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野良猫物語  作者:
5/7

ガレとカリスと、ゾラの物語 5

「ゾラのお兄さん・・・」

 言って、うふふとカリスが意味ありげに可愛らしげに、笑いだしたのだ。

 それまでのとりとめのない話題も尽きてしばらく黙っていたカリスが、何事かを見つけてしゃべり出したと思いきや、ゾラのことを“おじさん”ではなくこんな風に言ってのけた。

 呼ばれた本人以上にその猫なで声に警戒したのは密かにガレの方だったかもしれない。

 その後いったい何が続くのだろうかとドキドキしながら横目で、隣を歩く黒い出で立ちの男とその背中に収まる青い上着の少年いう二人の様子をうかがっていた。

「お兄さん、僕、凄いの見つけちゃったよ!」

「なんだ、こら、てめえ。言いたいことがあるならさっさと言え」

 ガラも悪くドスを聞かせたゾラは言うと、カリスは素直に頷いたのだ。

「うん、なら言うね」

 ガレの心臓はとても高鳴っている。カリスは果たしてどんなことを言い出すのか。

「ゾラお兄さん、禿げてるんだね!」

「はあ、ハゲ?」

 思わず口に出して驚いてしまったガレは一瞥を送られ慌てて視線を逸らした。

「禿ができてるよ。あ、二カ所もだ。お兄さんったらこれだとなんだか“おじさん”みたいだよね」

 鬼の首を取ったようなカリスなのだと、ガレには断言できた。

 知ってしまったカリスはこれから先、さぞかし心配している風に装いながらちくちくと脅かしていくのだろう。

 しかし、展開はガレの予想と少し違ったものになっていた。

「・・・ああ、情けないなあ」

 一つ大きなため息と共に嘆いてみせたゾラだった。

 文句を言うではなくて、身構えていた二人の子どもはおやっと思っただろう。

 要するに。ゾラはやはりカリスより上手だということだった。

「こういうとき、大人の知性を持つ者なら決して口に出すことはないんだろうが、子どもは馬鹿だから。馬鹿で考え無しで無神経だから!ひとのハゲ見つけたぐらいで得意になるんだからな。ああ、本当に嫌だ嫌だ子どもは、恥ずかしくてっ!」

 ゾラの態度も結構大人げないものだとガレに思わせたが、カリスは反撃には走らずそれきり、ぶつっと口を閉ざしてしまった。

 休憩になるまで一言も口をきかなくてガレはとても退屈だったのだ。



「ねえ、ガレ・・・」

 ハゲ騒動の後、重たくなってしまった口をやっと開いたカリスだった。

「なんだよ」

 それだけでなんだか嬉しく感じるガレの声は少し弾んでいたが、カリスはまだ沈み込んだままのようだった。

「・・・ハゲが、ね・・・」

 ゾラのハゲに囚われてしまっているようだった。

「ああ、せっかくいい具合に証拠を見つけられたのに残念だったよな。あんなふうに子どもって決めつけられた言い方されちゃうともうハゲポイントはすっぱり諦めた方がいいだろうな・・・」

 他の攻撃が跳ね返ってこないところを探した方がいいかも、と言おうとしたガレを遮るように、違う、と首が横に振られていた。

 夕方になり、野営の準備に入って二人で焚き火に使う枝を雑木林に探している最中だった。ずっと背中にいたのでもう大丈夫と言うカリスに負けて、ガレとカリスは二人で探していた。

