百四十四話 『堕落』
肉をかきわけ、骨に迫る刃。ユークの体中から血と汗がほとばしり、アッシュの手足や、顔を汚していく。
鉄剣を受けている回帰の剣がじょじょに退き、やがて持ち主のユーク自身の体に密着した。いまやアッシュの剣はユークの眉間を完全にとらえ、彼女の全力がそこにそそがれている。
だが、そのままユークの頭骨を押し潰すには、アッシュはあまりに非力すぎた。刃は骨の表面をぐりぐりとこするだけで、きしみの音一つ上げられない。
アッシュは力みのあまり真っ赤になった顔を震わせながら、ごりっ! と刃をユークの顔の上をえぐるようにすべらせた。
ユークの怒りに満ちた絶叫が響き渡り、彼の血走った目が飛び出さんばかりに大きく剥かれる。
とどめを。早くとどめを刺さなければ。
刃を差し込む場所を、力を込めるべき部位を探しながら息を詰めるアッシュ。
その頭に、不意に何か生温かいものがかかった。
「アッシュ! 逃げろォッ!!」
アドのひきつるような声。霧雨のようにゆっくりと降りて来る、濃厚な死の気配。
アッシュとユークが同時に視線を上げると、争う二人の頭上に、巨大な眼球があった。
激情に浮き出た血管。収縮した瞳。肉色の顔……。
何ゆえにか。いつの間にか。草原にいたはずのマリエラがアッシュ達を上空から覗き込み、睨みつけていた。
生温かい、腐臭のする吐息。ばしゃばしゃと音を立てて落下する、唾液。
気を呑まれるアッシュの頭上に、巨大な肉色の腕が雲に届かんばかりに振り上げられ――
次の瞬間、熱風と共に飛来した魔王がその腕に喰らいつき、マリエラの頭を大地に叩きつけた。
目の前ではじけ飛ぶ地面、四散するマリエラの肉片。
衝撃にその場にいる全員が吹き飛ばされ地面を転がり、こまかい石くれの雨を浴びた。
「クソ女め! 将軍の悲鳴を聞きつけて助けに来やがったんだ! せっかくモルグが王都の外に吹き飛ばしてくれたのに……!」
「アド!!」
アッシュがすぐそばに転がってきたアドの上半身を引き寄せた直後、魔王に組み伏せられたマリエラの腕が、地表をなぎはらった。瓦礫や建物が空中を飛び、巨大なこぶしが大地を沈める。
アドの体を抱き、身をちぢめて死をやり過ごすアッシュの目の前で、魔王がマリエラの腕を食いちぎり、その巨体をずるりと引きずった。
視界の奥へ遠のく二つの巨体が、次の瞬間勢い良く燃え上がる。荒れ狂う魔王の炎。暴れもがくマリエラの四肢。
ぜえぜえと呼吸を乱すアッシュにしがみつきながら、アドが不意に「あっ!」と声を上げた。
彼女の視線の先には、地面に落ちた回帰の剣。
無意識にそちらへ向かおうとしたアッシュを、なぜかアドが肩に指を食い込ませ、制止した。
「――――よ――」
回帰の剣の、手前。瓦礫の陰から這い出た何かが、ぼこりと血の泡を吐き出した。
アッシュは思わずアドを抱き返し、『それ』を見る。マリエラの肉片が直撃し、体中の骨が飛び出した身を引きずるそれは、地に落ちた己の心臓と、脳のかけらを見つめている。
本来即死に値する衝撃を受けたのだろう肉体は、しかししっかりと呼吸をしていて、取り落とした心臓もどくどくと脈打っていた。
「余計な、こと、を――あの――――馬鹿、女――」
破壊されたユーク将軍の肉体を、臓器を、マリエラの肉片から伸びた触手が拾い集め、つなぎ合わせていた。
血肉のこぼれ出た体にずるずると触手が入り込み、穴を埋める。体中の傷を縫合し、体外にこぼれた心臓を包み、むりやり動かしている。
触手はユーク将軍の脳を割れた頭に戻し……折れていた手足の骨と同化して、まっすぐに修復する。
「とうとう――とうとう俺を――」
立ち上がるユーク将軍を、マリエラの巨大な肉片が包み込み、取り込んだ。ユーク将軍はそれまでの身の丈の三倍ほどの大きさの、肉色の人型となり……
やがて肉片の奥から浮上した、不死の巨人の生白い残骸が、鎧のように人型の体表を覆い尽くした。
「俺を――自分と同じ『領域』に、引きずり込みやがった――!」
うす汚い、魔の領域に。
ユーク将軍だったものが、骨片の塊のようになった両手を握りしめ、錆ついた金属がこすれるような濁った咆哮を上げた。
びりびりと空気を震わせるそれに、視界のかなたで燃え上がるマリエラが、魔王と争いながらに眼球を転がし――
焼けただれる顔で、にこっ、と、笑みを浮かべた。