谷間の理由
「第二回犯罪が出てこないミステリー大賞」参加作品。
http://nekocorone.web.fc2.com/2index.html
世の中というものは数多くの謎に溢れている。それらは大抵不可解なものであり、時にまったく理解の及ばぬものであったりなんかしたりする。
先日、胸を小さく見せるブラジャーが発売されたというニュースを目にした。
このニュースに我々一同は驚愕した。大きな胸をわざわざ小さく見せるようにする。どうしてそんなものが必要なのか、とは我々のみならず男の誰もが抱いた疑問であったはずだ。
我々が知りうる限りでは、女というのは少しでも己の胸を大きく見せようとする生き物である。実際、私がこれまでに出会ってきた女たちは皆、己の胸部をいかに偽装するかに心血を注いでおり、それは例外なく胸を大きく見せるためにあった。
なのに今、逆に胸を小さく見せるためのブラが発売されたという。
発売されたということは、需要がある、売れる要素がある、と判断されたということである。
それは、まったく理解の範疇の及ばぬ事態であった。
そのようなものが、本当に必要とされるのだろうか。我々研究員は、早速調査に乗り出した。
そもそも、胸がおっきい方がいいのは、改めて確かめるまでもなく明らかなことである。もちろん最も大切なのはトータルバランスであるが、単純にその部分だけを鑑みた場合、おっきければおっきいほど嬉しいことは自明の理である。
もちろん我が国ではちっぱいのが好きだというヒンヌー教徒が結構な一派閥を形成していることは存じている。だが彼らの言うそれのほとんどはいわゆる二次元の世界の話であることが多いし、実際に聞き取りをしてみれば、彼らの多くが現実にはおっぱいのを味わったことが一度もない、というデータも研究所には収集されている。そもそも我が国においてある程度以上の大きさの胸を味わえる機会というのは、大変に少ない。哀しいことだが。
もちろん女性の側からすれば、大きい胸など邪魔だし、重いし、肩が凝るだけという意見はあるだろう。そしてこれらは、大きな胸を持つことに対するデメリットとして常に挙げられる三大意見でもある。
だが、これらはまったくといっていいほど本質をついていない、と我々は考えている。あえて言わせてもらえるならば。これらはいわば富めるもの、持てるものたちに用意された綺麗な言い訳である。なぜなら、それでも多くの女性は魔法や天使の名を冠した補正下着でもって胸元を寄せて上げるし、大きな胸を持つものは、普段は邪魔だの何だのと言ってはいても、それが己の利益に繋がるとなれば、それを十二分に武器として用いるのである。
だがそれでも、「小さく見せるブラ」は発売された。どこかに需要があるし、そういうものが求められている理由があるのだ。そしてそれはおそらく、表立って出てくるような綺麗な意見では決してないはずだ。それほど、現状と比べてそのコンセプトは歪なのだ。
我々は総力を挙げて聞き取りをはじめる。だが困ったことに、我が国には、そして我々の知り合いにはわざわざ胸を小さく見せるためのブラを必要とするような人材は非常に少ない。そのような下着を用いるまでもなく、彼女らの胸元は起伏に乏しく、常にミニマムである。
これではデータは集められない。どうすればいいのか。
打開策を提案したのは我らが所長、オッキナ=チチスキー博士である。
「不思議なことに、女性陣の多くは、己の胸の多寡に関わらず、このニュースを比較的当然のように受け取っている節がある。つまり、彼女らにとっては、我々男には与り知れぬ、納得できる理由や感情があるのだ」
そう分析した上で、博士は続けた。
「人は想像できる生き物である。己の胸がどうであれ、そういうものが必要であろうと、多くの女性は己の想像で納得を得たのだ。そこには理由があるはずだ。それを聞き出すのが、諸君らの役割である」
博士の言には、一理も二理もあるように我々は思えた。
我々は調査を再開した。
聞き取りは難航を極めた。当然である。大抵の女性は胸の話題になっただけで顔をしかめたり冷たい視線を送ってきたりするのである。我々は皆、その軽蔑の感情に耐えねばならなかった。
さらに厳しさに追い討ちをかけたのが、大抵の場合において「もしあなたの胸が大きかったら」という仮定で切り出さねばならなかったことである。
「もしもあなたの胸が大きかったら、胸が小さく見えるブラを使いたいと思いますか?」
今回、聞きたかった質問はこれである。確かに、かなり失礼で不躾な質問ではあろう。眉をひそめられるのも、板しかない、もとい、致し方ないというものである。
だが幸いなことに、我々研究員の多くは女性下着についてそれなりの知識を持っている。もちろん専門的な水準には届かないが、それでも、女性との雑談で下着の話題について触れる程度には問題ないだけのものを有していた。