 ゾラは水を汲みに行き、戻って夕食の準備をしているところだろう。

「あのね。ゾラね、ハゲが・・・右側と左側にあったんだよ。普段髪で隠れていて見えなかったけど」

 今まで知らなかったけれど、今日足を怪我でおんぶされて間近に頭を見ることになってはじめてカリスは気が付いたのだ。

 カリスの話に、若そうなのにハゲてるのかとしんみり思ったもののガレにとってもゾラの頭は見下ろせる位置ではないので目にすることはできなかった。

「・・・へえ。二カ所ってのも派手だよな」

 神経質そうな表情になっているカリスに、ガレは正直よくわからなかった。

「だけどそんなに心配しなくても・・・うつるもんじゃないし、年とってみんな禿げるってわけじゃないよ、だから」

などと言いながら、ふと気が付いた。このところ妙に自分たちはハゲに縁があるのだ。

 ガレの黒狐の帽子の下にも恥ずかしくて見せられないハゲがあることになっているのだから。

 ハゲを隠すために貰ったガレの黒い帽子は、本当はハゲではなく二つの黒い猫耳をニンゲンに見られないようにするためのものだけれども。

 嘘も方便のガレとは違って、ゾラには本当にハゲがあるわけだけど、にょきっと突き出る耳ではなく生えていないハゲは、考え方を変えたときマシじゃないかとガレは思った。

 猫耳がバレたとき身の危険に陥るけど、ハゲでは迫害はないはずだ。

「そんなハゲを気を病むなんて変だよ」

 ところがカリスは激しく首を振った。

「違うもん!そもそも、僕の家系だとハゲじゃなく白髪になる方だよっ!そういうことじゃなくってっ」

「じゃあ、なに?」

 もどかしそうに上目使いでなにかを訴えられているが、はっきりいってくれないのでガレだってもどかしい。

「だから、ね・・・」

「だから?」

「・・・だから・・・。ガレはその、なんにも感じないの?」

「なにを?」

「ゾラについてだよ、ゾラについてなにか・・・」

「若ハゲ?可哀想だとは思うけど」

「もうっ・・・もう、いいよっ!」

「なにそれ?」

 短気を起こして怒り出すカリスに、もう少しだけ気は長いと自覚するガレは首を捻るしかない。

「言ってくれないと、わからないって」

 すると、う〜ん、とカリスはしばらく唸っていた。

「もう、いいよ。だって自分でもよくわからなくて上手く言えないことだし・・・それにこんなの僕の考えすぎだって笑われそうなことだから・・・」

「・・・なら、いいけど」

 引っかかりが残っていたけど、二人の両腕いっぱいに薪になる木の枝は集まったのでゾラが待つ今夜の野営地に戻ることにした。

 空は夕焼けを通りこして藍色に暗くなりはじめていた。

 獣人であり、夜目も効くガレだからこれまではあまり気にする必要のないことだったけれど、今は違うのだ。

 ガレの共にカリスがいる。

 ただのニンゲンのカリスはガレと同じにはならない。

 このくらいで足に肉刺ができて、潰れて血が出るなんてガレには信じられない脆弱さけれど、焚き木採りは自分がやるから座っていろよと言っても聞かない意地っ張りさ。

 ガレは用心深くなろうとしていた。

 ゾラに言われて注意深く臭いを探って、革靴の臭いに混じる血も感じ取ることをしていた。

 そのガレの前で、カリスはなにか考え事をしながらそぞろ歩きをしていて、ガレは気が気でもなかったのだ。

 夜になりカリスにはあたりは見通せない。足は怪我をしている。足下には木の根や、石がゴロゴロしているというのに。

「カリス・・・ちゃんと真面目に歩けよ?」

「変なの。真面目に歩いているじゃん。逆立ちなんてしけないよ」

「逆立ちっ!おまえ、できるのかよ、そんなこと」

「できるよ!数歩だけど、ちゃんとできるよ、失礼だよ、ガレったら!」

「数歩なんて歩いてるに入らない、倒れるまでにふらついているだけじゃん」

「む。かなり失礼、じゃあガレはどれだけできるって言うんだよ」

「ははん。飽きるまでだ」

 身のこなしには自信があるし、体力も同族の同世代で比べたとき優れていると自負するガレは胸を張っていた。

 自慢ができることはいいことだった。

 良い服を着ていて、良い生まれのカリスに無意識に劣等感を持っていたのかもしれない。ガレに自信を持って誇れることは、こういうことだったから。

「俺は早く走れるし、長く走れる。垂直の崖もすいすい登るぞ、手も足も肉刺はできないぞ」

「・・・ガレ」

 嫌なかんじ、と言ってカリスはそっぽを向いたが、すぐにまたガレの方を向いていた。それほど嫌な感じだとは思っていない証拠だった。

 だから、ガレは続けていた。

「でもおまえは、別にいいじゃん。ニンゲンだし。肉刺ができたってゾラが、ゾラがいなくなったら俺が支えてやるし。気にすること無いんだ。俺は体はまだ小さいけどさ、おまえぐらい背負って歩けるんだよ。だから我慢してないで、こんどこんな風になったときはすぐ言えよ、いいな?」

 ガレはカリスを振り返りながら後ろ向きで歩いている。

 言い聞かせたかったから、もう自分の前で無意味な我慢などカリスがしないように。

 弱くて脆いくせに強がってみせるカリスは自分が守らないといけないのだと強く思っているガレはここが大事な踏ん張りどころだと、言葉を重ねた。

「おまえ、ニンゲンなんだし獣人の俺に頼ったってぜんぜん恥ずかしくないんだから」

「わっ」っとカリスが悲鳴をあげた。

「危ないっ」

 はっと思ったときには、ガレはバランスを崩していた。

 地面があると思っていたところに踵を置いてしまったガレは慌てて腕をばたつかせたが掴まるところはなく、落とし穴のようにくぼんだ穴に後ろ向きに落ち込むことになったのだ。

 たぶん、それだけでは問題はなかっただろうと思った。

 だけどカリスがいて、優しいカリスが支えようとガレの身体に腕を伸ばして、でも自分も不安定で一緒になってなだれ込んでしまった。

 穴にはまったガレの上に。

「い、痛ててっ・・・」

「・・・ガレ、大丈夫・・・?」

 呻いたガレから慌てて離れたカリスが心配そうに窺っていた。

「どうしたの・・・?」

「信じられねえ・・・」

 呆然と呟いたガレに、どうしたのかとカリスは顔色を変えていた。

「足を・・・挫いた・・・」

「・・・ねんざ・・・?」

 一瞬生まれた沈黙はどういう意味だったのか。

 ガレは慌ててカリスに言った。

「た、たいしたことねえよ!」

「本当に?」

 カリスの性格はこういうところにかいま見ることができるのだ。

 言葉を疑ったカリスは即座に動かされないで地面に置かれぱなしになっているガレの足を手にとってぐいっと足首を動かしたのだ。

「うぎぃぃぃぃぃっ」とカエルの潰れたような悲鳴がガレの口から飛びだしていた。転んだ上にカリスの体重が乗っかってしまって強く変な方向に捻ってしまった足首に、加えられたカリスの暴力―――愛情?

 そんなことをされるなんて思っていなかったガレの目には涙が滲んでしまったけれどカリスは

「ほら。嘘は駄目だよ、ガレったら、もうっ!」



 ガレは、ゾラに気づかれないようなるだけ平気なふりで歩いた。

 旅慣れている男に、転んで足首を捻ってねんざして、痛いのなどと自分は許されないだろう。カリスの状態に気づかなかったことだけでも呆れた目を向けられているのに、そのうえこんなことがバレると思い切り馬鹿にされるに決まっている。

