夜、潜む狂気
明朝。久しく、小鳥の鳴き声を聞いた気がする。
ふと目のあたりを触れば、いくらか腫れている気がして、顔を洗おうと起き上がった。鏡に移る自分の髪はぼさぼさで、碌に乾かしもせず寝たことを思い出す。冷水に顔を浸し、手拭いで吹いた頃には泣きだしたい衝動は消え失せていた。薄情な事に、あれだけ心配していた気持ちは一晩寝るだけでなくなるものだったのだ。
「……ハル、おはよう。よく眠れたかしら」
「シャーリーちゃん。話したいことがあるの、いいかな」
ハルの言葉に、ゆっくりシャーリーは肯く。内容は分かりきったことだ。
「本家の、オウカ家の屋敷に行きたい。ううん、行かなきゃ」
「ハル、気持ちはわかるわ。でも私はあの人の生死を確かめるのは怖いの。そして貴方を失いかねないと言う事も」
「……駄目だよ。行って、全部を確かめる。お兄様を助けるの、絶対に」
「貴方は死ぬかもしれないわ」
「それでもだよ。私だって生きていたい。でも、お兄様がいなきゃ、意味なんてないよ」
「……そう」
貴方に従うわ。シャーリーはくるりと振り返って窓を開けた。程良い温度の風が流れ込む。世間話でもするように、靡く髪を抑えてハルに語りかけた。
「知ってるでしょうけど、私の家は、貴方の家の分家なの。でも元々住んでいた人たちの血が濃く入って、髪もより赤くなったわ」
「知ってるよ。それがどうかしたの?」
「血が薄れても、それでも私は貴方の、遠い姉妹なのよ。
ねえ、私は薄々だけど当主が殺されてしまった理由に気付いたわ。あの人はオウカ家では新しい人だった。少なくとも、やってることだけを見たら、そう思うわ」
「新しい人? ……他国の人でも雇うところ?」
くすりと彼女は笑った。そうね、それもあるわ。肯定して、部屋が冷たくなり始めたので、窓を閉める。時計はもうすぐ真下を指すだろう。トトやライカも起きだしてくるだろうし、彼女たちに残された時間は少ない。だというのに、焦らすようにシャーリーは勿体つけた。自分から答えを教えるつもりは毛頭ないのだ。
「以前、私は自分のルーツについて調べたの。その時、自然とオウカ家の情報も入ってきたわ。
貴方達兄妹はオウカ家の特徴がよく出た容姿をしているけれど、他の人はどうかしら。そして、貴方の伯父様や伯母様はどうだったかしら。考えてみてほしいのよ。私の口からは、言えないわ」
とんとんとノックが扉を叩く。さあ、とハルを立たせ、廊下に出る。眠そうに目を瞬かせているトトと、いくらか汗をかいているライカが待っていた。街を走ってきたのだろうか。
チェックアウトを済ませ、ギルドへと向かう。書類の空欄を流れるように、粗雑な雰囲気からは想像もつかない丁寧な字が埋めていく。
「今日はどこまで向かうんだ?」
「……ハル」
「うん。オウカ家の屋敷まで。途中誰かに襲われるかもしれません。危険度も今までより遥かに高いと思います。お願いできますか」
「こっちも雇われた身だから、大丈夫。オウカ家屋敷……は、今当主争いで忙しいんだっけ。あそこら辺は割とうろ覚えだからなあ」
と、地図を開いて難しい顔をする。ゲルデッヒ家とリーデルの街、オウカ家屋敷のある首都郊外は逆三角形のような位置取りで、僅かに首都の方が近い。道中には深い森もなく、山に掘られた小さな洞窟を行きらか抜けるだけだ。その地形から、馬車を使う事は出来ないだろう。
「いよっし、たんまり貰ったぜ」
二つの麻袋のうち、片方をトトに投げる。抱えた時の音からするに、かなりの量の金貨が入っているのだろう。トトが目を輝かせて荷物の中に放り込んだ。
「では、出発しましょう。
それと、私の身分を明かしておきたいと思います。貴方達を信じてのことです。詳しくは、道中で」
「オウカ家の末娘ねえ……。当主争いに巻き込まれにいくのか?」
「兄の助けになろうとする以上、そうなるかもしれません」
「だから、貴方達には刺客を排除してもらいたいのよ。屋敷の中に入れるかどうかは、ハル次第でしょうね」
