十三話 『魔王』
翌朝。寝室の扉の前に控えていたガロルの話を聞いて、ルキナは心臓が飛び出すかと思うほど驚がくした。
王家と共に長く国の行く末を担ってきた、歴史ある元老院の議長を、ガロルが殺した。
しかも議場は現在戦士団によって封鎖されており、全ての議員がその管理下にあると言う。
本来なら戦士団の反乱と捉えるべき重大事だったが、ルキナはガロルの頬骨近くまで裂けた口を見て、騒動の原因が自分にあることを悟った。
剣を入れて引き裂いたのだろうガロルの口の傷は、血に染まった糸で縫合されている。ガロルが喋るたびに血の混じった唾液が彼のあごを伝い、床に滴った。
「議場を制圧するため戦士達に持たせた剣は、夜明けまでに短剣に替えておきました。元老院の連中は元々議場に引きこもっていたため、スノーバにはすぐには騒ぎを気づかれないでしょう。
ただ、元老院から一切音沙汰がなければ、いずれルキナ様が連中を粛清したのだと考えるでしょうが……その時、もし不都合が起こったならば、このガロルの首を手土産に、戦士団の暴走であることをスノーバ側にお伝えください」
「……ガロル」
「ルキナ様がお休みの隙に戦士団を動かし、元老院を制圧したこと、コフィン王国史に残る大罪であると自覚しております。元老院は民意の象徴、コフィンの伝統でございますが…………ルキナ様、ひいては王家をないがしろにし、コフィンという国そのものに牙を剥いた逆賊でもあります。
罰を与えねば国を蝕み続け、またスノーバのルキナ様に対するあなどりも更に酷くなったかと……」
ルキナは寝巻きの麻服姿のまま、跪いたガロルの頭に手を置いた。
茶色の混ざった金髪の下から、ガロルが死を覚悟した目で見上げてくる。
「この体は王家のもの、王家のための戦いの武器なれば、口を裂き犬畜生の面になり、獣のごとく戦うことで罪の多少を償おうと存じます。しかしコフィン存続をかけた戦いの後、もし生きていたならば、元老院を破壊した罪人として処刑台に」
「黙れ」
ルキナが髪をつかむと、ガロルは命じられるままに口を閉じた。そのあごを伝う赤い筋をぬぐい取ると、ルキナは自身の麻服の胸に、それをこすりつけた。
真っ赤に染まる胸元を、ガロルの髪と同じように強くつかむ。
ルキナの喉が震え、眉間に深いしわが走った。
「……浅はかだった……! 私は、昨日何をしていた……? スノーバの暴虐と、元老院の裏切りに子供のように泣きじゃくり、何もせずに床に入ってしまうとは……何たる失態だ!」
「……」
「元老院の制圧は私が命じるべきだった! 私がやつらの息の根を止めるべきだったのに!」
「恐れながら、昨日のルキナ様には到底できなかったことと存じます」
ガロルの台詞に、ルキナの表情が消し飛んだ。まっすぐに視線を向けてくる彼の頭から指を離し、「何故だ?」と小さく訊く。
ガロルの口に走った傷は、まるで笑っているかのように、弓なりに歪んでいた。
「ルキナ様は、私がこうして血を流して初めて、元老院を潰すべきだとお考えになったのです。昨日、私に闘技場での顛末をお話しになった時点では、あなた様はただ元老院の裏切りを悲しみ、恥辱に涙しておられただけでした。
あなた様は心の底で、こう思っていたはずです……『元老院に勝手をさせたのは、自分がルガッサ王のような偉大な君主ではないからだ』と」
「それは……」
「このガロルも浅はかでした。かつてあなた様がご自分を『未熟で無知』とおっしゃられた時、否定しなかった。元老院の議長の態度……王家に一切の敬意も払っていない議員どものおごりたかぶった態度を見て、私も、自分の過ちに気がついたのです」
ガロルが拳を握り、床に目を落とした。
窓の外で、配給係の兵士がパンが焼けた合図のラッパを城下町に向けて吹いている。
「王は、国の指揮をとる王族は、いかなる時も『未熟で無知』であってはならない。助言を受けることはあっても、常に堂々と、これが最高の決断なのだと、下知しなければならないのです。さもなくば敵のみならず、国民にもその威を疑われ……元老院のような、勝手に国を動かそうとする不埒者を生むことになる。
