十話 『剣闘士・あるいは豆泥棒』
丘を下り、スノーバの都に出頭したルキナは、供のガロルと引き離され、都の西端にある円形闘技場に連行された。
スノーバがこの地に都を築いた時、真っ先に建設されたのが王城と入植者向けの住居、そして闘技場だった。
生活に必要な施設よりも先に用意された闘技場に、ルキナはずっと言い知れぬ嫌な予感を感じていたが、一歩門をくぐって観客席に足を踏み入れた瞬間、予感が現実になっていたことを思い知らされた。
雨天にもかかわらず満席の観客席には、装飾過多な鎧や派手な衣をまとった入植者達が、年齢性別を問わずひしめいている。
彼らは観客席だけを守る、はるか頭上に広がった天井に拳や酒の入った杯を突き上げ、獣のような声を上げている。
闘技場の中央、鉄の囲いで覆われた砂場にのみ雨は降り注ぎ、そこで殺し合っているのは、全員がコフィン人だった。
ルキナは自分の腕をつかんでいる勇者マキトの手を振り払い、前方を歩いていた将軍に罵声を浴びせた。
「嘘つきめ! よくも我が民をこんな……!」
「言葉に気をつけろ。時と場所と、服装をわきまえるべきだ。お嬢さん」
ルキナは王城を出る際、神喚び師マリエラと、長剣の女幹部に無理やり鎧を剥がれ、レモン色のドレスと婦人用の靴に着替えさせられていた。
ウェストをきつくしめつける窮屈な服と、歩きづらい飾りだらけの靴。
金色の髪は悪趣味な宝石まみれの髪留めでまとめられていた。
完全に将軍達のおもちゃにされていることに歯軋りするルキナの腕を、マキトが再び乱暴につかみ、引きずって行く。
将軍と三人の幹部は闘技場の外周を走る専用の道を歩き、最も高い位置にある貴賓席に向かった。壁から突き出したバルコニーのような場所に、豪奢な銀色の椅子と、花と果物の載ったテーブルが置かれている。
ルキナを椅子のひとつに放り込むと、幹部達は周りを取り囲むように席に着く。将軍はルキナの隣に、まるで夫のように座った。
神喚び師マリエラが、射殺さんばかりの視線をルキナに向けてくる。
冗談じゃない、と顔をゆがめ、ルキナは将軍を睨んだ。
「恥ずかしくないのか。仮にも一国の将軍が、国と国との約束事をこうも反故にして……スノーバには誇りという概念がないらしい!」
「勘違いしてもらっては困るな。あそこで戦っている闘技者達は、半分は志願者、もう半分はそちらの牢獄に捕らえられていた、犯罪者だ」
椅子のひじ掛けに載ったルキナの手に、あろうことか将軍が上から手を重ねてきた。
払い落としてやろうとしたが、指の間に指を差し込む相手の手は、ぎゅっとルキナの手をつかんで放さない。
男のくせに、白く、軟弱な形の手だ。なのに理不尽なほど強い力が、ルキナを押さえつけていた。
「我々は明日のパンさえ保障されていないコフィンの民の窮状を、なんとか救ってやりたいと思ったのだ。だから彼らに剣闘士という職を提供した。これは救済なのだよ、ルキナ姫」
「よくもぬけぬけと……ええい! 放せ!!」
「犯罪者に関しても同様だ。死に体のコフィンは牢の中の彼らにエサをやるのも一苦労だ。だから彼らにも職を与え、勝ち残ればパンをくれてやっている。
しかもこれらの措置は、そちらの元老院との合意の下で取られているのだぞ」
頭を殴られたような衝撃だった。
絶句するルキナに、横から勇者マキトが鼻を鳴らして声を飛ばす。
「国の指揮系統が二つあるって、バカの極みだね。老人どもはあんたのことなんか無視して、こっそり将軍にお手紙を送っていたんだってさ。直接会う勇気もないくせにね」
「ゆえにこの現状は、コフィン側の意志を確認した上でのことなのだよ。非難される筋合いはない」
怒りと悔しさで、不覚にも涙がにじんだ。
自分は毎日必死にこの野蛮な占領者どもと顔を合わせ、コフィンを守るために自国の意志を表明し続けていたのに、王都の奥に引っ込んだままの元老院が、その努力を水面下で踏みにじっていたのだ。
亡き父王の時と同じだ。国を守るために彼が巨大な異形に立ち向かっていた時、元老院はすでに降伏の準備を進めていたに違いないのだ。
王の死と同時に国を敵に差し出した老人どもを、ルキナは落涙に憎悪を混ぜ、呪った。
その涙を、背後に座った長剣の女がずうずうしくも指でぬぐった。「無礼者めッ!!」と睨みと怒声を向けるルキナを、女は何も言わずに見つめている。
将軍が声を上げて笑っていると、貴賓席に一人の男が上がって来た。将軍と同じ、青白く輝く衣をまとった男はたっぷりとした口ひげをたくわえ、がっしりとした体つきをしている。
男は将軍のわきに立つと、「ユーク」と、将軍の名を呼び捨てにした。
「よくぞ来てくれた。今日も闘技場は盛況、血気盛んな冒険者達も満足しているぞ」
「それは何よりです、ギルドマスター・レオサンドラ」
……ルキナは、濡らした頬をゆっくりと二人へと向けた。
今、将軍は敬語を使わなかったか?
