、殺意に満ちた声を降らせるルキナ王女に、ユーク将軍は体からどんどん剥がれてゆく巨人の残骸の奥から、死にかけの獣のような目を返した。