この点ではルキナ様のお優しい気性では元老院を止められぬと、勝手に戦士団を動かした私も同じです。主君の能力を、見限ったのです」
ルキナは、はっとして、口元に手をやった。ガロルの血の臭いが、鼻孔に上ってくる。
「……王の、義務……か……」
「はい。私も昨夜思い出しました。あなた様の不遜な教育係が、八年前に呈した苦言です。王は常に、最高の有り様を示さねばならない。それは、衣食のことだけではありませんでした……」
ガロルが、両の拳を打ち合わせ、下げた頭の上に差し出した。
懇願の姿勢をとった彼が「どうか」と、しぼり出すような声を吐く。
「コフィンの最後の王族として、どうかお一人だけで頂点にお立ちください。元老院の頭は押さえました。私もあなた様の忠実なしもべに戻ります。どうか……敵には、国を侵す者には、堂々たる態度を。裏切り者には、残酷な報いを。
私欲による独裁は王の不徳となるでしょう。しかしあらゆる災厄から国を守るには、恐ろしさをも身にまとわねばならぬのが、国の主にございます」
コフィンを継ぐ者は、あなたしかいないのです。
そうしめくくるガロルを、ルキナはじっと見下ろした。
ラッパの音は、長く、長く、何度も何度も空気を震わせ、空に上っていく。
いまや王都の民の唯一の楽しみである食事を、精一杯めでたげに報せようとする、配給兵の意志がそこにこもっていた。
ルキナの手が、ガロルのあごの下に回され、その顔を持ち上げる。「立て」と、ついほほえみそうになった口元を引き締め、命じる。
「私が不断だったばかりに、お前に口を裂かせることになってしまった。その傷は私の戒めとしよう……民のためを思ったとは言え、世間に黙したままコフィン人をスノーバ人の下に置こうとした元老院は、やはり罰さねばならない組織だった」
「…………はっ」
「彼らの行動の是非は、国難が去った後に評価されるだろう。我々の是非も、後世の者達が評価する。ガロル、元老院の管理は引き続きお前の戦士団に任せる。国民への発表は私に任せろ……もっとも、今は国の命運と食糧の配給に直接関連すること以外は、民も興味がないだろうがな……」
立ち上がるガロルの肩を叩き、ルキナは「私のために働け。一生だ」と、ようやく笑みを見せる。「御意」と、深々と礼をするガロルに背を向けて、ルキナは侍女のナギが待っているだろう階下へと歩き出した。
ガロルの傷は、改めて医者に診せた方がいいだろう。
王家お抱えの老医師を呼ぶよう、ナギに言わねばならない。
そして、スノーバへの対応だ。元老院のことを嗅ぎつけられる前に、こちらから連中を処分したことを通告した方が良いだろうか。
闘技場で元老院の裏切りを知らされた直後だ、流れとしてはおかしくない。
ルキナは様々なことを考えながら階段に足をかけ、ふと、ついさっき会話に出てきた教育係のことを思った。
幼いルキナに自分のドゥーを食わせた、こしゃくで賢しい男。
平民の出のくせに王の在り方や心得を説く彼を、しかしルキナは三人の教育係の中で、一番気に入っていたように思う。
塵の名前を持つかの男は、思えば今、この国に最も必要な人材なのかも知れない。
あの男ならば元老院やスノーバに対して、最も効果的な、それでいて誰も思いつかないような奇策をもって対応する知恵をルキナに貸してくれたはずだ。
(お前は今、どこにいる、ダスト……このコフィンの大地のどこかで、ちゃんと生きているのか……?)
ルキナは階段を降りながら、かの者に胸の内で語りかけた。
国王ルガッサの抱えた、最高の知恵者。ルキナの教育者であり、ガロル同様の、幼少からの友。
稀代の大罪人。人でありながら、魔の領域に堕落した者。
コフィンの歴史において『魔王』と人に呼ばれた二人目の男を、ルキナは懐かしく、思い返していた。