傲岸不遜、誰に対してもまるで王者のように振る舞う少年が、ルキナの前で初めて他人に敬意を示したのだ。
この男は、誰だ。ルキナの視線を受けて、レオサンドラと呼ばれた中年の男はにやりと笑った。
その毛深い手が、よもや、ばっくりと開かれたドレスの胸元に伸びて来ようとは!
「やめろ!」と叫ぶルキナに、レオサンドラの手を以外にも将軍が叩き落とした。苦笑しながら手をさするレオサンドラに、将軍が心底おかしそうに笑い返しながら言う。
「相変わらずですね、レオサンドラ。女と見ればガキでもババアでも触りたがる。でもこの女はダメです。コフィンの最後の王族ですから」
「つまり、君のものというわけか? 残念だな、私はこういう挑むような目をした雌獅子のような小娘が大好きなんだが……妾にするのかい」
「まさか。心を落として家畜にするんですよ。コフィン人達の前でさらし者にした後なら、一晩くらいはお貸ししましょう」
我慢の限界だった。ぞっとするような会話をする二人の男から顔を背け、床に向けて息を吐く。
手を捕まえている将軍の指を、逆の手でむりやり引き剥がした。
身を抱いて歯を食いしばるルキナに、レオサンドラが興味深げに声をかけてくる。
「察するに、コフィン国王ルガッサ殿の忘れ形見、ルキナ姫ですかな。いや、実にお美しい」
「触るな……誰だお前は……!」
「これは申し遅れました。私はレオサンドラ。この闘技場の運営者にして、スノーバの冒険者組合の総長。さらにはスノーバ革命政府の、三人の大臣の一人を担っています」
革命という言葉が出てきた瞬間、ルキナの脳裏で何かが激しく警笛を鳴らした。
革命。被支配階級の者が支配階級を倒し、国の構造を根本から変革させること。
ようは民の類による王の類の打倒。権力の強奪だ。
スノーバに革命政府と呼ばれるものが存在するのなら、スノーバは本来国を治めていた支配者が倒され、謀反を起こした者が実権を握っている状態ということになる。
ルキナは身を抱いたまま、自分の周囲にいる者どもを見回した。
彼ら、彼女らの視線を受けながら、震える唇で低い声を出す。
「革命政府……それができたのは、いつの話だ……?」
「およそ、二年前ですかな。こちらのユークが我が冒険者組合の勇士達に号令をかけ、民を立ち上がらせ、当時の皇帝を打ち倒したのですよ。その後にユークは将軍の座につき、軍隊を掌握し、私をはじめとする冒険者組合の実力者を国のトップにすえたわけです。
もっとも、民にとっては国を愚帝の圧政から解放したユークこそが英雄であり、指導者でありますから、実質ユーク将軍がスノーバの代表のようなものですよ」
レオサンドラがドレスから伸びたルキナの足を眺めながら、誇らしげに語る。「将軍はね、腕利きの冒険者だったのですよ」とその口が続けた瞬間、ルキナは将軍を睨み、自らの腕に爪を立てて叫んだ。
「貴様……! ようはただのならず者か! 政治、外交の素人だったんだな!!」
「余計なことを」
軽くレオサンドラを睨み、それでも笑っている将軍に、ルキナは全身がかっと熱くなるのを感じながらさらに怒鳴る。
「よくも、よくもそんな身分でわが国を落としたな! 国家のこの字も知らん青二才の分際で、人の国をこうもかき乱してくれたなッ!!」
「それ以上わめくと裸で舞台に放り出すよ」
勇者マキトが横から手を伸ばし、ルキナのドレスの胸元をつかみ上げた。
直後、彼の頬が乾いた音を立ててはじかれる。
血みどろの殺し合いに沸く闘技場内にその音はすぐにかき消されたが、スノーバの代表達の表情は瞬時にこわばり、殺気立った。
張り手を食らわされたマキトが、怒りに震え、ルキナのドレスを引きちぎる。
胸からわき腹にかけて布地が裂け、肌があらわになったが、ルキナはもはや体を隠す気もなかった。ただただ目の前の連中に対する激しい怒りに、マキトを突き飛ばしながら怒鳴る。
「薄汚い謀反者の分際で私に触れるな! 冒険者だと!? 畑を耕すことも、道を作ることも、服や道具や家をこさえることもなく、学問や技術芸術を発展させることも、人に癒しや憩いを提供することもない!
