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野良猫物語  作者:
2/7

ガレとカリスと、ゾラの物語 2

 さすがにガレも疲れて足が重くなってきて、道から少し逸れた空き地に焚き火を熾していた。

 雑木林も近く、枯れ枝もすぐに集まってすぐに赤々と炎は揺れはじめた。

 暖かい炎を挟んで、ガレとカリスは向かい合って座っていた。

 旅人がよく野宿に使う場所らしく、燃された焚き火の跡や、座りやすい椅子として用意されたのだろう太い丸太も転がっていてすぐに落ち着くことができたのだ。

 夏を迎えようとしている季節は野宿も辛くはなくなっていた。

 満天の星空が屋根のように広がっている木々の枝の合間から二人の少年を見下ろしていた。

 誰もいない夜のなか、ガレは街のなかではかぶり続けていたフードを背中に落としていた。

 黒い猫のような耳が二つ。ガレの黒い髪の間から生えてときどきぴくりぴくりと本物の猫のように動かされていた。

 耳を見つめていたあと、カリスの視線は下に降りてきた。

 地面の上だった。

 たぐなったマントの間から、期待通りのものが顔を出してゆるりゆるりと動いている。黒色のガレのしっぽだった。

 じっとカリスが見ているとしっぽはさっと布の下に引っ込んで消えてしまった。

 ガレが自分の視線を感じて隠してしまったのだとカリスもすぐに気が付いて未練っぽい声で言った。

「しっぽ・・・」

「食べるか?」

 ガレは鞄の中から燻製肉を取りだして、半分をカリスに差し出していた。

「ありがとう」

 受け取ったカリスは今まで食べたことのないような焦げ色の固まりを、躊躇いなくすぐに口に運んで囓っていた。

 お腹など空いていないと思っていたけれど一口噛むと、急に空腹感に襲われて硬い肉を思い切り頬張っていた。

「おまえさ・・・家出はいいけどさ。食べ物も何も持っていないだろ。馬鹿じゃねえか?」

 お皿もフォークもないガレの食事を、きれいな格好のカリスが食べるかどうか半信半疑だったガレが、結果に一つ息を吐いて、自分も口のなかに入れた。

「俺が食い物持っていなかったらどうしたんだよ。食うもんなくて腹減りじゃん」

「ガレに会わなかったら、買い物に行っていたよ。だけど、ガレに会ってすっかり忘れちゃったよ」

 咀嚼の間から灰青色の瞳が、さらっとただの事実のように言い訳をしていた。

「驚いて、忘れちゃっていた・・・街を出てから思い出した」

 それからごそごそと上着のポケットに手を突っ込んで、はいとガレに伸ばされた。

「これを売ってね、買い物しようと思っていたのだけど買わずにすんじゃった。ガレに食べ物貰う代わりにガレにあげる」

 掌に載せられたものはぴかぴかのコインかと思ったが、もっと高そうなものだった。

「指輪!うわ、でかい石!!」

「あげる。だからまた明日も、僕にも食べ物ちょうだいね」

「おまえ、これさ、すげえ高いんじゃねえの?これを盗んだから追いかけられたんじゃねえの?」

「違うよ」

 疑わしそうに言うと、窃盗には無実のカリスが少し嫌そうな顔になっていた。

 脳天気ににこにこしている奴でも、こういうことには潔癖なのだと知った。

「これはずっと僕が持っていたものだもん。僕のものだもの」

「大きさ合わないじゃん。嘘言うなよ、指にぶかぶかだろ、こんなん」

「お母さんのなの。お母さんもお母さんに貰ったものなの。それを僕が貰ったの!」

「それを俺に渡しちゃっていいのかよ?」

「いいの。僕はそれ好きじゃないから」

「でもそれこそ、そういうのおまえが誰かにやっちゃったらお母ちゃんに怒られるぞ」

 すると、しばらく黙り込んでから「怒らないよ」と小さく言った。

「だっていないもの」

「おまえの母ちゃん、死んだのか?」

「こんな話、つまらない!つまらない!!それよりか、明日の話をしようよ」

 癇癪を起こしたように鋭く言ったあと、ころっと雰囲気が変えられてしまって、またにこにこと笑うカリスに変わっていた。

「ガレはどこに向かって歩いていくの?」

 苦手だなあと、ガレは感じていた。

 そうして笑顔を向けられしまうと、それ以上に聞けなくなってしまうのだから。

 そして、その女の子のような優しい笑顔が少し怖いのだと思った。

 よくわからないけれど、カリスは最初の予想とは違って馬鹿じゃないのかもしれないとガレは思ったのだ。

「別に行く当てなんて、無いけどさ・・・」

「ないけど、どこへ?」

 どこと、繰り返して聞かれてガレは口を割っていた。

「・・・“楽園”」

「楽園?」

「“楽園”。・・・俺たちの世界。ニンゲンがいなくて、俺たち獣人が楽しく安心して暮らしてゆけるという秘密の場所・・・」

「西の園・・・獣人が生まれた神話の“揺りかご”?」

 世界の東の園では人間が生まれたのだ。弱い人間のために新たに作られた揺りかごと、西の古い大きな揺りかごを比べたときどちらが快適かという議論が、ニンゲンと獣人の最初の仲違いの原因と物語はいう。

