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野良猫物語  作者:
4/7

ガレとカリスと、ゾラの物語 4

 カリスの小さな頃で、具体的に聞くと生まれて一年ぐらい。カリスが一歳になった頃にカリスのお母さんは神様のところにゆかれたのだと、カリスは家族から聞いていた。

 小さすぎてカリスには、母の記憶は残っていないけれど、「わたしの赤ちゃん」といつもカリスを胸に抱いて話しかけていたと、父は話してくれた。

 それなのに自分はそのひとのことをなにも覚えていなくて悲しかった。なんとか少しでも顔を、声を思い出せないかと父の部屋の肖像を見つめて過ごしていたものだ。

 自分とは違って二人の少し年の離れた姉たちは、よく母のことを覚えているようだった。カリスが聞くと、いつも弟のために繰り返し話をしてくれた。

「僕もいっしょに遊びに行ったことがあるの?」

「ええ。あるわ。四人でピクニックに行ったことがあるのよ」

「あなたはお母さまのお膝の上だったけれど、楽しそうに笑っていたわ。その様子にお母さまも楽しそうになされて、お歌を歌ってくださったわ」

「そうそう。みんなで歌を歌ったわね」

「嘘!僕は一歳だから歌えないよ」

 口を尖らせるカリスに

「あら」

 小さい姉が言って、大きい姉を振り返った。

「お姉さま、カリスったらあんなこと言ってる」

 すると本を読んでいた姉が顔を上げた。

「あなた、知らないのね。言葉を覚えていないうちの赤ちゃんは、わたし達とは違う赤ちゃんの言葉を口にして歌うのよ」

「・・・へえ。そうなの?」

 卑屈になりかけたところだったけれどカリスは知らなかった新事実にぱっと明るくなった。

「・・・僕、ぜんぜん知らなかったよ。僕は聞いていただけかと思った。だけど赤ちゃんでもお歌を歌えるんだ。だったら、僕もお母さまと一緒にお歌を歌っていたんだ!」

 残念だなあ。そんな素敵なことさえ覚えていないなんて。

 思い出せたらいいのに。

 壁の大きな絵の優しそうな女の人は、姉たちにそれぞれ似ていた。

 そしてカリスにも似ていると思った。

 みんなもとても似ていると言うのを聞いて、とても嬉しかったのだ。

「お母さまは、あなたのことが大好きだったのよ」

「本当に?」

「信じないの?決まってるでしょ」

「わたし達、二人女の子でしょ。だから男の子のあなたが生まれて、お父さまもお母さまもとっても嬉しかったのよ」

「わたし達、嫉妬するぐらいね。ほら、わかるでしょ」

 うふふと、幼いカリスはそう言われるのが一番好きだった。

 お姉さま二人がいて、そのあとに自分。

 女の子、女の子で、きっと、次は男の子がいいなと思ったはずだ。

 そうしてカリスは生まれた。

 期待通りの男の子だった。

「小さなあなたをお母さまはぎゅうぎゅうお胸に抱きしめていらしたわ」

「あなたは生まれて、お母さまを独占したの。あなたのベッドはお母さまだったの。ずっと一緒にいて、短い間だったけれどね、その間にあなたはわたし達と同じぐらい深い愛を与えられたのよ」

「そうだよ。カリス」

 優しい父の声に、カリスは振り向くと

「私はリリーナを愛しているよ。でも同じぐらいおまえを愛している。リリーナもおまえを愛していたんだよ」

「うん」

「いい子だ」

 大きな手がカリスの頭を撫でてくれた。こんな風に母も自分を膝に抱いて慈しんでくれていたのだろうと思った。

「今、お母さんがいなくて寂しいかもしれないけれど、悲しんではいけないよ。そんなことをすれば神様の元で、おまえのお母さんは一緒になって悲しい気分になっていなくてはいけない。なぜって、ずっとおまえの様子を見ているのだから」

