百二十六話 『女神』
「馬鹿にしやがって」
とあるコフィン人が、騎士ケウレネスの屍を抱きながら空を見上げて言った。
王都の裏手を守っていた男達の視線の先には、崩壊する神のシルエット。アリのような青い亡霊達にたかられ、苦しみもだえていた巨人と大蛇の姿。
本来コフィン人にとって勝利を意味するはずだった神の姿の崩壊は、しかし、今、その体内から現れ出でた別の異形によって、別の意味を持つ光景に塗り替えられていた。
「みんなでここまでこぎ着けた……小さな刃を積み重ねて、ようやく神をここまで追い詰めた……もうちょっとで、きっともうちょっとで、神を倒せたはずなのに」
神は、他者に破壊される前に、自ら崩壊を始めた。
外から攻撃を加える者達と、内からあふれ出る者達に骨肉をけずられ続け、ようやく打倒のきざしが見えたかと思われた矢先。神の頭部から這い出た肉色の何かが、すさまじい勢いで神の体を食い荒らしたのだ。
おびただしい数の触手を持つ肉色の異形は、神と亡者を取り込み、どんどんふくれ上がっていく。
神の頭が、胸がすでに分解され、触手は神の体をつたって、最も巨大な赤い大蛇にまで食いついている。モルグを落とした怪物が、悲鳴を上げながら触手から逃れようとし、石畳に体を叩きつけていた。
その震動が、剣に切り落とされた原種のドゥーの首を、べちゃべちゃと血の中に踊らせる。
「巨人の体を壊しても、蛇を殺しても、まだ『先』があったと言うのか……! 俺達が戦わなきゃいけないバケモノは、まだ……神の中に残っていたと言うのか!!」
肉色の触手は、巨人に、蛇に、亡者に、そしてもちろん生きた人間にも伸ばされる。動くもの全てを捕捉しようとするそれが、魔王の魔術で呼び出されたものでないことは、もはや誰の目にも明らかだった。
この悪意は、この無差別な殺意は、スノーバの将軍と、神喚び師のものだ。
敵を倒すために赤い蛇の雨を降らせた、彼らの思考だ。
「馬鹿にしやがって……!」
ケウレネスの屍を抱いていた男が、ぐっと奥歯を噛み、両手の上にある冷たい体を石畳に横たわらせた。
男はケウレネスの命を奪った原種のドゥーの管理に携わった、調教師の一人。
この戦争で伝令役を担った、調教師ダカンの一番弟子。
かつてルキナと、ヤモリの骨に乗り移ったダストに、飼育室でドゥーの説明をした男だった。
彼は原種のドゥーの口に刺さったままだったケウレネスの槍を引き抜き、背後に控えていた自分のドゥーに飛び乗る。周囲の他の調教師達、騎士達、兵士達も刃を握り、次の瞬間には、誰の号令もないままに全員が駆け出していた。
王都の生命を、魂を、全てかき消そうとする得体の知れない肉塊に、ちっぽけな人間の群が向かって行く。
「馬鹿にしやがって馬鹿にしやがって馬鹿にしやがってッ!! 俺達の犠牲は神を殺すためのものだ! みんなが巨人を破壊し蛇を殺すことを夢見た! 貴様らを、神にまつわるすべてを殲滅するのは俺達の役目だ! 俺達だけの使命なんだッ!!」
勝手に食い散らかすんじゃねえ!!
吼える男達の視線の先。暴れ狂う大蛇と肉塊の元には、既に別の方角からも無数の人の群が、殺到していた。
奇妙な感覚だった。
肉体がはじけ飛んだにもかかわらず、自分は変わらず自分として在り続け、生命として息づいている。
喪失感も死の実感も遠く、自分とは関係のない所にある。一切の苦痛も不安もなく、むしろ人であった頃よりも心が晴れやかだ。
自在に動く数え切れないほどの腕を操り、外界にあるものを捕らえ喰らう。腕の先についた千を超える口で咀嚼する肉は、どれも信じがたいほどに美味だった。
マリエラは、そっと目を開けてみた。食いさしの不死の巨人の上で開いた眼はとても高い位置にあり、コフィンの大地を一望できた。眼球がちゃんと二つあることを確認して、ほっと息を吐いた。
眼下で、虫けらどもが騒いでいる。槍や火炎瓶が投げ上げられるが、マリエラの顔まではとどかない。
ふと、マリエラの腹の中で何かがうごめいた。耳を澄ますと、愛しい恋人の声がかすかに聞こえる。
よかった。ユークはちゃんと自分の中にいる。これで、永遠に一緒だ。母と子のように。子宮と胎児のように。一心同体だ。
マリエラは喰らった肉が、神や蛇や亡者どもの残骸が自分の中に流れ込み、体を大きく膨れ上がらせていくのを心地よく感じ取る。肉色の自分が、神や蛇と同化していくのを理解する。
何が魔術の副作用だ。こんなに爽快で幸福な副作用があるものか。
こんなことを、この程度のことを怖がり怯えていたユークは本当に本当に臆病で、可愛い男の子だ。もの知らない赤ちゃんのようだ。
彼には取るに足らない些事と思い話さなかったが、昔、祖母や母に言われたことがあった。
魔力は選ばれし者だけが持つことのできる、特権なのだと。たとえ目に見えなくとも、それを身に秘めた者は最も優れた人類として、神に愛される資格を持っているのだと。
当時は高い魔力を持ちながらその使い道を知らぬ彼女達の、むなしい人生をなぐさめるための精一杯の虚勢だと思っていたのだが……今なら、分かる。
彼女達は正しかったのだ。
勇者ヒルノアの魔術を受け継ぎ、神を操り続けた自分が今ここに来て至った、境地。
偉大な力の権化と同化し、自身が神となるこの結末は……魔術師が目指すべき、最高のゴールなのだ。
神の体を、最も強力な大蛇の体を着実に喰らい乗っ取りながら、マリエラはそっと唇を歪めて笑った。
神と大蛇を組み敷き、高く高くそびえ立つ肉の山。
その頂で、今、マリエラの顔の形に再構成された不死の巨人の頭部が、世界を巨大な瞳で、見下ろしていた。