ガレとカリスと、ゾラの物語 1
年齢制限無し、350枚、童話風。
ちびっこさん歓迎、そのおかあちゃんも大歓迎よと、
優しく丁寧、難しくない言葉使いを目指して書いてました・・・。
ドジなんて、踏んでいないはずなのにずっとだった。
ガレは自分の後に付いてくる人影を気にして苛立っていた。
二人か三人だ。
裕福な街につきものの若くてガラの悪いちんぴらのような者たちで、たぶんただの物取りだと思った。小柄で一人でいる自分の持ち物を、隙を見つけて奪おうとしているだけ。
けれどその思うすぐそばから、不安はゆらゆらと沸き上がってガレを息苦しくすっぽりと覆い尽くしてしまうのだ。
苛々と唇を噛んでいた。
薄めのすっきりとした口元。少年らしい幼さと精悍さを両方合わせもった顔立ちがフードの陰にちらちら、と覗いていた。
表情は拭いきれない不安にこわばって、それは少年にとって恐怖と言えるほど強いものだと教えている。
ガレの足運びは、さきほどから早足から小走りへと変わっていた。
そして人通りのある大通りから脇へ一歩逸れてからは、全力に走っていた。
建物と建物の間の太陽の明るい昼間でもほとんど日陰になる細い路地は湿って薄汚れて、お世辞にも歩んで楽しいとは言えない道だった。建ち並ぶ店の裏口からいらなくなって放り出されたきりに置かれているような木箱や空き瓶が転がっている。
風雨に晒されるままのそれは急ぐガレの足下に、意地悪をしているような具合に。
でも、軽やかに道を走ってゆく小柄な少年・ガレにとって、こうしたどこの街でもあまり変わらない物たちの見慣れた光景は、かえって安心感を感じさせるものだった。
薄暗い道。
けれどもそれはガレが普段、望んで踏み込むものだったから。
よくも悪くもそこには人が少ないのだから。
それはガレに気づいて追いかけてくる者が少ないということ。
ガレの窮地に気が付いて、逆に助けてくれる者が出現する可能性も減ってしまうわけだけど今まで生きてきた中で、ガレは出会ったニンゲンに優しくしてもらったことはほとんどなかった。なら、そんなものは、すっぱりと当てになんかしないのだ、というのがガレの最近の気持ちだった。
走る。
走る。
全力で、現れた路地を最初は左に折れて、次はまた左。
交差した道を横切って次は右へ飛び込んでいた。
走ることに慣れるガレでも身体が熱くなり、マントの背中には大きく跳ねた拍子にころっと汗の玉が気持ち悪く転がり落ちて締めた腰の部分に溜まっている。
呼吸が上がって苦しくなっていた。
もうそろそろ、いいかもしれない。
追いかけてきていた者たちはやはりただの物取りで、勢いよく走り出したガレにあっさりと諦めたようで姿もと気配もとっくになくなっていたから。
もう大丈夫、だろう。
安心してもいいのだ、と繰り返して自分に言い聞かせながら、後ろばかりを気にしていたので、ガレは再び曲がって飛び込んだ先にひっそりとあった気配をうまく感じ取れなかったのだ。
ぶつかる寸前に気が付いて、うわっ、と驚いて止まろうとしたが無理だった。
どん、とガレは相手にぶつかってしまった。
それでもなんとか、顔と顔をぶつけてしまうのだけは避けて、肩。
「あっ」
という相手の声を、一緒になってなだれ込んで地面に倒れる寸前、すぐ近くで聞いた気がした。
でも、それを聞いた上で。
自分がぶつかってしまったのは女の子だとガレは思った。
うわ、しまった・・・女は泣き虫だ、と後悔と軽い罪悪感を感じて・・・。
でも違ったのだ。
相手は同じ男で、背の高さも歳も同じぐらいの13、4歳ほどの少年でガレの憂鬱は少し晴れたのだけどーーー。
女みたいな奴だった。
癖のある黒髪が項で一つに束ねられるほどに長く伸びてしまっているガレとは反対の白っぽい、金色の髪をしていた。
肩に届くぐらいのサラサラの髪だ。
少し広めの通りで建物の隙間から差し込んだ太陽の光を浴びてきらきらと輝いていた。
日焼けしていない白い肌、灰青色の大きな瞳にそこだけ紅い優しい色の唇。
声では男か女か判断できなかったのだけれど、顔を見ても女だと思った相手は、ぶつかって痛いと泣きだすのだろうかと内心びくびくしたガレの想像とも反対で、明るい声をあげていた。
「驚いた!」
大きな瞳は丸く見開かれてガレを見つめていた。
女だとガレに思わせた相手は出会い頭に肩をぶつけて押されるように後ろに尻餅を付いたのだが、突っ込んでいったガレはおでこだったろう。
とっさに手を着こうとしたがそこに押し倒した相手の頭があって、一瞬のためらいでしたたかにガレは自分の額を地面に打ってしまうことになった。
目の前の星が跳んだような痛みを、呻きながら掌で撫でて散らせているなかでガレの気持ちを逆なでするような楽しそうな声。
「ねぇ、ねぇ。すごいよ。すごい驚きだよ!きみ、すごい!!」
「はあ?」
高い声に耳にごく近いところで騒がれて、ガレは涙の滲んだ琥珀色の瞳を向けていた。
「・・・なんだよ・・・」
なにがすごいのか、そう言われてもガレにはまったくわからなかったのだから。
その響きには、褒めているかのような色があるから余計に不思議で無視できなかったのだ。
知らない誰かにそんな声をかけられたことなどガレは今までなかったのだから。
なんだか、くすぐったい。
向けられているのは、何かに驚いてはいるようだけれど明るく温かい眼差し、感情だった。
「・・・なんのこと、言ってんだよ、言えよ・・・」
ぶっきらぼうになった低い声に気を悪くした様子もなく、陽気な声が笑顔でガレにそれを教えていた。