「わかってる。大丈夫だよ。僕、あまり寂しくないもの。僕は生まれてお母さまを独占したんだもの。僕より、お父さまやお姉さまの方が寂しい気分だね!」

 すると父も姉も、一瞬表情を消していた。

「どうしたの?」

「いいや、なんでもないよ」

 笑顔が戻っていたがどこか変な笑顔で、おかしいなとカリスは思ったのだ。

 そのわけはそれからしばらくして知ることになった。

 すべては作り話だったのだ。

 カリスが聞いていた嬉しかった話は全部嘘。

 父は、姉たちにもそう言うように言いくるめていたのだろう。

 父に従って、姉たちは笑顔で、本当のことのように話をしてくれていた。

 自分には記憶はないけれど母と遊んだ楽しい話を聞いた後には、記憶にない母親と遊んでいる光景の夢を見たことも何度かあった。

 母親の顔は肖像画の顔。

 夢でカリスの頭を撫でながら、歌ってくれる歌も姉たちが歌っていた歌だったのだと今ならわかった。

 そして、ぎゅうぎゅうと抱きしめる胸の感触は、夢の中でまさに夢見心地の感触は、ただのカリスの想像。

 幻想だった。

 父よりも柔らかくて、姉たちよりも広い居心地のよい、この世に生まれ落ちたカリスが独占した優しいベッドは、嘘だったのだから。

「カリスさまは、リリーナさまに抱きしめられたことはないんだよ。おかわいそうにねえ」

 前日、歴史の講師の先生と喧嘩をしてしまったから会いたくなくて、朝からずっと隠れていたのだ。

 するとしばらくして、カリスの姿が見えないと気が付いた屋敷の者たちがばたばたと慌ただしく捜し始めた。

 でもカリスはじっと隠れていた。その日は午後の歴史の勉強の時間までずっと隠れ通すつもりでいたのだから。

 一番狭い応接間のソファーの陰だった。そこが一番安全だと考えていた。

 何度か人が出入りして捜していったけれど、カリスの思った通り見つけられなかったが、そのとき聞いた。

 カリスは隠れていて、聞いてしまったのだ。

 古参の使用人の女で、カリスもよく話をして知っているハンナという者だった。

 でもカリスと話をするときとは別人のような顔と声だっただろう。

「・・・だから、おまえも気をつけるんだよ。余所で話を聞いてもそんな風に口にしてはいけないからね」

 一緒にカリスを探していたのは、新しく屋敷にやってきた若い女で、カリスはまだ話をしたことはなかった。

「だってどうしても聞いていた話とくいちがってくるから気になって気になってしょうがなかったから・・・」

 そうだったのか、と若い女は納得してでもその後、難しい顔になっていた。

 カリスは首を傾げていた。どうやら自分の話をされているのだけど、カリスは納得がゆかなかったから。

「でも嘘は嘘だわ。よくないと思うな。そう言う隠し事って無理よ。いつかは坊っちゃまにだってバレてしまうと思うし」

「ええ・・・。そうだわね、子どもはああ見えて敏感なもんだからねえ。案外、もう気が付いていらっしゃるかもしれないけれど・・・でもそれは私たちが悩むことではないでしょうよ」