 ガレのプライドに関わることなので必死だった。

 足を置くたびに痛みは走ったけれど、まあそれほど酷くもない。ましてカリスのペースに合わせて歩くぐらいことだから普通にこなせるはずと考えたけれど、とても甘かった。

「ガレ転んで、ねんざしたの!」

 カリスはゾラの背で歩かないなどという話でなく、もっと単純に、カリスがゾラの待つ場所に着くやいなや、明るく暴露してくれたのだから。

 ガレはカリスに文句を言う余裕無く青ざめていた。

 聞いたゾラは、頬を引きつらせたガレを見てため息を吐いていた。そして再びカリスに顔を向けると、にかっと笑っていた。

「良かったなぁ。負傷者が二人になって仲間ができたわけで嬉しいんだな!」

「うん!」

 満面の笑顔で答えたカリスに、そういうことなのかとガレは複雑な気分に陥っていた。

 その複雑さが祟ったわけでもないだろうに、その後ガレの具合はどんどん悪くなって、ゾラが作った夕ご飯を食べ終わった頃には身体を起こしているのが辛くなったほどだった。

「どうしたの?」

「・・・いや、べつに。ただちょっとだるい・・・」

「ねんざしたせい?」

「そんなことはないと思うけど・・・。なんか、寒気もする・・・」

「大変だ、足首から悪い菌が入ったんじゃないの!?」

 半日ゾラの背中で、歩いていなくて疲れていないことに理由があるのだろう。食べてすぐ、眠り出さないカリスのかわりにガレがずるずると地面に横になってしまった。

「大変だよ、お医者に診せないと・・・」

とまで言ったが、ガレを気安く街の医者に診せられないと気が付いたカリスが、どうしようと悲壮な顔になっていた。

 その横にしゃがみ込んだゾラが、ひょいと腕を伸ばしてガレの額に掌を当てていた。

「熱。鼻水も出ているようだし、おおかた風邪でもひいたんじゃないのか。普通な、足首から悪い菌と騒ぐ前に考えることじゃないのかね?」

「風邪?」

 驚いたように繰り返したカリスはすぐさま同じようにガレの額に触って、大きな声をあげた。

「わあ、本当だ、熱いよ、ガレ。熱があるよ!」

「・・・そんなはずない、俺、丈夫なのに」

「丈夫だと赤い顔をして口を尖らしても意味はねえな。まったく。そっちもこっちもお子様にはお兄さまは困っちまうね」

「・・・」

 呆れた口調のゾラに、ガレは小さく謝っていたがカリスはとても楽しくてしかたないと上機嫌だった。

「頭を冷やさないとね」

「こら待て」

 首に巻いていたチーフを外して、そそくさと立ち上がったカリスをゾラが引き留めていた。

「どこいくつもりだ?」

「だから。小川に行って水で濡らしてくるんだよ。ガレの熱、冷やさないと」

「暗くて見えないだろうが。危なっかしい。おまえもすっころぶのがオチだろ」

「でも・・・」

 恨めしそうに言うカリスに、どっこらしょと腰を上げたゾラがカリスの手の中にあるチーフを取り上げた。

「大人しく待ってることぐらいはできるな?火があるから滅多なことにならないとは思うが、そのくらいは動けるな?」

 前半部分はカリスに、後半はガレに向けて言い二人はそれぞれ頷いていた。

 黒い衣服を着るゾラの姿はすぐに木立の奥の闇にとけ込んでゆき見えなくなった。

 カリスの横に再び腰を下ろしたカリスが、大丈夫、とガレの顔色を窺っていた。

「大丈夫だよ、こんなの。大げさなんだから・・・」

「おでこも、ほっぺもとても熱いよ」

 遠慮無くカリスの細い指が自分の肌を触っていて、ガレは少し緊張したがあまりに普通なカリスの態度に身体にこもっていた力は抜けていった。

「おまえ。ほんとぜんぜん、気にしないんだな」

「なにを?」

 めくれていた毛布をきちんとガレの身体の上に広げ直していたカリスは不思議そうにガレに灰青の瞳を戻した。

 ゾラは今、小川に水を汲みに行って、いなかった。

 気持ちよいな風が吹く穏やかな夜だった。

「猫とか・・・そういうことだよ」

 小さな声に、驚いたようだった。

「気にしてるよ、とても。でも、そんな風に言われちゃうとこっそり触れないじょないか・・・しっぽ・・・」

 看病していて、ガレが眠ったらこっそりしっぽ触るつもりでいたのに、と笑ったカリスに

「触りたいならさ触っていいよ」

「どうしたの急に、風邪引いて心が弱ったの?」

 首を傾げられてガレは苦笑していた。

「おまえが俺と一緒にいる理由ってそういうことだろ」

 しっぽが触りたいから一緒にいる。

 少し思ったのだ。じゃあ、しっぽを触ってしまったらどうするんだろう。

 ガレといる意味はなくなってしまうのではないか。

 家出の最中のカリス。

 家に戻りたくないのだろうけど、ガレである必要はないのでは、たとえばもっと頼りになるゾラにくっついていってもいいはずだった。

「触らない」

 カリスは首を横に振った。

「どうして」

 ゾラが現れてから一言も口にはしていなかったけれど、触らせろと騒いでいたはずだ。

「だって、ガレ触って欲しくないって顔しているもの」

「そんなこと、ない」

「ううん。そういう顔してるよ。なら触らない」

 汗を拭いてあげるよ、と返事を待たずにさっさとガレの襟を広げて拭い出すカリスの手にも、身体が重く、カリスの言うとおり風邪で心が弱ったガレはさせるままで地面に転がっていた。

