百四十五話 『断つ』
アッシュは遺骨のように軽くなったアドを抱きながら、じっと変わり果てたユーク将軍を観察した。
不死の巨人の歯やあご骨、皮膚に覆われた体は降りそそぐ石くれを跳ね返し、魔王の熱風をものともせず直立している。
瀕死の重傷を負っていたはずの彼の咆哮はマリエラや魔王のそれに劣らず大きく力強く、はちきれんばかりの生命力にみなぎっている。
それゆえに。だからこそ。アッシュは臓腑からわき上がる怒りに全身を震わせ、心の奥底に残っていた恐怖を完全に、微塵も残さず振り払った。
「――なんて、愚かなの」
アッシュが吐き出した言葉に、咆哮を上げていたユーク将軍がぐるりと振り向いた。
不死の巨人のパーツの隙間から覗く二つの目は、赤い魔力の光を宿してらんらんと輝いている。アッシュはその眼光を真正面から睨みつけ、額から流れる血液で唇を濡らし、続けた。
「薄汚い魔の領域ですって？ その力に救われておいて、今までさんざん利用しておいて、いったい何様のつもりなの？」
「……」
ユーク将軍が右手を振ると、こぶしの中から巨大なとがった骨が音を立てて飛び出す。おそらくは不死の巨人の肋骨の先端であるそれを、アッシュにまっすぐに向ける。
それでもアッシュは臆さず、左腕にアドを抱えたまま、右手でそばの瓦礫の中からガラス片のついた窓枠を引き抜いた。鉄剣は一連の騒ぎの中で吹き飛んでしまっていた。
割れてとがったガラスの先を、ユーク将軍に向ける。
「魔の力を振るっておいて、その代償を自分以外の人間に払わせるなんて。自分だけは魔に染まりたくない、触れたくもないなんて……そんな身勝手が許されるわけがない……」
「知った風な口を利くな！ 貴様に世界を背負う者の何が分かる！！ 聖域に立つ者はけっして汚れることは許されない！ 常に最も清く神々しい有様を示さねば民は……！！」
「その姿はあなたに心底お似合いよ！ 人間性のかけらもない悪党がバケモノの死肉にかじりついて無理やり生きながらえてる！！ この戦場で一番醜いありさまだわッ！！」
瞬間、ユークがまるで肉食獣のように四足で走り込み、アッシュの喉に鋭い骨の先端を突き出した。
前傾しガラス片を繰り出そうとするアッシュを、彼女にしがみついたアドが人間離れした力で引きずる。骨はアッシュの髪をなで、ガラス片はユーク将軍の胸に砕け散った。
転倒するアッシュの背後に走り抜けたユーク将軍が、石くれを弾き飛ばしながら周囲を大きく回り始める。狼か、あるいは野猿のような人ならざる力強い動き。アドがアッシュの肩を抱きながら、うめいた。
「やっぱり、とっとと逃げとくべきだったよ、アッシュ。これじゃあたしらが戦場の『中心』だ。あたしもあんたも、ろくに戦えねえってのによ……」
「許せない」
身を起こすアッシュの言葉に、アドが彼女を見上げながら眉根を寄せた。アッシュは折れた窓枠……もはやただの木の棒となったそれを握りしめ、泣いていた。
「許せないよ。みんなが……戦える人も、そうでない人も、本当にたくさんの人が命を投げ出して、あいつを追い詰めたのに……。その戦いを、つけた傷を、ただの一瞬でなかったことにするなんて。そんなの……」
「……」
「あいつが走ってることが許せない。動いてることが許せない。息をして、生きてることが……魔術を汚いって、邪悪だって見下してるくせに、その魔の力の恩恵を受けて死なずにいられることが、どうしても許せないんだよ……！」
マリエラの吹き飛ばす瓦礫が、魔王の熱にあぶられた風が、アッシュ達の周囲で荒れ狂う。
ユーク将軍が体を跳ねさせ、地を蹴って突然に向かって来た。きらめく骨の先端に、アッシュが立ち上がり、棒切れを振りかぶる。
「死人が甦る！ 死ぬはずの肉体が再生して生きながらえる！ それはダストやラヤケルスが全てを犠牲にして追い求めたことだよ！ 心も体もボロボロになって、それでも成し遂げたいって必死に……！」
なのに！ 襲い来るユーク将軍を血と涙で濡れた目で睨み、アッシュは手を伸ばすアドにも構わず、棒切れを振り切った。
「自分だけは無傷でいようなんてズルい人間が、彼らの願いを享受していいわけがあるもんかあアーッ！！」
木片が砕け、アッシュの顔をかすめる。ユーク将軍の巨躯が、視界を埋め尽くす。
とがった骨が、アッシュの胸に、迫る。
――――血液が、空中に舞い散り、魔王の熱風に焦がされた。
アッシュの胸元が真っ赤に染まり、ちぎれ飛んだ肉片が彼女のほほにへばりつく。
アドが、アッシュの腰布をつかんだまま、その肉片をぼうぜんと見上げ――ごろりと眼を、アッシュの視線の先へと転がした。
アッシュの胸先。鋭利な骨につらぬかれた大きな手が、つらぬかれながらに骨を握り込み、止めている。
血潮をしたたらせるそれに、やがてもう片方の手が重なり、ぎゅうっとユーク将軍の武器を固め、封じた。
「……微塵の、余地もなく」
アッシュの背後に立つ大きな人影が、低く愉快げな声を上げた。
「同感だな。小さな、女傑殿よ」
直後、皆の後方から一組の男女が飛び出し、刃を振るった。
男はコフィン王国戦士団長、ガロル。獣のような咆哮とともに動きの止まった骨に剣を振り下ろし、粉砕する。
後方によろめくユーク将軍に迫るのは、肉断ちの剣を振りかぶった、ルキナ王女だ。
「セパルカ王！ ご免ッ！！」
「仕留めよ！ ルキナァッ！！」
アッシュの背後のセパルカ王が、けたたましく哄笑を上げる。
目を見開き、何かを言おうとしたユーク将軍の胴体を――
長大な肉断ちの剣の刃が、通過した。