「それって、どういう話!?」

 カリスは自分から飛びだしていた。

「カリスさまっ・・・」

 捜していたはずのカリスの姿に、二人の女たちは顔色を無くしていた。

 それほど重大なことなのだとカリスは思った。

 ハンナは、もう自分は知っているかもしれないと言ったことなのにカリスは何も気が付いていなかった。だから聞いていてもよくわからなかったから。

「いったい、なにの話をしているの?僕は、なにも気が付いていないよ?くわしく教えてよ、お母さまが僕を抱きしめていないってどうして!?」

 二人にもっと聞きたくてせがんでいたけど話してくれなかった。

 でも諦めずに追いかけていたら、執事のブラウニーがやってきて二人をカリスの前から連れて行ってしまった。

 父が戻っていらっしゃるのを待つようにと、ブラウニーは厳しい命令じゃなく、丁寧にお願いされたからカリスは夜まで待っていた。

 歴史の先生とは隠れてはいなくても、この日会わずにすんだ。

 カリスはひたすら、父が帰ってくるのを屋敷の入り口に座って待っていたのだ。

 誰も何も、教えてくれないから。

 姉たちもだ。

 きっと知っているのだと思った。なぜなら聞くと揃って難しい顔をしたのだから。カリスの知らなかったことだけど、カリス以外の者はみんな知っていたのだ。

「お母さまは僕を抱きしめていないの?」

 その答えは、長い長い言い訳があり、はっきりとしない聞いていない内容も続いてわかりにくくされていたけど、簡単にすると『はい』だった。

 隠れていてこっそり聞いてしまった話は本当で、カリスが母の膝の上で一緒に歌を歌ったというものが嘘だったのだ。

 なかなか思うような話が聞けなくて腹立たしいときに、口火を切ってくれたのは皮肉にも母だった。

 カリスは一人で屋敷を抜け出してお墓に行ってみると、墓碑に亡くなられた日付が記してあったのだ。

 それはカリスが生まれた日だった。

 難産だったという。

 ようやく産みの苦しみから解放されて、母は元気な産声を聞いた微笑んでいたーーーというけど、それも嘘かもしれない。カリスは母親の顔さえ覚えていないのだから。

 男の子だと立ち会った屋敷の主治医は喜びの声をあげた。

 父に報告が走る。

 そのなかで母は目を閉じたのだ。

 そのまま二度と瞳は開かれなかった。

 それが、カリスが用心深く自分でも動いて調べて、突き止めた本当の話だった。



「人を欺すのはいけないことだって僕に言っていたのに、自分たちは僕をずっと嘘を言って欺し続けていたんだよ」

 ほんとに酷いよね、とカリスは笑っていた。

「ガレもそう思うでしょ。最低だよね。お母さまは僕が生まれたときに死んでしまったのに、嘘を言って。僕を抱きしめたんだとか、 『愛している』とか言ったとかも全部、嘘なの」

 くすくすと、まるで面白いことがそこにはあるかのようにいつもの優しい、女みたいとガレに思わせるきれいな笑顔だった。

「嘘はついちゃいけないのに」

「・・・だけど、嘘かもしれないけど、それは・・・」

「それは“なに”だと言うつもり?良い嘘と、悪い嘘があって僕を欺していたのは良い嘘で、僕が駄目だって言うつもり?」

 笑顔がぱっと崩れて、きつい目がガレを睨んでいた。

「みんなは間違っていなくて、僕が悪いって言うの?僕が、悪い・・・どうして?良い嘘なのに怒っているから悪いの?お礼を言うべきなの、みんなに嘘をありがとうって?」

 カリスは質問形式でガレにすべて尋ねていた。

 でもどれ一つ、ガレには返事ができないことばかりだった。

 良い嘘と悪い嘘。

 その通りだと思っていた。

 人を幸せにする嘘と、不幸せにする嘘があり全部、嘘だから悪いとは言えないはずだった。

 だけど、それをカリスに向かって言うことはできなかった。

 それを幸せにする良い嘘なら、カリスの現実が不幸せだと言っているようなものだった。そんなことを言えば、きっとカリスは怒り出すだろう。

 そしてたぶん、カリスもそれをわかっていて言っているのだ。

 悪い嘘ではないと。

 わかっている上で、怒っているのだ。

 悪い嘘ではなかろうと嘘をつかれていたことに。

 欺されていたことに。

・・・でも。

 それだけ、だろうか?

