百四話 『自分勝手』
剣に生きる者として、兵士ではなく冒険者を職業に選んだのは、ひとえに己の刃を己の意志で使うためだった。
剣は人を殺す。人の肉を裂くための道具だ。軍に入れば、剣を抜くにも振るうにも必ず上官の命令が必要になる。
刃を向ける相手も、自分では決められない。他人の命令で斬る相手が決まり、言われるままに命を奪うなどまっぴらだった。アルスにとってそんな剣の振るい方はひたすらに無責任で、人間性を放棄したものに思えて仕方がなかった。
剣は己の意志で持つものだ。命は己の責任で奪うべきだ。だからこそアルスは兵士を選ばず、冒険者になった。斬りたいものを斬り、殺すべき者を殺し、背にして守る人々は己が心のままに決めたかった。
なのに、革命はそんなアルスの生き方を一日にして変えてしまった。
総長レオサンドラの号令のもと、自由な戦士であったはずの冒険者達は革命のための勢力となり、祖国スノーバに牙を剥いた。皇帝の軍兵を斬り殺し、歴史ある国の仕組みを叩き潰した。
反乱を起こしたのが純粋な人間の群だったなら、アルスは一人のスノーバ人として、死を覚悟で謀反者達に剣を抜いたかもしれない。ユーク達の語る革命の動機はあまりにもうすっぺらく、真っ当な大義も、将来への展望もなかった。
そんなものは断固としてはねのけるのが正しい道だった。
最高の冒険者と評されるアルスが命がけで異を唱えれば、きっと全冒険者の何割かは革命に参加しなかったはずだ。冷静な心を取り戻し、歴史に残る大罪を背負うこともなかったかもしれない。
だが、今更『かもしれない』を繰り返したところで、何の意味もないのだ。
アルスは革命に対して何の抵抗もせず、皇帝家を、その家臣達を見殺しにした。
それはスノーバの町並みをはるか高みから見下ろす怪物……およそ人と同じ世界に存在するとも思えぬ、地獄の王のような巨人の姿を前に、アルスが己の剣や矜持に何の価値もないことを悟ったからだ。
冒険者の『最強』など何の足しにもならない。持てる全ての剣技を尽くしても足の爪ひとつはがせないだろう、圧倒的な力の権化。
そんなものが味方する革命を、アルスごときに止められるはずもなかった。
戦えば、確実に無駄死にする。それが分かっているからこそ、レオサンドラや仲間の冒険者に対して、ユークと手を組むなとは言えなかった。巨人の暴虐に抗うことが正義だと、胸を張って叫ぶことができなかった。
共に気高く犬死にしろなどとは、どうしても口にできなかったのだ。
アルスは戦いを、生まれて初めて放棄した。矜持や人間性を保つために決して避けてはならない抵抗を、彼は諦めた。
ユークと冒険者組合がスノーバを蹂躙する間、アルスはひたすら血に染まる街を眺めていた。何度も自刃しようと思ったが、心の底にまだ己の剣を抜く余地がどこかにあるのではないかという淡い期待があり、身の丈にあった出来事の到来を待った。
自分がユークの側にいることで、救われる命や守られるものがあるのではないか、と。
だが、そんな機会はなかった。革命はおびただしい死と破壊の末に終わり、アルスはただの反乱者の一人になった。
そして革命後には、アルスが己の矜持を取り戻すことはさらに困難になった。
皇帝を失ったスノーバは、ユークと神喚び師を要として他国への侵略を開始したのだ。巨人の圧倒的な力で隣国を滅ぼし、無数の王家を血祭りにあげた。そうなってはもはや、アルスがユークに剣を向けること自体が不可能になった。
英雄としてのユークの求心力と、巨人の脅威だけでまとまっている革命後のスノーバにおいて、指導者や神喚び師の死は即内乱の到来を意味する。
数多くの国を無理やり吸収したスノーバは、敗戦国のはちきれんばかりの憎悪を常に抱えているのだ。
それらを黙らせているのは、卓越した統治の手腕や政治力などではない。ひたすらにスノーバ軍と巨人による脅威だけが、国内の不平不満を押さえつけている。
ならばそれらが消滅したなら、スノーバは開放された憎悪の渦に一瞬にして呑まれるだろう。
ユークを殺せばスノーバ人達の団結が崩れ、国の枠が崩壊する。神喚び師を殺せば巨人が世界に解き放たれ、敗戦国がスノーバへの復讐と殺し合いを開始する。
ユーク達の殺害は、革命の時以上の惨劇のきっかけとなりうるのだ。アルスが彼らを倒すためには、その何万倍もの命と引き換えにするだけの覚悟と冷酷さが必要だった。
結局アルスは、時代の流れに対して何一つ己の態度を示せなかった。
巨人に怖気づき、剣士としての戦いを放棄した。そう言われても仕方がなかった。
