ガレとカリスと、ゾラの物語 7
ガレ。
ガレ、ガレ。
「ガレ・・・」
足首が痛い。足の先が焼けるように痛い。
歩けなくなったカリスは一本の古い大木の太い根っこと根っこの間にできたへこみに足を取られて転んだまま、座り込んでいた。
何度も転んだせいで土に汚れた手の平や甲で涙が伝う頬を拭うので顔まで泥まみれになっていた。金色の髪には枯れ葉が絡まっていた。半分視界の縁に見えていたけれど、カリスには取り除く気力もなかった。
ガレがいなくなってしまった。
一緒に楽園に行こうと決めていたのに。
ガレがいれば平気だと思ったのに、そのガレが急に、こんな乱暴なかたちで自分から奪われてしまったのだ。
ガレと、二人で一緒にゆく。
そのために危険な、ゾラを置き去りにしてきてこれでもう安心だと思っていたのに違ってしまった。
ガレを目の前で奪われてしまったカリスは、このときはじめて強い後悔を感じていた。
ゾラは強かったのに。
ゾラは強くて、もしあんな悪いことをせずにまだ三人でいたならあの三人など撃退してくれたかもしれないのに。
そのまえに、ゾラがいたら襲われなかったのかもしれない。
もしかしたらずっと自分たちを見ていたけれど、ゾラがいたから。ゾラがいなくなったから、今夜襲われたのかもしれないとカリスは思った。
考えているうちに、そうとしか思えなくなってしまっていた。
ゾラを追い払ったから、その罰がわりに自分たちは襲われたのだとーーー。
「・・・ごめんなさい・・・」
ガレ以外の名前だった。
「ごめん、なさい・・・ゾラ・・・ゾラっ・・・」
カリスはぽろぽろと涙を流して繰り返してゾラに謝っていた。今ごろ遅いとわかっているし、自分勝手だとも。
黒い山の夜。遠くで梟の声が聞こえた。虫の声も、木々や草の葉が擦れる音がカリスの鳴き声を圧しつぶさんとしているように押し寄せていて、カリスは声を出して泣くこともできなくなってきていた。
一人ぼっちがとても恐い。不安で苦しくて、それが嫌でカリスは自分の部屋を跳びだしてきたのだ。
あそこの家では、母を殺したカリスは誰にも愛されていない、家族に嫌われているのだから。
それはカリスの優しさとまっすぐさ、そして寂しさのなかで生み出された心の闇だった。闇の中で、有りもしないものの気配を想像して怯えているのだ。
でももうそんな思いも、もうおしまいになるはずだった。
なぜって、もう家には帰らないのだから。家族がカリスを憎んでいても関係ない。カリスはガレと生きてゆくんだから!
「・・・ゾラ、ごめんなさい・・・ガレ、ごめんなさい・・・」
欺して置き去りにして。
助けてあげられなくて。
そうして。
「ごめんなさい・・・お母さま・・・ごめんなさいっ・・・」
僕のせいで。
生まれてごめんなさい、だった。
「・・・ごめんなさい・・・」
小さく消えそうな声でもう一度言ったカリスも、その声と同じように闇に溶けて消えてしまうのではと思われる様子だった。
カリスは小柄な身体をさらに小さく丸めて蹲っていた。
「よしよし。よーく反省したな。じゃあ、もう一度」
それはそんな空気にそぐわない明るい声だった。
耳に飛び込んできて、カリスは顔を上げていた。
涙でぐちゃぐちゃになった顔だったが、暗がりの中に立って存在に腕を組んでいる男の姿を認めると驚き大きく目を見開き、次いでゆっくり頬の緊張が緩んでいった。
「『ゾラのお兄さん、ごめんなさい』だ。謝ったら、心の広いお兄さんはほっぺたつねるくらいで、許してやるぞ」
「ゾラ・・・ガレが・・・」
「最初に言うことは?」
「ごめんなさい、ゾラ!ごめん、謝るから、お願い、ガレを助けて!」
「ああ、酷いなあ。鼻が真っ赤だぞ?・・・ガレが見たら驚くぞ・・・」
「ガレが連れて行かれちゃったのっ!」
「そうみたいだな。向こうさんも、ちゃんと好機は逃がさないってことだ」
ゾラにとって、油断して二人の子供を見失ってしまい、すぐに追いかけてみたものの探し出すには少々時間がかかってしまった。その間にまんまとしてやられてしまったということだった。
冷ややかな苦笑を浮かべていたが、それはゾラ本人に向けられた自嘲であり、ゾラの大きな手は優しくカリスの頭を撫でていた。