 ふと浮かんがことだった。

 考えてしまったガレは、急に怖くなって考えるのをやめたのだ。

「・・・欺されていたってわかっても・・・いつまでも根に持っているのは、駄目だと思う・・・子ども、だよ・・・そんなの。・・・許してやらないと・・・」

 ガレはしどろもどろになりながら、なんとかそんな言葉を見つけ出したのだ。

 思っていることと違う気がしたが、いいのだ。

 触れちゃいけないことだから、ずらさないといけないから。

 すると。

「うん、そうだよね」

 カリスは再び笑顔になっていた。

「でも駄目。僕、子どもだから許せないの。みんなだいっ嫌い。許さないの。しかたがないよ、僕はガレより背も低いし、子どもだもの!」

 うふふふと、面白くてたまらないように笑う。

 ガレにはちっとも面白くない。全く笑えなかった。

 笑える話じゃないはずだ。カリス本人にだって。

 カリスが生まれて、すぐお母さんが死んだのだ。

 ショックな話のはずだ。

『死ぬなんてことは気安く言わないで』

 そう言って急に怒り出したカリスだったはずじゃないか。不謹慎なガレの冗談を、嫌がっていた。

 じゃあ、お母さんの死だって笑えないはずなのだ。

 でも笑っているカリス。

 笑って許さないと訴えているのは、嘘をつかれていたという点だった。

 もっと衝撃なことのはずのそっちのことにはあまり触れない、避けているように。

 痛々しくてガレには直視できないことをカリスも、避けているのだと思った。

「ねえ、ガレ!」

「・・・なに・・・」

 ガレの声は怖じ気付いたものだった。

「そろそろ行こうよ。ゾラおじさんが待っているよ」

「・・・あいつ、おじさんと言われるの嫌っているよ・・・」

「でも、おじさんだよ。ガレにとってお兄さんって感じするの?」

 しかめっ面になったカリスにガレもつられるように顔を歪めていた。

「俺は、お兄さんって思わなくても、ああいうタイプには、お兄さんって言うよ」

「わっ、ガレ、卑屈。それ、恥ずかしいよ・・・男らしくない・・・」

「なっ、賢いって言ってくれっ」

 沽券に関わることをしみじみと嘆かれたガレは息巻いて見せた。

 子ども子ども、とカリスがガレを囃し立てて、空気は元に戻ったような感じになっていた。

 明るい軽口で、何も聞いていなかったときのように、楽しいものに。

「行こうか」

「うん」

 頷きあった二人はゾラと荷物が待っている場所に向かって駈けだした。

 それで元通り。

 戻るわけはない。戻ったかどうかだったではないのだ。

 戻って欲しいというのがガレの希望だったのだ。



「待ってよっ、ガレ!歩くの速すぎだよっ!」

「ああ、ごめん・・・」

「ごめんじゃないよ、もうっ」

 小走りになって必死に歩いていたカリスが何度目かの苦情だった。

「さっきから、こんなのばかりだよ、すぐに速くなるんだから」

「ちょっと考え事しててぼんやりしていたから・・・悪い」

 ぼんやりとしているという言葉通り、どこかうわの空の謝罪だった。

「ぼんやり考え事なら、ゆっくりになってもいいと思うのにガレの場合、早足になるんだもの!信じられないよっ」

 カリスは細い眉を吊り上げてガレを睨んでいる。

 家族をだいっ嫌いと言っていたときのように、口答えもできないほど激しくではなかったが、何度も追いつけずに音を上げさせられ、待ってと言わなくてはならなかったことにカリスは、そこそこに腹を立てているようだった。

