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野良猫物語  作者:
3/7

ガレとカリスと、ゾラの物語 3

「ごめんね・・・ガレ。少し休んだらまた走れるようになると思うんだけど・・・」

「いいよ。べつに。俺の方が絶対体力あるんだし」

 ニンゲンと獣人ではしっぽや耳があるだけでなく、基礎的な身体の作りが違うのだ。だから、ガレには走れなくなったカリスを背負って山道を駆け上がることだってそれほど苦ではなかった。

 行こう、と威勢良くガレの手を取って走り出したカリスだったがどれほども走らないうちに、ガレよりも息が上がり足がもつれだした。

「情けないよね・・・転んで走れなくなっちゃうなんて・・・」

 カリスはガレの背中に掴まりながらぶつぶつ言っていたが、もうガレはあまり聞いていなかった。

 気にしなくっていいからと、最初は丁寧にいちいち答えていたけれどカリスは納得しない。気にしていることが好きなのだ。だったらずっと言っていればいいやと思ったのだ。

 ガレの背中に掛かる重みと、体温。

 そして優しげなカリスの声。

 内容はずっとぼやきだったけど、聞いていて嫌ではなかったからガレはカリスの自由にさせていた。

「ねぇ、ガレ。やっぱり、獣人って凄いね。こんな風にいっぱい走ることが出来るなんて羨ましいよ」

「走れなくても普通に暮らせて行けるおまえたちニンゲンの方が、俺には羨ましいけどね、そういうものなのかねえ」

「うん。そういうものだよ。もうそろそろ降りるよ。足の痛みも少なくなってきてるし」

 だからべつに気にすることないって・・・と言いながらも、カリスは降りると騒ぐのでガレはしゃがんで背中から地面に降ろしてやった。

 すると足を着いて、最初こそぐらりとふらついてガレを慌てさせたが、踏みとどまると、

「うん、大丈夫そう」

 カリスはうんと頷いて見せた。

「意地っ張り」

「なに、なにか言った?」

「いいやなんにも」

 登った斜面を下って、平らな部分に差し掛かってしばらく下草のなかを歩いて行くと、木立の向こうに細い道が見えるようになった。

 街の近くの街道とは違い石畳ではなく踏み固められているような農道のようなものだったが、草の下に気の根っこや石の凹凸が隠れている今より、歩きやすいことはまちがいない。カリスは嬉しそうに歩調を早めていた。

「あそこに出よう!」

「あ、待てよっ・・・」

 このまま雑木林を歩いていた方が人がいないので安全だろうかと、考えていた最中のガレは驚いて引き止めようとしたが、気がつくのが遅れてカリスはもうどんどん先に行ってしまっていた。

「待てったら!」

「嫌だよ、待たないよ、うわあっ」

 甲高い悲鳴が上がって、ガレの前でカリスがべたっと前方に倒れていった。

 何度目だろうか。

 カリスはよく転ぶ。またか、と苦笑しながら追いついて助け起こそうとしたガレに、カリスは別の者へと言葉だった。

「あの、ごめんなさいっ。こんなところに寝ていらっしゃるなんて思いもしなかったので・・・」

「カリス!?」

 太い一本の木立の陰で見えなかったが、そこには誰かがいるのだろう。

 顔色を変えたガレが駆け寄って、カリスの身体をそいつから引き離すように抱き寄せた。

「ひでえなぁ、踏んづけられてしまった・・・」

 低い男の声だった。

「まあ、いいけど。・・・で、そっちこそこんなところに子どもが何してるんだ、お、二人連れか?」

「ガレ・・・この人の足をうっかり踏みつけてしまったの・・・」

 カリスは申し訳なさそうにガレに説明したが、カリスとガレに疑わしげな目を向けているこの男の方こそ、怪しいとガレは緊張させられていた。

 黒い衣類の上下に身を固める男は髪も黒だった。

 黒のなかでも腰に巻かれるベルトとブーツの濃い革色が濃淡なアクセントになっている男は三十ぐらいの歳に見えた。

 カリスが横断して行こうとしていたその場所で一本の木の幹に身体を預け足を投げ出して眠っていたようで、その足を草の陰で見えなかったカリスは踏みつけてバランスを崩し、転がってしまったということだった。