ゾラの筋肉に固い男らしい胴にしがみついてカリスは泣きながら訴えていた。
「ガレを袋に入れて連れていったの、殴ってガレは動かなくなってしまったの、ガレ、殺されちゃう、死んじゃうっ」
自分の紡いだ言葉に怯えたカリスの悲嘆がさらに深まっていた。
「死んじゃうよ、死んじゃう、ガレも死んじゃうよっ」
泣きじゃくり、じっとりと男の服を濡らすカリスにゾラは、今までになかったほどとっても冷めていると感じられた。
「大丈夫だ」
ぽんと言った。
一瞬嬉しかったけれど、何もわかっていない気楽な言葉だとカリスは思ったから、腹が立った。
「だから、大丈夫だ。あの小僧が自分で悲観したりせずに大人しくていれば、すぐに殺されることはないだろうから落ち着けって」
「・・・本当に?・・・なんで、わかるの・・・」
嗚咽を堪えて、顔を上げたカリスはゾラを見上げるとそう聞いた。
「ゾラは、わかるの、そんなこと・・・どうして・・・」
「おまえ、疑ってるんだろ?」
悪戯っぽく笑ったゾラに、カリスは不安そうな顔になっていた。
「・・・でも、ガレは何も言わなかったし・・・僕の気のせいだと・・・。お尻もぼこっとしていないし・・・」
ゾラはぴっちりとした下衣だった。
ゾラの身につける衣類が顕わにする身体のラインは、普通の筋肉の流れか、カリスと変わらない肉のつくるものだった。そこに余分な、ニンゲンにはない物が隠されているようには見えなかった。
「尻尾は根本から切った」
これも信じられないほど、ぽんと言われた。
「・・・き、切った・・・?」
「耳はもっと不自由だからな、これも切った」
肉の部分を切っただけだから、聴覚には差し障りがないのだとゾラはカリスに説明した。
カリスは絶句して、泣くことも忘れてしみじみと男を見つめていた。
「ニンゲンの体臭の香水をつけているんだよ。・・・というか、あの小僧がドジ過ぎている気がするがな。・・・ここまで、あいつに気づかれないとは思わなかったな・・・」
たぶん、他事に気を取られすぎていたせいだとゾラは思っている。
全力で、カリスに意識を向けているから注意力を欠いているのだ。
端から見ていてハラハラするほどに。そうしてその結果としては、ニンゲンに夜襲を許して狩られてしまった。獣人特有の鋭敏な感覚を備えているというのに、不注意で・・・。
「その人間の耳は・・・?」
「これか?」
笑ったゾラは黒い髪を掻き上げてほとんど隠れていた人間の組織らしいものをカリスの目に晒してやる。
「当然、作り物だ。ごてごて大きめの飾り物をつけていたり、髪を長めに被せていると気づかれないものだな」
「・・・耳も尻尾も切っちゃったの・・・ゾラは、切っちゃったの?」
「ああ。生きづらいと思ったからな」
精一杯冷静を務めたけれどカリスの声は引きつっていた。
反対に、さすがに今は明るすぎるほど陽気ではなかったが、やはり薄く笑っているゾラはとても自然体だとカリスは思った。
「・・・痛いっ・・・痛すぎる・・・」
「ああ、痛かった。かなり痛かったが、切ったときは満足だったな。けれど最近は少しだけ後悔するようになったな。何年経っても寒い冬の朝に切り口が傷んだりするんだと知って、ずっと続くのかと憂鬱になるときもあるが、それだけだな。普段はほとんど痛みはないぞ」
カリスは身体を離して、目の前の不思議な男を見つめていた。
人間でもなく、自分で獣人の特徴である耳と尻尾を切り落として、獣人でもなくなった男だった。
そのうえ、後悔もしていないのだという。
カリスとガレは、強い男と恐れていたのだ。
そんな辛さを抱えてきた男だとはちらりとも思わなかっただろう。
「・・・悲しくないの・・・?」
「なにが」
「耳と、しっぽ・・・」
「寒くなってくるとずきずきとしもやけみたいに痛みだして、そうするとーーー」
「違うよ!そうじゃなくて、切ってしまったことだよ。なんで、切らなくちゃいけなかったかって、どうしてこうなんだって!」
「そんなこと、わかっているじゃないか。生きていくためだ。俺が、これからも、より良く。そのためにできることをしたんだ。そんなこと今更考えても意味がない、と俺は思っている。そんなことを悩みならこれからのことを考えるぞ」