国を背に立つことも兵役につくこともせず、そのくせ大仰な武器を持ち歩き、手前勝手な好奇心と満足を得るために『冒険』を繰り返す遊び人が!!
今まで一国の王女である私に対等以上の口を利いていたのかッ!!」
「この……ッ! 黙れ!!」
薄笑みを浮かべた将軍が制止する前に、マキトが拳でルキナの額を殴打していた。
目の前に火花が散り、意識が一瞬遠くなる。椅子の手すりにつかまりながら、それでもルキナはまだ口を開こうとした。
だが、その首にがちりと音を立てて、長剣があてがわれる。背後に立つ女の黒髪がルキナのむき出しの額をなで、冷たい視線が突き刺さった。
「……将軍。少し、口の利き方を教えてやります」
「あとでな。まだ見世物の途中だ」
果物をつまむ将軍の視線の先では、四人の鉄の兜をかぶった男達が雨の中互いを切り刻んでいる。
将軍は他人の死闘を観戦しながら、刃に捕らわれているルキナにふふっ、と小さく嘲笑の音を向けた。
「やはり、王族の女だな。今の台詞……馬脚をあらわしたと言うべきか」
「何だと」
「薄汚い謀反者。革命を成功させた人間に対してそんな台詞を吐くやつは、王制至上主義の権力者と相場が決まっている。しょせん、民を牛馬同然にしか見ていないんだろう」
あまりの怒りに青ざめるルキナの髪を、長剣の女が刃を握る手とは別の手でつかんだ。舞台の上で、一人目の敗者の首が飛ぶ。
「革命を謀反と呼び、英雄を逆賊と呼ぶ。何故革命が起きたのか。低劣で無能な支配者と政治のせいだとは一切考えず、ただ民の暴走とだけ理解する。お前の醜い性根があらばこそ、我々が革命者であること、革命者に自国を倒されたことに激怒するのだ。
平民上がりの牛馬に頭を押さえつけられたことが悔しいわけだ。差別者め」
「違う! 貴様ら……」
髪が乱暴に引かれ、ルキナの喉がのけぞった。長剣の女が耳元に唇を寄せ、「黙って聞け」とささやく。
すっかり静かになったレオサンドラはドレスの裂け目を興味深げに眺め、神喚び師とマキトは今にも襲いかかって来そうな目で睨みつけてくる。
舞台で、二人目の敗者の腕が飛び、倒れ伏した。
「冒険者を遊び人と切り捨てるのも同様だ。人は何故冒険にあこがれ、危険に立ち向かうのか? 人は本来、人に所有されるものではない。王にも皇帝にも支配されず、自由に、なりたい自分になる権利があるのだ。
冒険者はその象徴だ。身一つで辺境や異国、未知の冒険に出かけ、仲間と共に困難に立ち向かい、やがて偉大な勝利を収める。強大な敵を打ち倒し、宝物や名誉を手にし、英雄と化す。
どんな身分の低い人間でも、どんな貧乏人でも、英雄になるチャンスを得られる。それが冒険者という職なのだ」
「貴様らがしているのはただの侵略……」
「いい加減にしろ!」
将軍の演説に口を挟もうとするルキナを、長剣の女が椅子ごと引き倒した。口をふさがれ、腕にわずかに刃を立てられる。
将軍が見つめる先で、残った二人の剣闘士のうちの一人が、手斧で兜ごと頭を叩き割られた。
地鳴りのような大歓声。将軍が両手をかかげて勝者をたたえながら、ルキナを振り返る。
「つまりだ。我々は自国の権力者を倒し、正義をなすという大冒険をなし遂げたスノーバ一の冒険者集団と言うわけだ。数々の伝説の神器を手にし、神喚びの能力を持つマリエラを得、皇帝を倒した。
スノーバにおける冒険者とは、国を変えた聖なる戦士の称号なのだ。民のための国、民のための世界を作り上げた。いずれ帝国という名も、民主国と変えるつもりだ。そして冒険者が国を公正に運営し、さらなる夢と冒険を民に提供する」
観客席から、スノーバから輸入された赤い花が吹雪のように舞台に降りそそぐ。
生き残った剣闘士は、槍の穂先のようにとがった形の、鉄の大兜をかぶった男だった。
頭部全体を覆う大兜は滑稽なほどに大きく、その両側面に空いた穴に通された鎖が腋の下を通り、体に固定されている。こすれた鎖は剣闘士の肌を破り、血がしたたっていた。
彼は大兜の他には粗末なズボンと長靴しか身につけておらず、傷だらけの、獣のような筋肉質な上半身をそのままさらしていた。