「気にすることない」

 どう考えても、ぽつりと眠っていたというこの男はガレにとって胡散臭かった。

 カリスが気にする必要などないように思えたので、ガレは不機嫌に口にしてしまったが、当然だった。

 当然のこと、不満の声だった。

「おいこら。おめえが言うことじゃあないだろうよ?」

 ガレに文句を言いつつ、のそりと男は身体を起こして立ち上がっていた。

 カリスの腕を持ったままでガレは一歩退いていた。

 男は長身だった。

 今までは地面に腰を下ろしている男相手で見下ろしていたが、これで立場が逆転した。

 大柄な男はどんぐりの背比べなカリスとガレの前で抜きんでて大きかった。

 分厚い身体をしていた。贅沢な生活でぶよぶよの肉の肥満したものではない。

 鎧のように厚みがあり胸板は筋肉が覆い、隆起した頑丈に厚いのだ。

 バランスが良くてとても引き締まって見える腹だって腹筋で覆われて割れているのだろうと思った。

 この手の奴ならガレはよく知っていた。

 こんな感じの体付きをした者は、獣人にとってニンゲンのなかでも最悪な部類だったろう。

 気がついた事態に、総毛立つガレの想像を裏付けるように男は地面に置いてあっただろう幅広の剣の柄を握っている。

「ガレ?」

「・・・駄目だ、逃げっ・・・」

 カリスの腕を引っぱって男から逃げようとしたのだ。

 でも、ガレよりも男の方が早かった。

「ぎゃっ」

 ガレが潰れた悲鳴をあげていた。

 掴まって持ち上げられてしまったのだ。

「は、離せっーーー」

 ガレは足をばたつかせて懸命に暴れていたが男はびくともしなかった。

 それでも必死になってガレの足は男の身体を蹴りつけていたが

「うおっ・・・元気がいいねえ」

 男からはそんなとぼけたような言葉が口にされただけだった。

 さすがのカリスも事態に何かを感じたらしく笑顔を消していた。

「ガレを、離してください」

「ああ。離すが、でも悪いことをしたら謝る方が先でしょう?」

「謝る?・・・ガレは何もしていない」

「俺の足を踏んだ」

「踏んだのは僕だ!」

「ああ、そうだが。こいつは踏む以上に可愛くないことを言ったぞ」

 確かに、男にも聞こえるようにカリスに気にしなくていいと言ったガレは可愛くはなかっただろうと、カリスは認めた。

「でも最初に悪かったのは、僕だよ、ごめんなさい、おじさん。許して、ガレを離して」

 祈るようなカリスの訴えだった。

 しかし男は、男らしく精悍な顔の口元を歪めただけだった。

「状況は悪化したな・・・」

「なぜ、どうして!」

「おまえも失言を犯した」

「そんなことないっ!」

 カリスは力一杯否定していた。

「いや、あった」

 ある、ないと繰り返す微妙なぬるい空気の口論になってゆき、吊り上げられたままになっている本人のガレは平常心を取り戻していった。

「・・・ごめんなさい、おにいさん。カリスの暴言もまとめて俺が謝るから・・・ごめんなさい。どうか、降ろしてください・・・」

「わかればいい」

 すとんと地面に戻されたガレに飛びつくようにカリスはくっついたがその頃には男の大きめな唇には何事もなかったような笑顔が刻まれていた。

「・・・『おにいさん』・・・?」

 確認するように呟いたカリスに、愛想の良い笑顔で

「じゃないと、おかしいだろう?」

 おじさん、じゃないか。どこも自分は間違っていないじゃないかとは、カリスの心の声だったが、賢明に口に出すことはしなかった。

 ガレが小さく、首を横に振って言うなと合図を送っていたから従ったけれど、理不尽な不正を強要されたカリスの心はそれからしばらく曇ってしまった。



「ゾラ・エルド」

 聞いてはいなかったけれど、自分から名乗った男は、気にせずゾラと呼び捨てていいぞと言った。

 そのあと、二人に名前を聞いた。

 仕方なく近くのいたカリスから、

「カリス・・・」

「ガレ」

 続いて、ガレも同じようにぼそっと言った。

「おい。俺がフルネームで言っているのにおまえたちは、それかい」

 大仰で非難の色に敏感にカリスが唇を尖らせていた。

「知らない人に不用意に名前を言ったらいけないんだよ!」

 家出の最中で、こっそり家を出てきたというカリスは家名を明かす名字を告げたくないのだと言うことをガレも気がついている。

 ガレも、“カリス”としか聞いていないのだ。

 でもそれで十分で、困ったこともなかったのだけれど、カリスがこっそりとガレの知らないところで抱えているものがはじめて、少し気になったときだった。

 高そうな衣服を着ているカリス。しゃべり方も上品でお金持ちなだけでなく貴族のように階級が高いのだとは感じている。

 だけど、こんな田舎で、告げただけでああ、とわかるほどの家柄なのだろうか、それはどんなものだというのか?