言われたカリスはじっと考える顔になっていたが、そのあとに続いたゾラの言葉を聞いてさっぱりと悩むことを止めてしまったようだ。
「俺が、尻尾がないから悲しいかもしれないと考え出すとする。よく考えるために座り込むだろう。これは簡単に答えは出ないだろうので数日掛けて、じっくり考えるかもしれない」
にやっと猫の耳を切り落としたゾラは虎のように笑っていた。
「そうしている間に、ガレの小僧はいったいどこまで運ばれて行くのやら!」
「わっ、駄目、ゾラ、考えないでっ!」
弾かれるように叫んだカリスは自分がとっても、勝手だと思った。
カリスとくっついて寝ることが最近多かった。
思い出のなかにいるお母さんとは全然違って、小さくて頼りなかったけど温かだった。
同じように温かで気持ちよかったのだ。
お母さんではなく、仲間でもなく、ニンゲンなのに。
信じられない、ニンゲンなのにだ。
弱くてまともに走れもしないカリスで、いても戦力にもならないとはわかっているけれど、ガレが暗い鉄の格子の檻のなかで求めるものは、強い力でも武器でもなくなっていた。
弱くて温かいカリスだった。
カリスに会いたいと思った。
もう一度でいいから会いたいと思った。でも無理なのだともわかっていた。
それどころか、カリスは無事にいるのだろうかと考えると心が凍りそうになってくる。
カリスは気絶させられ運ばれた自分と違い、あの場所にそのまま置き去りにされたのだと聞かされたのだから。
「連れの、人間の餓鬼だろ?どうしろっていうんだい。ちょっとばかり造作は良かったが、そんなもん!だからって捕まえて売ったりしたら俺達は犯罪者になるだろうがよ」
俺達は歴としたハンターだ、と四人のハンターのなかで一番大きな男が胸を張って答えていた。
真っ暗な檻の中で目を覚ましたガレが騒いで暴れて、檻は壊すことはできなかったが、覆い被されていた分厚い布が捲られたのだ。
気を失う前に見た凶暴な男達の顔が揃ってあった。武器を振り上げてもおらず、檻は大きめなので残った狭い馬車の隙間に身体を窮屈そうに曲げて座っている様子は狂気もなくてまるで別人の様に感じさせたが、間違いなく同じ顔で、同じ臭いだった。
「カリスを置き去りにしてきたのか、山の中に!あいつはお屋敷育ちで弱いのに!!」
「元気だったぞ、噛みつきやがった!」
「おまえよりも骨があった」
「戻って、あいつもっ!」
「何を言ってんだ、あいつもおまえと檻に入れろってか?できるわけないだろうが」
「走っていたからな。そのうち道に辿り着くさ、運が良ければ腹が空く前に」
一番細身の男が鼻を鳴らして言い、それきり、ガレの叫びは無視された。
さんざん騒いでいるうち、遠くで鳥の鳴き声がしたのが聞こえた。
夜は明けて朝が着たことをガレに教えていた。
「もうすぐ町だ。暴れるならまた殴って気絶させるぞ」
低く脅されるまでもなく、ガレにはもう暴れる気力が残っていなかった。
ガレを入れた檻を乗せる馬車はゴトゴトと走り続けていた。
覆い布を被されて、太陽が昇ろうともガレのところまでは差し込むことはなく真っ暗だった。
息苦しい風も入らない闇の中でガレは膝を抱えていた。もう眠ることもできずに、考えても何も手助けしてあげられないカリスのことを考えて、鼻をすすり上げていた。
「ごめんよ・・・楽園に一緒に行こうなんて言わなきゃよかった・・・そうすれば、カリスは助かったのにな・・・」
山の中で、足にも肉刺ができているカリスは歩けなくなって動けなくなるのだ。
一人っきりでお腹も空かして、雨だって降り出すかもしれない。
出会ったあの街に、置いてこれば良かったのだ。
でもカリスは自分で、ついて行くと言いだして実際に一緒にいっぱい歩いてきた。
ガレが今まで、自分の正体を知っているニンゲンとこれだけ一緒にいたことなどないのだ。
当然だった。そもそもニンゲンと一緒にいたことなどなかったのだから。
はじめてのカリス。
はじめて会った、ニンゲンのカリス。
体力もなくて、きれいで女の子みたいで、少し歩いただけで足の裏中肉刺を作ってしまうような奴だった。