そうして、下着に関する普通の雑談から少しずつ際どい話題へと内容を移し、何とか聞き出すことに成功したのである。
多分使いたいと思う、というのが、我々が集めた情報においては、大多数の結果だった。
これが、いったい何を意味するのだろう。
分析のために、彼女たちの意見一つ一つに耳を傾けてみる。それらの中で最も我々の目に留まったのが、「気にせず街を歩けると思う」という回答だった。
胸が大きいと注目される。だから、注目されないよう、胸を小さく見せて、視線を気にしないようにしたい。そういうことなのだそうだ。
視線というのは、おそらく男性からの、ということであろうと思われる。そこに女性からのものは含まれていないように、ニュアンスからは伺えた。
他に寄せられた意見として、「面倒がなくて済む」「そのほうが気楽」というものがある。これもおそらくは、表現が違っているだけで、上記とほぼ同様の理由ではないかと思われる。
つまり彼女たちは、胸に。正しくは、男性から胸に注目されるのが嫌なのであり、負担なのだ。
これらはどうも、彼女たちにとっては共通の、納得できる理由であるように感じられる。
なのにどうして、現実には彼女たちは、日々胸度偽装を施しているのか。
これらのデータから、我々は一つの推論を立てた。
結局のところ彼女たちは、己の胸を平均値に近づけたいのではないか、ということだ。
目立たなくする、注目されないようにする、ということは、要は多数に埋没するということだ。平均値と、その周辺の閾値の割合に入れば、その胸は注目され難くなる。総合して考えるならば、彼女たちは、そこに合わせようとして胸を大きくしたり小さくしたりしたいのではなかろうか。
これは日々女性の胸元に注目している我々にも納得できる推論である。実際、大きい胸と、必要以上に薄い胸には、我々は自然と注目してしまう。これはエロい理由ではなく、それを一瞬、ほんの僅かのことではあるが、異物と認識してしまうためだ。失礼なことではあろうと思うが、ある種仕方のないことでもあろうと思う。そうなのだ。エロい理由ではないのだ。そうなんだってば。
なればこそ、彼女たちは、少しでも注目され難い胸部をつくるため、様々な補正用具を用いるのではあるまいか。
ただ普通に生きてゆきたい。要は、そういうことなのであろう。
これは、いわば我々男性の罪であるともいえる。我々男には理解にも想像にも限界のあることであるが、女性というのは、この世に産まれ落ちてから四十年、場合によってはそれ以上の年月の間、一年三百六十五日、二十四時間絶えることなく性犯罪の危機に晒され、警戒しながら生を送ることになっている。生まれながらにして、それだけのハンデとストレスとプレッシャーを背負っているといってもよい。近年では男性がそういうことに晒される率も驚くほどに上がってきてはいるが、それでもまだその開きは大きい。多くの男性にとっては理解の範疇の外だろう。
そういう現実があるということを、我々男どもはまず再認識せねばならない。胸を目立たせたくない、という意識も、おそらくはこの現実から端を発しているのだ。
このことは様々な部分にも影響を及ぼして、我々を生きにくくしている。社会全体としての性犯罪に関するストレスがもっと軽ければ、女性の多くはシモネタやセクハラにもっと寛容であるはずであるし、男と女はそういう日常のやりとりを楽しみにだってできるはずなのだ。
女性は深夜一人で街を歩いてはいけない。そんなはずはない。歩いてはいけなくしているのだ。誰がだ。我々がだ。
結局のところ、我々は我々自身で生きにくい世の中をつくり出しているのであろう。
このことを、我々はZカップの胸以上に重く受け止めなければならない。
人類はその進化と共に様々な武器を生み出してきた。人の歴史のある一面は武器の歴史であるといってもよい。
女性の胸は武器である。それも大いなる武器である。それらを自在に使いこなせるよう、彼女たちは日々努力をし、研鑽を積んでいる。
その偽装に対して寛容な心を持つことは難しいことではあろう。だが、女は秘密を纏って美しくなる、という言葉もある。ときには秘密は秘密のままに、その深奥に思いをはせることもまた、必要であるのかもしれない。
胸部を目立たぬ平均値に。けれども、隣の友人よりは、少しだけ大きく。
その想いを、嗤ってはいけない。そのこころを、愛でなければならない。
我々男性が広い心を持つことこそ、女性の胸元を豊かにする最大の秘訣であるのかもしれない。
胸部に偽装が必要のない世の中。それはつまり、男と女が共に、少なからず生き易くなった世の中である、と思うのだ。
そんな世の中が、一日も早くつくられるようになればいい。我々は、そう願うばかりである。
ところで諸君。ここがいったいどこの国だと思っていた?
(完)