百四十一話 『言い訳』
「このクソガキがあッ! ふざけんな! とっとと逃げろって言ってんだろうが! 聞こえねえのか馬鹿アッシュ!!」
瓦礫に挟まれて身動きの取れないアドが、本気で怒鳴りつけてくる。その声にはもはや怒りを通り越して、殺気すらこもっていた。
アッシュはぎゅうっと鉄剣の柄を握り締めながら、こちらに顔を向けているユークにじりじりと近づく。怒鳴り続けるアドに、声だけを張り上げて返す。
「アド、もうちょっとの辛抱だから! 絶対勝ってみんなのとこに連れて行くから! その体もきっと……きっと治るから!」
「てめえ本当にぶっ殺すぞボケナスッ!! 誰もそんなこと望んでねえんだよ! 人も殺したことのないザコスケがしゃしゃり出てくんな! ケガしててもそいつは一軍の将だぞ、お前なんか一瞬で真っ二つだぞ! それ以上近づくな!!」
「……今逃げたら……アドが斬られちゃうもん……!」
歯を食いしばるアッシュの目の前で、ユークがじろりとアドに目線をやった。瞬間アッシュが自分でも驚くような、獣のような声を上げて剣を振り上げる。
ユークの注意をアドからそらさねばならない。体の半分を失ったアドは、回帰の剣にあと一突きでもされれば確実に死んでしまう。この世から消滅してしまう。
ユークとアドの距離は、ぞっとするほど近い。仮にアッシュが全速力でアドの救出に向かっても、瓦礫に挟まったアドを掘り出している間に背中から斬られてしまうだろう。
アドとアッシュが共に生き残るには、ユークとの戦いは避けられない。それがアッシュの考えだった。
「気に入らんな」
ユークが、急に冷静な声を出した。凍てついた湖面のような目が、アッシュを見る。
「俺に勝つ? 俺を殺す? 正気の沙汰とは思えん。本当は俺と戦っている内に、別の人間が助けに来ることを期待してるんじゃないのか? 最初にお前が言ったとおり、すぐにコフィン人やセパルカ人の戦士どもがここにやって来るだろうからな」
「甘く見ないで。私だって……」
「どう見ても素人だ。構え方を見れば分かる」
ユークが剣先を突き出し、アッシュに一歩近づく。
全身を緊張させてあわてて剣を正眼に下ろすアッシュ。ユークが薄く歯を剥き、喉を鳴らした。
「瓦礫の中に潜んでいたのは……隠れていたわけじゃない。血を流しすぎたから……少し休んで、体力が戻るのを待っていただけだ」
「……?」
「そうだ……そこにお前達が通りかかって、魔王の話をした。魔王の関係者だと分かったから、軽く刺してやっただけだ……不意打ちを狙ったわけじゃない……そんな価値は、貴様らにはない……殺そうと思えば、簡単に殺せる」
何故か、自分達に対して言い訳じみた言葉を吐き始めるユークに、アッシュが眉根を寄せた瞬間。
ユークが大きく一歩を踏み出すと同時に、血まみれのひじをアッシュに向けて突き出した。苦悶の叫びと共にひじに力が込められるや、傷口からまるで蛇のように赤黒い血液が噴き出る。
血のりがアッシュの鼻から上に直撃し、飛び散った。「ひっ!」と声を上げるアッシュの前髪を、直後に振り回された回帰の剣が斬り飛ばす。
踏み込みが足らず剣を空振りしたユークが、アッシュの目の前にひざをついた。反射的にその場から飛び退いたアッシュもまた、瓦礫に足を取られて転倒する。
血のりが右目に入り、視界が半分にじんでいた。あわてて身を起こすアッシュに、ユークが低くうめきながら言う。
「俺と戦うだと……? こんな、ちっぽけな小娘が……? 勘違いだ。完全な、勘違いだ……異様な怪物に乗って現れた……魔王の縁者だから、てっきり……多少手ごわい敵かと、勘違い……早とちりしただけだ……!」
ユークの血走った目が、ぎゅっと音を立てんばかりに、吊りあがる。
「話にもならない。こんな奴らは、本来、俺の敵ではない。軽く殺して……次にやって来たやつも、殺す……次の次も、次の次の次も、まるで……小虫を踏み潰すように……俺の敵は、魔王と、世界の国々だ……ただの人間など、何百、何千向かってこようと……俺を殺すことなど、永遠に……!」
誰に、喋っているのだ。
凄まじい殺気を放ちながらぶつぶつと言葉をつむぐユークに、アッシュはうすら寒いものを感じてほほをひくつかせる。
と、ユークの後方で何とか瓦礫をよじ登ったアドが、彼を指さしながら声を上げた。
「血が止まってる! ひじから噴き出した血が、もう乾いてる!」
見れば、腕を伝っていたユークの血が、確かに衣に吸い込まれて止まっていた。アッシュの顔に飛び散るほどの血液が噴き出した直後なのに、いくらなんでも早すぎる。
ユークの目が、不気味な光を宿す回帰の剣の刃を、鋭く射抜くように見つめる。
「俺は、勝者だ。運命に愛されている。全てを組み伏せ、支配するまで――死なない」
「暗示だ! こいつ自分に語りかけてる! 強烈な暗示で痛みと傷をごまかしてる!」
冗談じゃない! と叫ぶアドの視線の先で、ユークが素早く回帰の剣を、アッシュに向かって振りかぶった。