あのまま街に置いてこれば良かったと思ったけれど、でも同じようなことでも出会わなければ良かったとは、全く自分は思っていないことにガレは気が付いていた。
必要だと思ったから。
カリスはガレにとって、出会わなければ決定的に足りない要素だと疑わないのだ。だから、自分たちは会わないといけなかった、ガレにとってはそんな大きな存在、たとえそれによってカリスの人生が崩れる要因になったとしても。
なぜって、現に自分が連れ回したことにより山の中でカリスが孤独に運命を閉じようとしているのかもしれないのに。
「酷いな・・・俺・・・ごめん、カリス・・・」
小さな、ガレの懺悔の声だった。
ガレにとって今、世界は真っ暗だった。檻の中で光も差さない暗がりにいた。
再び太陽の下に引きずり出されたとき、そこはどこなのだろうか。
どんな目的に立たされるのだろうか。
ガレには想像がつかなかった。そんなことなど考えたくはなかった。
「・・・今度があったら・・・今度はもっと注意して守るから、絶対・・・」
乾いていながらどこか夢見るように甘い響きを帯びたガレの声は、しかし檻の外にいるハンターの耳にも届くことはなかった。
ガレは獣人だ。
おまえはニンゲンだ。
違うんだよ、一緒にはならない。
腹が立つ言い方だった。でも唇を尖らせただけで文句を言えないのは、その声がとても穏やかだったから。
穏やかで、少し嘲っているように冷たくも聞こえて、悲しそうに笑っている目をしているから。
淀みない言葉は、すぐにこう続いていったから。
「おまえはニンゲンで、お屋敷のぼっちゃんだ。ならおまえにはガレを救う力がある」
力なんてないよ、とすぐにカリスは首を横に振っていた。
自分は、そんな良いものではありえないと思ったから。
すると静かに訂正されたのだ。
「いいや。おまえは俺達には持つことができない力を持っているよ。ーーーいや、言い直す。持つことのできる可能性のあるところに生まれたということだな。今は持ってない。ひ弱な子供だ。家出をしてもまともに歩くこともできないんだからな」
優しい声音でも、言葉はとっても辛辣だった。
そして、カリスには内容は本当のことだったので言い返すこともできなかったのだ。
「でもガレを助けることができるだろう。合法的に、この先の穏やかな人生を与えてやれる可能性だって持っているんだよ」
「・・・嘘だ・・・」
「嘘じゃないさ。おまえはどんな家に生まれたか、考えてみろ。おまえの家名はなんだ、言ってみるといい」
「そういうの嫌い。・・・そんなの、だって僕のじゃないもの」
家出中の息子は堪らず俯くような話だった。
けれどゾラの話はまだ終わらなかった。
「ああ。今はまだな。ガザウィン家の当主は、ハーザード氏だ。そのハーザード氏はおまえの父親だ」
「僕のことを嫌っている!」
母親の死を自分のせいであり、家族みんなが母を好きだったのだから自分を許すわけないのだという苦悩を抱えているカリスは、傷口を触れられそうになって顔色を変えて否定していた。
その様子を見たゾラはその先にはもう立ち入ろうとはしなかった。
ただし、代わりにこんなことを口に出した。
「俺はハーザードに頼まれて、その手に負えないドラ息子の様子を見てきたよ。息子に出す金は惜しまなかった。他には適任が見つけられないのだと俺に頭を下げたぞ。そういう親ばかなら、息子が家に戻って頭を下げて求めたとき、どれほどの協力をしてくれるだろうね」
意味深げに、ゾラの言葉は途切れていた。
彼は結論までは言ってくれなかったから、カリスは考えないといけなかった。
考えて末、
「ーーー協力?」
考えつかなかった発想だった。
「相互関係、助け合いさ」
教えられて、カリスは一瞬目眩がした。
けれど、ぐらつきが消えて再び目を開いたときには自分が今すべきことを悟っていただろう。
そうして、ここまでだった。
過去の時間に戻って繰り返す夢は今日はここで途切れていた。
カリスが夢から目を覚ましたときにはもう朝日は高く地上を離れて、明るい光が世界を包んでいる。
大きなベッドのなかに沈んでいた小柄だけれどしなやかな少年の身体が気だるそうに起きあがった。
まだ目はまだ閉じられたままだ。
場所はガザウィン家のとりわけ豪奢ななかの一室だった。