 目を背けるように生きてきたガレが己の外の世界についての疑問を感じてしまっている横で、話は進んでいる。

「なんでこんなとこに、二人でいるんだい?」

「秘密だよ!そういうことも気安く他人には話してはいけないことなんだよ!」

 カリスが、ゾラを良く思っていないことを隠さない態度で、棘を持って、ガレがそれまでに知ったカリスとは別人のような、ある意味さらに子どもっぽく受け答えをしていた。

「可愛くない餓鬼だな」

 終いにはそんなことをゾラに言われてしまっていたが、カリスは平気なようだった。

「それでいいの。可愛いと攫われる可能性が高いから可愛くない方が良いんだよ!」

 そのうちには穏やかそうにしゃべっている男も堪忍袋の緒を切ってしまわないかと不安になってきたのでガレが口を挟んでいた。

「俺が・・・おばさんのところを頼って行こうとしている。そうしたらカリスが一人じゃ危ないから一緒に付いてきてくれるって・・・」

 嘘だった。

「おまえの親は?」

「死んだ。俺は一人だからおばさんのとこへ」

 ガレは普通にしゃべれた気がして安心した。

「じゃあ、おまえの親は?」

 今度は再びカリスへの質問だった。

「一人いる。けど僕は愛されているからね。好きなことをして良いって送り出してくれたよ」

「旅着も荷物も無しでか?」

「・・・ガレが、優しくて僕の分少し、持っててくれてるよ。身軽が一番なの!!」

 カリスの言葉には幾分無理がある。本当に室内着のような豪華な上着と、旅支度も調える暇がなかったと宝石を見せてくれたカリスは、ポケットの中に売ればお金になるという宝石を持っているけれど手元には乾し肉一枚持たないのだ。

 旅慣れてそうな清潔に保たれているが草臥れた鞄や衣類のゾラに納得できるはずがないとガレは肝を冷やす心地だったが、ゾラはあっさりとそれ以上の追求はしなかった。

「ふうん。最近の教育は俺達との頃とは違うんだねえ〜」

 感心するような揶揄するような言葉に、「やっぱり、おじさん発言」と小さく機嫌の悪いカリスは口に出したが幸い、ゾラまでは届かなかったようだ。

「で、ならそのおばさんはどこにいるんだ?」

 ガレが尋ねられていた。

 言うことないのだと、ずけずけと入り込んでくるゾラの態度に怒っているカリスが主張しているけれど、なんとか丸く収めたいと思っているガレは進路方向にある大きな街の名前を思いついていた。

