百四十三話 『灰の剣』
振り下ろされた回帰の剣が、アッシュのひたいを縦にざっくりと裂いた。
眉間を走り、鼻先にまで届く赤い血の線。アドが獣のような声を激情のままに上げる。
だが、ユークも、そして斬られたアッシュ自身も、目を丸くして絶句していた。
ユークは己の一撃をすんでの所で身を引いて浅くとどめた相手に。アッシュは自身の力で死を回避できた事実に。それぞれ驚がくし、声を失ったのだ。
ユークが、目を丸くしたまま剣を返し、横なぎに振り払う。アッシュはその刃を鉄の剣で受ける。力負けして地面になぎ倒されるものの、今度は刃先すらアッシュには当たらなかった。
アッシュがくちびるに垂れてくる血をぺっぺと吐き出しながら、剣を杖代わりにして立ち上がる。
「……な……」
ぽかんと口を開けているユークとアドの前で、アッシュはひくりと、ほほを震わせた。
「何だ……思ってたより……何とかなりそうな感じ、かも……」
「ふっ……!」
ユークの顔が、一瞬にして鬼のようになる。だがアッシュは逆に冷静な表情で目の前の少年を見返し、剣を地面から引き抜いた。
アッシュの手が、無造作に鉄の刃先をユークに突き出す。ユークはそれを瞬時に打ち払ったが、ぐらりと上体がそれて右足が浮いた。
ああそうか。これが『隙』ってやつなんだ。
アッシュは眉間の痛みすらどこか遠くに感じながら、目の前の敵を睨めつけ、次の瞬間体ごと彼に突進した。
アッシュは剣の素人だ。力もなければ争いの才能もない。にもかかわらず、ユークはアッシュの体当たりをまともに喰らい、背後にいとも簡単に吹っ飛んだ。
地面にひざと手を突くアッシュの前で、ユークは地面を転がり、やがてアッシュと同じ姿勢で這いつくばった。その目が『馬鹿な』と大きくゆがむ。
「この女! 素人なりに場数を踏んでるのか!? お、俺に土をなめさせるなんて……」
「バカ言わないで! 叩き合いのケンカもしたことないんだから!」
アッシュが立ち上がり、鉄の剣を振り上げてユークへとびかかる。突き下ろされる刃をさらに転がって回避するユークが、地面から起き上がろうとした瞬間短く悲鳴を上げた。
地面についた腕のひじから、わずかに白いものが見えている。
アッシュは素早く立ち上がり、叫んだ。
「あなたが大ケガをして、死にかけのバッタみたいに弱ってるだけよ! 強がって、えらぶって、アドを後ろから刺しといていい気になってたけど――あなたはもう、弱っちい私と互角に戦うしかないくらい、力をなくしてるのよ!」
「何を……!」
「ちっぽけな女の子一人に手こずってるようなやつが、ダストに勝てるもんかッ!!」
気合と共に振り下ろされるアッシュの剣を、ユークは回帰の剣で受け止める。だが、全身の力と体重を使って押し付けられる剣を、ユークははねのけることができない。地面に両の足で立つアッシュを、ひざまずいたユークが仰いでいる。
伝説の勇者の遺した魔剣が、粗悪な鉄剣と剣身を削り合っている。
アッシュが、血と、いつしか流していた涙に顔中を濡らしながら、渾身の力を、気迫を振りしぼる。
「これ以上この戦争に手出しはさせない! 私だけじゃない、今まであなたに挑んだ全ての人があなたを殺すの! その体の傷の一つ一つがあなたを滅ぼすのよ!」
「調子に乗るなッ! 小娘えぇッ!!」
「この剣は絶対に引かない!!」
喉が裂けんばかりの怒号を吐き出し続けるユークの眉間に、鉄の刃先が、ぶつりぶつりと皮を裂き、埋まり始めた。