 ぶうぶうと文句を続けるカリスだったが、その横でガレの心は冷めていた。

 冷たい風が吹き回っていた。他でもないカリスのせいだった。

 カリスの話を聞いてから、気分が晴れなくなっていて沈み込み、ついつい回りを忘れて歩いてしまう。自分のペースで、だ。

「・・・おまえが遅いんだよ・・・」

「むかっ」

「俺はただ普通に歩いているだけだ」

 カリスの明るい茶化すようなしゃべりが、なんだか馬鹿にされているような気分になっていた。

 激しい一面を見せて圧倒された後にはカリスのこんな明るさが空々しいと思ってしまう。

「なんだよ、文句があるのか?」

「いいや。ぜんぜん、ないよ。これっぽっちも文句なんてない。好きなだけぼんやり歩いていればいいよ!」

 つんとそっぽを向く愛らしい横顔はとても憎らしいものだった。

「なんだとっ!」

「そっちこそ、なんだ、その態度は!」

「喧嘩売っているのか!?」

「売っているのはそっちじゃないか、やれるもんならやってみろ!」

 勇ましく拳を握ってファイティングポーズを構えて見せるカリスに空気は一触即発の険悪なものに変わった。

 それまで視界の下の方で繰り広げられる寸劇を黙って見守っていたが、これ以上無視していられなくなったのがゾラだった。

「おいおい。なにやってるんだ・・・見てられんぞ・・・」

「じゃあ、見てなきゃいいっ!」

 すかさずカリスが介入に噛みついたが、倍ほどの歳のさすがに背丈は倍はないが、大男には通じなかった。

「おまえな。気が強いのはいいが、相手見て喧嘩売れよ。勝てんだろう?」

「わからないよ、やってみなきゃ!」

「いや、わかるはずだぞ。そもそもおまえと、こいつでは・・・」

 こいつとは、勿論、ガレだ。

 顎でしゃくられて、そもそもなどと言われたガレも不機嫌な顔をゾラに向けていた。

 しかし途中で不自然にゾラの説教は途切れてしまった。

 二人の少年に分けて入ったゾラは、二人からそれぞれ胡散臭げだとばかりに凝視されて、ははははは、と笑っていた。

「・・・歳かな。何言うつもりだったか一瞬で忘れちまったみたいだ」

 がしがしと頭を掻いたゾラだ。

「嫌だなあ。ゾラお兄さんったらっ。気にしなくていいよ。だって僕、最初からちゃんと知ってるもの、そんなことは!」

 すると途端ににこやかになったカリスが一見優しいそうだが棘にまみれる言葉を吐いた。

「なんだと、こら、チビ」

「チビでもいいもん。これから成長するもんね!するとゾラお兄さんもどんどん成長していくんだよね、ぶぶぶ」

「糞餓鬼っ」

 逃げる子どもに大人げなく剥きになって腕を伸ばす大人という微笑ましい光景に、和むことなくガレはふっと前を向いて歩き出してしまう。

「ガレっ・・・」

 すぐに気がついたカリスが足を止めて自分に向けられる背中に寂しげな目で見つめた。

「いじめっ子め。あいつもいびったのか?」

「変なこと言うな!」

 腹立たしいゾラを睨み付けて、けれど勢いは少し弱かった。

「・・・言いたくなかったのに。・・・だけど、ガレが聞きたがるから話したのに・・・」

「秘密を話してみたら、引かれたのか?」

「・・・違うよ。ただ少し驚いただけだよ、きっと!」

 見上げる大きな瞳はうっすらと潤んでいた。

「油断大敵だねぇ、捕まえた!」

「なにっ!」

「俺は口の悪い餓鬼を懲らしめてやるために捕まえる途中、だったはずだぞ」

「わぁ、離せ、離せよ、馬鹿、変態、オヤジぃっ!」

 きゃあきゃあ、騒ぐカリスの腕を掴み取ったゾラは次いでカリスの胴に両腕を伸ばした。

「オヤジおやじ、降ろせ、降ろせよっ!」

 拳骨で頭といわず肩、胸も腹も担ぎ上げられたカリスは蹴飛ばしていたが一切を無視でびくともしない頑丈な男は大股で、先を進むガレとの距離を詰めたのだ。

「こいつの秘密を聞いたのか?」