「耳!」
自分の金色の髪の頭に両手を運んで、真似するように五指を立ててみせる。
「黒い耳!すごい!!」
無邪気な声だったが言われて、はっと気が付いたガレは、次の瞬間弾かれるようにその場から飛び退いていた。
距離を空けて、額をぶつけて涙目の不機嫌さは一瞬で威嚇するように鋭いものに変わっていた。
頬を緊張させている。そして、めくり上がったガレの唇の下に長めの牙のように尖った歯が覗いていた。
背を丸めて、ぎっと睨み付ける。
まるで、ほんとうに怒った猫みたいと思わせたガレの様子だったが、猫が苦手でないとみえる相手は、のほほんとした笑顔を崩さなかった。
「はじめまして、“猫”さん。僕の名前はカリス。ねえ、猫さんの名前は?」
瞬きもせずに激しく睨め付けるだけの相手に、カリスもようやく気が付いたようだ。
「あれ。・・・機嫌が悪いの?・・・ぶつかったから?・・・でもそれはきみが走ってきたからだし、・・・避けられなかった僕もそりゃあ、悪いだろうけど・・・」
じゃあ、謝るから。と神妙な顔になった。
「ごめんね、痛かった?大丈夫・・・じゃないみたい、おでこ、赤くなっちゃってるね・・・」
カリスが服に付いた砂をぱたぱたと払いながら立ち上がっていた。
ガレは一歩退いた。
そこはもう建物の壁で背中に硬く当たっていた。
走り去ればいいのだとわかっていたけれど、驚きすぎて足は動かなくなっていた。
マントのフードがぶつかった衝撃に脱げてしまったのだ。
被っていたものが背中に落ちてしまって、見えないように隠していたものがあらわになった。
“僕はカリス”と名乗った少年が見つめていたのは、二つの大きな耳だった。
ガレの黒い頭に生える猫のような黒い耳。
「・・・“猫”さん?」
一言もしゃべらない相手にカリスも不安になってきて、小さく尋ねるような声になった。
「・・・“猫”、“猫”呼ぶな。・・・“猫”じゃねえよ。俺の名前は、ガレ、だ」
「わかった、ガレ。じゃあ、ガレって呼ぶよ。僕はカリスだよ!よろしくね!!」
強ばった表情のままのガレに、ふふっとカリスは笑っていた。
カリスはガレに手を伸ばしたら、ガレの手はさっとカリスの前から後ろに隠されてしまった。
「あ、握手、嫌いなの?そう、わかった」
一人頷いた後、カリスは再びガレを見つめた。
「ところで。急いでいたみたいだけどどうかしたの?約束の用事とかあるなら急がないと・・・。旅行者みたいだね、この街、きっときみより僕は詳しいから案内してあげるよ」
また笑顔だった。
さあ行こうよ、と促されてどこかに連れて行かれそうになるのでガレは慌てて答えていた。
「・・・別に約束なんかねえよ・・・」
「あ、そうなんだ。よかった、暇なんだね、じゃあ僕と話そうよ!」
あまり自然に屈託なく言われたガレは断る言葉が浮かばなかった。
ただ呆然となって、ガレはカリスの楽しげな表情を見つめて立ちつくしていたのだ。
「ガレ、どうかしたの?」
すると、不思議そうに首を傾げられてしまい、ガレは大きくゆっくりと息を吸いこんだ。
そして、ふうぅとゆっくり、全部を吐き出していた。
「なんでもねえよ」
普段の声が出せてガレは心の中で安堵していた。
もっとも声の最初は、少し震えてしまったけれど。
「ねえ、ガレ。しっぽ」
その後の、カリスの第一声はそれだった。
「しっぽもあるの?」
いいや、ととっさに言えなかったガレに、肯定と判断したカリスが、うふっと嬉しそうに微笑んで、思いを率直に口にした。
「見たいな。見たいなあ、もし嫌じゃなかったら見せて欲しいなあ。耳は黒いからしっぽも黒いのかな?黒いしっぽ、僕、見せて欲しいなあ」
ガレはむっつりと、さらに不機嫌になっていたけれどカリスは鈍感かのか、気にしないのだ。明るい口調でまくし立てるようにもう一度言って、大きな目を期待に輝かせて、ガレの返事を持っている。
見せてと言われたしっぽ。
あたりには他に人の気配のない静かな路地だった。
もう見られてしまったので、慌ててフードを被り直すのも格好悪いと耳はそのままにしていた。
ガレの黒い髪の間からするっと生えた猫のような黒い三角形の耳は、遠くに聞こえる物音に反応してぴくぴくっと動いている。
そんなガレの耳を面白そうにちらちらと気にしながら、カリスの灰青色の瞳はガレの琥珀色の目の奥を、そこにガレの気持ちが隠れているとばかりに覗き込む。
「しっぽ、駄目?嫌?」
手を伸ばせば相手にさわれるぐらいの距離だった。
だけど二人とも、相手を乱暴に突き飛ばすこともしないで静かに向かい合っていた。
カリスに軽く首を傾げてねだるように聞かれてガレは考えていた。
嫌なのかと訊かれてあらためて考えてみると、すると別に嫌ではないと思ってしまった。
ガレのしっぽや耳は、嫌とか好きとかの話ではなく、見せてはいけないことのはずだった。だけど失敗を犯してしまったガレは、耳をすっかりと見られてしまった。
その上で、さらにしっぽは嫌なのかと聞かれているのも変なものだった。
ニンゲンに見られて、見つかったら珍しい生き物と捕まえられることになるかもしれないというガレの耳としっぽだ。
ニンゲンではない生き物・“獣人”の証であり、特徴だった。
しばらくガレが一緒に行動していた仲間たちは、それがニンゲンにバレて追われて逃げているうちに離ればなれになってしまい、今、ガレは一人になっていた。
獣人だと気が付けば追いかけてくるニンゲンのなかでも、特に危険なのはハンターという職種の者たちだった。