部屋の主である金色の髪の少年はベッドで上質のレースも恥じるような白い肌をした優しい少女のような顔立ちで、まるで広い部屋を華美になることなく上質に装う厳選された上等な調度の一部、美しい陶磁の人形のようにも見えた。
「まだ眠いのに・・・」
ただしこの人形は口を開き、家出さえを企てたことがあるいわく付きだった。
不満を唱えた声は、高く澄んでいても少女でも人形でもなく、彼が生きる少年であることをうかがわせる何かがあった。
「おはようございます、カリスさま。遅くまで本を読んでいられるからですよ」
「一昨日は一晩中起きていたけど、昨日は普通に寝たよ・・・」
朝を告げに現れた屋敷で働く侍女に文句を言ったが、こんなことは毎日だった。女の方も明るく聞き流して、まだ眠りのなかに漂っていたいと目を開けないカリスの身体の上から掛布を剥いでしまった。
こうしてしぶしぶと、カリスの遅い朝がはじまっていった。
いつもと同じような朝だった。
晴れてはいるけれど、だからといってそれだけのこと。退屈で、明るすぎてしまいカリスが少し憂鬱になるような朝だったけれど、カリスの予想と違って決してつまらない日にはならなかった。
それは午前中の勉強の時間をつつがなく終えて、お昼ご飯を食べて午後の予定がはじまるまでを自室のソファーの上で豪華な彩りのクッションを抱き、しどけなく過ごしていたときだった。
「僕にお客?うん、会うよ」
相手が誰なのか要領の得ないのは、この使用人が屋敷に来たばかりで仕事に慣れていないから、だとカリスは思い、お客とはたぶん本屋だろうと自分で予想をつけていた。
見つからないのは覚悟するから、探すだけでも良いから探してよと出入りの商人になんとか頼み込んでいた。父の古い友人だという老人は渋りながらも最後には骨董市に行ったときにでも探してみようと頷いてくれたのだ。その古い本の結果がやってきたのだろう。
たぶん、無理だったんだろうな、と考えるカリスの応接間に向かう足取りは重かった。
「お待たせしました」
カリスは社交的な笑顔を浮かべて部屋に入っていった。
奥の窓際に立っていた人影が驚いたように勢いよく振り返っていた。
一瞬、カリスの息が止まった。
カリスを見つめていた。カリスは見つめた。
カリスはあんまり驚きすぎて、すべての言葉を忘れてしまったのだ。
最初は、そのうち偶然に会うことがあるかもしれないと考えていた。再会を夢想して、何度も会話の練習を頭の中でやっていたのだ。幾通りのパターンを想定して、どんな言葉が聞かされても上手く答えられるように。
でもそれはカリスにとってとても昔のことになっていた。
偶然なんてそんなに簡単にあるものじゃないと考えだし、もうこんな虚しいことは考えまいと思うようになってしまっていたから。そんなタイミングだったのだから。
古い練習した言葉の一切がカリスに戻らなかったのだ。
無言のままで立ちつくすカリスにガレは記憶のままの低い声は彼らしく不機嫌そうに
「・・・おい、なんだよ、それ・・・もう俺のことなんか忘れた、とか言うのか?」
自分の沈黙など余所に置いて、ガレに最初に出てきたのはこんな文句だった。
どちからも喜びの声があがらなかったことが腹立たしかったのだ。
そうして睨むようにしてガレは、部屋に入っても帽子を脱ごうとしない聞かれても名乗りもしなかった獣人の少年・ガレは屋敷の一人息子たるカリスを見つめて顔を顰めて見せた。
それがカリスの呪縛を解くことになった。
「半年、だよ!」
カリスの感極まった高い声だ。
「忘れるわけないよ!半年だよ、半年も経っているのにっ!もうガレには会うことはないのかと思った。ガレは冷たい、会いにも来てくれないんだって、もうこんなの、信じられないよってっ!ーーー」
カリスは一息に叫ぶとガレに駆け寄っていた。
「遅いよ、ガレ!」
「それは、さ。・・・だってさ・・・」
訴えられたガレは少し戸惑って何かを言おうとしたが結局言葉に上手くまとまらずに「ごめん」と小さく謝った。
カリスは腕を伸ばして外套ごとガレを抱きしめていた。
ガレだった。まさにこれはガレだ。外套の下で動いているその気配はガレの艶やかなしっぽだ。カリスの会いたかったガレなのだ。
