十四話 『塵』
朝食はいつものやわらかいパンに、真っ赤に茹で上がった人さし指大のエビが五匹もついていた。
エビは、アッシュの故郷のバースでは貴族しか口にできない高級食材だ。
こんなものを草原のどこから捕って来たのかと訊くと、ダストは姿見の前で髪を編みながらこともなげに答えた。
「コフィンには二種類のエビがいる。一つは小川の底に棲む、ゴミのように小さな透明のエビ。もう一つはその皿に載っている、水たまりや泥の中に棲む大きなエビだ」
「泥の中?」
「乾季がなく、常に泥たまりが存在するコフィンだからこそ生息できるエビだ。ただ十匹中、九匹に危険な寄生虫がいるから、たっぷり一週間は水を張った壷に入れて泥抜きをしなければ食べられない」
ダストはそう言って、靴先で床の一部を示す。
真四角にくりぬかれた樹皮のふたが外されたそこは床下収納のスペースになっていて、先日アッシュが磨き上げたピカピカの壷と同じものが、無数に並んでいた。
首を伸ばして覗いてみると、壷の中には確かに黒いエビが五、六匹ずつ入っている。
その内の何匹かの体からミミズのような細長いものが出ているのを見て、アッシュは思わず兜を脱いだ口元を押さえた。
「ひょっとして、この赤いのが寄生虫? 気持ち悪いなあ……」
「水ばかり飲んでるエビの体の中で飢えて、たまらず外に出てきたんだ。間違っても口に入れるなよ。貧弱な外見だが凶悪な寄生能力を持っていて、しかもこいつらは、人間にも寄生する。体の最奥にもぐり込まれると、肉体の主導権を奪われるんだ。
カタツムリを日なたに連れ出したり、カマキリを自殺させる連中と同属だよ。長い間寄生され続けると操られている自覚すらなくなり、死んだことにも気づかないとさえ言われるほどだ」
入れないよ、口になんか! と身震いしながら言うアッシュに、ダストは鏡越しに薄笑みを返す。
「とにかく危険な寄生虫だ。体内に入れれば腕や足が意志とは無関係に動くようになる。だからこそこの『泥エビ』は、長らく毒をもつエビとして食用には用いられなかったんだ。
無論実際に毒があるわけではないが、エビの中の寄生虫は非常に限定的な場面でしか姿を現さないから、人々はその存在に気づけなかったんだ」
「まあ、毒でも寄生虫でも体に悪いことには変わりないね」
「しかもたちの悪いことに、この寄生虫は熱に強く、煮ても焼いても死なない。こいつらをエビの体内から追い出すただ一つの方法が、純粋な水の中で宿主ごと飢えさせることだったというわけだ。
エビを食えない理由が毒ではなく寄生虫だと見抜かなければ、この方法はあみ出せない」
「……これも町の宿場のメニューにはなかったけど」
「料理法は俺しか知らんからな。たぶん、コフィンでこの泥エビを食っているのは、俺だけだろう」
パンの時もそうだった。食糧危機にあえぐこの国で、ダストは自分しか知らない食べ物の料理法、確保の仕方を、いくつも持っている。
アッシュはエビの殻を剥き、立ち上る湯気に目を細めながら息をついた。
「ダストが罪人でさえなきゃ、コフィンの人達の生活も楽になるのに。このエビ、いっぱい獲れるの?」
「小川のエビより生命力が強い。泥たまりには必ずいるよ」
「……ダストは、町……王都には、入れないの」
「国王に直接追放された身だ。兵士に見つかれば捕らえられる。……罪を犯す前に、エビの食い方を発明していれば良かったのだが」
まあ、仕方がない。
そう小さく続けたダストが、自分の髪から指を離し、食卓に歩いて来る。
今日の髪形は額を大きくさらし、髪を大きな一つの縄にして、うなじから肩の前へ垂らしたものだ。「どうだろう」と首をかしげるダストに、アッシュはぱっと笑顔を向ける。
「似合ってるよ。上手上手。さっすが呑み込みが早いねえ」
「先生が良かった」
椅子に腰を下ろすダストに、アッシュは少しばかり照れて、エビのように頬を染める。
先生なんて言われたのは初めてだ。ただ髪の整え方を教えただけなのだけれど。
皮を剥いたアッシュのエビに、ダストが食卓の上の青い小瓶を取り、中の細かく砕いた岩塩を振りかける。
雪のような塩を眺めながら、アッシュはふとダストに、上目づかいで問いを放った。
「ダストはさ、罪人になる前は、何をしてたの?」
「何、とは?」
「仕事とか……身分とかは、どうだったのかな、って思って」
「最初はただの平民の子だった。今はもう滅びた村で、母親の手伝いをして暮らしていたよ」
「お母さんの……お父さんの仕事は、手伝わなかったの?」
「親父は兵士だ。村を出て、王都に出稼ぎに行っていた」
ダストは塩の瓶を置いて、水を注いだコップに手を伸ばす。
その喉が上下して水を飲み下す様子を、アッシュは黙って見ていた。
コップの水は、すぐに空になる。
「……兵士って、王様の家来だもんね。ずっと王都にいなきゃいけないんだろうね」
「俺が産まれた年に王都に行って、それから一度しか村には帰らなかった。俺は親父の顔を知らなかったんだ。情も何もあったもんじゃなかった。……むしろ、家族が死ぬかというほどの病気にかかったり、飢饉で村が滅びかけている時にさえ帰って来ない親父が、嫌いだったよ。
家族を食わせるためには仕方のないことなんだと、何度も母親に諭されてようやく怒りを呑み込む。そんな子供時代だった」
ダストが「食べないのか」と、アッシュに問う。