彼らは仕事として、ガレのようなニンゲン以外の種族を追う。追って捕まえて、売るのだ。
珍しい生き物は見せ物小屋の“看板”になったり、もっと裕福なニンゲンは個人で大金を払って所有し、家畜や愛玩動物のようにされるのだとガレは聞かされて育ってきた。
うまく逃げているから、ガレは今までそんな風に捕まって売られたことはなく知識に過ぎなかったけれど、武器を持った人相の悪い男達の集団に追いかけられて必死に森を走ったことは何度も経験があったのだ。
ニンゲンと、ガレのような獣人は世界の創造の神話ではともに生まれた兄弟であり、仲の良い友であるのに、現実には全く違っていた。
歴史のなか仲が良く隣人として暮らしたという時期はあったけれど、長くは続かずその一時期以外は追うものと追われるもの、そして決まって追われるのは獣人の方だった。
ニンゲンのような外見のうえに獣のような、耳やしっぽがあるという獣人は、“猫”型、“犬”型、“蜥蜴”型と数種存在していたけれどどの種族もただのニンゲンよりも腕力が優れていたり丈夫な身体をしていて、とっくみあいの喧嘩をしたなら決して負けないはずだった。けれど、そうとはならないのだ。獣人は負けてしまう。
追われるのだ。圧倒的に数で負けてしまうから。
世界の主人公とでもいうように、増えて大きなグループを作り、街や国を築いたニンゲンのなかで獣人の数はあまりに少ないためだった。
今や獣人は、数も少なく珍しい貴重な生き物になりつつある。
猫や犬よりも、頭脳が発達している。会話もできる。
数が少ない、このままではしばらくの間でいなくなってしまうからと、心配するニンゲンもいるけれど、彼らも獣人を見つけると保護という名目に捉えようとするなら一緒だった。
ガレは追われるのだ。
追われるからニンゲンを恐れて、捕まったりしないように警戒しながら強く生きてゆくしかないのだろう。
まずは、ニンゲンの振りをして。
耳やしっぽを見られないように、見られたらおしまいだから。
解決策としては、あとはもう噛みついてでもニンゲンを振り切って逃げるしかないーーーと思っていたところだったのに。
ガレはちらりとカリスを盗み見た。
カリスの態度はいろいろと想像していたものとも、経験してきた今までともどちらとも違うのだ。
襲いかからない。
嫌なにやにや笑いもないし、うわっと嫌そうな悲鳴もあげなかった。
興味を持ってガレに触ろうと手を伸ばしてきていたけれど、それは握手をしようとしたと説明していた。ガレが拒否したあとは立っているだけで再び手を伸ばすことはない。ガレを捕まえようとも、また違う生き物で危ないと追い立てることもしないのだ。
ただ、信じられないような明るい笑顔で「ねえ、ガレ。しっぽ、しっぽ。見せて?」と繰り返している。
だから、ガレは少し困ってしまうのだ。
カリス。
とても変な奴だとガレは思った。
カリスはきれいな格好をしていた。
ニンゲンのなかでは裕福な貴族というランクなのだとガレははしゃぐカリスを冷静に眺めて判断していた。
光沢のある青色の上着に、艶やかなブーツ。
胸のところには水色の大きなブローチが留めてあって目立っていた。
大きな石のブローチはとても高価そうだと宝石に知識のないガレでも感じるものだった。
だから、もしかして。
こいつはもしかして馬鹿かもしれないと思い当たったのだ。
獣人じゃなくて、同じニンゲンであっても、外で子供が良いものをひけらかしているのは危険なことだろうに、そんな簡単なことも気が付かないのかお金持ちそうな格好で一人街を歩き回っている様子のカリス。
女みたいな可愛さの綺麗な優しい顔で、裕福で恵まれた育ちだけど中味はどうやら馬鹿なのだ。
なら、と考えたガレは、それほどカリスを警戒しなくてもいいのかもしれないというものに行き着いたのだ。
そう、こいつはきっと馬鹿なのだ。
だったら真剣になってそんな奴から逃げ回っているのも、馬鹿みたいではないだろうか!
「しっぽ、しっぽ!」
ガレが答えないでいる、しっぽが見たいというカリスの訴えは飽きることなく続いている。
「・・・ああ、別にいいけどさ・・・」
ガレは渋々に言うと、弾けるようにカリスだった。
「やったあ、ありがとう!」
よくわからないけれど、お礼を言われてガレは少し威張るようないい気分になって鼻の頭を指で擦っていた。
「しっぽ、しっぽ!・・・そうだ、マント持とうか?」
すかさず入った申し出だったが、ガレは頷かなかった。
「・・・別にマント脱がなくたって見えるじゃん」
「・・・そうだけど・・・マントない方がよく見えるかなあと思ってさ・・・」
ガレに却下されて少しがっかりとしたようだったが、カリスはめげなかった。すぐに立ち直って笑顔になった。
もっと持ち上げてよ、暗くて見えないよ、と細かく注文されてガレはむっとなりつつマントを胸のあたりまでたくし上げていた。
深い緑で、だけど少し草臥れた感じになっているフード付きの外套、マントを請われて捲ってあらわれたガレの衣服は上も下も動きやすい簡素なデザインの黒だった。その腰のあたりを別の深い光沢の良い黒が紐ベルトのように巻かれてある。
まるでベルトそのものに見えたが、カリスはちゃんとそれがわかっていた。
艶のいい紐の丸い先っぽがときどき生き物のように動いている。
その通り。それは生き物で、ガレの身体の一部のしっぽなのだ。
「へえ。そういうふうに普段は胴にくるって巻いてるの?」
「・・・下に降ろしていたら先っぽとか、見られるかもしれないじゃん」