 ニンゲンなんかに触られるの嫌、などというのはもう違う気がした。

「だから見ているだけ」

 ぱかっと頭から帽子を取り上げた。風が入って汗で濡れる黒い髪の間に猫の耳が二つ生えていた。

「ゾラがいないうちにちょっと通気しないとね」

 耳の付け根が涼しくなって気持ちよくて、無意識に耳が跳ねたようだった。

「わ、動いた!」

「・・・動くよ、そりゃあ・・・」

「でも、僕自分の耳、ぴくぴく動かせないよ。・・・動いても僕のだと、可愛くないけどね・・・」

 顔を顰めてみせるカリスに、もう何度目に口にする言葉だろうか。

「おまえ、変な奴」

「そう?気のせいだよ」

「変だよ、絶対」

「そうかな・・・。でも別にいいでしょ?」

 尋ねられたガレは、一瞬考えてから。

「ああ。ぜんぜんいいよ」

 ガレの頭に帽子を戻した頃、茂みが揺れてゾラが帰ってきた。

 ガレの頭の上に濡らした布を置いて、ゾラから貰った薬草を飲ませたあとカリスも寝息をたてはじめたガレの横で丸くなっていた。

 今日は自分より先に眠ったガレを守るのだというように、カリスの片腕はガレの身体に伸ばされていた。

 仲の良い、好ましい関係を築いていると知れる二人だった。

 そんな様子をちらっと目を向けたゾラは、一つ静かにため息だった。



 獣人の子どもとニンゲンの子どもがままごと遊びのように仲良く遊んでいた。

 はじめは二人の間にあるものをまだ知らない、隠しているのかと思ったがそう言うわけではなかったようだ。

 子どもだからなせるワザ。闇雲な勢いによる思い切りだったのか、事故だったのかは知らないが、カリスは知った上でガレと付き合っているのだとわかった。

 ガレは典型的な獣人思考で、ニンゲンを恐れてビクつき怯えているのにカリスだけは側に置くことを良しとしているのだ。

 いったい二人の間に何があったのだろうか。

 ゾラには知り得なかったが、大人としてあることを教える役目にあるとは考えた。

“子どもたち、いつまでも遊んでいてはいけないよ。そろそろお家に帰る時間だ”。

 楽しいからといっても、おまえの足下にはやるべきことが積まれているだろう。

 果たさず放置しすぎたら、重みで地面は抜け落ちてもうその場にいることさえ出来なくなるのだから。

“坊やたち、遊びはそれまで。まっくら夜が来るまえに、さよならのキスをーーー”

 昔聞いた童謡の一節を思い出したゾラは、小さく口ずさんでいた。

 珍しくもない唄だった。ニンゲンの母親が背中でぐずる子どもに歌っているのをごく最近も聞いた。

 古くは自分の母親が最後の一人になったしまった小さなゾラが眠りにつくとき歌ってくれたものだった。静かな夜の中、この唄を子守歌に聴きながら・・・あの夜がゾラが母親と過ごした最後だった。

 そのとき自分はこのガレよりも、幼かっただろう。

 俺はよく、ちゃんと一人で生き延びられたものだ。

 一瞬くっと男の口の端が笑ったようだったがそれだけだった。

 怒りとも悲しみともつかない感情は消えてゆき、ただゾラは思い出した童謡を口ずさんでいた。

 しかしその低い声も、傍らで眠る子どもの耳には届くことなくパチパチと爆ぜる焚き火に掻き消されていった。



 朝起きたときには、もうすっかりとガレの身体は軽かった。

 熱くも重くもなかった。

 立ち上がってみると、痛みはほとんどない。足首のねんざもすっかり良くなっているようだった。

 目覚めたときは少し重かったのだが、それは自分の肩の上にカリスの頭が乗っかっていて枕にされていたためだけであり、それはそおっと脇に置いてやれば解決できた。

 けれど固い地面に置かれたカリスの方には不具合があったらしい。

 くしゃみをした。そして「・・・寒い・・・」と呟いて目を覚ますことになったのだ。

 そういえば温かかったとガレは思い当たった。

 身体を寄せ合わせて眠るなんて家族のようだとちらっと感じて、でもすぐに家族ではあり得ないのにとそんなことを考えた自分におかしくなっていた。

 とにかくこうして普段より早く目を開けたカリスは、身体を曲げ伸ばしする朝の体操をしているガレに気が付いて驚いた顔になっていた。

「ガレ!もう起きていいの!?」

「ああ。もう平気みたい」

 ほら、というとガレはその場でぽんぽんと跳ぶと勢いを付けて大きく、宙返りをして見せてカリスの目はまん丸になった。

「そう。すっかりいいみたいだね、とても早いね・・・」

 そして少し不服そうに

「僕の足、まだぜんぜんなのにっ・・・」

 小声でガレには聞こえないようにだった。

「狡いかもしれない・・・」

 でも聞こえてしまったようだ。

「なにが?」

「ガレが。しっぽもあるし」

「・・・狡いって、それって、・・・そういうことか?」

「羨ましい。・・・見つからないようにするのは大変なんだろうけど・・・だけど僕にも生えてきてほしいっ、生える薬があるなら僕は絶対手に入れて飲む!」

 冗談には聞こえないほど情熱がこもった言葉に、そんないいもんじゃないよ、と言いつつもガレは満更ではなくなってきて不思議だった。

 ゾラがどこか近くに散策に出ているので、二人だけだった。大人の目を盗んだ子供達の会話はだからとっても弾んだのだ。

 これはゾラには内緒の二人だけの秘密の会話だった。

 そのあとしばらくしてゾラが戻ってきて、簡単な朝食を食べて出発だった。

 ガレは熱も下がり足首に走る痛みも回復してすっかり元気に歩いていたが、カリスの方は言い分も口に出す前から却下とされ、ゾラの背中だった。

 昨日に引き続いてのことだったので、カリスも今日は「ええっ、またなの!」と口を尖らせた後は、比較的大人しく従った。

 歩くだけで必死にならなくてするので、道ばたには小さな花が咲いていたことや奥歯を噛みしめて歩かなくてもいいのでガレともおしゃべりが出来ることに気が付いたためかもしれない。ひき替えとしてはとても恥ずかしい気持ちも味わっていたけれど。



「よう。なに人の尻見てんだよ」

「見、見てないよ!・・・し、失礼な僕があやしい者みたいじゃないかっ!」

 ぼんやりと見ていたのは本当だったけれど、本当のことなので一層、ゾラに指摘されたカリスは真っ赤になっていた。

「触りたいなら、特別触らしてやらんでもないぞ、俺は心優しいお兄さんだからな」

「いっ、いらないよっ、変なことを言わないでよっ、ガレが僕のことを疑わしい目で見るじゃないか、違うんだからね、ガレ!」

 ガレにはいまいち、性格が良く掴めないカリスが真剣になって目があった自分に言い訳をしているのだけれど、別にお尻を触りたい云々を、本気にして話を聞いていたわけではない。ただ、また何をゾラと遊んでいるのだろうかぐらいだったが、カリスは不名誉な誤解を解くべく躍起になっていた。