 心がいっぱいいっぱいでどうしていいかわからないガレは、大問題を軽口にしようとする巫山戯た男に不快感を剥き出しにしていた。

「うるさいな、なんだよ。あんたには関係ないだろ」

「ああ、関係ないけど。せっかくだからもう一個、おまえの知らないことを教えてやろうかなあと思ってなあ」

 肩の上で荷物のように運ばれるカリスは逃れようと暴れていたが、お構いなしの会話だった。

 にまつくゾラの表情が、ガレの気分を逆撫でる。

「なんだよ、知らないことって・・・」

「まめ」

「マメ?」

「肉刺だよ、足の裏や掌にできる。知らないか?」

「そのぐらい俺だって知ってるよっ。だから肉刺がなんだって・・・」

「潰れちまって血が出てるよなあ。匂いがぷんぷんする。おまえは嗅覚鈍いのか?」

 なじるわけでなく確認のように首を傾げるゾラに、はっとガレは目を向けた。

 ゾラの肩でゾラの頭を最高に不機嫌な表情にぽかぽかと殴っているカリスだった。

「いいかげん離せよ、馬鹿親爺っ!」

 カリスの抵抗はゾラが肉刺の話をしてから一層激しくなっていた。

「カリス!」

 ガレに名前を呼ばれてびくっと身体が一瞬止まったようだった。

「おまえ、足見せろ!」

「嫌だよ、そんなの、なんで・・・うわぁっ」

 悲鳴に変わったのは乱暴に身体が強く引っぱられてゾラの肩の高みからずり落ちそうになったからだ。

「ガレっ、なにするんだっ・・・」

 腕を伸ばしたガレにカリスの身体は危なげなく受け取られていた。

 いくらか小柄とといっても猫耳やしっぽのある獣人であるガレは楽々とカリスの体重を支えて、そして地面に座らせていた。

「嫌だ!」

「嫌だじゃない、靴脱いで足見せろっ!」

「嫌だね、なんでだよ、ガレはゾラのあんな言葉を鵜呑みにして信じたの?そんなの馬鹿・・・嫌だってっ!!」

 必死に足をばたつかせ、ガレを追い払おうとしていたが足はすでに掴まっている。ガレの方が力が強くて振り払えずに、ブーツの紐が弛められていく。

「ガレっ、やめて、怒るよっ!」

「馬鹿、俺が怒りたいっ!ど阿呆!なんだよ、これはっ!!」

 怒りに猫のように背中が膨れあがったように見えるガレに、足を取られたままのカリスは仏頂面でそっぽを向いた。

「なにって・・・肉刺だよ。見てわからないの?」

「こっち向けよ、そう言うことじゃない・・・ってわかっていて言っているんだよな、おまえは!」

「僕にはどういう意味かぜんぜんわからないね」

 ガレの激しい剣幕を浴びながらも、カリスは怖じ気付くことなくさらに油を注ぐありさまに顎をつんと上げたのだ。

 またしてもまともに答えようとしないカリスに、ガレは息を呑んで唸っていた。

 けれど、それでは埒があかないと深呼吸をして気を静めてから、感情を抑えた丁寧な言葉を紡いだ。

「おまえ・・・こんなになるまで、どうして言わないんだよ」

「・・・べつに。・・・わざわざ言うほどのことでもないよ・・・」

「おまえ、痛くないのかよ。鈍いのか?」

「うん、あまり痛くないよ・・・」

「鈍いのはおまえだろうよ」

 ゾラだ。

「あんな、もたもた歩いているのに痛くないのかと聞くか、普通」

「二人で話しているのに入ってくるな!」

 すぐにカリスは反応したけれど、ガレはしばらくの沈黙を必要とした。

「あんたは気が付いていたのかよ」

「まあね。血の臭いがするけどなんだろうねえと、ね」

「臭いなどそんなにしないよ、嘘をつくな!」

「・・・気づかなかったよ、俺・・・」

「ガレが普通だよ、こいつがおかしいんだよ、気にしなくてもっーーー」

「だから、おまえは鈍いんだって。まあ、使わない機能なんて鋭くもならないしどんどん鈍ってゆくもんだろうけど」

 話の中心だろうに、二人に黙殺されるカリスは不機嫌が募ってゆく。

「二人とも最低」

 それきりむつりと押し黙った。