将軍がぱちんと指を鳴らすと、ずっとルキナの肌を眺めていたレオサンドラがはっとしてバルコニーの先端に向かう。
「勝者、豆泥棒のマグダエル!」
歓声と笑い声が闘技場を包む中、将軍がルキナに体を向け、ぞっとするような残酷な笑顔を作った。
「ルキナ王女、お前の国はスノーバの冒険者達の探索基地なのだよ。ここから我々は、野を越え海を越え、様々な冒険へと出立する。このユーク将軍がじょじょに周囲の国を屈服させ、その国に存在する秘境、魔境をこの闘技場にいる冒険者達が暴き、次の世代の英雄となる。誰もが高みに上れる、公平で平等な、大冒険時代の幕開けだ」
この、愚かで浅はかな、糞ガキめ。
本来語るに値しないような、あまりに陳腐で自分勝手な話に、ルキナは身動きを封じられたまま震えた。
こんなやつに。こんなふざけた連中に。何故自分はドレスを着せられ、引き裂かれ、屈服させられているのだ。
あまりのくやしさに、呼吸ができなくなった。ふさがれた口の上で鼻面にしわを寄せると、申し訳程度にルキナを拘束している手がゆるむ。
敵の手の中で、大きく息を吸い込んだ時だった。
闘技場が突如静まり返り、何かが空を切る音が耳に届く。
レオサンドラが叫んだ。危ない! 貴賓席の全員が空を切る音の方へ視線をやった瞬間、振り向いた将軍の眉間を、手斧の刃が切り裂いた。
噴き出す血液、壁に突き刺さる手斧。神喚び師が悲鳴を上げ、将軍の体をマキトが受け支えた。
ばっくりと裂けた眉間に手をやる将軍が、顔中を血だらけにしながら、ぎろりと舞台を見た。
豆泥棒のマグダエル。生き残った最後の剣闘士が、手斧を放ったままの姿勢で、大兜の横長の覗き穴から貴賓席を睨んでいる。
絶叫していた神喚び師マリエラが、将軍に駆け寄りながらマグダエルを指さした。「殺せ! 反逆者だ! 兵士達!!」彼女の声が響いた瞬間、闘技場の入り口から、無数のスノーバ兵達がなだれ込んで来る。
マグダエルは倒れた剣闘士達の武器を拾い上げ、右手にグラディウスを、左手に短槍を持ち、舞台上で敵を待った。
その間、彼は短槍で貴賓席を指し、血走った目を唖然としているルキナに向けた。
自国の王女を、姫を示す彼は、にわかに悲鳴と怒声に満ち始めた場内を切り裂くような、凄まじい声を飛ばす。
「戦えッ!」
びくりと、ルキナは敵の手の中で震えた。戦え! 戦え! 戦え!! 繰り返すマグダエルのいる舞台に、鉄の囲いを突破して兵士達が突入する。
剣を振り下ろす兵士の喉をグラディウスがつらぬき、わきから突っ込んでくるもう一人を短槍がなぎ払う。二人、三人、四人と兵士を斬り倒したマグダエルは、しかし怒涛の勢いで殺到する兵士の中にすぐに埋没した。
凄まじい量の血しぶきが空中に噴き上がる瞬間、最後にもう一度戦えと叫んだマグダエルが、短槍を再び貴賓席に投擲した。
あわてて身を屈めるレオサンドラの頭上を通り過ぎる槍を、マキトが戦斧で叩き落とす。
曲がった短槍を将軍が踏みにじり、無表情に床に唾を吐いた。
「……八つ裂きにしろ、マリエラ。だがあの妙な兜は壊すなよ。このユークの顔に傷をつけた男だ……ザコでも、さらし者にしなくては気が済まん」
うなずくマリエラが、ゆるりとルキナを睨む。
ルキナはもう、声を発することすらできなかった。
その日、雨の降りしきる中、英雄達の墓標に一人の剣闘士の兜と、壊れた武器が並んだ。
ルキナは闘技場を追い出されるように解放され、引き裂かれたドレス姿のまま、外で待っていたガロルの腕の中に飛び込んだ。
ガロルの顔が、何も話さぬ内から鬼のように醜くゆがみ、震えるのを、ルキナは道行くスノーバ人達の視線を受けながら見上げていた。
夜になり、湯浴みをして一人床に入ったルキナを見届けた後。ガロルは戦士団長として、コフィン戦士達に招集をかけた。
戦後を生き抜いた精鋭三十人。ガロルは彼らに、スノーバに携帯を禁止されて以来城の倉庫に放り込んであった、戦士団本来の装備である幅広の剣を持たせた。
戦士の招集も、剣の解禁も、ルキナの許可を受けてのことではない。
生まれて初めて主君の命令抜きに兵を動かした彼が向かったのは、スノーバの都ではなく、自国の王都にある、元老院の議場だった。