湯気を立てるエビに手を伸ばし、身を噛み千切ると、弾力のある歯ざわりの後に塩辛い汁が口にあふれた。
驚くほどに美味しい。だが、アッシュはそれを表情に出さぬまま、話の続きを促すようにダストに目を向けた。
ダストは食卓に両肘をつき、指を組んでいる。
「……だが、本当の親父は家族のために私情を殺し、王に尽くすけなげな一兵卒なんかじゃなかった。そのことに気づき始めたのは、親父の名前が行商人の間で頻繁にささやかれるようになってからだった」
「行商人?」
「王都や村々を行き来する行商人は、辺境の村においては国全体のできごとを報せてくれる、唯一の情報源だった。そんな彼らが親父をこう呼んでいたんだ。『国王陛下の懐刀』……とな。
親父は一兵卒から身を立てて、国王の相談役の一人にまで成り上がっていたんだ。どうも国王が鹿狩りに行った時に雪崩に巻き込まれたのを、いっしょに雪にまみれながらおぶって帰還したことが原因らしい」
原因、という言い回しに、アッシュは何となくダストの否定的な意志を感じた。
ダストの目には、激しい感情は何一つ映り込んでいない。ただ機械的に唇を動かし、物語をつむいでいるだけだ。
「母は親父の出世を喜んだが、村の人々は懐疑的な顔をしていた。それほどの大出世をした親父が、未だに年明けにすら村に顔を出せないのはおかしいんじゃないか、とな。王都から送られてくる金も、村を出た当初から全く額が変わっていない。
親父は王都で、どんな生活をしているんだ? 俺は、そんな人々の声にますます自分の父親の、人物像というものが分からなくなった」
「それは確かに変だね……王様に重用されてますます忙しくなったから帰れないのかも知れないけど……そもそもそんな大出世をした人が、家族に手紙一つ出さないって、あるものなのかしら。出世のことは行商人の噂で知ったんでしょ?」
「ああ。俺達家族もやがて同じことを思った。だからある時、無理をして乗合馬車の代金を払い、直接王都まで親父に会いに行ったんだ」
ダストはそこで、ふ、と小さく息を吐いた。
真っ赤なエビを見下ろして、彼はわずかに声を低くする。
「親父に会うことはできなかった。既に彼は、辺境の村人に過ぎない俺達家族とは、違う身分の人間になっていた。彼にとっては王都での生活こそが、王への忠誠こそが全てになってしまっていた。
……王城の門前で彼の部下に追い返された後、半年後に村を訪れた行商人から、俺達は親父に捨てられたことを知らされた」
「えっ」
「親父は貴族の娘と結婚していた。母より若く、きれいな人だ。後にその人との間に、息子もできた」
唖然とするアッシュに、ダストは髪先をいじりながら食卓の隅に目をやる。
アッシュの兜の覗き穴が、皿の横で虚空を見つめていた。
「アッシュ、君には、仲の良い両親の間に産まれた君には、理解できないよ。俺が、狂ったように泣き叫ぶ母を、いったいどんな気持ちで見ていたか。顔も知らない親父を、どれほど憎み、軽蔑したか。
この名前……ダストという名前は、その時に俺が、自分でつけなおしたんだ。それ以前は親父と同じ名前を受け継いでいたが、自分と母を捨てた男の名などもはや要らない。ダスト(塵)だ。俺は塵同然の息子だった」
食欲など、すでに消し飛んでいた。アッシュは自分の喉の日焼け跡をなで、食卓の木目を見つめる。
ダストが冷静な顔をしているのはわかっていたが、その目を見るのが、怖かった。
「……『ダスト』になったあなたは……それで……どうしたの?」
「夜を長く生き始めた」
意味が分からず首を傾げると、ダストがアッシュの見つめている木目に指を伸ばす。
木目をなぞりながら、ダストの唇が言葉を吐く。
「昼間は仕事をして、陽が落ちてからは村の教会に入り浸った。コフィンの集落には、必ずモルグと、王家を讃えるための教会が国の手で設置されている。
どんなに貧相な村でも教会だけは王都の建物並みに立派で、国の歴史や神話、賛歌などを記した石版が山のように置かれている。俺はそこでがむしゃらに知識を吸収したんだ。
文字は神父に頼み込んで、一から教えてもらった。モルグの祭壇に灯されたろうそくの明かりで、明け方まで石版を読み続けた」
「徹夜の勉強を始めたってこと? ……なんで?」
「親父は身一つで成り上がり、国王の城に入った。彼には頑健な体と剣の才能があったらしいが、俺はあまり丈夫なタチじゃなかった。剣を振るのも好きじゃない。
ただ、村の子供の中では一番、物覚えが良かった」
アッシュは顔を上げ、自分を見つめていたダストと視線を交錯させた。
少年だったダストは、つまり、自分も父親を追って王城に入ろうとしたのだ。
知識を磨き、文官にでもなるつもりだったのか。
途方もない計画だ。国王の文官となれば、当然国中で最高の教養を持った人間でなければ務まらない。辺境の村の子供には、そのための教育すら満足に受けられないはずだ。
だがダストは、そんなアッシュの考えを見透かしたかのように、言葉を続けた。
「俺は親父を見返すために、知識を売り物に国王配下の仲間入りをしようと思った。王はいつでも優れた知恵者を求めている……だが知恵を得るためには、相応の環境で、正しい修練を積まねばならない。村の教会では限度がある。
だから俺は、教会の石版を全て読み終え、頭に叩き込んだ後、母にことわって再び王都に行った。今度は単独でな」
そこで機会を待った。
そう続けるダストが、椅子の背もたれにぐっと体重を預けた。