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百七話 『再会』

「……ゲスの分際で、何を偉そうにッ!」


 ユークが左手で、だらりと垂れた右腕から回帰の剣を取り上げる。


 どろどろと流れる血液が、青白い衣を汚していく。ちらりとマリエラを見上げたユークに、ハルバトスが強く鼻息を吹いて笑った。


「助けを求めるか? ちっぽけな小娘に泣きつくか!」


「誰が……!」


 かっと目を剥くユークに、ハルバトスは鉄の剣をぶん、と振り回す。ハルバトスの肩にぶつかろうとしていたスノーバ兵が、喉をまともに切り裂かれて転倒した。痙攣けいれんする兵士を、他の兵士が踏みつけ、蹴り飛ばしながら越えて行く。


「私がゲスなら、貴様も同等にゲスだ。お互いに人を利用し、頼らねば我を貫くことさえできぬ。本来歴史の表舞台に出るような器ではない」


戯言ざれごとをぬかすなクズめがぁッ! 本来貴様など俺の前に立つことすら許されん! 端役のくせにだらだらと……俺の視界に居座りおって……!」


「退場させてみろ。己の力で」


 ハルバトスが、一歩前に進んだ。ユークは右腕を垂らしたまま、左手で回帰の剣を敵に向ける。


 じりじりと詰まって行く間合い。互いの血にまみれた二人が、兵士の波の間で好機を探る。


 すると不意に、先ほどハルバトスに切られた兵士が仲間の足に蹴り出されて、二人のそばに転がり出た。彼にとりついていた赤い蛇は口から外に這い出たところを踏み潰されたらしく、ひしゃげた頭をだらりと垂らし、すでに空中に溶け始めている。


 一瞬、ハルバトスの注意がそれた。哀れな兵士に視線を向けた敵へ、ユークが一気に跳び込み、剣先を突き出す。


 ハルバトスの剣が即座に上がり刺突を防ぐが、ユークはそのまま刃を押し付けハルバトスの足首を蹴りつけた。


 刃を、体ごと押し出すようにして、何度もハルバトスの軸足を蹴りつける。


「……遊んでいるのか」


 頭上から、冷ややかな声が降った。鬼の表情を上げると、ハルバトスもまた苛烈な顔でユークを睨んでいて……


「そんな攻撃で人が殺せるかぁッ!!」


 蹴りつけられていたハルバトスの足が瞬時に持ち上がり、ユークの軸足を逆に踏み潰した。細い足首が嫌な音を立て、激痛が脳天まで駆け上がる。


 かろうじてひざをつくのをこらえたが、間を置かずに今度は腹を蹴り飛ばされた。


 剣の腕はおそらく互角だった。だが明らかに成人しているハルバトスと、未だ十代のユークとでは、体格と体重に埋めようのない差がある。


 それが原始的な肉弾戦では、致命的な一手の重さの違いを生むのだ。


 勢い良く背後に吹っ飛んだユークが、叫びを押し殺しながらまたもやマリエラを見上げた。


 人間梯子の頂上にいる神喚び師は、未だに眼下の騒動に気づく様子がない。「馬鹿女が!」と地面を叩くと、ユークはそのまま足を引きずりながら兵士の波の中へ逃げて行く。






 瞬間、ハルバトスを無数の兵士達が四方から取り囲んだ。


 スノーバ兵達は、あくまで自分達の主であるユークとマリエラを避けて進軍しているのだ。ユークと一定以上離れたハルバトスは、兵士達にとってはそこらの小石と変わらない。わざわざ避けることなく、体で押しのけて行こうとする。


「くそっ! 逃がさん!!」


 ハルバトスは兵士達の流れに逆らわず、同じ方向に進みながら銀色の兜を押しのけ、身をねじ込んで行く。


 ユークのいる場所は、兵士の波が途切れているためにすぐに分かる。しかも足首を砕かれた彼は走ることもできないはずだ。


 鉄の剣を掲げるようにして、ハルバトスは兵士の隊列に空いた穴を目指す。


 遠くから、聞き覚えのある誰かの悲鳴が聞こえてきた。その声の主がコフィン人なのか、スノーバ人なのかは思い出せないが、いずれにしてもハルバトスに好意を持つ者ではない。