 でも神話の場所が、世界に本当に存在するなどと思ってはいなかったのでカリスが驚きを隠せなかった。

「知らなかった。あるんだ、本当に!そこをガレは目指して旅をしているんだね」

「あるかどうか、知らないよ。・・・だけど、安心して俺たちが暮らせるのはニンゲンがいないきっとそこだけなんだよ」

 憂鬱な心地になってガレは説明を付け加えていた。

 そんないい旅をしているなんて誤解されているのは、酷く虚しいと思ったからだ。だったらただ彷徨っているのだと同情の方がまだマシだいう気がした。

 しかして、カリスは。

 そっと、「そうなのか」と言っただけだった。

 ぱちぱちと焚き火の炎が楽しげに踊っている。

「じゃあ。そこに着いちゃったとき、僕は入れないんだね・・・」

「はあ?」

「だって、そこは獣人の揺りかごだから、僕はそこまでガレに一緒にくっついていちゃけないんだよね・・・」

 聞いているとこれは現実的な話なのか非現実なのか、ガレには判断が付かなかった。

 カリスは、馬鹿なのか頭がいいのか、とぼけているのか本気で言っているのかガレにはとても難しかった。

「あ。じゃあ、僕は揺りかごの少し外に暮らすよ。で、僕には入れないからガレが出て、ときどき僕に会いに来る。それでいいね!」

 にっこりとカリスはガレに微笑みかけていた。

「・・・そうだな。それだと、問題はないよな・・・」

 現実にそんな夢のような場所が存在するのか、存在するとして無事に自分に行き着けるかがそれ以前の大きな問題として横たわっているわけだけれど。

 カリスによると、それは問題ではないらしい。その後のことで、でもその解決策も無事、カリスは自分で見つけたようだ。

 行き着いてしまうまで自分たちは一緒にいて、カリスが入れない場所に着いた後は、入り口あたりにカリスは留まってときどきに会う、ということになるという。

「信じられない話だ・・・」

「・・・なにが?」

 自分たちがこのさきそんな風に、一緒にいるという話だ。

「・・・大丈夫。信じていいよ、駄目だって言われたら僕、ちゃんと守る、・・・ガレ達の楽園には入らないから」

 カリスがこんなだから、ガレには言葉もない。

 目を見張るガレのまえで、ゆらゆらとカリスの身体は今にも倒れて行きそうに揺れだしていた。

「寝るんだったら、草の上で寝ころんで寝ろよ。・・・こけたら怪我するぞ」

「・・・うんわかった・・・」

 目も半分閉じられたままで、もぞもぞと伝って這うようにお尻をのせていた丸太から降りると、ごろりと力尽きて倒れるように横になっていた。

 すぐに規則正しい寝息が聞こえだした。

 ガレでも今日は走ってばかりの日だと思ったぐらいだから。

 平気そうな顔をしていたけど、カリスはとても疲れていたのだろう。

 話はまだ途中だったけど、中途半端に終えられてしまっていた。

 でも一つだけは言えることがあるかもしれない。

 明日の朝、自分はこのカリスと一緒にいるということ。

 ガレの意志や同じ子供でしかないカリスの思いなど、もっと強いものと向かい合ったときどう吹き飛ばされるかわからないけれど、少なくともカリスはガレといるつもりでいるのだ。

 一瞬迷ったけれど、ガレはマントを脱いでいた。

 隠れていたしっぽに夜風が当たって涼しくなった。

 あたりには大きな生き物の気配はなかった。しっぽを狙っている一番身近なニンゲンも眠ってしまっているのだから、平気だろう。

 そして脱いだマントをガレはカリスの身体の上に広げてやった。



 ガレはほとんど眠れずに朝を迎えていた。

 マントを脱いでいたので寒かったのかもしれない。

 朝日が上がって辺りが明るくなって、取り戻したマントを身につけたガレは眠りこけているカリスに声をかけていた。

「・・・おい。もう太陽は昇ってるぞ・・・」

 んんっ・・・と寝ぼけた後で、ぱちっと長い睫が開いて、フードもすっぽり被っているガレを認めて驚いた顔になった。

「おはよ、ひどいよ、置いてかないでよっ!」

「・・・だからこうして置いてってないじゃん」

 飛び起きて髪を掌で撫でつけているカリスに、向こうに小川が流れてて顔が洗えるとガレは教えていた。

 カリスの準備が整うと、今度は干した甘い果物を囓りながら歩き始めていた。

 行く先は、昨晩カリスに話したとおり西の揺りかごだった。

 どこにあるか、知らないけれど、西だろう。

 西に向かうのだ。

 とにかく向かう。

 ぐずぐずしていると追っ手がやってきてしまう気がしたからだ。

 オリドの街から。

 カリスが出てきた街からの追ってが追いかけてくる。

 追いかけて、取り戻していってしまうかもしれないと思った。

 そうして無理矢理ガレから持って行ってしまうと、また自分は一人になってしまう。

 渡さないと、ガレは思った。

 何を。

 カリスをだ。

・・・どうして?

 浮かんだ自問にすぐに自答も浮かんでいた。

 ああ、それはカリスがいれば、隠れ蓑になるから。

 もしもの時に一緒にいたらカリスの陰に隠れることができるから。

 カリスを盾にできる。そういうことなのだ。

 お金持ちそうで、女みたいな顔をしていて、みんな二人がいたらガレではなくカリス方に注目するだろうから。

 カリスはいろいろ役に立ちそうだから!

 夜の間一人考えていて、ガレの中に生まれた疑問は朝にはすっかりと解決できていた。

 あとは、カリスを急かしてさっさと歩いて行くだけだった。

「行くぞ」

「うん。今日も晴れていて良かったね。雨降ってたら濡れちゃうんだものね」

 ガレの打算をわかっているのか、なにもわかっていないのか。もしかしてわかったうえでどうでもいいと無視なのか。

 カリスは朝日のように明るかった。

「西に行くんだね。このまままっすぐに歩いていると明後日にはファームルの街につくかなあ」

「ファームルには行かない。その手前で逸れてアシの村を通り抜けて行くつもり」

「南寄りになっちゃうよ」

「アシから山道を通って一気にサザントーイに入ろうと思っているんだ。そっちの方が人の通りが少ないだろうし、いざとなったら山に逃げ込むことができるし」

 サザントーイとはファームルの果てに広がる大きな街だった。

「山の中って走りにくくって大変じゃない?」

「だからいいんじゃないか」

「・・・そっか」

 頷いたカリスは納得したようだった。

 二人は歩き出していた。

 穏やかに晴れた眩しい光の中で、すっぽりと頭から深緑のフードを被っているガレと、田舎道には浮いているきれいな青色の上着と爪先の細いブーツに宝石のブローチといったカリスが並んで進んで行く。