「別に、そんなに真剣にならなくても・・・それにもし、触りたいと思っていても、俺怪しいとは思わないし」

「まあ、俺様の尻だけあって引き締まっていい具合だから衝動に駆られても仕方がないことだわなあ」

「・・・小さい尻だよね・・・」

「だろう、おまえ良くわかっているなあ」

「ゾラって、全身無駄な肉なくてバネのようなかんじがするんだ」

「いい感じだろ」

「・・・敵にしたくない感じ・・・」

 うっかり苦汁を舐めてしまったようにガレは言い、ゾラはガレからカリスを振り返った。

「まあ、そういうイイ尻だ。触るか?」

「もう違うっ!」

 カリスをフォローしたつもりだったが、ガレの言葉は逆効果になって話が弾んだ二人に、なんだかすっかりカリスは怒りを通りこして泣きそうになってしまった。

「信じられないよっ。どうして僕が人のお尻を触らなくちゃいけないんだ!」

 ぷんぷん、と口で言って怒ってみせるカリスはやはりガレにはどこまで本気でやっているのよくわからないのだ。

 だけど、カリスは実際触りたいなんてちらりとも思っていなかった。

 ガレのお尻なら別として、想像していたことはそこまではっきりと確信あるものじゃないのだ。だけどちょっとよろけたふりをして掴まって引っぱってみたら、ずるっとズボンが脱げないかなあと考えていた・・・それだけなのだ。

 思っただけで、さすがに実行を、とは考えていない。カリスだって守りたい体面があった。

 そんなことを昼近くまで歩いたあと、道の脇に置かれている大石に腰を下ろしての休憩の最中に、おしゃべりと興じていたカリスだったが、ゾラがうーんと、背伸びをしていた。

 そして「じゃあそろそろ行くか」と声をかけると、カリスの隣に座っていたガレが腰を上げた。

 カリスも一緒に立ち上がって少しよろけた。すっかり忘れていた痛みを思い出してそうして、ため息のあとはこれまでゾラにからかわれ、不服げに尖らせていた赤い唇をすうっと引っ込めていた。

「じゃあ、乗れや」

 背中にだ。

 ゾラがカリスの前にかがんで背を向けた。

「・・・よろしくお願いします・・・」

 さっきまで軽口に文句を言っていた相手に向けての言葉は、とても小さな声だったがガレはカリスのこういうところが好きだと思った。

 意地っ張りだけれど、見ているのも不快な類の嫌な奴ではないからだ。

 首に腕を回して、ゾラの背中に収まってゾラが立ち上がったときだった。

 そいつらがこっちにやって来ようとしていることにガレが意識したのは。

 緩やかに続く道が丘を越えたら街が視界に入ってくる場所まで来ていた。

 人や荷馬車の往来も増していたが、非常事態ではないならガレも気にしないで普通にしていればいいことを学び、実行することにもそろそろ慣れてきたから、その男たち四人の集団にもあまり緊張感を感じてはいなかったのだ。けれど、気が付いたゾラの背中のカリスが強ばった声を出したのだ。