 ハルバトスは今、己が招いた戦争の中にいるのだ。


 彼が積み重ねた行為の集大成が、目の前に広がる地獄だった。


 何故今更ユークに挑むのか。それに何の意味があるのか。明確な答えはなかった。


 ハルバトスが正義と信じた目論見はいまや完全に破綻し、残ったのは罪としか表現しようのない裏切りの軌跡のみ。その事実が恐ろしくないと言えば、嘘になる。


 だが今、敵兵に埋もれながら孤独に戦っているのは、恐怖にかられてのことではない。もちろん己の信念や正義をとりつくろうためでもない。今更ユーク一人を殺したところで、神の脅威が残る以上贖罪にもならないことも分かっている。


 悔やまない。謝らない。……何より、諦めてはならないのだ。


 積み重ねた裏切りの罪は、元老院議長の父と共に歩んできた『コフィン人救済の道』だ。全てはコフィン人という民族を、世界に残すためにしたことだ。


 悪辣な密告や、騎士道に反する姑息な振る舞いは、全てコフィン民族の益になってこそ。誰もがやりたがらない汚れ仕事に手を染めることで国民を救う。それが自分達裏切り者の選んだ道。


 ならば国民が皆殺しにされると分かった上で、倒れることは許されない。


 国民が生き残らねば何の意味もない。たとえ目論見が外れようと、決して諦めることは許されない。


 悔やむ資格も、謝る資格も、ハルバトスにはない。あるのはコフィンの血脈の存続を確信した上で、高笑いしながら地獄に落ちる義務だ。


 ユークの殺害は根本的な解決にはならないが、この状況ならば、確実に戦争の流れを変える要因になる。


 そして今、彼にもっとも静かに近寄れる刺客が、ハルバトスだったのだ。


 それで十分。それだけで十分だった。コフィン人の絶滅を阻止するために少しでも貢献できるなら、ハルバトスが今更に命を捨てる理由には十分だった。


 滑稽で、見苦しく、後ろ指を差されて当然の死戦。だがあえてものにしてみせる。


 隊列の切れ目が、眼前に迫る。負傷したユークがすぐそこにいる。剣を高く掲げ、ハルバトスは一気に兵士の群から抜け出した。




「絶望の谷だ」



 ハルバトスの胸から、血しぶきが上がる。鎧の内側から、ばりばりと肉が裂けていく音が響く。


 ユークが目の前で、剣を振り切った姿勢で笑っている。だがその手にあるのは回帰の剣ではない。もっと長い……凶悪な光を秘めた刃。


「なあ、ハルバトス……腐れかけた屍の兵どもの中に混じっているのは、嫌なものだろう? やつらの身には、一切の希望がないのだ。やつらは体の自由を奪われ、思考の自由を奪われ、永遠に俺のために戦い続ける宿命を負っている。絶望の権化なのだよ」


 傷の裂け目が心臓まで達する瞬間、ハルバトスはユークの背後に引き倒されている兵士の姿に気がついた。


 地面に両腕をついたその兵士は、銀色のプレートアーマーと、ユークの顔面を模した鉄仮面をまとい……ただ兜だけはかぶっておらず、長い黒髪を腰に垂らしていた。


「……サン……テ……!」


「絶望の谷だ。絶望の谷だよ、ハルバトス。赤い蛇に寄生され、スノーバ兵の一人として軍団に取り込まれるのは、脱出できない暗い谷底に落ちるがごとし……ゆえに俺はサンテをこんな風に処分したわけだが」


 倒れ行くハルバトスに、ユークはサンテの髪をつかみながら、けたたましい高笑いを向けた。


「よもや、それがこんな形で福と転じようとは! 数千の兵士に埋没していたサンテがこの状況で俺のそばを通ろうとは!! 肉断ちの剣を運んで来ようとはッ!! おびただしい絶望の中から選ばれし者だけのために希望が上がって来る! まるで……この戦争の行く末を暗示するようではないか!! ええっ、ハルバトス!!」


 ハルバトスは倒れ伏し、どす黒い血を戦場の土に吸わせる。哄笑の中瞳孔が開き、全ての筋肉が弛緩しかんし始めた。


「無駄死にだ! 端役が! ……あの世で親父と抱き合って泣くがいいッ!!」


 勝者の声は、裏切り者の最後の吐息は、誰の耳にも届くことはなかった。

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