 野良仕事に向かう農夫の馬車や旅馬車が二人とすれ違って行き、三台目以降の馬車がやって来たときには、カリスが首を傾げているうちに気が付くガレの指示で街道脇の木立や藪の陰に隠れてやり過ごすようになった。

「用心はしすぎることはないし」

「うん、そうだね。休憩にもなるし僕は賛成だよ」

 緊張した面持ちのガレに、カリスは笑って応じていた。

 耳を澄まして、馬車や人の気配に警戒していた。

 一人でいるときより遙かに気を配りながらガレは歩んでいた。

 ガレ一人の運命じゃない。カリスと二人分の責任がガレの肩にずしりと乗っかっていた。

 カリスを守らなくちゃいけない。

 ガレにそんな理由などないのに生まれたときから決められていたことのような気分になっていた。

 自分は絶対カリスを守りきっていかないと駄目なのだ。

 あとはもう無い。

 二度とこんなチャンスは巡ってこないかもしれないのだから。

「ふう、ちょっと疲れたかも」

 次第に立ち止まることが頻繁になってきているカリスの暢気さに苛立ちながらガレは必死になってカリスをなだめて急かして歩かせていた。

「お腹が空いた、お腹がぺこぺこ。もう今日は無理、食べないと動けない!」

 ガレの予定としてはもう少し先まで進んでから野宿にするつもりだったけれど、太陽が傾きだしたころには、すっかりカリスは座り込んでしまって駄々っ子のように空腹を訴えるのでガレは仕方なく折れたのだ。

 道から焚き火の明かりが見えない窪地を選んで枯れ枝を集めて早めの準備をしているなかで、ガレの気持ちを知らないカリスは半分食べた乾し肉を握りしめたまま眠り込んでいた。

 本当はカリスの家出のことなどもっと詳しく知りたかったのだけれど、カリスは目も覚まさず朝まで眠り続けていた。



 翌朝は日の出頃には大きな雨粒が、一つも星が輝かなかった空から落ちはじめた。

 眠っているカリスを起こすと引きずるように近くの木の根本に移動していた。

 寝起きの悪いカリスが足下にぺたんと腰を下ろして目を閉じた頃にはすっかり世界は灰色で本降りの兆しだった。

 他に方法はなく空を睨んで雨が止むのを待っているガレの横で、たっぷり眠ったあと、むくりと頭をもたげたカリスだった。

「ぜんぜん起きないから死んじゃったのかもって思った」

 ずっと眠っていたカリスに面白くないガレが嫌みっぽく言うと思わぬ反撃がやってきた。

「違うよ!変なこと言わないでよっ。いびきかいていたでしょ!!」

 唇を尖らせて、叫いてほんとに女みたいな奴と思わせるカリスに、

「いびきはかいていなかったよ・・・」

 激しく眉を吊り上げられる前で、ガレは剣幕に圧されるように否定しなくてはならなかった。

「おまえってよくわかんねえ・・・」

「ガレが変なことを言うからだよ。死ぬとか、そういう言葉は気安く言ってはいけないんだよ。ほんとになっちゃうんだよ、知らないの?」

「言わなくたって現実になるときはなるよ・・・」

一瞬考えて、ガレはそう言うと「それは、そうだけど・・・」と、不服そうに頬を膨らませた後、うん、と一つ頷いてからカリスはきっぱりと言った。

「僕はそういうの好きじゃないから言っちゃ駄目なの!」

じっと睨まれるからガレはたじたじっと逃げ腰だ。

「・・・わかったよ・・・言わないようにするよ」

「うん、ならいい、許してあげる!」

 目を覚ましたカリスと、どしゃ降りの雨の音を聞きながらの会話はこれだった。

 ガレはやっぱり、自分はいろいろカリスに負けているような気分になって、ちょっと癪にさわった。でも正面からぴたっと見られて言われると強く出られない。でもそれもそれほどは悪くないのかもとも感じてしまっているけれど。

 気を取り直して朝ご飯を二人で囓っていた。鞄から取り出した乾燥した食べ物だった。

 雨は降り続いたので動くことはできずに二人は木の根本で雨を避け肩を寄せ合うように座って時間を過ごしていた。

 カリスはすぐに再びうつらうつらと眠りだして、しばらくするとこつん、と不安定に揺れていた頭がガレの肩に当たっていた。

 押し返すのも大人げないのかなと迷っているうちに、ずるずるとカリスの身体が傾いてきて、ガレはすっかりクッションがわりにになっていた。

 ガレは少し考えて、まあいいか、と思った。

 肌寒い天気だったのだが、カリスの身体がもたれかかっているところは温かかったからだ。

 昼近くになって、雨はいったん上がっていていた。

 またすぐ降り出すだろうという黒い雲が空を占めていたが、雨は一応やんだので少しでも移動しようとガレは考えた。

 二人になって食料の減りは二倍になっていたから、補充もしなくてはならなかった。そのためにもアシの村に早く着きたいと思っていたのだ。

 よく眠った後で足取りも軽くなったカリスと、ぬかるんだ道を走っていったがまもなくして雨はまた降りはじめてしまった。

「うきゃあ、冷たいっ」

 青色の上着を脱いで頭から被ったカリスが薄い胴衣を通して背中を濡らされて甲高い悲鳴をあげた。

「冷たい、どうするのガレ!体温で乾くまでずっと走って行くの?」

 雨の中を、乾くまで。

 ふざけた顔もせずに、こいつはそういうことを言う奴だとガレもわかってきていた。

 ただし、本当にまじめなのかどうかはまだわからない。

「どっちでもいいけど。おまえの好きなようにしていいよ」

 走り続けるには雨は激しすぎるから、どこかで雨宿りを。時間はまだ早く晴れているなら太陽は西に傾くかけたばかりの時刻だったろうが、日が照らない今日は暗かった。そのまま静かに野宿に入ろうと考えていた。