「ゾラ、走って!嫌な奴たちが来るっ!!」

「嫌な奴?」

 驚いたガレがカリスの顔色を見てただごとではないと確認すると、その男たちの方向に目を向けた。

 同じマントを着て似たような感じの男たちは徒歩ではなく、騎乗だった。

 馬は距離を詰めることなくその場所で足を止めていた。

 男たちはこちらを認めて、なにやら話がされているのだとわかった。

「早く早く、奴らに捕まっちゃうよっ」

 反応の鈍い突っ立ったままにいるゾラの背中でカリスが暴れていた。

「おまえ、なんか悪さをしたのかい?」

「違うっ、僕を閉じこめようとするんだ、家の中にっ、連れ帰ってまた鍵を掛けるつもりなんだ!」

「鍵とは、また物騒だねえ・・・」

「だから早くっ、じゃなきゃ、降ろしてよっ!!」

 藻掻いてゾラの背から降りようとカリスは躍起だった。しかし、危なげなくしっかりと支えて歩いていたゾラの腕は今はカリスの邪魔をしていた。

 訳もわからず暴れ出すから、落っことしそうで力を込めたという雰囲気だったが、ゾラよりもいくらかはカリスの事情を知っているガレも男を説得しようと助け船に入った。

「ゾラ、カリスは捕まっちゃうんだ!」

「なんでだい、ははん。よくある、家出か?」

 馬鹿にしたようなゾラの言葉にカリスはさらに声を荒げた。

「そうだよっ、あそこに僕はいるべきじゃないから出てきたんだ!」

「カリスには大きな事情があるんだ!無理矢理、連れ戻そうとするなんて、やっぱり奴らは横暴なんだ!!」

「無理矢理・・・横暴って、それは一概には・・・」

 ゾラが少し困ったような声を出した。

 降りられず、背中に繋げられているカリスが悲鳴をあげていた。

 ガレもカリスが見たものを目にして慌てた。

「あいつら動き出した、ゾラ、駄目だ、早くしないと!」

「・・・わかったよ。ーーーおまえ、ちゃんと付いてこいよ」

 一言を傍らのガレに言い置いて、そのあとゾラは早かった。足下に置いてあった荷物を引っつかんで一蹴りで道から跳びだしたのだ。

 脇の手入れのない草地はその奥の雑木林に繋がっていた。山を開いた道だったから、少し逸れれば本来の手入れのない自然のままの横断の厳しい広がりだった。

 そこに、ゾラは走り出したのだ。

 ガレもすぐに続いた。

 ゾラは身軽く、ガレが警戒心を抱いた通りの、いやそれ以上の身のこなしでカリスを背負って走って行く。

 ゾラの走りには舌を巻く思いだったが、すぐに気分を切り変えて全力でガレも走って、遅れずにちゃんと続いた。

 馬の走る速度に二足歩行者が勝てるわけがなかったが、狭くすり抜けなくてはならない足元も悪い山道は、馬ではなくガレの十八番だった。

 こうゆう場所を上手く走り抜くガレだからこそ生き抜いてこられたのだから。

 後ろで馬のいななきと踏みならされる馬蹄の音、男たちの怒声、叫び声が聞こえたがそれだけだった。

 ガレと、ガレの前をカリスがしがみついているゾラが崖を飛び越え、岩面を這い上がって飛び降りて走り続けて、男たちが付いて来るなんていう心配な気持ちは熱くなった身体から滲みだした汗と一緒に次第にガレから消え去っていったのだ。



 ガレが息切れをし始めたほどだった。

 獣人の自分が。

 ニンゲンで、大人であるけれどゾラに遅れないように走るだけでどれほど懸命にならなくてはいけなかったか。

 これが自分を追いかける、ハンターだったら・・・。

 考えずにいられなかったガレが、その結果、汗ばんだ背筋がぎゅっと凍りかせることになった。

 ガレは不安で堪らなくなって尋ねていた。

「・・・ゾラって、・・・どういう人?」

「こういう人だが、いきなりなんだ?」

「どういう職業・・・どうやって食べているのかなって思ってさ」

 黒い大柄の長身。

 腰には幅の広い剣を吊している。

 身軽すぎるほど身のこなしの良い男だった。

「誰かに、仕えているとか?」

 探りだった。相手の素性、人柄は嫌いだとは思わなかったけれど、その人格が植わっている物があまりに優秀だから、恐怖感が生まれてしまうのだ。

 本当に、無防備に自分は側にいてもいいものなのだろうか。

 それまでは上手くやっていても、一転、なにかを切欠にして不仲になってしまうことは往々にしてあることだろう。

 そうなってしまった場合、この男は危険すぎないだろうか?

「ガレ、どうかしたの、怖い顔をして」

「ちょっとさ。気になっただけだよ・・・」

 ガレと同じ黒い色の髪のゾラの頭の横からひょこっと金色の一回りに小さい頭が覗いて心配そうな顔をしていた。

 まだ背中に負ぶさりっぱなしでいたカリスが、ゾラに頼んで地面に降ろしてもらった。

 走り続けて山の中腹で倒木のためにぽかりと開いた場所でしばらく休憩することになって、思わずその場に座り込んでしまっていたガレの横の下草の上にカリスもお尻を降ろした。

「ここらにいろよ。俺はその辺でも見てくる」

 うんと少年二人が頷くのを視界の縁に納めたあと、けろりとした顔で遠ざかって行く黒い背中。

 声が十分届かないところまで見送ったあと、ガレが硬いままの表情で口を開いた。

「あいつ・・・凄いよ」

「うん。僕もそう思った。どんどん走るの。僕を背負っているのにね」

「・・・俺、あいつ、怖いと思ったんだ」

 ガレは吐露しながら、こんなことを誰かに口にしたことなどなかったことに気が付いていた。

「・・・うん・・・」

 ニンゲンのカリスはガレに、静かに頷いた。

「最初、良い奴だと思ったけど・・・違う、今だって悪い奴とは思っていないんだ、だけど、さ・・・凄く怖い」

 こんなことは言わない方がいいのかもと、ちらっと思ったけれど真剣な面持ちで自分の話を聞いてくれているカリスに対して甘えだったのかもしれない。

 ガレの恐怖感に負けた弱音だった。

「・・・俺、あいつの近くにいたくないって気がするんだ・・・」

「・・・そうなんだ。ガレはゾラのこと好きなんだろうと思っていた」

 カリスは考え考え、そんなことを言った。

「どうして、そんな・・・」

 驚いたガレに、よくわからないけどと、慌てて付け加えたあとに

「なんとなく、そう思っていた。・・・やっぱり僕の気のせいだったのかな・・・。ガレとゾラは少し似てるかなって思っていたんだ」

 う〜んとカリスも悩んだ顔になっていたが、ガレの不安そうな視線に気がついて明るく気分を変えた。

 暗い表情のガレと二人、暗い顔を突き合わせていても良いことなんてあるわけがないだろう。

「じゃあ、ゾラを置いて二人で行っちゃおうか?」

 くるくるとした大きな瞳を悪戯っ子ぽい光にきらめかしたカリスがなんでもないことのように、ガレが少し怯むようなことを提案した。

「・・・それは・・・酷くないか・・・?」

「でも、ガレ、嫌なんでしょ?」

「嫌ってわけじゃないよ・・・怖いだけだ。怖いっていっても、俺の方の気分的な問題でさ、・・・俺が悪いだけであいつが悪いわけじゃないんだ・・・」

 良いとか悪いとかではなく、嫌なら仕方ないのに、と思うカリスだったけれどガレは同意はできないようだった。

「なら、平気?このままでいいの?」

 確認すると

「ああ。平気さ」

 ガレは頷いた。

 ガレにとって、怖いけれど逃げ出す理由にはおかしいと思ったし、その他にはゾラはとにかくもう少し一緒にいた方がいいと考えた。

 なぜなら、ゾラだったらカリスは素直に背中に乗るようになったけれど、自分が背を向けても無理だろう。

 まだカリスの足の肉刺が完治しているわけがなかった。そのうえ、ゾラと離れればカリスに一番負担が押し寄せるのだろうと思うから。

「ほんとに、いいの?」

「いいよ」

 繰り返して確認するカリスにガレはもう一度はっきりと、力強く頷いて見せた。



 ゾラに対して、ガレの気持ち的な不安要素だけが問題ではないことに、すぐに気が付くことになっただろう。

 それは、ゾラが夕食を食べている最中に言い出したからだ。

 豆を発酵させて作られるという“味噌”という東方の貴重な調味料を味付けに使ったというゾラのシチューはとても美味しくて、ガレもカリスも言葉少なになって夢中に匙を運んでいるときだった。