 無視されてしまうので、カリスの方でも二人の話など聞こえていないように無視してやろうと思ったのだけど、ガレとゾラの話もそれで途切れてしまっていた。

「・・・だからさ。すました顔してるけど、おまえなんだよ、原因はっ!」

 いきなり話を持ってこられたカリスは、腕を掴まれているガレに少々乱暴に揺さぶられた。

「僕は!そんな、こんなの平気なんだって言ってる!」

「平気なわけないだろ!」

「平気だよ!」

 人通りのない山道をいいことに道の真ん中に座り込んでまた、意味のない押し問答を始めてしまったガレとカリスに、ゾラはため息だった。

 まあゆっくりやってくれ。

 呟いた男も諦めたように少し離れたところに腰を下ろしてしまった。

 二人に背中を向けているのはいくらかの心遣いだろうか。

「潰れてこんな風に血が出ているのに平気じゃないっていっても通じない。足だって赤く腫れてるじゃないかっ」

 ブーツを脱がされ血色に染まっていた靴下も両方とも地面に放り出されている。指先も足の裏も踵も擦れて無理をしすぎた肌は熱を持ち、水ぶくれもある。今まで見たこともないほど悲惨なありさまだった。

「い、痛いよっ!」

 悔しさについ指に力が入りすぎたガレに、はじめてカリスの苦痛の声だった。

「ごめん・・・。おまえ、爪が剥がれかけてる・・・」

 目にしたガレも悲鳴をあげていた。

「・・・なんで、さ、一事、言わないんだよ・・・」

 悲しくて腹が立ってくるだろう。

「俺には言っても無駄だとか、思っていたわけ。言っても聞かない奴だとか、そういうことかよ・・・」

「違うよ・・・」

「じゃあ、なんだよ、わかるように言ってみろよっ」

「だから・・・これくらい平気。まだ歩けたもの・・・。だいぶん楽になってきていたし・・・」

「“だいぶん楽に”じゃない!どうしてその辛いときに言わなかったんだよっ」

 激情にうっすらと緑色の瞳に涙を浮かべて怒るガレに、カリスもしょんぼりと肩を落としていた。

「・・・だって」

「・・・だって、なんだよ・・・」

「平気だったんだもの、これくらい、ほんとに・・・」

「まだ言うか!」

「だって・・・こんなの見せたらガレは置いて行こうと考えるよ。ただでさえ、とろいとか思っているでしょ・・・置いていこうと思いだすはずだよ。そうなるよりずっと平気だよ・・・」

 ぼそぼそと説明したあと、カリスはぱっと顔を上げて力説だった。

「言っておくけどね。これくらいぜんぜん、何ともないんだよ。まだ歩けるからね、普通に!だから、ここに残して別行動しようなんてことは」

「言わないよ」

 聞き取れないほど低くガレは即答に答えた。

「本当だよね?」

「本当だよ」

「よかった・・・」

 カリスが嬉しそうに微笑んでいた。まさに花が開くようなそんなきれいでうっとりと見とれるような優しい笑顔。

 だけど、ちらりと見ただけでガレは不機嫌な空気のまま鞄の中を探り始めた。怪我の薬を取り出すためだった。



「ガレ・・・怒っているの?」

「怒っていないよ」

「嘘だ、怒ってるよ・・・」

「・・・ああそうかも。怒ってるかもしれないな・・・」

「ガレの薬、減っちゃったものね・・・。今度街に着いたら買って返すから・・・」

「そんなことじゃないよ!」

 どうしてカリスはこんななのだろう、ガレは思わず声を荒げていた。

「・・・じゃあ、どういうこと。早く進めないから怒っているの?」

 悲しそうに言うカリスに、更にガレの声は大きくなってしまった。

「違うよ!・・・俺にもよくわからないけど、凄く腹が立っているんだ!」

「・・・ごめん。だけど、これだけは。僕、薬も塗ってもらったしもうちゃんと歩けるから安心してよ」

 ガレは息を呑む。怒鳴りそうになるのを抑えるためだった。

 歩けるわけなんかないと思った。

 しばらくまともに歩けないだろう。

 だから、ぐずぐずすることになって自分は腹が立っているのか?