「うわぁ。靴の中も水浸しだよ。気持ち悪い、じゃぶじゃぶいっている!」

 カリスは歓声のように明るく騒いでいたが、走る勢いがふと弱まって、立ち止まってしまった。

 雑木林の奥に向かって腕が伸ばされていた。

「あそこは!?」

 濡れて灰色に見える木々の間にぼんやりと明かりが見えた。

 近づくと一軒の農家だった。

 古くて小さな母屋の横に、同じようにみすぼらしい納屋が立っていた。

 入り口の扉は半開きになっていて、家畜はおらず藁や農具が暗がりに積まれていた。

「ここがいいよ」

 母屋の中を窓からこっそりと覗いてみたガレは、小さなおばあさんが暖炉のまえの揺り椅子に座って編み物をしている様子を確認していた。

 閑散とした部屋の物の無さにも、老婆の一人暮らしなのだと判断がされた。

「ああ、ここで宿を借りることにしよう」

 無断だったが、家主にとって、今夜取り立てて用のない場所を少し眠るために借り受けるだけで悪さをするつもりはないのだから。

 だから、わざわざ断わりにゆかなくてもいいのだとカリスも納得した。

 雨が降り続いている。

 鍵が掛けられておらず元々扉も半開きだった納屋に忍び込むと濡れた服を脱いで、二人は積まれた藁の山のなかに潜り込んだ。

 暗くなってきたのでランプに明かりを灯して、残っていた乾し果物と肉の薫製を半分ずつ、藁から頭だけを出して分け合って夕ご飯だった。

 食べ終えてもひもじさが残っていたが、二人とも口に出さずに藁布団のなかでうとうととなっていたときだった。

 ガレは、不覚だと飛び起きたが遅かった。

「あれまあ。なにか様子が変だなあと思ったら。狸の仔よりもずっと大きい子どもが二人もおるでないか!」

 大きな明かりに照らされて眩しくて、ガレは慌てて腕を翳しただろう。

 年を取った女主人が皺の奥に落ちくぼんだ小さな眼を、このときばかりは大仰に見開いて戸口に立って二人を見ていた。



「ごめんなさい、おばあさん。僕たち、黙って納屋を借りていました」

 脱いでいた肌着を慌てて身につけてある程度の身支度を整えたカリスが、丁寧に頭を下げて謝っていた。

 ランプと反対の手にはパン生地を捏ねる棍棒を握ってやってきた老婆の前に立って、その一歩後ろにガレがいた。

 上着までは着る時間がなかったカリスと違って、そちらはマントのフードまで目深に被っていた。

 自分より背の小さいカリスの陰に隠れるように背を丸めて俯いて立つガレの緊張をカリスは感じ取っていたから、庇うようにもう一歩前に出た。

「ごめんなさい。でも明日の朝まで、雨がやむまで休ませてもらおうとしただけで、物を盗んだり壊したりするするつもりはなかったのです」

 カリスにはよくはわからなかった。

 カリス自身はもし自分の屋敷の庭に、ガレのようなしっぽの生えた者が迷い込んでいたら、大歓迎で嬉しいと思うのだ。

 追い出したり、捕まえたり、大声を出すこともしないと思うけれど、ガレは怯えてしまっている。

 この小さなおばあさんに。

 気づいたとき、横のカリスの反応がぼんやりとあれほど悪くなかったら、納屋の奥の窓に飛びついて外に逃げ出してゆく勢いだったのだ。けれど状況をすぐには飲み込めなかったカリスがいたから、ガレも動けず立ちつくすことになってしまった。

「ごめんなさい、おばあさん。すぐに出て行くので許してください」

「なんでこんなとこにおる。坊たちは家はどこだ、家出か?」

「え?」

「揃って家出してきたのか、兄弟なのか?」

「兄弟じゃないです・・・」

 カリスは答えていた。

 嘘をついてもすぐにばれてしまう。着ている物の雰囲気が違いすぎるだろうから。

「友達です。・・・僕も友達と一緒に行こうと、家出しました・・・」

「・・・馬鹿たれだな。今ごろ親御たちは心配しとるに」

 もごもごと歯数が少し減っている口元を動かして、低く怒ったような声で老婆はこぼしていた。

「こっち、来い」

 カリスは驚いて、後ろのガレのマントの端っこを掴んでいた。

 だっと走り出してカリス一人、置いてゆかれないようにだった。

「後ろの大きい子もはよ、来い。濡れたままでこんなところにいるのは気持ち悪いだろう、向こうに暖炉もあるし、芋だけじゃがスープもある。食べるといい」

 どうしたらいいのかわからないカリスが、ガレを窺っていた。

「ほらさっさとしろ」

「・・・はい」

 カリスが二人分の返事をしていた。

 ガレのマントの端を握りながら、カリスはガレと老婆の後ろに従って、母屋に入っていった。

 捕まったわけではない。

 よぼよぼの老婆で、少し強く突き飛ばせばやっつけることができる。

 無視してカリスを引っぱって去ることだってできただろう。

 だけど、そうしなかったのはカリスに出会っていたからからかもしれない。

 もしかして、また逃げなくてもいいのかもしれないと、ちらっとガレは考えてしまったから。



「ガレは頭に禿があって、それを気にしてるの」

 勝手にすごいことをカリスは言っているとガレは思ったが、口に出さずに与えられたスープを黙々と口に運んでいた。

「禿ができてから、性格暗くなっちゃってあまりしゃべらなくなったけれど、本当はとても優しいから僕は好き」

 笑顔で説明するカリスの話をすっかり信用したのか、老婆はふうんと頷いたあとちらっとガレに目を向けた。

「禿なんて気にすることないのに。死んだ爺さんも禿とったが平気だったぞ」

 ニンゲンの老婆と目があってガレはびくっと背筋を伸ばした。

「まあ、仕方ないか。子供だからな、思い悩んでもな・・・。でもくよくよすると余計に禿げると言うぞ?若いでそのうち生えてくるからあまり気にしんことだ」

 うんうん、と必死に頷いて自分に向けられた話題をやり過ごそうとしているガレだ。

 鞄から取り出した布でガレは耳の生えた頭をくるむように巻いて隠していた。

 しっぽはお尻まで長い上着の下に入れて、マントは脱いでいた。

 乾いた衣服を貸し与えられて、食卓に湯気が立つ温かいスープとパンを並べると鷹揚に、席に着けと命じた老婆の名はオードルだと聞かされ、二人もそれぞれ名前を名乗っていた。

