百二十五話 『炎』
豆泥棒マグダエルが、槍を投擲する。
狩人が、折れてささくれだった鳴き矢を放つ。
セパルカ兵達の短槍が、コフィン人達の雑多な刃が。そしていまや、神と蛇に命をおびやかされたスノーバ人達の武器さえもが、ひざをついた神と巨大な蛇に向けられていた。
それはもはや、人対人の戦争の様相ではなかった。地上に赤い蛇の大群を放ち、命を無差別に押し潰し、味方であるはずのスノーバ兵すら食い散らかした、神。
その姿にもはや神性を見出す者などいなかった。あらゆる事情も経緯も関係ない。
神は、この地上に生きる全ての命の敵だった。
ルキナ達とセパルカ王を乗せた戦車が土を削り、もだえ苦しむ神の元へ向かう。
その戦車のはるか前方に、引きちぎれた羽毛のマントをゆらし、走るフクロウの騎士がいる。
神と大蛇の体にあふれ、吹き飛ばされ宙を舞いながらも戦う亡者達。
神が、大蛇が、蚊の刺すような攻撃に、しかし着実にその姿を削られてゆく。
ある亡者が、己の背中に立てていたどこかの国の旗を引き抜き、神の指に突き刺した時。
神の右の中指が、ぼろりと崩れ、王都に落下した。
「一度、ちゃんと話をしたいと思っていた」
弟が、銀の杯に清水をそそぐ。
ダストははじける透明のしぶきを見つめながら、意匠のこらされた金属の椅子に背を預ける。硬いわりに、妙に座り心地のいい椅子だった。
「これは、夢か? それとも幻か? 意識が混濁して、記憶の中をさまよっているのか?」
「どうでもいいじゃあないか。こんなに静かで、おだやかなんだから」
弟、ケウレネスが、清潔な麻服のそでにわずかに水を飛ばしながらほほえむ。
ここは彼の家だ。コフィンの王都にある、貴族の屋敷。
ダストと母を捨てた父が、別の女性と愛を育んだ場所。
ダストが忌み嫌い、生涯で数えるほどしか訪れなかった場所だ。
「そこの窓から入って来ているのは、日光か?」
「ああ。灰色の空から降りそそぐ、優しい日の光だ。兄さんが甦らせたモルグはひどくおぞましい姿だが……また、コフィンを青空から守ってくれるかな。突然屍に戻ったり、どこかよその国へ飛んで行ってしまったりしないかな」
「……魔王ラヤケルスの遺物が、彼の死後も存在し続けたように……あのモルグもまた、変わらず在り続けるだろうよ。その生物としてのサガも、たぶん、変わらない」
「そうか。なら安心だ」
「お前を何と呼べばいい?」
首を傾けるダストの顔は、血みどろだった。戦争の気配を身にまとったままの兄に、弟がくすりと笑う。
「今まで通り、ケウレネスと」
「それは親父の名だ。そして俺の名でもあった」
「父さんが、自分の名を息子につけるような男だったために……我々はともに、彼の名を受け継いでいたわけだ」
「腹違いの息子同士が、同じ男の名を名乗っていた。俺は、親父の……そういうところが心底嫌いだ。無神経で、悪趣味極まる」
ダストの前に銀の杯が差し出される。
揺れ動く水面を見下ろし、ダストは血に染まった顔をしかめた。
「……いや……もういい。もう、終わったことだった。親父とはもう、十分話し合ったんだった……」
「自分が魔術で呼び出した青い人影が、父さん本人の亡霊だと認めるんだな?」
「確信したわけじゃない。でも、それでいい。決着はついたと、思うしかない」
「何故?」
「俺にはもう、死者を甦らせる術など使えないからだ。これ以上魂を追い求めることはできない」
全ては終わってしまった。
杯に手をつけず、深く椅子にもたれるダスト。
弟はそんな兄に、笑顔を消す。広い客室に、いつからかパンを焼く匂いが漂っていた。
唐突にダストが、「お前も死んだのか」と、訊く。ケウレネスは無表情に「ああ」とうなずいた。
「格好のつかない死に方をした。でも、しょうがないさ。この戦争ではたくさんの人ががむしゃらに戦った。綺麗な死に様など、望む余地もなかった」
「……」
「なあ、教えてくれよ。兄さんは俺や、母さんを、憎んでたのか?」
ダストが目を閉じ、笑った。
「親父が王都で囲った女と、こさえた息子か。……別に、どうとも思ってなかったよ。お前の方はどうだ?」
「母さんが事情を言い聞かせてくれたからね。憎んではいなかったが……正直、怖かったよ。いつか父さんが、あなたに殺されるんじゃないかって」
「お前ともちゃんと話し合うべきだったな」
「無理だろ。王都にいた頃の兄さんは、今ほど優しそうじゃなかった」
ダストが薄目を開けると、ケウレネスが椅子から立ち上がって窓辺に立っていた。外を飛んでいた黄緑色の小鳥が、彼のそばにとまる。
「母さんがかわいそうだ。あの人は今も父さんを愛してるんだ。なのに、俺が先に逝ってしまった。ルキナ様はきっと母さんに良くしてくれるだろうけれど、でも、さびしいよな」
「……」