膝あたりぐらいの丈のマントの下からしっぽが見えてしまったら危険だと不機嫌に説明したガレに、そうか、とすぐにカリスは屈託なく納得した。
「触ってもいい?」
「・・・はあ?」
ガレは隠すようにマントを持っていた指を開いて幕が下ろされ、遠慮のない要求にガレの声は素直にすこぶる尖っていたが、カリスはもっと素直になって尋ねていた。
「あ、やっぱり、嫌?引っぱったりしないよ、そっと触るだけだよ。ただ黒い毛皮がね、つやつやでとても気持ちよそうそうだなあと思ったから。・・・耳でもいいけど、耳だともっと嫌かなっと思って」
そこまで言ったあと
「・・・でもやっぱり、こういうの駄目だよねえ・・・」
ずっと陽気だったカリスは雰囲気を変えて、急に沈んだ声音になっていた。
「・・・僕になんか触られるの、きみも嫌だよねえ・・・」
「はあ?なんだよそれ。そんなこと誰も言ってねえじゃん。っていうかおまえにという前に、嫌だよ、そんなん、触られるの。おまえだって、知らない奴に身体触られるの嫌だろが!」
「・・・うん。・・・たしかに、そうかもしれないけど・・・」
剥きになって声を荒げたガレに言われてカリスも何かを感じ入ったようだった。
けれどそれで大人しく納得するかと思いきや、カリスはそうはならなかった。しばらく考えた末にさらにこう口を開いたのだ。
「友達だったら平気だよ。触ってもいいよ、僕なら」
ねえ、とガレに訊いていた。
「きみは?」
再び雲の切れ間から差し込んだ太陽の光のようににわかに明るい表情になったカリスに、ガレはたじたじとなっていた。
古くて薄汚れた路地の木箱は慣れていても、こんな風にころころと風に吹かれる木の葉のように表情を変えるものにあまり関わったことはなかったのだ。しかも相手は危険なニンゲンだというのに。
きみは、どうなのと、人懐っこい笑顔で聞かれてガレには、なんだかよくわからなくなっていた。
いや、少し想像したけれど勝手な思いつきを信じることはしてはならないことだった。あとでがっかりして動けなくなってしまうことになると駄目だから、自分にはわからないことだと決めたのに。親切なカリスは丁寧に言葉を足してガレに聞き直した。
「きみも友達だったら平気だよね?」
疑問ではなく確認で、ガレの返事は困った末に怒ったような声になって
「・・・おまえ、友達でもなんでもないじゃん!」
「そうだよねえ、さっき会ったばかりだものねぇ・・・」
しんみりと言ったあとで、うふふっと笑ったのだ。
「じゃあ、もっと時間が経って友達になったらしっぽ触らせてね!」
絶対、こいつは馬鹿だとガレは思った。
友達になどなれると思っているのだろうか?
と、訊いてやったのだ。ガレは腹が立ったから。そうしたら
「どうして、なれないの?・・・きみは僕のことがやっぱり、嫌いなの・・・?」
酷く悲しげになって言った。
「そ、そんなことじゃなくてっ」
嫌いとかではないはずだった。
しっぽが自分には生えていて、おまえには生えていなからというもっと重要なことが問題なのに、ガレが出会ったカリスは馬鹿だから手に負えなかった。
苦手だと思った。
わけがわからない。どうやって考えていたらいいのかわからないのだ。
答えられずにいるとカリスはとても強い声音でガレに聞いたのだ。
「好き?嫌い、どっち?」
「・・・別に、嫌いじゃない・・・」
考える余裕はなく圧されるようにガレは口に出していた。
大きな瞳にひたっと見据えられてかなり切実に聞かれている気がしたから。
痛いほどの真剣な表情になったカリスの目は、突然別人に入れ替わったように強くて、だけどとても寂しい色にガレには見えてしまったから。
嫌いだ、と言い切る理由だってまだ出会ったばかりでありはしないのだから。
するとカリスは。
やはりそうなった。ふと過ぎった嫌なガレの想像通り。
「良かったあ!じゃ、そのうち友達になったら約束ね、しっぽ触らせてね!」
黒いつやつやしっぽ、約束、約束!!と歌うように続いて、ガレを無頓着な笑顔で追いつめるのだ。
「・・・そのうちな・・・友達になったらなっ」
歳は同じぐらいだけど、女の子みたいな顔をして自分よりも背が低い相手なのに情けなく負けてしまっているような気になって腹立たしいガレの声は、とてもぶっきらぼうだった。
ガレは歩き出していた。
急いで向かわなくてはいけない約束はなかったけれど、じっとしていると居たたまれない気分になってくるからだ。
落ち着かない。
向けられる期待に溢れる明るく大きなカリスの瞳。
話題が見つからなくて少し黙っているけれど、一番彼の言いたいことはガレにはもうわかっているのだ。『しっぽ、触らしてね』だ。
友達になったらと約束して、約束をちゃんと守るつもりなのだろう。
カリスは無理矢理触ろうとも、触らせてよとももう言わなかった。
だけど、立ち去らない。
ガレの後を追って付いてくる。
とことことしばらく歩いて、角がやってきた。
曲がったガレは、走り出していた。
さっきとは違ってそれほど嫌な気持ちにはなっていなかったけれどカリスが気になって、普段ではいられない、巻いてしまおうと思ったのだ。
だれど相手はやはり、さっきとは違っていた。街のごろつきではなく、カリスという裕福そうなきれいな格好をした女の子みたいな顔立ちの奴であり、結果だってさっきと同じとは簡単にはいかなかったのだ。
しばらく走り回ったけど、上手くカリスを置き去りにできなかった。立ち止まって大きく肩で息を吐くガレの少し後ろで、こちらはもっと苦しそうにぜいぜいと呼吸して、カリスはしゃべることもままならないという様子だった。