「遅いんだって、もうっ・・・」
ぎゅうぎゅう抱きしめてその間、カリスの好きなようにさせていたガレがそっとカリスの力が弱まった頃合いを見計らって腕をカリスから引き抜いていた。
そして、今度はガレの番だった。
「おまえ、少し、背、伸びたんだな・・・」
ぐっと力を込めて抱きしめた身体は、一緒に旅した時と比べて大きくなっていると感じた。
「信じられないよな・・・本当にニンゲンで、カリスの臭いだ・・・」
それが自分の腕に収まっているのだ。
ガレの感激に震えた声に、カリスは涙ぐんでしまった灰青色の目を優しく細めていた。
「信じてよ。僕は信じているよ、夢じゃない、本当にガレだと、ね」
そういうカリスだったけれど、本当に信じても良いのか不安になるような大きな素晴らしい喜びだっただろう。
午後からの予定は古典を学ぶものだったが、講師の先生ももう屋敷にお見えになっているため、カリスは休まなかった。
休みたかったけれど、でもそのかわりにガレが、その間も側にいると言いだしてくれたためにカリスは承知したのだ。
つまり、ガレも一緒に講義に出てくれたのだ。カリスから少し離れてぽつんと座っている少年。旅支度のままで部屋の中でも帽子をかぶりっぱなしだった。大人しく無言でカリスが講義を受けている様子をじっと眺めていたが、これには老講師の方がとても気になったのだろう。落ち着かない様子で何度かガレを横目で見ていたが、最後には「今日は特別です」と授業を少し早めに切り上げてくれて、カリスはこの老人が急に好きになったほどだ。
そのあと、カリスとガレはカリスの部屋でやっと二人で落ち着ける時間を持てることができた。
ガレも最初はカリスの部屋の中を珍しそうにキョロキョロしていたが、しばらくすると絨毯の上にどっかりと腰を下ろして、外套と帽子も脱いでいた。
待っていた時間のはずだったけれど、いざ目の前に広がると沈黙が生まれていた。
ガレは元々、無口で言葉が少ない。
ここはカリスの家なので、カリスは自分が気を利かせないといけないと考えた。
「・・・ガレ、僕の家、話していなかったけれどよく・・・わかったね・・・」
するとただの沈黙だったのに、不機嫌さが加わったような空気に変わってカリスは焦っていたが、ガレは大人で、カリスが恐れた冷戦状況にはならなくてホッとしたのも一瞬だった。
「わからなかった」
「・・・うん」
「ああ、なにもわからなかったぞ、最初。俺はどうして檻から出られたのか。出るときは市場の競りかなんかだと思っていたけどそうじゃなかったんだよな。俺が出たときは夜中で、そのあとすぐに水場に連れて行かれて洗われて、きれいな服まで着せ替えられた。そのあとどうなるのかと思ったら、どうもならなかった。気取った帽子を被った男が俺の前にやってきて、首に飾りを付けた」
ガレは自分に起こった出来事を、丁寧にカリスに話して聞かせた。
暴れないで、危害を加えないから。と、丁寧な言葉でニンゲンはガレに言い、ガレは従ったからではなくただ気力が湧かなかったのだと言う。食べ物は投げ込まれていたけれど、十日ほどを檻の中で過ごしたあとだった。檻から出されたと言ってもこの時、壁に囲まれた部屋の中であり腰や手に武器を持った男達が何人もガレを取り囲んでいた。
ガレが暴れたら鎮めるために厳つい男達ばかりだったのだろう。
そのなかで一番ひ弱そうだったのは、帽子の男であり、けれど一番部屋で強い立場にあるのもこの男だったのだ。
「怪我はしていないと言っていなかったかね?これから先、彼を殴る場合はこちらの許可を得てからにしていただこう。かれはもうこちらの物だ」
ガレを目にして最初にまわりの男達に言った言葉がこれだったのだから。
ガレには初めての場所で、全員がはじめて目にする顔であり、ニンゲンだった。
あの夜にガレを襲った四人組のハンターはもういなかった。
「ガレくんだね」
と改まって聞かれて、ガレは頷いた。
否定する理由も思いつかなかったから。
そのあとガレを持っていた展開は、奇天烈だった。
ガレはそのときを思い出して頬を歪めていた。