「サザントーイに、いるって聞いている。昔の話だからよくわからないけど・・・」

「サザントーイね。まだ結構、遠いぜ」

「うん。けどなんとか・・・行けると思うし・・・」

「まあ。それぞれ事情があるからな、今が踏ん張りどころだと思ってがんばれよ」

 頷いたガレは、これで上手くいったと思ったが、また駄目だった。

 また。

 数日のうちでこれで二度目だ。

「暇だからついて行ってやる」

「えっ?」

 性格はそれぞれ違っている二人が同じ顔になって、大きく見開いた目でゾラを見上げる。

「だから、二人じゃ心許ないだろう?今は仕事も区切りになって、フリーだから俺が護衛に付いてやるぞ」

「お金、無いから無理だよ!」

「ああ、心配するな。奉仕の精神だ」

「要らないっ!」

 硬直しているガレの横でカリスが一人果敢に応戦していた。

「じゃあ、山賊に襲われてもおまえは無視しておいてやる。助けるのはこっちの坊主だけな」

「ガレっ、なんとか言ってよっ!!」

 せっぱ詰まった表情に無言のガレをカリスは揺さぶったが、これ以上上手い言葉が自分に見つけられないことをガレは悟っていた。

 ガレは、カリスに言いくるめられてしまうのだ。

 そのカリスが太刀打ちできない相手なのだったら。

「ねぇ、ガレっ!!」

 それでもなんとか

「結構です・・・遠慮します・・・俺達、二人でうまく、出来ます、から・・・」

「子どもは遠慮なぞしなくていい。安心してどんと任せておけ!」

 じゃあ、とゾラは。

 さっさと行くぞとガレとカリスに背を向けて歩きだした。

「何してるんだ、置いて行くぞ」

 カリスが走っていた方向である。

 そっちの先にサザントーイがある。

 それを無視して背後にある街を告げても、信じられないだろうと本当の方向にある適当な街をガレは口に出したのだ。

 嘘の中には本当を織り込むことに信憑性が上がると言うではないか。

 でもこれは墓穴じゃないとガレは思った。

 そう言ってしまったために、ゾラの背中を追う他、ガレに選択肢がなくなってしまっているのだから。



 ぶつぶつ、聞こえないようにでも聞こえるようにゾラの文句を言い続けるカリスだったが、ガレは少し違った。

 カリスは太刀打ちできないことが悔しくてたまらずに不平を収められないのだけど、ガレは無理なので、諦めた気持ちで大人しく歩いていた。

 でも、やはり溜息が出てきてしまう。

「おい、どうした?」

 カリスの文句は聞こえていないように無視しているゾラが、ガレの様子に気づいて振り返ったきた。

「疲れたか、なら休むか?」

「疲れていない」

「そうか。じゃあそっちの元気な坊主は?」

 まだ歩けるかと、優しげな笑顔のゾラを嫌なにたにた笑いだと腹を立てるカリスが

「全然平気。まだ走れるよ!」

「おう、そうかい、そりゃあ良かった、意地っ張り君!」

 大きな剣を携えて、ハンターのような空気を持つ男でとても警戒していたガレだったが、危険な気配は薄れていた。出で立ちはそういった類のものだったけれど、ゾラは口は悪いもののあまり警戒しなくても良い相手なのではと考えるようになっていた。

 大人相手に、驚くような発言をするカリスの横でガレはビクついたものだが、本人のゾラの方は気にならないらしく平気で笑っている。そこが余計にカリスの癇に障っているのだろうけど、この調子ならそれほどこの先も険悪なことにならないだろうと少し安心してガレは聞いていられるようになっていた。

「意地っ張りじゃない。ほんとにまだ走れるんだからっ」

「はいはい。じゃあがんばって歩いてくれ。あとでよくやったよと頭撫でてやるから」

「子ども扱いするな!」

「子どもだろ?」

「でもっ、僕だけ!ガレにはぜんぜん言わないじゃないか!」

「そりゃあ、おまえの方が面白そうだからな!」

「差別だっ!」

「おまえの態度も差別してるだろう?」

 顔を怒りに紅潮させて立ち止まってしまったカリスにすぐに気が付いて涼しい顔で振り返ったゾラが切り返していた。

「差別?」

「ああ。ガレにゃあ、穏やかにしゃべるが俺だともう親の敵かなんぞのように噛みついてくる。俺はおまえに嫌われるようなことなんかやったか?おまえの母ちゃんを、俺は殺して覚えはないけどね」

 巫山戯た物言いで、存外に物騒なことをゾラは言った。

 言葉の流れで実際に死や生が関係あるとはガレは思わなかったが、その先の言葉を見つけられなくなったカリスはただ息を呑んでいた。

 カリスもわかっていた。

 八つ当たりしているのだ。

 ゾラに悪いところはないけれど、ただ自分とガレの二人という予定の中に入ってきてしまった邪魔者だった。しかも大人。見下ろすような態度がカリスの父親と少し似ていると感じてしまったからむかむかと腹が立って、平静ではいられなかった。