今、もう一度走ったら。
ちらと考えたけれど、とても意地悪な気がしてガレはやめたのだ。
自分よりも小さいカリスがこれだけ走って付いてきたことに驚いていたし、ただの変な奴だけではないのだと知った。根性があると評価してもいい。
ガレは少しカリスを見直していた。
「・・・おまえ、変な奴だな」
「・・・そう、かな・・・。僕にとっては、ガレの方が変だよ、なんでこんなに走るのか・・・もう、疲れたよ・・・」
はあ、はあと荒い呼吸の間に、呆れたような文句混じりの言葉が紡がれた。そうしているうちに次第に呼吸も整っていったカリスは、最後には前屈みになっていた身体をぴんと伸ばして、にこっと汗ばんで髪を額の縁にへばりつかせている顔を綻ばせた。
「走るのが好きなガレでも、これだけ走ればもう十分だよね。じゃあ今度はゆっくり歩こう!」
「・・・少しだけ、な。いいよ、おまえに付き合ってやる」
深緑色のフードを目深に被って、しっぽはきちっと腰に巻いているのだろう。昼の光のなかで少々暑苦しい旅人の格好のガレの横を軽装の、青色の品の良い上着の一見で街を行き交う人々のなかでも上流の部類の人間だと知れるカリスは、相手に意地になって走るのも疲れたのでゆったりと歩いていた。
少し進むうちに細い道は大きな通りにぶつかってなくなってしまった。
仕方なく多くのニンゲンや馬車が行き交う通りを歩んでいた。
ニンゲンがいっぱいの場所は嫌いだったが、一緒に一人ガレと歩いているからなのだろうか。不思議なことにこのときはあまり怖いとは思わなくなっていた。
カリスを。
ガレはちらりと横目で見ていた。
カリスは前を見ていたが、視線に気が付いたようにガレを見て、にこりとまた笑う。
「なに?」
「別に・・・」
「あ、走りすぎて疲れたの?ならどっかで休んでもいいよ」
「ち、違うよっ」
それはおまえの方だろう、と気色ばんで言うと、カリスはけろりとして、僕は平気だよ、と言う。
「だけど、ガレが疲れたのなら一緒に休憩するよ。我慢しなくていいよ、言ってよ」
本気でガレを心配しているのか、やせ我慢なのか。でもとにかく自分より小さい女の子のような、しかも身体の作りが弱いニンゲンに案じられているなどガレは、やっぱり落ち着かなかった。
走ることよりも、こうしてカリスと一緒にいることが調子を狂わされてしまい遙かに疲れるとガレは思った。
だから、それがふうぅと大きな溜息になったのだ。
「おまえってさ、何、考えてんのよ」
黙々と並んで歩いていることに慣れ、また飽きてきたガレはしばらくしてカリスに低く尋ねていた。
「どういうこと?」
カリスはガレの言葉に不思議そうな顔をした。
「だから、言いたいこと」
「しっぽ触りたい!」
「・・・それじゃない、それはもう聞いたよ。友達になったらって決めたじゃん」
ガレの意見はなく、ただカリスが勝手にだったがそう決まった。
「じゃあ、なに?」
カリスが、わからないと歩きながらガレを見て首を傾げた。
「だから・・・俺も見て耳としっぽが違っていて気持ち悪いとか、俺の方が力あるし、爪も尖っているだろ、怖いとか、思わねえのか?」
ちらりとカリスはガレの手元を見ていた。
ガレはカリスのために少しマントの間から指先を覗かせていた。
耳としっぽほどではないけれど違いのある、猫のように爪が出たり引っ込んだりする“猫”型の獣人のガレの手だった。
「爪は格好いいけど、掌とか腕とか普通なんだね。しっぽや耳のように毛皮になっていない。面白いね。お腹とかは?」
ふさふさしているの、と聞かれたら答えは、違う、だったけれど、それはもうすでにガレが持って行こうとしている方向とは話はすでに逸れていってしまっている。
しかし、答えないでいると余計に変な方向に、たとえば、脱いで見せてよなどと言い出されそうなのでガレはしぶしぶ答えることにした。
「お腹も背中もおまえと一緒だよ。毛は生えていないよ。耳としっぽだけだ。・・・なんでとか聞くなよ、俺だってそんなこと知らないんだ!」
「ふうん、そうなんだ」
新しい知識を仕入れることを喜びにする勤勉な学生のように頷いたカリスだったけれど、そうこうしているなかで最初の大きな感動を思い出してしまったようだ。
「ねぇねぇ!やっぱりさ。すごいよね」
カリスの声はまた楽しげに弾みだしてゆく。
「僕、本当にね、きみみたいに歳の近い“猫”さんに会うのはじめてだったんだよね!」
華やいだカリスの声に、慣れないガレはうるさそうに顔を顰めている。
「ああ、ねえ。きみの兄弟とか、お父さんとかお母さんとかみんな黒いしっぽ生えてるの?・・・すごなあ、みんなでしっぽ!!」
確信で、はっきりとカリスは変な奴なのだ。
ガレにはいまいち理解できない妙な感嘆がいつまでずっと続きそうで嫌になってガレはカリスを遮るように口を開いていた。
「何がすごいのか。・・・俺にはまったくわかんないけどね」
わざと冷たい声を出していた。
すごいと言われて悪い気分はしなかったけれど、何度も言われているとひねくれている性格のガレはへそが曲がるのだ。
「ああ、そうだよ、おまえの言うように家族、みんなしっぽ生えていたよ」
ありったけの毒を言葉に塗り込める。
「だけどしっぽ生えていなくて俺たちのことすごいとか思うおまえらみたいな奴にとっ捕まって、どっか連れて行かれちまったよ」
このあたりからガレの八つ当たりだった。
