百三十一話 『お願い』
白く巨大な、まるで月のような眼球を炎の腕がつらぬく。
どぼりと水っぽい音が響き、魔王のひじまでが目玉の中に埋まった。
静止するマリエラの眼前で、彼女にとりついていた亡者達がなおも怒涛の勢いで魔王の火に身を投げ続ける。
亡者が飛び込むたび、青白い炎の体はその火力と大きさを増す。マリエラの眼球内でふくれ上がる腕が、目玉の内側から燃えさかり、周囲の水分を沸騰させる。
べこ、と、マリエラの左目がへこんだ。その時になって初めて巨大なマリエラの唇がゆがみ、嵐のような風圧すらまとった絶叫を上げる。
肉色の触手が、その全てが一度に魔王へと襲いかかった。炎の体を数え切れぬ触手の大群がつらぬき、掻きえぐる。
『……』
だが、攻撃を受けハリネズミのようになった魔王が、裂けた口を大きくゆがませて、無言のうちに笑った。身をつらぬかれたまま、さらに左の拳を目玉に突き込む。
魔王を刺した触手は、魔王の燃えさかる炎にことごとく焼き切られ、悲鳴を上げながら取り込まれていく。炎と霊体の群でできた魔王の体は、まるで小蝿の集団のように外部からの攻撃を受け流し、最小限の被害にとどめている。
一方で両の腕はがっちりと、強力に構成され、眼球を引き裂き傷口を広げていく。
言葉なく笑う魔王の前で、マリエラがなおも絶叫し、肉の塔のようになっていた顔から下の部分が震撼する。
巨大化し続ける魔王を顔に残したまま、マリエラが動いた。明確な形を成していなかった体が急速にうごめき、胸を、腹を、手足を構成していく。
人型の魔王と戦うために、肉色の怪物もまた人になろうとしている。皮膚のない肉の塊が、王城よりも大きなマリエラの形に変わっていく。
もはやただの残骸と成り果てた不死の巨人と、大蛇が、肉の中に完全に取り込まれた。
肉でできた髪を揺らし、マリエラが右手を握る。
なおも己の目玉を裂き破ろうとする魔王に、脈動する巨大な拳が、叩きつけられた。
「まるで、神話の戦いだ……」
上空を見上げるガロルの言葉に、ルキナも、セパルカ王も声を返せなかった。
地上に立つ生ける者達は、みなマリエラへの攻撃の手すら止め、突如現れた巨大な魔物の姿を凝視している。
肉色の拳を受けた魔物は、一度は炎をまきちらしてその形を崩したが、すぐに体を再構成して今度は己を打った拳にとりついている。
魔物とマリエラの直下にいる者達は危険極まりない状況だったが、それでも誰一人逃げようとする者はいない。肉色の触手が飛び交っていた頃より、誰もが死を覚悟していた。死してなお、この地を滅ぼそうとする怪物を倒そうとした。
彼らの目には、青く燃えさかる魔物は身の危険と直結する脅威ではなかった。
自分達が握る剣や槍よりも強力な……敵を倒しうる、攻撃力を秘めた……『希望』だった。
「やっつけろォッ!!」
最初に声を上げたのは、コフィンの兵士だった。右手に折れた剣を持ち、背中にラッパを背負った彼は、いつも王城から城下町に向け、配給のパンが焼けた合図の曲を吹いていた、配給係だ。
彼がラッパを握り、いつもと変わらないめでたげな音を奏でると、他の兵士達、戦士達、騎士達もはじかれるように声を張り上げ、拳を、武器を空に突き上げた。
「勝て! 勝ってくれ! もう後がねえんだ!」
「がんばれ化けモン! 効いてるぞ! 打って打って打ちまくれッ!」
「しっかりしろオ! 負けるなアッ!!」
横転した戦車のわきで、セパルカの王子達が魔物に向けて咆哮のような声援を上げた。セパルカ兵達もそれに続き、自分達のロードランナーの鞍からコフィンの国旗を取り、力の限り振り続ける。
ドゥーにまたがった調教師ダカンが、彼の弟子達が、セパルカから最初にコフィンに使いに来た戦士が声を上げる。さらにはるか後方からも声援が聞こえる。逃げ惑っていた民、ナギやチビが、あろうことかこちらに向かってきているのが見えた。その中には、決戦前にスノーバの都に密偵に出していた者達の姿まである。
魔術管理官達が今にも倒れそうな声で叫ぶ。剣闘士の格好をした罪人達が、おそらく闘技場から逃げ出してきたその足で駆けて来る。
「ここであの化け物が負けたら終わりだ! どこに逃げても意味がねえ! 俺達はこの国でしか生きられないんだ!」
「何かできることはないか! あいつを勝たせるにはどうすればいい!?」
「あたしらがついてるよ! 頑張って!」
「ルキナ様!! 指揮を!!」
地鳴りのような声援の中、誰かがルキナを呼んだ。
ぐっと奥歯を噛みしめるルキナの肩を、セパルカ王がすかさず叩く。
「自ら退路なき戦いに向かう民を逃がすことはできぬ! こうなったら人は止まらん! 腹をくくれ!!」
「……!」
「学ぶのだルキナ! 王には他のすべてを捨てても民に勝利を与えねばならぬ時がある! さもなくば死だ!!」
ことごとくの、死だ!
セパルカ王の叫びに、ルキナは彼と同じ、獣のような貌で魔術管理官ロドマリアの名を呼んだ。
声をからして叫んでいたロドマリアが、即座にルキナの方を振り向く。ドゥーにまたがった調教師の一人が、ロドマリアを拾って連れて来た。ルキナがマリエラと闘う魔物を指さし、叫ぶ。
「あの青い怪物はダストの使いだな!?」
「お、おそらくは!」
「ならば魔術の産物であるはずだ! 亡者を取り込み巨大化するあの怪物を支援する方法を考えてくれ! 私を含めたこの場の全員がそのために動く!」
「! し、しかし……あの怪物の正体が分からぬのに下手に支援の魔術を使うのは、かえって逆効果かも……」
「そう言わずに、頼むよ」
つぶやくような声が、ルキナ達のすぐそばで上がった。
その場の全員の視線が、いつからか、気配もなくルキナの後方にたたずんでいた二人の女に向けられる。
涙でぐしゃぐしゃになった顔をさらしている異国人の娘に支えられているのは、まるで骨のように真っ白な、冷ややかな目をした女。
針金のような髪の間から覗く無機質な目が、ルキナの真っ青な瞳を射抜いた。
「あの『魔王』は、このままじゃきっと負けてしまうから。だからあんた達も、勝つ方法を考えてよ」
「なっ……」
「魔王ラヤケルスは、勇者ヒルノアに殺されたんだ。あの青く燃える魔王は過去に『神』に敗れている……『神』を取り込んだ神喚び師に、魔王が単体で勝てるはずがないんだ」
骨のような女が、顔のどこかからきりきりと弦を引くような音を立てた。
「あんた達コフィン王家なんか、だいっきらいだけど……でも、お願いだよ……ダストの死を、無駄にしないで」
がくぜんとするルキナ達の頭上で、魔王の業火の音が、嵐のように吹き荒れていた。