以降は、ユークの配下に加わりながら、ひたすら世界が燃えるさまを傍観し続ける人生を送った。剣を抜くこともなく、ただただ運命を端から眺め続けた。
スノーバ軍が山脈を越え、コフィンに侵攻した時も同じだった。他の入植者と同じように敗戦国に移り住み、ただそこに居た。取るに足らない善行だか贖罪だか知れない行為を繰り返しては、歩く植物のように意味もなく日々を暮らした。
そんなザマは、ユークの護衛として城に上げられ、コフィン占領の裏で起こっていた異常事態に気づくまで続いた。
神喚び師の負傷、スノーバ軍兵の異変、そして魔王の存在。それらを知るや、革命後初めてアルスの血がさわぎ、得体の知れない感情が冷え切っていた胸に満ち満ちた。
かつて自分が刃を向け損ねた巨悪に、挑んでいる者がいる。無敵の巨人、スノーバの神に牙を剥き、なお生きている者がいる。
アルスはそれから、ユークに抗って死んだコフィンの英雄達の存在や、コフィンの王女の抵抗の日々を知った。ユークの護衛としてコフィン人達と会い、その意志を目の当たりにした。
刑場で、焼印を前にした王女の態度。彼女を救いに来た魔王の行動、言動。
コフィン人達の戦いを、最前列で目に焼き付けた。
劣等感。それがアルスの胸に満ちた感情の正体だった。
勝ち目のない戦いに挑むコフィン人達は、自分より明らかに力のない者までが、まっすぐに敵を見据えて剣を抜いていた。力の有る無しではない。己の戦いの正しさを信じているのだ。だから圧倒的な敵を、まっすぐに睨むことができる。
暴虐の元凶から目をそらし、惨劇の中にわずかな贖罪の種を探しているような人間は、一人もいなかった。
……いいなあ。うらやましいなあ。
気がつけばそんな言葉が、食いしばった歯の間から漏れていた。
革命の時、ユークに斬りかかり、巨人に潰されていればよかったのか。
レオサンドラや冒険者仲間達に己の正義を叫び、八つ裂きにされていればよかったのか。
命が惜しかった。それ以上に意味のない死が怖かった。
誰かを救うための戦いがしたかった。誰かに感謝されるような最期を迎えたかった。それゆえに自分は祖国を見殺し、皇帝や民を見殺し……今の今まで、剣を鞘に収め続けてきたのだ。
今更、誰のために戦えばいいかも分からない。ユーク達に利する気はないが、あくまでスノーバ人であるアルスは、コフィン人達の味方をすることもできない。ユークが倒れれば、祖国は滅びるかもしれないのだ。
だが……だが、暴走した神に食われた友ルグランは、最期に何を思ったのだろう。
かつての宣言どおりユークの隣に立ったサリダは、まだ生きているのだろうか。
救わねばならない命は、両手にあふれるほどにあった。背に守らねばならない人々は、数え切れぬほどにいた。
何故こぼしてしまったのだ。何故剣を収めたまま、立ち尽くしていたのだ。
傷一つつけられぬ強敵に、それでも向かって行く行為を、無駄死にと断じたのは間違いだった。
結果が惨死以外にありえなくとも、アルスは戦うべきだった。一人きりでも、剣士として立ち向かうべきだった。それが彼という人間が魂を殺さぬための、ただ一つの道だったのだ。
腐った魂を抱えて生きるのは、もう無理だった。
取りこぼした命は帰らない。進んだ時代は戻らない。
暴虐の歴史を傍観し続けたアルスが、せめて冒険者として、今からでもできる戦いとは何か。
考えた時、アルスの心に、久しく忘れていた覚悟が生まれていた。
「……邪魔なんだ……弱いやつが……冒険者の風上にも置けない馬鹿が……いつまでも戦場に立ってんじゃない……」
マキトの肉片をまたぎ、アルスは低く呟く。腕を開き、双剣の刃先をフクロウの騎士に向けると、引きつるような笑みを浮かべて言った。
「自分勝手な動機で、戦う」
「聞こう。それは何だ?」
息を大きく吸い、アルスは黄金の瞳から雫を一つ、叫びと共に戦場に放った。
「我こそはスノーバ帝国最強の冒険者! 失われた祖国と、友と、仲間達の名誉のために貴殿に戦いを挑む! ただのゴロツキ、ただの暴虐好き、侵略者! その頂点たる者の技と魂をお見せする!」
「……」
「醜態だらけのこの戦争に、花を添えたいんだよ。素晴らしき敵に、敬意をもって……冒険者として挑みたい」
自分の意志で、剣を振りたい。
そう歯を剥くアルスに、フクロウの騎士は一度剣を目の前に立て、息を大きく吸い込んだ。
「我はコフィン王国に剣を貸す者。スノーバ冒険者の挑戦……受けて立つ」
名乗りが終わった瞬間、二人の剣士は咆哮と共に駆け出し、敵へ向かって刃を振りないだ。