 もしかしてと、カリスも一つの不安をゾラに対して抱いたのだから。

 ハンターではないかとガレは思ったけれど、カリスは父親の指示で自分を連れ戻しにやってきている手の者かと、だった。

 まだなんとも言えないけれど、でも無理矢理連れ戻される様子はなくてそこにはホッとしていたけれど腹立たしい。

 ガレと二人旅が良かったのに。

 大人で剣も扱えそうなゾラがいれば危険度が減るかもしれないけれど、ガレはゾラを受け入れてしまったように反対していないところも腹立たしい。

 ガレにとって、自分だけだったのに入り込んでしまったゾラが。

 ゾラは悪くなくても。

「おい。やっぱり歩けなくなったか?」

 ズキズキと痛んでいたけれど、まだ歩ける。

「強がりをごめんなさいと、素直に謝ったら許してやるぞ?おんぶしてやるぞ」

「全然、平気だよ。歩けるもの!絶対にそんなことしてくれなくていいっ!」

 だけど口早に。

「ごめん。僕が間違っていた、かもしれない・・・」

 先を黙々と歩いて行くガレの位置まで走って、追い越しざまに素っ気ない声でカリスはゾラに伝えた。

「ガレ、一人どんどん進んでいかないでよ。僕を置いて行くつもりなの?」

「・・・ああ。ごめん。ちょっと考え事していた・・・」

「もうっ、ガレったら酷いよ!考え事していたら置いてっちゃうわけなの?」

「そういうわけじゃないよ」

「あたりまえだよ、そんなの酷いよ!」

 聞こえなかったかもしれないと思ったが、ちゃんとゾラに届いたのだろう。

「謝りどころが違うんじゃないの?どうせならそっちにしておいた方が楽だろうに、まったく」

 ふうと、後ろからゾラの大きなため息も聞こえてきたが、打ち消すような明るい陽気なカリスの声が鳥の声と木の葉の風唄の林に響いていた。



「こそこそ藪の中歩かなくても、俺がついていりゃあ山賊も物取りも大丈夫だろう」

 と言うゾラが道連れにいる。

「他に山ん中を行かなければならない理由があるのか?」

 不思議そうなゾラの一言に、二人とも口を閉ざして道を堂々と歩いていた。

 カリスにとって草や木の根が這っている林の中や岩肌よりもとても歩きやすくて歓迎だったが、ガレはそのために緊張を隠せないでいる。

 田舎の道は街の付近のように石畳でもなく、道と言ってもあたりに人の姿も気配もない鄙びたものだったが、いつ畑帰りの荷馬車が藪や山の間から出てくるかもしれないので気がかりだった。

 ガレはオードルから貰った、禿げた旦那の物だったという帽子を被ってフードを脱いでいた。

 慣れない帽子なことあって、いつものようにフードを被ってしまった方が心が安心できるのだろうけれど、ゾラがいるためにこれもできずにいた。

 道に出て、脱いでいたフードを目深に被ってみせたら、何かがあるのだとわざわざ自分で教えているようなものだった。

 今は笑っているゾラ。

 だけどガレのしっぽと耳を知ったとき、どんな風に変わってしまうかやはり警戒は消えなかった。

 剣を持っている。

 がっしりと背も高く大柄で身体を鍛えているハンターのようなタイプだった。

だけど、比較的穏やかそう。

 自分にも優しい。と言うよりただ普通。お金持ちそうな格好をしていて、いろいろと面白そうなカリスを苛めて遊んでいるので、ガレには特別な感心もないという雰囲気だった。ガレにはそこまで子ども扱いをしてこなかったけれど、ガレより少し背は小さいもののそれほど大差はないはずのカリスをしつこくからかっている。

 大人しくて女の子のような奴だと思っていたけれど結構、激しい性格をしていて気はあまり長くない。カリスはゾラに、今にも叫んで悋気を起こしそうな危険な空気を纏わせるほどにもいったけれど、少しずつ落ち着いてきているようで、ガレはその点だけは安心していた。

 でも、ガレはずっとはらはら、しどおしだと気がついた。

 それはカリスに出会ってからだった。

 カリスに出会って、カリスがいたからこそ、オードルの居間に招かれることになっていた。自分一人なら冷たい雨の中の方がマシだとニンゲンの臭いのある納屋に泊まることはしなかっただろうし、その結果に泣かされた悲しいこともなかっただろうけれど、ならこうして帽子を貰うこともなかったはずだ。