「おまえは、いつまで家出をしているつもりなんだい?」

 いきなりで、何気ないどちらかといえば、どこかおもしろがっているようなゾラの声だった。が、言われたカリスの手はぴたっと止まっていた。

「関係ない」

 普段の柔らかさも甘さも刮ぎ落ちた低い声だった。

「まあ、そう言えばそうだけど、あると言えばあるだろうよ。追っ手が現れて山の中走り回されることになったんだから」

「・・・それは・・・感謝してる・・・」

 笑っていないときのカリスは別人のように体温の低い堅いしゃべり方をするのだ。

 山野を走ることに関して、カリスよりガレの方がゾラと対等に近くあれたが、会話となったときはカリスだった。

 きゃーきゃーはしゃいでいるときとはガレより小さな子どもでも、いったん気分を落としてしまい、大きな目を相手にすえて語り出すカリスには、ガレは一人幼い子どもとなってただ見守ることしかできなかった。

「感謝か。そりゃ、ありがたくもらっとくが、ことはそれだけじゃ済まんだろう?」

「・・・街に着いたら、道具屋に行ってお金を作ってちゃんとお礼をする」

 そのあと、くるっとガレを向いて、ガレにあげるって言ったものじゃないから安心してと、説明をした。

 ガレは、そういえば自分に高級な指輪か、それを売ってお金をくれるのだとカリスに言われていたことを、言われてはじめて思い出したぐらいだったが、要するに他にも売る物を持っていて、それを売りゾラにお礼をするのだとカリスは言っているのだ。

「そりゃあ、さらに有り難い。楽しみにしてるぞーーーということじゃないと、ちゃんと気が付いているよなあ?わかっていて誤魔化そうとするかわいげのない餓鬼だな、まったく」

 ゾラは薄く笑っていた。

 大人の顔だった。

 何を考えているのかよくわからない、信用できない表情だと二人は思った。

 カリスの警戒心がキリキリと寄り合わされて糸になったものは、さらに合わさって強い太いものに変化してゆく様子が手に取るようにガレにわかった。どんどん、顔つきが強ばっていくのだ。

 それ以上言ったら、駄目だ!ーーーというガレの祈るような気持ちはゾラには通じなくて、容赦ない言葉が続いていた。

「おまえ、体力ないよな。ガレにくっついて行くって言っても実際、無理なんじゃないのか?」

 ガレははじめて食べるシチューを膝の上に置たままになっている、カリスに至っては地面の上にまだ中味が入っている器を置いて、もう食事どころではなくなってきていた。

 その焚き火を挟んだ前で、ゾラだけがズズッと音を立ててシチューを飲み干したようだった。

 そのあと乱暴に手の甲で口元を拭ったあと、再び二人に目を向けた。

「家出。子どもっぽいわなあ。そんなもん、いったいいつまで続けるつもりだ。このまま逃げ続けるつもりか?」

 そこでいったん言葉を切って

「このまま逃げ続けられると本当に思っているのか?」

 冷静すぎる言葉だった。

 的を得た言葉だった。

 そして、ゾラの言っていることはこの場で正しいことだとガレは思った。だけど、それは聞きたくなかった言葉だった。

「逃げ切るんだ!!逃げ続けられなくても逃げ続けるよ、僕はあそこに帰らないっ!あそこには絶対戻らない!!」

 ガレの横で、カリスの悲鳴のような叫びだった。

「絶対嫌だ!!絶対だっ!!」

「どうして、そんなに剥きになるんだ。なんかやっちまったんなら、素直にさっさと怒られてしまえ。一度怒られちまったらしばらくすれば嫌な思い出として、お互いがいずれは忘れてしまうさ」