「うふん、二人はガレ坊の故郷に向かって旅をしているってことか。子供だけでか、あまり感心はしないがなあ・・・」

 言えない本当を隠して適度の嘘が入り交じる説明は、勿論カリスが、すらすらと口にしたものだ。

 まだまだ緊張に凝り固まっているガレは満足に言葉が見つからなかったが、横にいるカリスがガレの分もうまくオードルと話をしていた。

 カリスにとっては三日ぶりの温かいご飯だった。

 ガレにとっては、何日ぶりかなんて数えられなかった。仲間と生き別れになって一人になってからははじめてだった。屋台で狩った獲物を売ってお金を持ち合わしていても、街の食堂に一人入って食べようとは思わなかった。そんなふうに一人テーブルに座って運ばれて、どんと置かれていった料理をニンゲンのなかで一人きりで食べても味はきっとわからないだろうから。

 だけど、今は少し状況は変わっているのだ。

 ガレの横にはガレのしっぽを知っているカリスがいて、お金はあまり持っていないからと言ってもスープを出してくれたオードルだけのこぢんまりとした空間だった。

「うまいか、禿の坊。お代わりが欲しかったらまだあるぞ」

 嘘なので、むごい呼ばれ方でもガレは腹は立たなかった。

「おいしいです。・・・でももうおなかいっぱいです」

「嘘つくな。まだ入る顔しとる」

 はなっからガレの言葉など聞くつもりはなかったのだろうか。

 さっさとお皿にお代わりが入れられてガレのまえに戻っていた。

 惜しげもなくなみなみとした汁のなかに芋が少しだけ沈んでいるというスープだった。

「・・・ありがと、ございます」

 ガレの様子を隣で見ていたカリスがうふっと嬉しそうに笑っていた。

「坊も食べるな?」

「はい、いただきます」

 そして、オードルが後ろを向いている間に、そっとガレを肘に小突いていた。

「僕、芋だけのスープってはじめて食べるけど、こんなに美味しいって知らなかったよ」

 高級そうな格好をしているカリスだったから、芋だけのような質素な料理は食べたここがないのだろうなあと思ったものだが、美味しいのは本当だった。

「ああ、とても美味しい」

 食事のあとは、もう寝る時間だなと、オードルはベッドを用意して二人を押し込んでいた。

 無理矢理で強行な態度だったから、しばらくしてガレはこっそり扉を開けて様子を窺ってみたが、鍵を掛けられて閉じこめられいることもなくオードルは暖炉の脇のソファーを寝床にして眠ってしまったことを知った。

 安心してベッドに戻ったガレは一つ息を吐いた。

 狭い寝室に一つのベッドだった。

 ふかふかとは言えなかったが、布団に掛布で屋根付きの夜だった。

「嬉しいね。今日は背中痛くないね」

 ランプの明かりのなかでカリスは楽しそうにしていたがガレは聞いて反対に口の端を歪ませなくてはならなかった。

「おまえ、そんな背中痛かったのかよ?」

「あ。そういうわけじゃないけどね。でもこっちのほうが土よりも軟らかいわけだし。ガレもこっちのほうが嬉しくない、きっとぐっすり眠れて明日はいっぱい歩けるよ」

 誤魔化しているような笑顔だとちらっとガレは思ったが、追求はせずに別のことを口にしていた。

「あのばあさん・・・嵐で庭に倒れた木を邪魔そうに言っていたよな」

 食事をしながらガレの禿の他に話題にあがったいくつかの話のなかの一つだった。

「うん。通路にどんとあるから通りにくいって。腰が痛いし、一人では動かせられないんだって言ってたね」

「その目的があったから、俺たちに優しくしたのか?」

「さあ。わかんないけど、でもスープ僕たちの分新しく材料追加して作っていたよ。温かくてとても美味しかったね」

「なにが言いたいんだよ」

「べつに、なんにもだよ」

 爺さんのお古だという大きなシャツを夜着に借りて着ている二人は、古くて、少し動くとミシミシ音がするけど広さだけは少年二人十分休める大きなベッドでごろごろと転がって話をしていた。

「だって、僕はガレにくっついてゆくだけだもん!」

「おまえ、ひ弱だもんな」

 カリスのふわふわと漂うような、のらりくらり交わすような言い方にガレは腹を立て言うと、カリスはぱっと頭を上げて上を向いて寝そべっていたガレを見下ろした。

 怒ったのかとガレは思ったが、そういうわけでもなかったようだ。

「うん。僕はひ弱だよねえ〜。だから、倒れた木をどかす作業、ガレが一人でやってね」

「はあ?んなこと誰がやるって決めたんだよ!」

「ガレ」

「言っていないだろっ!」

「ん。ならいいけど、僕は出発までゆっくり寝てるからね!」

と笑顔で言った。

 やはりカリスは怒ったのかもしれないとガレは思った。

「おやすみ、ガレ」

 さっさと背中を向けると掛布を被るほどに引っ張り上げてしまう。

「・・・おやすみ・・・」

 本気で、出発まで一人眠っているつもりなのだろうかとガレは心配になってきていた。

 ニンゲンでその上さらに自分より小さいカリスにはたいした力など望めないだろう。だから自分がやるしかないのだろうなあと思っていたけれど、カリスは部屋のベッドでうとうととしていてガレが一人働くのは、たとえば手伝わなくてもそばに立っているとでは全然気分が違うってものだろう。