忘れられない悲しい出来事、カリスが悪いわけではなかったけれど腹が立ってきて心に湧き起こった黒いモヤモヤを目の前の子供で弱そうなカリスにぶつけたのだ。
「今頃、すごいしっぽとか、言われながら首輪付けられたり家畜扱いされてんだろうな」
突き放すようにガレは冷たい笑みをフードの陰からカリスに送った。
すると、カリスはぴたっと立ち止まっていた。
「・・・ひどいよ・・・そんなこと、言うなんて・・・」
数歩進んで振り返ったガレの琥珀の目の前で、灰青の瞳がさらに大きく見開かれて、次いで悲しげに揺れた。
「・・・僕はさ、そんなこと、ちっともしたいと思わないよ・・・」
「お・・・い、なんだよ・・・」
ガレはびっくりしていた。
「事実言っただけじゃん。・・・泣、くなよっ、おまえ男だろ!」
事実だった。
今まで、ガレにはこんな風に失敗して正体がばれてしまったあとはきまって、必死になって逃げなくてはならなかったのだから。
「・・・おいって。おまえがそんなふうに泣いたらさ、俺がなんか、おまえのこと、俺の方がおまえ、苛めてるみたいじゃんかよ!」
「事実じゃないもの。そんな風に僕はしないよっ!」
大きな目に涙を滲ませて女の子のように泣き出してしまったカリスに、ガレはひどく焦って慌てなくてはならなかった。
「・・・じゃあ、言い直すよ!おまえは例外・・・かもしれなくて、おまえ以外の奴は、そういうことをするっ!」
「・・・うん。僕は例外だよ。それだったら、いい・・・」
カリスはガレの言葉を聞いて満足そうに鼻をすすり上げながら頷いた。
良かったと思ったが、その次の瞬間、ガレは自分が完璧カリスのペースに巻き込まれてしまっているのだと気が付いて、ううっと呻きたい気分だった。
ガレの方も泣きたくなったぐらいだった。
けれど、こういう相手に動揺させられることは、動揺でもいろいろなものがあり、これは力一杯、物を蹴りつけたくなるような嫌なものではないと感じていた。
少し、面白いと思ったのだ。
カリスと一緒にいて、こういうのを楽しいというのだろうか。
湧きあがった一筋の甘さをガレはそっと噛みしめていた。
笑顔で、優しげな奴だと思っていたけど、感情の起伏が激しい。
そしてつかみ所もなくて、まるでカリスこそが猫みたいだとガレは思っていた。
ニンゲンだけど、猫。
きれいな毛並みで大人しげに見えても、機嫌が悪いと爪を向いてバリッと赤い筋を刻んでくれる小さくても獣、猫だ。街の路地でも、家々の屋根ではリボン付きを見かける。街で暮らす生き物だった。
もっと大きな二本足で歩く黒い“猫”のガレはというともう街での用事は済ませていた。
「食べ物を買いに市場にきたの?」
「違う。食べ物なら少し前に、捕まえたマダラ鳥で燻製、作ってある。パンも前の町で買ったものが残ってるし。・・・情報だよ」
「情報、なにの?」
興味津々と耳を傾けるカリスをちらりと見ながら、ガレは続けていた。
「・・・仲間の。この街に立ち寄っている奴、いるかなあと思って・・・」
こんな内容をニンゲンのカリスに話してしまっていいのだろうかという不安があって、悩み悩みだった。
「へえ、“猫”さんが集まってくる“猫”さん基地があるんだね!」
「そんなようなもん・・・」
「それってどこ?」
「はあ。なんでそんな秘密、おまえにしゃべらないといけないわけ」
「まあ、そうだけど。でもそこに行ったら、“猫”さんにいっぱい会えるんだなあと思ったから・・・」
叱られて静かになったカリスに、今度はガレは質問の番だった。
「おまえ、そういうの好きなはわかったけどさ、変な奴だな。なんでそんなん好きなんだよ、仲間でもないのに」
少し怪しんだのだ。
だけど、獣人の血の独特の匂いは薄まっているものでも大抵気が付くものだが、カリスには少しも臭わなかった。
ならカリスは、混じりけのないニンゲンなわけで、同族意識的な感情があるとは考えられない。
すると、やはりただの興味だろうか。
小鳥を見ると胸の奥が震えて切なくなり放っておけずに近づかずにいられないガレのような気持ちかと思ってみると、水を差されたように楽しい気分が薄らいでいった。
カリスはお金持ちの生まれだった。
なら、ハンターに売られる獣人をぽんと大金を払って購入するあたりの人種なのだ。
そういう目でガレを見ていて、自分も欲しいとでも考えているのだろうかという疑問が浮かんだ。
どんどん憂鬱になっていくガレの横でカリスも、しばらく黙って歩いていたけれど、少し明るさが陰った真面目な響きのする声だった。
「・・・仲間になれないかなあ・・・。僕はしっぽ生えていないから、無理かなあ・・・」
「なんだよ、それ」
驚きすぎてガレは呆れてしまう。
「おまえ、ニンゲンなのに獣人の仲間になりたいわけ?馬鹿じゃねえの」
ガレの方に目を戻して不思議そうに首を傾げられた。
「ニンゲンの方が生きやすいじゃん。なんでわざわざ、獣人の仲間になりたいなんて思うんだか!」
「駄目だから」
低い声で薄く笑いながらカリスは、はっきりと答えた。
「僕は駄目だから。嫌われてるから」
「・・・誰に、だよ・・・」
予想も付かない展開にただ、ガレは尋ねるだけだった。
するとカリスは紅い唇を尖らせて
「みんなに!」
「みんなって・・・」
「僕の家族」
漠然としたものから、一気にわかりやすい単位に絞られてガレは息を呑んだ。
「・・・家族に嫌われてるって・・・それ、おまえがなんか悪戯したんだろ」
「こんな話つまらないね、やめよう!」
つまらないから、おわり!