「紙をもらったんだよな。そうして、それは強い武器になるから大事に持っているように。何か困ったことになったら取り出して見せれば上手くゆくこともあるだろうから。俺を助ける物だって言ったんだ。そのあとはどうなったと思う?」
「・・・さあ、わからない・・・」
尋ねられて小さな声で答えたカリスは、笑顔が消えて困ったような顔になっているとガレは思った。
「じゃあ、さよならって言われたんだ。全然わけわからないよな。その紙に書かれている文字だって、俺が読めるもんじゃなかったし。で、読める奴、仲間を探してやっと書かれている内容を知って、ここの場所も知った」
不機嫌な調子でガレの言葉が終わって、再び沈黙が訪れていた。
「なんか言えよ」
今度はガレが静寂を破った。
ガレの前で、同じように絨毯に直に座っているカリスはとても縮こまっている。表情も緊張を隠せないでいた。
「・・・ガレ、怒ってるの・・・?」
やっと紡がれた言葉は怯えているようだった。
「大事にしろって言われたものがさ、所有書なんだもんな。俺はガザウィン家の正式な所有物だって書いてあってさ、なんだこれ、ってかんじ。俺は俺のものじゃないか。それなのにいつの間にか、ガザウィン家のハーザードって奴の所有財産で、その所有証明書を俺は大事に持たされていたんだよな。ハーザードて奴をこっそり覗いてやろうと思ったら、おまえがいた」
「・・・ガレ・・・ごめん。他にどうしていいか、わからなかったから・・・」
「あのあとおまえ、どうしたんだよ。・・・こうしているんだから、ちゃんと家に帰れたんだよな?」
心配そうな声音になったガレに、泣き出しそうな弱い笑顔をカリスは浮かべた。
「迷っていたら、ゾラが来てくれた。ゾラが僕を家に運んでくれた」
「ゾラ、ゾラ!!」
叫ぶように言ったガレはこれ以上ないほどの仏頂面になっていた。
「化け猫のゾラ、っていう有名な奴だった、俺達のなかでは!でも俺はそんな奴、知らなかったって言ったらさんざん笑われたぞっ。腹が立つ、そうならそうって一言言えばいいのにさ!」
ゾラの悪口に言葉を荒立てて行くガレの前でカリスはますます背を丸めていた。
「ゾラが化け猫なら、おまえは猫かぶりだよな!」
「えっ?」
いきなり自分に話を振られたカリスは驚いた。
「そうじゃん。分厚い皮被ってるよな!」
唇をにっと吊り上げると、ガレは断言していた。
でもその口調にカリスは笑顔になれたのだ。
明るい笑顔だった。
「ガレは野良猫だ!じゃあ、みんな猫だったんだね!」
「猫、猫、猫。野良猫、化け猫、猫かぶり!」
言ってガレが笑いだしたのは、ガレの言いっぷりにカリスが吹き出したのと同時だった。
「でも俺は、もう飼い猫」
「怒ってるよね、やっぱり」
大きな緊張は解けたけれど、カリス自身がされて気持ちがよいことではないと感じているから苦笑が浮かんでいる。自嘲かもしれない。
「よくわからない。これから俺はどうなるんだ?」
しばらく前までは、考えられなかった。
ニンゲンに囚われて家畜のように所有物にされるなどありえないと思っていたけれど現実は代わってしまった。でもその相手がカリスだと考えたとき、自分はどうあればいいのかわからないのだ。
「同じだよ。このまま同じ・・・。でもガレの持ち物には紙と首の輪の荷物が増えてしまったけど」
それから、カリスは低い固い声になって伝えた。
「獣人を所有する所有書は有効期間があったの、三年。三年後にも父に頼んで更新してもらうつもりでいる。ガレは嫌かもしれないけど。ガザウィンに一目置いてくれる者だったら、父の報復処置を恐れてガレにあまり迂闊に触れないと思うから」
「おまえ、ほんと、なんか旅の時とは別人みたいな感じだよな」
「それはきっと家の中にいるからだよ。ここは父の家で僕はその息子だから。旅の時は僕はただのカリスでいられたけど、それはもう終わり。家出もおしまい・・・家出はもうしないと約束したんだ」
「それは俺が捕まって、俺のことをおまえの親父に頼んだからか?」
ガレの想像は正しいと、カリスは頷いた。
「うん」
薄い笑顔で困ったようにでも、見た者が心を傷めるような悲しげな色は見あたらなかったのだ。
「でね、だから・・・僕はガレと楽園に行くことは出来なくなっちゃった。ごめんね」
躊躇ったあとに、気になっていたことを尋ねていた。