 しばらく考えて、ひ弱だと悪く言ったことを謝ろうかと思って、カリスの顔を覗いたけれれど、ガレは断念だった。

 カリスは女の子のような長い睫を閉じてもう眠ってしまっていたから。

 かわりにガレは腕を伸ばして枕元のランプの明かりを消した。

 カリスはへそを曲げてしまって、本当に手伝わないつもりだろうか。

 悩ましく、眠れないかもしれないと思ったのもつかの間、ガレの意識も穏やかな眠りの世界に吸い込まれていった。



 ベッドの布団のなかで目を覚まして、一瞬驚いたが、隣にはカリスが眠っていた。

 自分を取り巻いている状況を思い出して、頭の禿を布で隠してしっぽも上着の下に入れたガレは次第に憂鬱になってきていた。

 薄いカーテンの窓の外の空は昨日の色が嘘のようにきれいに晴れた空が広がっていたが、視線を下に落としたときそれを思い出してしまった。

 約束でも命令されたわけでもなかったけれど、ガレにとって決定事項になっていた。

 宿と食事のお礼としてオードルおばあさんのために、倒れた木を邪魔ではないところに移動させるのだ。

 ガレはまた、自分が八つ当たりにカリスのことをひ弱だと言ったこともしっかりと思い出して、だから暗い気分だった。

 自分一人でやるのだろうか。

 たぶん、がさがさとやっていたら、オードルが気が付いて見に来るかもしれない。そのとき普通にしゃべられるか自信がなくて嫌なのだ。

 小さく声をかけてみたが、起きる様子はない。

 カリスは元々、朝が弱い質で目覚めが悪いのだから、普通でも簡単には起きやしないだろう。

 もう一回、もう少し大きな声で「カリス、朝だぞ」と繰り返してみたが、結果は同じだった。

 ぶすっと頬に空気を溜めたガレが、マントを着ようかと迷ったがやめた。

 マントを着ていると目を覚ましたカリスが、また慌てるかもしれないと考えたからマントはベッドのそばに置いたまま窓から外に出ていた。

 雨降りのあとで濡れて朝日にきらきらと光る庭だった。

 石を並べて作られた垣根の扉に繋がる一本の通路の真ん中で横たわる秋の嵐に倒されたという大きな枯れ木にはガレもなるほど、邪魔だと思った。

 ご飯をもらったので。

 ベッドも使わせてもらったから。

 しぶしぶだった。

 ガレはまず軽く腕で抱えて集められる枝を集めて庭の縁運んでいった。

 昨日の雨の中で折られたのだろうまだ新しい枝だった。どうせきれいにしてもまわりには木が多いので、また嵐がやってきたらこんな風になるにきまっている、とぶつぶつ言いながら、枝を外に放り出して戻っていったガレは。

 いつのまにかその大木の近く、しゃがみ込んでガレを見上げているカリスの姿を目にしてとっさに言葉はなかった。

「・・・おまえ」

「なに?」

「・・・んなところに座っていないで手伝えよ」

「ひ弱だもん」

 一晩経ってもカリスもしっかりと覚えていて根に持っているのだ。

 むっとなったガレに構わず、カリスも怒ったような表情で続けていた。

「それにガレ、僕を起こさなかったもん。一人でやりたいんでしょ」

「お、起こしたぞっ!声掛けたけどそっちが起きなかったんじゃんか!」

「違うよ」

「違わない!おまえ、寝ぼすけ、ぜんぜん起きないじゃんかっ」

「・・・違うよ、そんなことはないよ?」

 カリスもガレの剣幕に怯んだようで、首を傾げていたが

「ひ弱な手伝い、いる?」

「いる・・・」

「じゃあ、謝る?」

「・・・わかったよ、謝ればいいんだろ、ひ弱って言ってーーー」

「べつに謝らなくていいよ!」

 にこっと笑顔になったカリスが、よっこらしょと、老人のようなかけ声を口にしながら立ち上がった。

「だって、謝られても僕、ひ弱だもん。軽いのしか持てないもん!重いのは全部、ガレが持ってね」

 青い上着の袖をまくったカリスが足下に落ちていた枝を拾い上げた。

 最初に石や木の枝を取り除いて、そうしているうちに斧が納屋にあると姿を現したオードルが教えて、二人で大きすぎる倒木を解体していった。

 抱えられるほどに割った木をすべて庭の隅まで運び終わったガレと、カリスにオードルが声をかけた。

「二人ともありがとな。助かったよ、もうこれで大跨ぎしたり、夕方つまづくこともなくなった。二人のおかげだなあ。さあ、ご飯だ。禿の坊はわしらじゃ無理だと思った大きな木の固まりを引っぱってくれた。お腹もどんと空いたろう、たんとお食べよ」