 カリスの言葉を聞いてからガレは、もうそれほどオードルを悪く思う気持ちはなくなっていたのだ。

 オードルは温かいスープをくれたのだ。

 カリスが言ったとおり、最初から、そうではなかったとしても早い時点から自分に気がついていたようにガレにも思えるのだ。

 知っていたけど、普通にしていた。

 オードルは平気な感じだった。

 最後には平気すぎて、大事なことをうっかりと忘れてしまったぐらいで。

 食べたご飯のことを忘れてしまうことのように罪も悪意もなかったのかもしれないと。

 カリスに出会って、自分のペースを失ってしまって乱された中でドキドキと精神をすり減らしながら教えられたことは、大きいとガレは認めていた。

 だから、このゾラと一緒に今いることも、どういう結果になるかわからないけどもう少し逃げずにいようと思っていた。

 そんなことを一人考えるガレの横を一台の荷馬車が通り過ぎて行くこともあった。

 ゴトゴトという車輪の音が挽きつぶされそうに大きく中年の夫婦が乗った馬車が近づいてきて、二人は自分を見ている気がした。

 もうすぐ気が付いて鍬や斧を振りかざすかもしれないと腕も足も震えそうになったときだ。

「やあ、ご主人。今日は一日イイ天気だったですねえ。仕事ははかどられましたか?」

 ゾラの明るい声に、すると同じような脳天気な声だった。

「昨日の雨が嘘みたいで大助かりでしたがね、雨が多いと雑草の伸びも早くて追われますわい」

「でも、一雨降って欲しい頃だったんですけどね」

 ほほほっと夫より恰幅の良い夫人が愛想よく続いた。

「しかし二人の子ども連れじゃあ楽ではないですなあ」

「いえいえ。生意気で困りもんですがそれが子どもの特権でしょうねえ〜」

 やっぱりおやじトークだと感じるカリスと、ただ目を見張っているガレだった。

 すると、本当に夫人が自分を見ていることに気が付いた。

「どうぞ、お気を付けてくださいね。バイバイ、坊やたち」

 咄嗟に言葉が出なかったガレに向かって、少し小声になって「お父さんをあまり苛めないのよ」と笑った。

 ガレに言ったのは、同じ黒髪だから似ているせいなのだろう。

「お父さんだって」

 小声で言って、ぷっと吹き出したカリスだけでなく、ガレも一緒に夫人に手を振り返して馬車の二人連れを見送ることをしていた。

 小さく遠ざかって行く馬車を振り切れずいつまでも止まって見ていたガレにゾラが言う。

「おい、行くぞ」

 頷くと、再びてくてくと歩き出したのだけど、ガレは自分の中味が空っぽになっている感じがしていた。

 空っぽというと、悪いものに聞こえるかもしれないけれど、それは嫌な気分ではなかった。詰まっていた重い物が消えて、軽くすぽっと空いている。

 空になっているせいか、力もあまり籠もらなくて今は少し前に一日中走り回ったときのように全力では走れそうになかったけれど。

 ガレは逃げない。

 ゾラから。

 現実から、・・・だろうか。

 ああ、もっとも。簡単に逃げると言っても、ガレほどには走れないカリスと二人でこの男の前から無事、追いつかれることなく逃げおおすことはとても大変そうなことで、必要がないならなるだけ避けたいけれどーーーなどと考えていたら急に可笑しくなっていた。

「ガレ、なに、何が面白いの?」

 目敏く気が付いてカリスに聞かれて、べつに、と答えていた。

 だって本当に、説明するほど面白いことなどなかったのだから他に言えなかったのだ。

 だけどなぜだかとても可笑しくて笑い続けていると、カリスは自分に教えられないことを僻んだように「変なの!」と不満そうに言うものだから、余計にガレの笑いが止まらなくなったのだ。



 夕ご飯は豪華になっていた。

 オードルがこっそりガレの鞄に入れてくれた食料があった。

 ハムを挟んだパンとパンケーキと、果物と茹でた卵だった。そして、その上、ゾラが気前よく、自分で持っていた物をカリスとガレにも分けてくれたからだ。二人のオードルがくれた物はちゃんとゾラにも分けるつもりでいたのだけれど、それだけでは足りんよなあと言ったゾラは慣れた手つきでてきぱきと準備を始めた。

 しかも荷物から小さな鍋も食料と一緒に取り出したゾラは、小川で水を汲んできて塩や香辛料を入れて乾燥物を煮込んで温かく水分のある食事に戻してくれて、カリスもこれには大喜びだった。

 文句は言われていなかったが、ガレがカリスに分けていた、ただの乾し肉の食事には不服があったことがよくわかる出来事だった。

 こういう調理方法があることはガレも知っていたけど、鍋を持っていなかったし実行するのは面倒だったのだ。

 だったら、はっきりそう言ってくれればいいのに、と気分の悪いガレの隣で、美味しいとご機嫌にはしゃいでいたカリスだったが、しばらくするうちに静かになっていた。見ると眠ってしまったのだ。