カリスはぱっと明るく宣言すると、その通りに話は終えられてしまったのだ。
ガレは気になってもっと詳しく聞こうとしたが、もう終わりの一辺倒にあしらわれてしまい、為す術がなかった。
「それより、しっぽの話をしようよ!」
「しっぽの話なんて俺はもっとつまらない」
というガレの言い分はすっぱりと無視されて、話題はまたガレのしっぽになってしまった。
「ねえ。しっぽ触らしてくれるって約束だけどね。友達ってどのくらいの時間が経ったらなれるのだと思う?」
「はあ。友達って時間でなるもんかよ」
「違うけど。でも目安はあったほうがわかりやすいよ」
ガレにとって、カリスは滅茶苦茶な性格をしていると思っていたが、間違ってはいないのかもとも感じるのだ。
時間ではないけど、目に見えない友達というものになったかならないか、判断ができないような気がするからやはり、時間という目安はあってもいい。
「一日話をしていたら?じゃ、三日?もっとで一月ぐらいしたら友達?」
友達というのも、実はガレにはよくわからないものだったが、カリスの言っている友達とはわかりやすいだろう。なぜなら、友達になったらしっぽを触らせる、ということであり、しっぽを触らせてもいいというガレの気持ちの頃合いが友達になったということになるのだから。
つまりカリスは、いつになったらしっぽを触らせてくれるのかと聞いているのだ。
カリスが言った一ヶ月なんていうのは気が遠くなるような時間だった。あり得なくて想像が付かないだろう。
一日だと、もうしばらくして夕方になるころには、触らせろ触らせろとせっつかれそうだと思った。
だから。
「三日」
これも十分現実味のない時間のはずだった。
三日も自分がこのカリスと一緒にいるなどとは変な夢を見ているようなものだからだ。だからとても適当だった。
「三日ぐらいじゃないか?」
「そう。三日か。わかった」
神妙に頷いたカリスにガレは、少し不思議なものを感じたが深くは考えなかった。
またカリスもその内容について深く考えているなどとはまったく思わなかったから。
だけど、夕方。
ガレは知ることになる。
三日と言ったガレの言葉で、カリスは思い切ってしまったのかもしれないと。
自分の言葉のせいじゃないかと後悔することになるのだから。
賑やかな市の通りの脇に並んだ屋台を覗いて歩いていた。
いろいろな物がごちゃごちゃと一緒くたになって売られている。
異国の物、珍しい食べ物をはじめ、変な汚い壺の破片のようなガレには価値がわからないもの、物でも生きている小動物が入っているのだろう籠もいくつも並んでがさがさ音を立てていた。
特に変で珍しい物として、ときどき獣人なども鎖で繋がれて目玉商品として並ぶこともあるので一口に面白い場所とは言い切れないけれど、ガレはこうした市場が好きだった。
ガレが罠を仕掛けたり矢を使ったりして得た肉の食べきれない余分を買い取ってくれ、尾羽や角や、薬草もお金にしてくれるのはくだけた空気のこういう場所だった。
街中で大きなお店を構える商売人では、いろいろと勿体ぶった言い方をし、なかにはガレの素性も探るような質問をしてくる。なかなかすんなり買ってくれないこと多いのだ。
フードが目深に被っているガレとカリスが二人、人混みに流されないようにお互いを気にしながら屋台や露店の品物を見て回っていたときだった。
地面に広げられた布の上に並べてある、緑色や赤色や、青色が混じっている石は宝石の原石だと知れたが、よく似た石なら今までに見つけたことがあるなあ、などと考えていたガレの袖がぎゅっと引っぱられた。
ニンゲンのカリスが今日は一緒にいるから、自分もニンゲンになっているような安心した気分になっていたガレがはっと緊張したが、他でもない。それはカリスの手だった。
「なんだよ」
「逃げよう」
「はあ?」
カリスの表情は強ばっていた。笑顔が消え硬い顔つきになって小声でガレに訴えていた。
「逃げなくちゃいけない、捕まっちゃうから」
「なんで」
耳もしっぽも隠しているのにと息を呑んだガレに、カリスは首を横に振っていた。
「違うよ、僕が」
誰に、と聞く暇はガレには与えられなかった。
カリスにかしっと手首を掴まれてぐいと引っぱられていた。
そのままカリスは走り出してしまう。
ガレも引きずられるように一緒に走らなくてはならなかった。
「なんで、誰にだよっ」
「ほら、あの人たち」
そっと視線が送られた方向を走りながら振り返って見たガレには、人の波の間、まわりとは衣服の雰囲気が違う者が見え隠れした。
暗い色の服の男は確かに追いかけてきていると思った。
腰に細い剣を下げているような男だ。
着ているものは地味で、カリスほど地味で高級そうでなかったけれどデザインも雰囲気も共通して同じ世界に暮らしている者だと思った。
カリスが言うとおり、カリスを追いかけてくるようだった。
カリスが言ったように、『嫌われている』から?
「おまえ、なんか悪いことしたのか?」
ガレに聞かれたカリスに一瞬の間が空いた。
「僕は、してないよ。何もしていない、してないけどきっと僕は丸ごと悪いんだ!」
叩きつけるような強い響きで、驚いたガレは
「そんなことっ」
ないだろうと言おうとしたのだが、遮られてしまった。
「だったら、ガレも悪いことしたのっ?」
怒ったような目がガレに向けられて、ずっと追われてきたガレは悪いことをしてそのせいで追いかけられているのかと切り替えされたガレは答えられなかった。
答えない代わりに、引っぱられていた腕を一端放して、改めて握り直していた。
二人ともが走りやすいようにだ。
ガレの方がカリスより背が高かった。
走ることだって、爪先の狭いブーツを履いているようなカリスより慣れて得意だった。
ガレは走り出していた。本気だ。
逃げるために、自分より走る速度が遅いカリスを引っぱって敵から逃げ切るために。
二人して逃げ延びるためだ!
走って走って、走ってばかりだと思った。
人の間をすり抜けて、太い道から細い道、目立たない道も選んで飛び込んで、行きとまってしまったので塀を乗り越えた。
身軽なガレが塀の上にまず飛び乗って、カリスを引きずり上げるのだ。
昼にも走っていたけど、夕方の今度は二人だった。
出会ったカリスと二人。
太陽が西に傾きかけて空が茜色に染まりはじめたころ、ようやく二人は立ち止まっていた。
汗ばんだ身体を夕方の涼しい風が冷やして行く。
太陽が沈んで、夜がやってくる。
一日が終わる時間だった。
そして、二人の逃亡劇も終わろうとしていた。
街のはずれに出てしまっていた。
大きな石造りの古びた門を潜ってしまえば、街の外だった。
ガレにとって街や国の門は幾度と無く潜って出て行く通過点に過ぎなかったが、カリスにはそうとは言えないことをわかっていた。
一緒に逃げてきたけれど、そのまま一緒に潜り出てしまうことはできないだろう。
空が寂しい夕暮れを迎える世界を精一杯華やかな色に包もうとしていた。
明日もいい天気になるな。
ガレは金色のなかに飛んで行く一羽の黒い鳥の影をぼんやりと目にしながら思った。
「家、どこだよ。家の前まで送っていってやる」
「ガレ?」
「おまえの家。だいぶん来ちゃったから、一人で帰るの危ないだろっ、だから 送り届けてやるって言ってんの!」
喧嘩をしているような声になってしまい、ガレは腹立たしげに自分に向かって舌打ちをしていた。
なぜ、こんなに苛立っているのか。
カリスとこれでお別れだとなって、寂しいなどという感傷に囚われているせいだだと気づいてしまうと、余計にいろいろな気持ちが湧き起こってきてさらに気分が悪くなってくる。
そういうガレの気持ちなど、カリスは一切悟ることはないらしい。
ただ不思議そうな顔をして自分を見つめてくるのだから。
やっぱり、鈍くて馬鹿なのだ。だっから、さっさと別れてしまった方がいいのだ!