 オードルにとって禿の坊の働きは感動が深かったようで、禿の坊、禿の坊、とガレは繰り返し褒められた。

「ほんとは禿じゃないのにね・・・」

 これには、禿だと説明したカリスは罪悪感があるため小さく誰にともない不平をこぼしたが、当のガレは平気だった。

「べつに、俺、禿てると思われてても平気だし」

「・・・そう。でも、僕はなんか、いやかも・・・」

 あんまり物事を感じていなさそうなカリスでも禿は嫌いなのかと、発見したガレは笑顔だった。

 自分が笑っていて、カリスがふてくされた表情。こんなことは出会ってからこっち、珍しかった。

 そうと気が付いてさらにガレは、心が楽しくなっていたのだ。



 でもその楽しさは長くは続かなかった。

 井出で汗をかいた額を拭って、汚れた手を洗ったあとミルクとパンと焼いた薄いハムの朝食を食べ終わったぐらいの間までしか保たなかったのだ。

 ガラガラと馬車が家に近づいて遠ざかってゆくと思われたとき、急に音が止まり、変わって馬車が引き返してきたことを感じていた。

 オードルと楽しそうに話をしていたカリスはどうかは知らなかったけど、ガレは気が付いて密かに背中のうぶ毛を逆立てていたのだ。

 オードル老夫人にはだいぶん慣れて、いくらか話もできるほどに緊張を解けるようになっていたけれど、すべてのニンゲンにそうはいかなかった。

 知らないニンゲンが扉を叩いて、オードルの返事を待たずに開けて入ってきたのだから。

 大柄の、鍬の似合いそうな農夫の中年の男だった。髭の顎、太い腕。

 腰には野良仕事に使うのだろう鉈を提げていた。

 男にとって普段の他意のない仕事の格好だったがガレは腰を浮かすほど警戒をしていた。

 顔が引きつっているのが自分でもわかったが、どうにもできなくて早く去ってくれるように祈るように俯くだけだった。

 男が入り口に近い椅子に座っていたガレの横に立っていた。

 ガレのもう一方のほうの腕に安心させるようにカリスの手が触れていた。

「おはよう、ばあさん。今、仕事にゆく途中だったんだがな、驚いて寄ったところだよ」

 質素な部屋に似合わない大声が壁にぶつかって跳ね返って殴られているような気持ちになってガレは身体を竦めていただろう。

「おれも、ついつい、頼まれていたんだが先延ばしにしちまって悪いとは思っていたんだが」

 がはがはっと笑って頭を掻いたあと

「庭の倒木だ。それが今日見たら、きれいに片づけられていてどうしたんだと驚いたんだよ」

「おまえも、忙しいからな。気にしておらんよ。気長に待っているつもりだったんだが、そうしたらこの坊たちがな、朝一番にやってくれたんだ」

 オードルは皺の深い小さな顔に親しみのこもった笑顔を刻んで説明していた。

 男は近所にする者で、オードルとは気心の知れた関係のようだった。

 自分たちに男の視線が向けられているのを感じてガレの腕は小刻みに震えだしていたが、ガレの様子に注意が向くまえにカリスだった。

「おはようございます。僕たち泊めていただいて、もうこれでお暇するのですけれどお礼と思って」

「ちっこいおまえたち小僧が二人であの木をどかせたのか?」

「小さく切って三人で運んだから」

「それにしても、断ち割るだけでも大変だったろうに」

 感心した響きだった。

 男の胸あたりの身長でしかない少年が二人で、よくやったものだと感嘆の色を浮かべつつでも、信じられないなあと納得できない目もしていた。

 だから。

 おばあさんは説明したのだと、カリスは思っている。

 カリスも驚いて言葉を失うことになったのだけれど、オードルおばあさんは普通の態度で、いやそれ以上に素敵なことを打ち明けるような笑顔、意地悪ではなかったのだろうと。

 でも結果は最悪なものだった。

「こっちの坊はな、耳が生えている者だから、力がうんと強くてな。細っこいのに楽々と木を担いで運んでくれたんだ」

 言葉がすべて終わるまえにガレは椅子を蹴って立ち上がっていた。

 立ち上がったガレの腕を男は別人のような怒っているような笑っている奇妙な顔に変わった男の太い腕が掴み取っていた。

 ガレは獣人のニンゲンよりも強い膂力で男を激しく振り払って、男は背中から壁に吹っ飛んでうめき声を上げていた。

「あっ、あ、やめて。この子たちを苛めないで、いい子だよ」

 穏やかな朝食の光景を一変させた老婆が悲鳴をあげて、おろおろと男の元に寄っていった。

「この野郎、やりやがったなっ・・・ばあさんどいてな。ばあさんの取り分は半分だ。借金に取られてしまった爺さんの土地をこれで取り戻せるぞ!」

 立ち上がった男の言葉をオードルは繰り返していた。

「爺さんの土地・・・」

「そうだ、取り戻したいんだろう、じいさんに顔向けできないってっ。こんな幸運二度と来ないぞ、ばあさん!」

「・・・爺さん・・・」

 オードルが男をなんとか止めようとしていた手が離されたのをカリスは視界の端で見た。

 ガレは寝室に荷物とマントを取りに走ってそして、男はすばしっこいガレではなくカリスの方を先に捕まえようとした。

 こちらを押さえることで、ガレを捕獲しやすいと考えたのだ。

 大男が両腕を広げてカリスに迫ってゆく。

「・・・どうか、落ち着いて・・・うわぁ、嫌だあ!」

 手が伸ばされてじりじりと後退していたカリスの後ろは壁でもう逃げ場所はなくなった。

「嫌だ、こういうのはっ、離して、離してよ!」

 身を捩って暴れたが、がっちりと大きな男にカリスの抵抗など痛くもないようだった。

 が、ガレの体当たりを喰らって男は再び壁に肩をぶつけることになったが、寸前にうまくカリスが腕から逃げ出した。

「ガレ」

 カリスはガレに手を伸ばした。

 ガレはカリスの腕を掴み取っていた。そしてそのまま二人で戸口に向かった。

 転がっている椅子を飛び越えて、暴れた振動でテーブルから床に落ちた皿が幾枚も割れていた。

 そのなかでオードルは落ちくぼんだ瞳に悲しげな光を湛えて立ちつくしてこちらを見ていた。

「・・・おばあさん・・・」

 一瞬振り返って何か言おうと、なじろうと口を開いたはずだが、ガレには言いたいことがわからなくなってしまっていた。

 つんと鼻の奥が熱くなった。

 ガレはカリスの手を引いて前を向いて走りだしていた。

 走って走って村を出て山の中までずっと休むことなく。

 何度か木の根や石に足を取られて転びそうになりながら走り続けて、ずっと手を引っぱられていたカリスの心臓が爆発する寸前に、ようやくガレは立ち止まっていた。

 ガレはそのまま木の根本に蹲ってしまった。



「ガレ・・・」

 カリスは考えてようやく見つけた言葉だった。

 カリスはそっと名前を呼んだ。他に良い言葉は見つからなかったから。

 でもいったん声を出したあとは大丈夫だった。

「ああ、もう、追いかけてきていないみたい。追いかけてもガレ、足早いから追いつかないね。あ、でも僕が一緒にいて足引っぱっているか・・・。ガレ一人ならもっと山ほど走れたのに、僕がふらふらになっていたから駄目だねえ、もっと走れるようにならないと・・・」