 身体の上に自分の持ち物から毛布を出して広げているとゾラが言う。

「おまえも寝ていいぞ。しばらく俺が夜番しているから」

 道から少し離れて焚き火を起こして、野営だった。

 晴れた青空の一日と入れ替わった夜の空は、満点の星が輝いていた。

 カリスがいるせいが、不思議にガレも半日でゾラにすっかり慣れてしまって緊張も薄れていて、昔からの知り合いに久しぶりに出会ったような気分になっていた。

 だから、つい愚痴になっていた。

 ゾラよりもっと長い時間一緒にいるけれど、カリスには言えない愚痴だった。

「こいつ・・・すぐ寝る。食べたあと、気が付いたときにはもう寝てるんだ」

 昼間は動いているから、夜だとゆっくり話が出来ると思うのに。カリスの方はそうは思っていないのか朝までぐっすりで、ガレはつまらないのだ。

「そりゃあ、しかたないだろう」

 笑って同意してくれると思ったのに、ゾラの返事はガレの予想とは違っていてしまった。

 ゾラは言う。

「そんな顔せずに、考えてみ。クタクタだろうよ」

「くたくた?」

 繰り返した直後に、はっとしてガレは血相を変えた。

「そんな、無理させていない。こいつに合わせて歩いている、俺一人だったらもっとっーーー」

「ん、なこと力説しても意味ないだろう?おまえはそう思っていなくても、こっちでは現にこういうことなんだから」

 ゾラが木の枝を火にくべながら、顎で芋虫のように丸くなって眠っているカリスを示していた。

 眠っているカリスに配慮して特別に声をひそめてはいない。

 それでも目を覚ましそうにない様子だった。

 長い睫の目は閉じられて白い頬に焚き火の陰が踊っている。頬にこぼれるさらさらの金色の髪。

 黙っているとカリスは街のお店のガラスの奥に飾られている高そうな人形のようだった。意味なく高いそれは自分には一生、関係ない物だと目にしては鼻を鳴らしていた。

 急に気になって、手を伸ばして指で頬を触ってみると途端に消えて無くなることなく、肉の感触にガレの指先はカリスの頬にめり込んだ。

 満足して引っ込めたガレは、焚き火を挟んだもう一人の道連れゾラと色の目と目が合った。

 居心地の悪い沈黙が広がっていった。

 すると明るくからかうようにゾラが言った。

「なんだ、気が付かなかったか。・・・どう見ても、こいつこういう生活したことなさそうに見えねえか?」

「そう、だけど。・・・だけど、このくらい・・・単にこいつ、寝るのが好きなだけかもしれないし・・・」

「まあ、そういうこともあるかもな」

 焦ったガレの言い訳だったが、ゾラはあっさりと納得したように頷いて、それきりこの話は終わってしまった。

「おまえもさっさと寝ろ。寝ておけるときに寝ておくもんだぞ」

 ゾラに急かされて、ガレも横になっていた。

 ガレはあまり疲れてなどいなかった。自分一人ならこの十倍も移動したことがあっただろう。だけどカリスがいるから最近はゆっくりで、これぐらいなのだ。

 だからこのくらいなら、カリスだってきっと大丈夫なはずではないか。

 ゾラのせいで、ガレの心に一本の小さな棘が残ってしまった。

 摘めないくらい細いのに、それはちくちくとしばらく痛かった。



 晴れた朝のように明るく元気なカリスに、やはりゾラの考えすぎだとガレは思った。

 昨日一日しか、ゾラは自分たちのことを知らない。

 だけど、ガレはカリスのことを、その三倍も一緒にいるのだから。

 大人であろうと、ゾラの言うことがすべて正しいのだと思う必要などないのだと気がついたのだ。

 だけど、すっきり心が晴れないのはまだガレもカリスのことをよく知らないからだろう。

 気にはなった。

 でも過去などどうでもいいことかもしれない。そう言うではないか。

 家出をするほどの理由は、他人に言いたくないことに決まっているはずだ。

 だから、拘らないで知らん顔をしている方が男らしいと気にはなったけど聞けずにいたことだった。

 午前中、意識してカリスに歩調に合わせてゆっくりと歩いた。

 のんびりした道中になり、天気も良かった。

 ゾラは相変わらずカリスをからかってしゃべっていたがガレは聞き流して、その間に荷馬車と徒歩の旅行者にもすれ違った。

 ゾラが言葉を交わして、カリスとガレも後ろで軽く頭を下げて挨拶をした。

 そうするうちに太陽は天辺に昇り、お昼ご飯と休憩になった。

 お昼は乾燥物を簡単に食べる。

 そのあとは荷物はゾラのところに置いて、カリスとガレは近くある湖を見に行くことにした。

「あまり遠くに行くなよ。何かあったらすぐ大声を出せよ」

 ゾラに見送られて、木立の向こうできらきらと光る水面がずっと気になっていたのだというカリスの希望だった。

 湖に着くとカリスの歓声だった。

「きれいな水だね。冷たい!」

 ガレにはそれほど珍しい物でもなく、岸でしゃがみ込んで水の中に手を突っ込んでいるカリスを後ろから眺めていたのだが、このとき意を決した。

「なあ。おまえって、ほんとに家に戻らなくていいのか?」

「ガレ。それ、なに?」

 カリスの返事は、背中を向けたままだった。

「だってさ、家出って言ってたけど・・・」