 自問が浮かんだが、すぐに否定だった。そういうわけではないのだ。

 本当に、カリスを足を引っぱるから置いてゆこうなんてガレは思ってはいなかった。

 そうじゃなくて。

 もどかしい気持ちに追い立てられて、無言に立ち上がったガレをまだ地面に座ったままのカリスが不安そうに見上げていた。

「・・・俺には話せないか?ーーーだからか?」

 大きな溝があるのかと、聞きたかったのだ。

 ゾラがいるため、ガレが口を動かすだけにとどめた部分は、“猫”であり、音にされなくても正確に理解したカリスは、ううんと首を横に振っていた。

「違うよ」

 だけどその後に、でも、と続いた。

「それもあるかもしれないね。だってガレは僕のことなんて最初からあまり好きじゃないでしょ。僕が無理矢理くっついてきただけだものね」

 作り物の笑顔の間にそっと覗いた素朴な色だったのかもしれない。カリスは無表情になると小さく囁くように言った。

「・・・知られたら置いてちゃうかもしれないものね・・・」

「そんなこと、しないよ」

 ガレは考えての返事だった。

 よく考えても、他の考えなどないと思ったから。

「ほんとに?」

「ほんとだよ」

 嬉しそうに笑顔を見せたカリスに、ガレも照れくさそうにしながら口元を綻ばせていた。

 家出の理由を聞いて驚いて動揺してしまっていたが、それでもカリスが心配しているようなことは、ガレは欠片も考えてもいなかったのだから。

 そしてカリスも、猫・獣人だからとガレを嫌う様子はまったくないのだと気づいたから。

「・・・なんだぁ。・・・ずっと我慢していたのに損しちゃった・・・」

 カリスが言って、ガレは、ははん、と笑っていた。

「やっぱり痛かったくせに、やせ我慢してらあ」

 和解だった。

 緊張感の末に、空気は和らいだ。それだけでなくもっと温かみを持っていただろう。

 少年二人が、己の取っていた態度に照れて、恥ずかしそうに顔を背けあっていた。

 そのなかでむくりと動きをみせたのか、ゾラだった。

「ーーーということで、話も一段落したところで行くか」

 きゃあ、と悲鳴をあげたのはカリスだった。

 小柄な身体がむんずと後ろから捕まえて、ひょいと持ち上げられたのだ。

「なにするんだよ!」

「嫌なら、ガレ坊におんぶして貰うか?」

「べつに俺なら構わないけど・・・」

「それは絶対に、嫌だ!僕は歩けるよ!!」

 カリスにも誇りがある。さらに背格好のあまり変わらないガレに道中をずっと負ぶさってもらうなんて考えられなかった。しかしするとガレが言う。

「それは無理。俺がさせられないからな」

 笑顔だったはずのガレが再び不機嫌になって、即座にカリスに宣言した。

 ガレは今回、折れなかった。

 だから、しぶしぶ、だった。

 カリスはゾラの首に腕を回してしがみつくことに甘んじることになる。

「だから・・・ちゃんとまだ歩けるのに・・・」

 ぶつぶつ文句を言うのにも飽きた頃、ガレの機嫌もカリスの気分もすっかり回復していた。

 平気だと言い張っていたけれど、痛みを知られないようにしないといけないという緊張感から解放されたカリスは、ゾラの背中の温かさを感じていた。

 青い空と、白く続く道。

 ガレと、ゾラと、穏やかにゾラの背中で笑っているカリス。

 ずっと続けばいいと思った。

 ガレに訪れたとても穏やかな時間になった。



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