「ガレはこれから予定通り楽園目指して行くんだよね?・・・するともう会えないのかな・・・でも行ったきりとかじゃないよね、たぶん。ときどきは帰ってくる予定は・・・あるよね?」
「楽園ってさ。おまえ、本とかいっぱい読んでそうだよな。あると思うか?」
ガレはカリスの部屋の壁を占める大きな本棚を眺めながら言った。分厚い本や、ガレには読めない文字が並んだものもぎっしりと並んでいるのだ。
「え、それは・・・わからないよ・・・」
「素直に言えよ、思っていること」
「・・・あるとしても簡単には見つからないと思う。簡単に見つけられるものならもうみんなに知れわたっているかもしれない」
「・・・うん。そうなんだよな、口々に唱えて目指すようなことをみんな言っていたけどさ、俺もきっと夢話でありはしないと思う」
他人事のように淡々としゃべるガレを励ます言葉をカリスは上手くは見つけられなかった。
「なあ」
ガレが、再び書架からくるりとカリスに向き直っていった。
「広いよな、おまえの部屋。明日まで隅っこにでも泊まっていいか?」
「えっ」
カリスはガレから跳びだした想像もしていなかった言葉に目を丸くしていた。
「だから、嫌なら別にいいけどさ。俺急いで行くところなくなっちゃったんだから。だから・・・」
だから時間あるし・・・。ガレの決死の言葉に、カリスが首を横に振るなどありえなかった。
「おまえって、俺の飼い主なんだ」
「ち、違うよ。僕じゃないよ、僕の父だよ、僕には実際、そんなお金なかったもん!」
ガレを買い取るほどの金額は実際、カリスには簡単に出せなるものじゃなかったのだから。
それに飼い主などという言葉は悪人と同じ響きを感じるカリスは懸命に否定していたが、ガレは言った。
「俺は、どうせなら、顔も知らない奴よりかおまえの方がいいけどな」
「・・・そのうち僕に代わる・・・」
ガレの割りきりの良さに反して、カリスは釈然としない表情で現実を認めて告げていた。
「よくわからないけどさ、俺、結構嬉しいかもと思う」
「・・・なにが?」
「一緒に笑っていられること。だったらさ、あとはいろいろ我慢できると思った」
ガレは怒ってもいないけれど笑ってもいない、真面目な顔になっていた。
「きっと、全部は無理だよな。全部嬉しいことってあり得ないよな。・・・なら俺、これで満足かもしれない」
これが半年の間にガレが見つけたものだった。
一人で山ほど考えて、自問自答ももう飽きてしまったのだ。
だからカリスを前にしても、ガレの予想以上にすんなりと言えた。
カリスは目を見張ってガレの言葉を聞いていたけれど、そのあとくすぐったそうになってうつむいていた。
「そうだね。僕もそう思う。きっとこれで平気かもしれない」
家出をしたカリスにとって、戻ることになった家において心にある不満も問題も一切がそのままで解決されたわけではなかった。
けれど、カリスを好きだと言ってくれるガレが一人でも確かに、贅沢を言うなら自分の側にいれば平気、とカリスも思ったのだ。
なら寂しくはないと。
カリスはもう家出はしない。
父親の条件だったから。ガレの所有書を更新してゆくことの。
そのためには少なくない費用が必要となるけれど、その金額がガレの自尊心を傷つけていても、ガレの身の安全を守る働きにもなるのだから。
ガレもカリスも、よくわからなかったけれど他には思いつかなかったなら。
首輪をつけたガレは、カリスの家にときどき出入りすることになる。
カリスは友人として愛想の乏しい黒い帽子の者をいつも歓迎し、新しい使用人などは眉根を潜めたけれど。
そこはカリスが逃げ出した家だった。
しかしガレが探していた楽園でもあったのだ。
旅のはじめに目指した場所とは違ったけれど、二人の楽園になったのだから。
二人は楽園に辿り着きましたーーー。
どこが、楽園かと言う人がいるかもしれない。
けれど二人が辿り着いたところだって、ある意味、ささやかで現実的な楽園なのだと思います。
長めのお話に、最後までお付き合いくださりどうもありがとうございました!
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