ふうん、と生返事が返ってくる。傭兵稼業で生きてきた彼にとっては、あまり現実的な話ではないようだ。命を狙われるだのと言ったことは日常茶飯事ではあるが、その原因となる、肩書き一つの為だという話が馬鹿馬鹿しいらしい。対してトトはいつも通りだ。相手の身分で態度を変えないのは彼の美点だろう。
草原を過ぎたあたり、切り立った崖がいくつも重なった山間部に入った。よく見ればそれは崖ではなく、地面が盛り上がり亀裂が入った後にも見える。そういった自然災害が良く多発していると、以前シャーリーに聞いたことがあるのを思い出した。しかし立ち止まるわけにはいかず、山を通るトンネルまでの道のりを歩く。足場の悪さで足を滑らせないように注意しながら。
「私たちが屋敷に着いた後、やることはいくつかあります。お兄様を探すこと。お父様を手にかけた犯人を見つけ出すこと。この二つです」
他には、と思考を纏めている最中に、ライカが急に立ち止まる。柄は握られ、今にも何者かに向かって切りかかりかねない剣呑さを含んでいる。
「……話の途中悪いんだが、少し下がっててくれ。仕事だ」
シャーリーに手を引かれ、トトの背後に下がる。ライカが警戒しているのは前方だ。他三人はその気配を感じ取ることは出来ず、唯周りを見回していつでも動けるように気を張り詰めるしかない。
「――――そこかっ!」
盛り上がった地面ごと薙ぎ倒す勢いで切りかかる。段差のようにずれた地面は柔らかく、大剣の攻撃を簡単に通す。その奥に隠れていたらしい黒装束の男が悲鳴を上げて倒れ伏した。隙を狙って、左の木、葉の間から小刀が射出される。大剣を引き抜くついで、身をよじるが皮一枚を切り裂いていく。トトがウインドの魔法で木を狙った。が、枝や葉が切り落とされるばかりで手応えはない。
「左よッ!」
木とは正反対の方向、視界ではトンネルが僅かに顔を覗かせている。そのトンネルに至るまでの山道にもう一人、黒装束の男が胸元から小刀を二本出してシャーリーめがけて投げつけた。ウインドの魔法が相殺する。男の背に差された一メートルほどの刀は抜かれ、木を足場にするように跳びながらトトに近づく。
「トト君、魔法じゃあ……!」
ウインドは男の足や脇腹を僅かに掠っていくだけだ。短剣を抜いて鍔競り合う。だが力負けしているのか、トトの腕は僅かに震え、踏ん張るのも限界そうだ。その直ぐ後ろに居るハルは買い足した聖水の一本を開け男の顔めがけて撒いた。眼つぶしを狙ってのことだったが、男は顔を動かすだけで避けてしまう。トトへの注意を逸らすには至らない。
ライカの方は、もう一人の刺客と斬り合っている。助けは見込めそうにない。空になった瓶を投げつけるがまたしても避けられてしまい、シャーリーは荷物から取り出した短剣を鞘から抜いた。
「駄目だよ、下手に斬りかかったら!」
ハルがそれを取り押さえる。その隙を縫って男は膝でトトの腹を蹴りぬいた。地面に転がるように倒れるトトだが、まだ意識は落ちていないようだ。だがウインドと呟くこともままならないらしく、ひゅう、と喉からは空気の音だけが聞こえる。止めを刺そうと刀がトトの喉へ突きつけられようとした時、寸分違わぬ正確さで、脇差が男の心臓を貫いた。
「ご無事ですかッ、ハル様!」
倒れた刺客が出てきた方向、トンネルのある場所だ。反射的にそちらを向くと既に坂を降りきったナギが駆けよってくる。見たことのない厳しい表情で、残り一人の刺客を、ライカに気を取られている隙に背後から切り捨てる。その着物は既に血で汚れており、白い布はじわりと赤黒さが広がっていた。
「ナギ……どうしてここに」
「ユウ様の言伝により、馳せ参じました。
ご存じかもしれませんが、ユウ様は行方知れずなのです。私はユウ様に何かがあった時、ハル様の元に行くよう申しつけられておりました」
「お兄様は……安否は、わからないのですね」
「申し訳ありません。事が終われば、この命を持って償いましょう」
「いいんです。貴方が死ぬことはありません。それよりも、早く、お兄様の所へ」
ナギは刀を鞘に納め、跪いた。何とか起き上がったトトや、大剣を下ろしたライカは改めてハルがどういう存在なのかを認識する。シャーリーだけはただ、悲痛そうに目を細めて、その光景を見ていた。