「ゾラが来たから、僕が邪魔になってきたの?」

 普段の声だったけれど、普段ならカリスはこっちを振り向いていると思ったからガレは焦る。

「そうじゃないよっ、だけど、気になったんだよ、家出の理由、なんにも俺聞いてないじゃん!」

 ぱしゃぱしゃ水をかき混ぜている音がしていたが、返事が返ってこない。

「おい、カリス!」

「そんな話聞いてもつまらないよ」

 涼しげな声だった。だからガレの声は逆に熱くなってくるのだ。

「気になるんだっ、俺には秘密で、話せないことなのかよ!」

 勢いがよかった水音がぴたっと止まった。

 ガレにとって、カリスはどこか怖いところがあった。

 小さくて女の子のようで、明るくておしゃべりだったけれど、こんな風にいったん空気が変わってしまうと、どうしていいのかわからなくなってしまう。

 怒らせたのだろうか。

 謝った方がいいのだろうか。

 べつに謝るようなことなどしていないはずなのに、そうすべきだろうか。

 だけど、ガレは謝らなくても済んだ。

 カリスがガレを振り返って立ち上がっていた。笑顔だった。

 怒ってはいないようだった、ガレには、だ。

「あのね。僕の家族はね。みんな僕を嫌いなの。みんな、僕がいないと良いと思っているの」

 そのあたりの話なら一度聞いていた。

「そんなこと、ほんとにおまえ、言われたのかよ」

 ガレには信じられなかったから、思い過ごしじゃないかと思ったのだ。

 カリスは普通の人間で、しっぽも生えていないし、追われる必要もない。ガレとは比べものにならないほどいい物を着ている。

 カリスが言っているほどの苦しみなどあるように思えなかったのだから、甘えてるいるのではないかとーーー。

「言わなくてもわかるよ」

「じゃあ実際に、言われていないんじゃんかっ」

「言われなくてもわかるよっ」

「なんだよ、それ」

「事実だもの!」

「はあ?」

 もう少しで馬鹿みたいだと言いそうになっていた。

 でも言わなくてよかったと思った。

 僕もみんな嫌いだからいいの、と頑なな前置きをした後でカリスは言ったのだ。

「みんな、ずっとグルになって僕をだましていたんだ」

 欺すのは悪いこと。

 カリス一人除け者にされて欺されていたのなら、カリスが家族を嫌いになって家出をしても当然かもしれないと思ったかもしれない。

 話してくれずひた隠しに隠し続けるカリスの態度に腹を立てていなかったら。

 そして、続きの話を聞かなかったなら、ガレは単純にそう決めたかもしれない。

「お母さまは、病弱でもなんでもなかったんだ!」

 でもそのあとカリスから飛びだしてきてしまった内容は、簡単ではなかった。

「だけど僕を産んで死んでしまったんだよ」

 カリスは激しく怒っていた。

「その日に、急に。僕を産んですぐ!僕が一歳の時まで生きていたなんて嘘だったんだ。僕を産んで死んだんだよっ・・・それなのに、みんなして欺していたっ・・・」

 カリスの声は最後には震えて聞き取れないほどに押しつぶされていた。

 そうして再び繰り返されたのだ。

 みんな僕を欺していた。

 大きめな瞳はそのとき、ガレを見ていなかっただろう。

 瞬きもなくただ見開かれて虚空を見つめていた。

「・・・お母さんは、僕が生まれてすぐに死んだのに・・・欺した、僕を。欺すなんて僕を嫌っている証拠だ・・・」

 小さなつぶやき。

 虚空にはガレには目に出来ない痛点があるのだ。

「そんな、・・・それは違う」

「違わないよ!」

「違うって」

 カリスの言っていることは間違っているのだと、なんとか否定したいガレにカリスはさらに強く断言していた。

「そんなの嘘だよ!心の中ではちゃんとそう思っているくせに、みんなそう言うんだ。嘘ばっかりだ。そんなはずないよ、みんな僕のこと嫌いなのに、愛してるってお母さまだって言ったわけじゃないのに、みんな、愛しているって嘘を言うっ・・・だいっ嫌いだっ!」

 気になっていたカリスの家出の理由を聞きはじめたのは自分、そして今度はガレは、はぐらかされずにちゃんと教えられた。望み通りで喜んでいいはずだったのに。

 だけど今、ガレは聞かなければよかったと思っていた。

 叫んだ後、カリスは浅い息を繰り返していた。

 カリスは苦しんでいるんだと知ったけれど、じゃあ自分はどうしてやればいいか、ガレにはわからなくてただ突っ立っているしかない。

 違うと言っても、聞き入れられない。その他にどう言っていいのか思いつかなかったから。

 笑顔が消えたけれどカリスは泣いてはいなかった。

 でもその代わり、ガレが泣きそうだった。

 しかし、そんなガレの前で当の本人のカリスはにこっと笑ったのだ。

「だから、聞いてもつまらない話だって言ったのに。・・・でも大丈夫だよ。ガレ、そんな顔しないでよ、僕は平気なんだもの。嫌われていても僕もみんなを嫌いだからおあいこだものね!」

 ガレには返事が出来なかった。

 昼下がりの日差しは明るくて温かだった。

 光を弾いてカリスの髪は優しくきらきらと輝いていた。


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