「一人でも走れないよっ!」

 ガレは噛みつくように叫んで、カリスは歌うような一人しゃべりの口を閉ざしたのだ。

「足が震えて走れない、がたがたいっていてとまらない!手も震えてるっ、こんなのもう嫌だ!」

 ずっと感情をフードの下の耳のように感情もじっと押し殺しているようなガレの絶叫だった。

 やはりこうなってしまったのだ。

 これではいつもと同じだった。

 耳がバレたらお終い、獣人と知られたガレには居場所がないのだ。

 珍しい生き物としてただの獣とのように追われてしまう。お母さんとばらばらになって、おじさんはガレを岩陰に隠した後、ハンターの前に跳びだしていって、しばらくして誰もいなくなったとき、ガレは這いだしておじさんが走った道とは反対に広がる林へと逃げたのだ。

 それきり、お母さんもおじさんの消息も知れなかった。

「嫌だよ」

 こんなの、もう嫌だと、言っても無駄とわかっていてもにガレは止められなかった。

「こんなの、もう嫌だっ!どうして、おばあさん、優しかったのにっ!俺も普通にしてたのに、あのヒト、やっぱり裏切った!俺の耳をあの男にバラして、俺を売るつもりで最初からいたんだ、きっと!!」

「ガレ・・・」

 琥珀の瞳からはぼとぼとと大粒の涙がこぼれていく。でもガレは拭うことせず叫んでいた。

「なんで、俺は普通にいたいだけだよ、どうして捕まえられて殴られないといけないわけ、檻に入れられて売られなくちゃならないんだよっ!!」

 しゃくりあげながらガレは訴えていた。

「俺は悪いことしてないんだ、ただしっぽと耳が生えてるってぐらいなのに、どうして仲良くできないんだろうっ、なんで殴るんだろう、武器を持って自分の子供だと殴らないのに俺だと殴るんだっ、ニンゲンは俺たちのこと嫌いなんだ!・・・ほんとはおまえだって・・・」

 そこでガレの声は震えて消えていた。

「ねえ、ガレ。・・・僕のことまでは勝手に決めないでよ・・・。僕はガレが好きだよ。確かに殴る人もいるけど、だけどみんなじゃない。ガレのこと好きだって人、ちゃんといるよ」

 痛ましそうに、でも怒ったようにカリスは蹲っているガレの横に膝をついて腰の鞄を示したのだ。開けてもいいかと丁寧にガレに断ってからガレの鞄の蓋を開けた。

 中からカリスが取りだした物は、数枚の古びたコインと布にくるまれたパンやゆで卵などの食べ物、そして古い帽子だった。

 どれもガレが入れた覚えがない物を見せられて、驚いて涙は止まっていた。

「オードルおばあさんがね。ガレが仕事しているときに僕にくれたの。最近物忘れが多いから、うっかりと出かけのときに忘れるといけないからって。もらって僕はガレの鞄に入れて置いたの」

 まったく知らなかったことでガレは目を見張ったが

「・・・でもあのばあさんは、結局裏切ったんだ!」

 悔しそうに悲しそうにガレの顔は再び歪んでいた。

「・・・それは、僕は少し違うと思うんだ。オードルさん、昨日の夜でも食事が終わったに、食事はもう食べたかって、何度も何度も聞いていたでしょ。お歳だから忘れちゃうんだね。だから、あの時もすっかり、ガレの耳のことを話したらどうなるかってことを忘れちゃっていただけだと思うの」

 黙って話に耳を傾けているガレはズズっと鼻をすすり上げた。

「オードルさん、きっと最初からガレのこと気が付いていたんだよ。だけど言わなかった。それで、ほら」

 ガレにカリスは帽子を差し出していた。

「これから旅するのに、マントでは暑いだろうし、布だと落ちるといけないからこれを使えって言っていたんだよ。でもうっかり忘れちゃって・・・。ああ、ほら、ガレの力持ちを嬉しそうに自慢するように言っていたと思わなかった?」

 優しい笑みを浮かべるカリスが、ガレの涙に濡れた手の甲の上にそっと帽子を置いていた。

 黒狐のような動物の毛で作られた帽子は大事にされていたとわかる品だった。

 大事にしてあったおじいさんの物。おそらく“禿”を隠すためにとガレに贈られた帽子だ。

 それをガレにと。

「ね、ガレ」

 カリスはそっと両腕を伸ばしてガレを抱きしめていた。

「ガレのこと好きな人は隠れていてなかなか見つからないかもしれないけど、ちゃんといるよ。だって、もうここに一人いる。一人いるなら何人もいるよ、絶対ね」

 ぎゅっと腕に力を込めていた。

「でもやっぱりいても現れないの意味はなくて、寂しいよね。ねえ、ガレ。僕はね、一緒だよ。一緒に“楽園”に行こうよ、早く。そこに行けばもうガレは悲しくならなくてもよくなる。そこに行こう!」

 さあ、とガレを抱きしめていた腕を解いたカリスは立ち上がった。

「行こう!」

 今度はカリスだった。

 涙でぐちゃぐちゃになっているガレに手を差し出していた。

 ガレは、光に集まる羽虫のようにふらりとその自分より小さな白い手に手を重ねていた。

 カリスは、ガレの手を掴むと引っぱっり立たせてもう一度。

「行こう!ガレ」

 ガレが見とれた明るく太陽のような力強さを感じた笑顔だった。

 ガレの手をしっかりと握ってカリスは駈けだした。



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