「知らないからっ、ゾラは何も知らないから、そんなことが言えるんだよ!僕はそうはならないよ、わかるんだっ!!」

「ちびっ子が何を小賢しくわかっているって言うんだい」

「みんなは、・・・僕の家族は僕を嫌っているんだっ」

「さあ、どうだか」

 ゾラは皮肉げな笑みを男らしい精悍な顔の口元に刻んでいた。

 知らないだけでなくゾラはカリスを挑発しているのかと、一人ハラハラするガレは思った。

 挑発とわかろうとも、決して無視できない事柄が人にはあるように、普段冷静なカリスはゾラの言葉に激しく噛みついた。

「証拠があるんだ!」

「本当かね、どんな?」

「みんな、嘘を吐いていたんだ、僕にグルになって、嘘を言って欺していたんだっ!!」

「欺すーーーなんて、よくあることだぜ。そのたびにおまえはこれからもいちいち逃げ回るってことかい。子どもだな〜」

「違う、そういうことじゃっ・・・」

 カリスの目の縁には光るものが滲んでいた。見かねたガレだった。

 酷すぎて聞いていられなくて、カリスを助けに入ろうと思ったのだが、すぐにゾラがガレに視線を向けた。

 巫山戯てカリスをからかっているようにも見えていたゾラだったのに、その一瞬の目はとても厳しい目だった。

 ガレに口を出すなと、無言の命令だった。

 ガレはその目の眼光に圧倒されて口をつぐんだ。

「カリス坊やは、甘ったれな子どもだという証明になってしまったな〜」

 再びカリスに、ニヤニヤと笑いながらゾラは言い、カリスはがっと大地を踏みしめて立ち上がっていた。

 握られた拳がぶるぶると小刻みに震えているのをガレは横目で見ていた。

 ゾラはカリスを怒らせようとしていることはもはや明らかだった。

「子どもじゃない・・・僕の言っていることは正しいんだっ・・・」

「自分だって嘘ぐらい吐くだろうに、おまえは他人を許してやれない心の狭い子どもってことだろう?」

「違う」

「どこが?」

「そういう、ことじゃないんだ・・・」

「ないが違うんだ、言ってみろ」

「・・・」

 カリスは深呼吸を繰り返して気持ちを落ち着かせようとしていた。

 それを言ってしまわないように。

 ガレも心の中で恐れているその点、だろう。

 覆い隠して見ないようにしているこのことを、挑発に叫んでしまわないように気を静めようとしているのだとわかった。

 けれどゾラが。

「言えないことは正当性に欠けるってことだわなあ」

「お、お母さまはっ!!」

「・・・カリス・・・」

 カリスの瞳に涙が膨れあがってガレも泣きそうな気分だった。

「僕が小さな頃に死んだけど、僕にいつも『愛してる』って。僕を胸に抱いてお歌を歌ったって・・・全部嘘だったんだ。全部、嘘、作り上げた物語だったんだ、それを僕にみんなで聞かせてっ・・・僕は・・・」

 立ちつくしたカリスの目からぼとぼとと涙が流れていた。

「一つだけは本当があったね。それは僕が生まれてお母さまを独り占めにしたってことだ・・・その通りだ、僕はお母さまを独り占めにして姉様たちから奪ったんだ、僕が生まれて・・・」

 飲みこもうとされる嗚咽にカリスの細い肩が震えていた。

「僕が生まれて、お母さまは死んだんだから。お母さまは僕のせいで死んだ、僕が生まれたせいで死んでしまったんだっ、『愛してる』なんてみんな嘘だ、そんな風に思っているわけないんだ。お母さまだって、姉様だって、お父さまだってっ、許せないって思っているはずだよ」

 僕なんか、生まれなければよかったってーーー。

 耳を塞ぎたい絶叫だった。

 一番恐れた言葉だった。

「僕なんか生まれなければ良かったって、みんな思っているよっ!それまでみんな楽しかったんだ、お母さまと遊びに行ったりピクニックに行ったり、だけどっ・・・僕が生まれたあとはっ・・・。本当は僕のことなんて嫌いなんだ、大っ嫌いなんだよっ!」

「カリス、そんなことないよ・・・」

「そうだよ、ガレ・・・だって・・・大っ嫌いで許せないよこんなの・・・僕は僕が大っ嫌いだ・・・僕が死んだらお母さまが戻ればいいのに・・・戻らないのに僕が死ぬことは僕のせいで死んだお母さまにもっと酷いことをすることになるんだっ・・・」

 両手で目を覆ってが指の間から雫はあふれ出して地面に落ちて染みを作っていった。

 横に立ってガレはカリスを慰めたくて、涙を止めてあげたくて仕方なかったのに欠けてあげられる言い言葉も見つけられなくて、おろおろするだけだった。心の中でこんな酷い仕打ちをしたゾラを恨みながら。

「自殺なんかすることは、悪いことだ。母親に対する最大の冒涜だろう」

「もうやめろよっ!」

「こいつは中途半端に向き合っているからいかんのだよ」

 怒りを込めらガレに、腹立たしいほど冷血なゾラだった。

「おまえ、言ってやればいい。そいつとそいつの母親、二人いたらおまえはどちらを選ぶかを」

「えっ」

 ガレは驚いて息を呑んだ。でもすぐ意図を理解した。

 同じくカリスもゾラが言わんとしていることに気が付くと、硬直していた。

「・・・そんなの変だよ・・・そんな選択を言うのなんて意味がないよっ・・・」

「でもおまえは、意味がないことを悔やんで自分を呪っているんだろうが」

「カリス・・・」

 俯いて嫌々をするように首を振るカリスの顔をガレはそっと起こして覗き込んでいた。

「意味はないかも知れないけど、俺はおまえとおまえの母ちゃんどっちか一人だったら、おまえはいいよ」

「それはっ、ガレがお母さまを知らないから、でもお父さまや姉様たちはお母さまを知っていてあとで生まれた僕のことよりずっと大事だったはずだよっ・・・」

「・・・かもしれないけど。時間が短いし、俺だと駄目か?俺がカリスが好きで大事だって言っても、会ったばっかで時間短いし家族じゃないし、そのうえーーーだし・・・。おまえにとって俺の気持ちなんて価値ないか?」

 カリスが言うとおり、ガレはカリスの母親を知らない。だけどそういうことではなくて、もっと単純でガレはカリスのことが好きだと思うから。

 カリスを産む女の人に会うことがあったなら、きっと言うだろうと思った。カリスを産んでねと。たとえそのあとその人が死んでしまうと知っていても。

「俺の言葉なんて、いらない?」

「・・・そんなことは・・・・」

 辛抱強く待っているとカリスは返事をくれたのだ。

「ないっ・・・」

 小さく言ったあと、わあっと大声を出した。

 目を覆っていた手が外れるとガレにしがみついていた。

 ガレに縋り付くようにしてカリスは夜中までずっと泣いていた。

 これまで気が付いてしまったあと、ずっと一人で口にも出せずに我慢してきた思いだったのだろう。

 深い悲しみだった。自分が生まれた直後に母親が死んだのだと聞かされたら、衝撃はとても大きいものだろう。

 そんなものは簡単に忘れたり消せるわけがないし、どんないい言葉でくるんであげてもすんなり納得などできないことだとガレも思った。

 だけど、心の中で石のように固まってしまって、カリスは触れることも恐れ泣くことだってできないできたと感じるから、こんな風に心の底から引っ張り出して口に出して大泣きできたことは悪いことではないのではと考え直していた。

 ゾラがやったことは、カリスの背中をなで続けているうちガレにもいくらかは理解できたのだ。

 ただし、もう少し優しい方法はなかったのだろうかと・・・。


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