乱暴に結論付けたガレが、カリスをカリスの家の前まで運んでいってさっさと終わりにしようと離していた手を再び掴もうとした。
しかし、カリスはさせなかった。
寸前に、びょこんと跳びはねるように動いてそのまま駈けだしてしまう。
ガレが思っていた方向と逆だった。
カリスの家があるだろう街の中央ではなく、門へ。街の外に向かって。
ガレがまた一人になって潜るはずだった外へと続く門。
「・・・おいっ、おまえ・・・」
「せっかく走ったのに、なにしてるの、ぐずぐずしていると追いつかれちゃうよ?」
「でも、おまえ・・・家」
「捕まったら、家に連れ戻されちゃう。やっと逃げ出してきたのに」
「おまえ・・・家出なのか・・・?」
カリスの淡々とした態度に、ガレの方は呆然としていた。
「なんかやらかして、親に怒られて家出。・・・って、そうゆうやつなのかよっ!」
みんなに嫌われているなど大げさなことを言っていたがこういう単純なこと、真剣になって損したとガレは思ったのだ。
でも、すぐにあっさりと否定がされた。
「違うよ。怒られていない。怒らないよ、あの人達、誰も僕のこと怒らないんだ。ずっと嘘をついて僕のことをだましてきたのを知った僕は怒って、父上の書斎の人形を床に叩きつけて壊してしまったけれど、怒らなかった。もっといろいろ壊そうとしたら、自分の部屋に連れて行かれて鍵を掛けられたけど」
「・・・なんだよ、それ」
「毎日、いろいろな人が入れ替わりに僕のところにやっていて、つまらないことをしゃべってくるから、僕は窓からこっそり逃げてきたの」
そして。
「もう僕、あそこには戻らない」
カリスはつんと鼻をあげて、可愛らしい顔に意地を漲らせていた。
「はあ!?」
ガレの口癖の言葉だったが、これが今日一日のなかで一番大きな声になった。
ガレの驚きもまだ冷めないなかだ。
「僕もいっしょに行っていい?」
笑顔のカリスが言う。
「ガレに付いていってもいい?ガレは好きなところに行けばいい。僕は特にどこかに行きたいってことないから。ガレにくっついて行く」
何気ない明日の遊びの予定話のように軽い口調でカリスはガレに頼み込んでいたが、ガレはことに重大性を感じていてすぐには返事ができなかった。
「・・・駄目?」
「駄目っていうか、そんなのおかしいよ・・・」
「おかしくないよ」
「おかしい。黙って、おまえ、家を出てもう家族に会わないつもりかよ」
「・・・ほんとは向こうも、僕に会いたくないんだよ。だけど、いらなくなっても捨てるわけにいかないでしょ?」
聞き分けの悪いガレを、年長者が諭すように小首が傾げながら。
「本や服は捨ててもいいけど、子供は駄目だからあの人は僕を置いておくだけなの。捨てたら罪になるもの」
同じように邪魔になっても生き物だから同じにしてはならないのだから。
「両方が嫌なのに、仕方なくて一緒にいるってそっちのほうがおかしいでしょ。だから、僕が自分で家を出たの。でもね」
それまでとても冷静だったのに、少し寂しそうな目になっていた。
「ガレが、やっぱり僕は嫌だと言うなら無理にお願いとは言わないから大丈夫。そうしたら僕は、ガレみたいに一人旅するだけだから。だってもともと最初はそのつもりだったんだもの」
「本気なのか?」
「変なの。本気で走って逃げていたじゃない」
大きな門を背に立っていたカリスが、ふふっと笑った後、ガレをその場に残したままくるりと踵を返してしまう。
夜の気配が深まってきて、街の出入り口の人数はまばらになっていた。
不穏な侵入者から街を守るという役割の制服の男が門の飾りのように立っている。二人の子供にちらりと目を向けたがそれだけだった。
カリスは。
堅牢な石造りに四角く切り取られ空間のなかに踏みだして行った。
「待てよっ」
ガレは慌てて後ろ姿を追いかけていた。
「待てったら!」
追いついて、どんどん走っていこうとする相手の腕を捕まえていた。
不思議そうにカリスはガレを振り向いていた。
もうそこは外だった。
地平に広がる草原、その間に古い石畳が続く道。
反対側の遠くの林の果てから、野犬の鳴く声が聞こえていた。
「暗くなるんだぞ!」
わかっているのかと、ガレは怒鳴りつけていた。
「街の外は真っ暗で、星の明かりしかなくなるんだぞ。走ってばかりいたら転ぶ。転んで怪我したって、ニンゲンのおまえじゃあ満足に見えないだろうが」
「ガレは見える?」
ああ、と頷いた。ニンゲンの機能より獣人のガレの方が発達しているのだから。
ガレは夜も昼も、いや夜の方がニンゲンがいなくて気分が楽で好きなくらいだった。
「じゃあ、僕の足下も見て、つまずきそうだったら教えてよ」
「でも、走り回られていたら言っても間に合わないだろ」
「うん、わかった」
どこかずれた会話を交わしたあと、しばらく二人は無言で歩いていた。
真っ暗になる前に、ガレはマントの下の鞄から小さなランプを取り出して火打ち石で火を灯していた。自分にはあまり必要のないものだったが、古道具屋で売れるかなと拾っていたものだったが、役に立っていた。
カリスに持たせて、黙々と歩いていた。
何を話していいのか、聞きたいことがあったけど聞いてもいいのかわからなかったからだ。
カリスも黙っていたから、月が天辺に上がる頃まで、道沿いにゆっくりと。
幸運なのか、不運なんかそれも謎だったが、二人は街へと急ぐ馬車や旅の家族とすれ違ったがガレとカリスの歩みを妨げようとするものは現れなかった。