夕、焼けつく記憶
(魔物とか魔法とかの情報は一章完結した後活動報告で纏めて出します)
「さあ、日が高いうちに森を抜けましょ」
森の入口は鬱蒼とした空気が漂い、匂いを嗅げば腐ったような悪臭が混じる。門のように三メートルほどの高さにそれ以外を枝と葉が取り囲むそれは大口を開けて自分達を待っているようで薄気味悪い。
「なんか変な臭いがするなあ……」
「植物系の魔物は割とそういうもんだぜ。不用意に物に触るなよ」
三歩も進めば真上からの光は遮断され、僅かな木漏れ日と後方の明りだけが頼りだ。ランプや松明は火事になりかねない。覆い被さるような景色をハルはしきりに見回した。その圧迫感は屋敷の中とは違う息苦しさだった。時折吹きこむ風は直ぐに澱む。しかしそれをトトやライカは気にした風でもないのだ。外に出たいと望み、けれど実際は不安と怖い物の塊だった。自分達貴族とそうでない者の隔たりを感じたのだ。気丈に振る舞うシャーリーさえも、『そうでない者』になってしまいそうに見えてしまいそうで。
ふと、呼吸と共に異質な香りが紛れ込む。後ろのトトも、先頭を歩くライカも気づいた風ではなかった。当然自分と並ぶように歩くシャーリーもだ。言って良いものか、しかし歩くたびにその香りは鮮烈に色を帯びている。ぱっと頭に浮かんだものは、赤く、爪先が痺れそうな、いや、どういうことなのだろう? 不安を感じてはいないのだ。
「……あの。ちょっと、止まりませんか」
「どうしたの? 臭いで気持ち悪くなった?」
「ううん、そうじゃなくて。……その、『植物』の臭いとは別の、もっと違う匂いが」
その言葉を聞いてライカが大剣を鞘から抜いて前方に注意を払う。もう鼻に頼らなくても分かった。前方でずるずると何かを引きずるような音をたてている。一直線の道であったが、その脇、茂みの蔦に隠れ木漏れ日さえも届かない、その空間。赤い、ぬらりと艶めく物。獣の瞳ではない、それは大きく横一文字に裂けて楕円形に開いた――――!
「下がれ!」
魔物はぷっと何かを吐きだす。唾液と血液の絡む靴がライカの目の前で転がった。
その瞬間、全員が察した。目の前にいる魔物がつい先ほどまで人間を食べていたと言う事を。
「ウインド!」
殿を務めていたトトがハルとシャーリーの前に飛び出し初級魔法を使う。剣のような切れ味の、厚みのない風の刃がトトの指先から二つ連続して魔物へ向かって飛来する。しかし魔物の左右から生える蔦のような触手が本体の前で壁を作った。キン、と硬質な音を立てて不可視の刃は消え去った。対して魔物は怯みもせず、相変わらず不気味に三日月形に歪めた口元から涎を滴らせている。
反撃と言わんばかりに唸り声と共に2本の蔦がトトへと向かう。地を転がり攻撃を避けるが、残りの6本の触手のうち、4本までもが攻撃に加わった。
「っ、この――――!」
ライカを素通りしてトトを襲うそれを、2本まとめて大剣が叩き斬る。研がれたばかりの刃は綺麗に蔦を切り落とした。魔物は球体の体を捻らせ痛みに悶える。植物のような姿をして、しかし実際は獣のように痛みを感じる神経があるらしい。暴れる魔物は茂みから完全に出て、その全貌を現した。
緑色に擬態する体色、球体下部から生える8本の触手。2本ずつ枯葉や青葉の色に分かれ、獲物を待ち捕食することにだけ特化した生き物なのだと分かる。大きな口は歪に曲がって、涎は強い酸性なのか、雑草に付着するなり萎びて腐り始めた。
「そいつ、目があるのか!?」
トトが声を上げる。ハルやシャーリーから見ても、目の当たるであろう場所はつるりとした球体である。鼻や耳に値する器官も見当たらない。
「さっきの魔法、音や目で反応したんじゃないなら、そいつ……!」
ぐるりと魔物の触手、一本一本を見て行けば、攻撃に加わらない2本の触手がそれぞれ地と木に絡みついているのが分かる。先程からその2本だけは動かない。そしてこちらに大声で指示を出したライカを素通りして、前に躍り出たトトを狙った理由。もしかすると。ハルは足音をたててトトとライカの間へ駆けた。
「ハル!?」
シャーリーの驚く声を意に介さず、魔物は4本の触手を、『ハルの足元』へ突きだした。きゃあっ、と悲鳴を上げて足を滑らせて後ろに転ぶ。その拍子に、槍と化した触手はコートを突き刺す程度に終わった。
「嬢ちゃん、コートを脱いで後ろへ下がれ!」
ライカが地面に刺さる触手を再び上から切り倒す。4本ともが力なく地面に落ちた。叫ぶ魔物にトトがウインドの魔法を唱えた。守る手は既に無く、球体自身は柔らかかったのか、真っ二つに吹っ飛ぶ。断末魔すら上げる暇なく崩れ落ちたそれは暫くぴくぴくと痙攣していたが、次第に枯葉のように茶色くなり、そして色素を失った。
「……やったんだな」
「ええ。そうだけど、ハル! 無茶は止めてって言ったでしょ! 心臓が、止まるかと思ったわよ……」
溜息をつくトトに続き、シャーリーが捲し立てるようにハルの両肩を掴んで怒鳴る。だが次第に語気は沈み、消え細りそうな声色でへなへなとハルの肩口に顔をうずめた。申し訳なさそうにハルはシャーリーの頭を撫でる。
「う、ご、ごめんね。上手く口で説明できる自信がなかったから、自分でやったんだけど」
「何のために護衛を雇ったと思ってるのよ。貴方が怪我でもしたら、私は」
「次はしないよ! ちゃんと後ろに下がってるから」
じとりと空色の瞳がハルを睨みつけるが、割って入ったトトがそれを宥める。3人が騒いでいる間、ライカはしゃがんで魔物を観察していた。ぱくりと魔法で2つに割られてしまったが、球体部分だけ見ても1メートルは超えている。小型ではあるが、近隣では賞金を懸けられている討伐対象だ。リードルのギルドへ何か証拠品を出せばいくらか貰えるだろう。唾液まみれではあるが、一番信憑性のあるだろう舌を切り取り、荷物から大きめの袋を取り出して詰める。そういった魔物の一部分を入れるよう出来ている袋は容易には腐らないだろう。作業片手間に、ライカは口を開いた。
「それにしても。助かったぜ、良くこいつに気付いたな?」
自分に話しかけられていると気づいたのか、ハルは口籠ってどう説明しようか考えあぐねた。
「そういえばそうだよな。『もっと違う匂い』って何?」
「……多分、その、食べられていた人の血のにおい……です」
「ああ、靴も、もう溶けちまったな」
ライカは靴が吐き出された場所に視線をやる。跡形もなく消え失せていた。
「こいつ、レッドイーターって言って、ギルドじゃ賞金かけられてる魔物なんだ。止めを刺したのはお前だし、賞金は分けるとして。……嬢ちゃん方はいるか?」
「いらないわ。二人で分けて」
疲れ切ったかのようにハルにくっついたままのシャーリーはげんなりとして、早く森を抜けるよう指示する。魔物の影響か、この辺りは鳥の囀りすらない。あとは歩くだけだろう。出口の明りは見えないが。まだ暴れている心臓を、手を当てて抑えるように深呼吸した。自分は彼らの助けになることができたのだ、その喜びは未だ胸の内に残っている。