「母さんは今、家の者と一緒に、民に混じって逃げ惑ってるはずだ」
ケウレネスが、ダストに背を向けたまま息を吐いた。
日差しが、心なしか、弱まる。
「兄さん。父さんを、許したんだろ。もういいと言ったからには、少なくともあなたの復讐心は、決着がついたんだろ」
「……」
「残ってるのは後悔か。贖罪への欲求か。それとも残してきた者への、危惧か」
ケウレネスが、わずかに振り返る。その目に青い、魔力の光が宿っていた。
「兄さん。さっき『お前も死んだのか』と言ったが……まさか、自分が死んだ気でいるんじゃないだろうね」
ダストの、椅子の肘掛けに置かれた手。外套のそでの内側から、どろりと血液が広がった。
じゅうたんにぽつぽつとしたたるそれに、白濁した瞳がゆっくりと下ろされる。その瞳にもまた、髪の中から落ちてきた赤いしずくが、流れ込んだ。
「俺達、三人のケウレネスの因縁は終わった。だが、魔王ダストの因縁はまだ終わっちゃいない。魔王の因縁に決着がつかない限り……死者は、天へも、優しい記憶の中にも、還ることができないんだ」
「魔王の……因縁……」
「あなたに恨みはない。血を分けた人として、人並みの好意を抱いてる。だから……最後まで、付き合うよ」
ケウレネスの優しい声が、赤い流れの中に、落ちて行った。
「――――ダスト! ダストッ!!」
白骨の山のすそ。もだえる神の姿を背後に、アッシュが涙声で叫んだ。
瓦礫の散乱した石畳の上、血みどろで倒れていたダストをゆさぶり、その胸に顔を押しつける。
「だめだよ、死なないって、負けないって約束じゃない。目を開けてよ。一緒に帰ろうよ、ダスト……!」
アッシュの背後で、死体人形のアドが神を見上げながら背骨の尻尾のなごりを揺らす。白骨の山や建物には生者と亡者が放つ刃が音を立てて突き刺さり、その破片が彼女達のそばにも飛んできた。
「いやな感じ……神も、蛇も、間違いなく傷ついて壊れていってるのに、なんだか凄くいやな感じがする。変な魔力の『うごめき』みたいなものを感じる……」
「アド……! ダストを、助けて……!」
「アッシュちゃん、何度も言ってるけど……ダストにはもう、脈が……」
アドが悲しげに言いかけた瞬間、神のひときわ大きな咆哮が地を揺らし、白骨の山が砕けて宙に舞った。「うわっ!!」と声を上げたアドがアッシュをかばい、石畳に押し倒す。
舞い散る骨片のはざまに、砕けて骨山に落下した、神の下あごが見えた。戦う人々のどよめきが、神の咆哮にまじって空に上がる。
「何だ、あれ……!!」
がくぜんとするアドとアッシュの前で、神の下あごをなくした顔面から、青い亡者達がゴミのようにこぼれ落ちる。
その、落下する亡者達を、肉色の何かがからめとり、喰らっていた。
神の頭部、その穴という穴から這い出す、無数の触手のようなもの。神の咆哮がその口から飛び出した触手にかき消され、代わりにめりめりという骨のきしむ音が王都に響く。
世界に絶望を振りまいていた神の首がいともかんたんに砕け、頭部が胴体から持ち上がった。肉色の触手が神の頭を砕き、胴体に侵入していく。
神を、そこからこぼれる亡者を、喰らっている。
アドが、その様を見上げながら無意識にアッシュの頭に手をついて身を起こした。
「赤い蛇じゃない……! 寄生虫以外のものが、なんで神の中から出て来るんだ!? しかも神を、巨人の屍を食ってる……!」
「アド!」
「! あっ、ごめんアッシュちゃん! つい!」
手をどかしかけたアドが、次の瞬間絶句した。
アッシュが石畳をかき、這い寄ろうとしている方には、血みどろの外套をひきずり立ち上がるダストがいた。
その両腕は折れ曲がり、体には細かい石の破片が刺さっている。にもかかわらず彼はうめき声一つ上げず、空を睨んでいる。
その目に、青い魔力の灯火が光っているのを見て、アドはアッシュを力任せに抱き起こした。
「ダスト! 大丈夫!? ああよかった! あのね、私……」
「だめ!」
ダストの方ヘ駆け出そうとするアッシュを、アドが硬い腕で抱きすくめた。「なんで!?」と叫ぶアッシュに、アドがダストの輝きを増す目を睨みながら、言った。
「生きてるなんてあり得ない! 心臓は確かに止まってたし、あれだけの出血をして動けるわけがない! あの状態のダストが立ち上がったのなら、それはきっと彼自身の生命エネルギーのおかげじゃない!」
「ど、どういうこと……?」
「人の身には過ぎた、大魔術を使い続けた代償よ! あれはもうダストじゃないッ!!」
ダストの両目から、青白い炎が煙と共に噴き上がった。屍達に宿った炎とは違う、肉のこげる臭いと熱をともなった、火。
それがダストの髪と、服と、やがて全身を包み燃え広がる。
目の前で青い炎の塊と化すダストに、アッシュはアドに抱きすくめられたまま、絶叫していた。