朝、風の匂い
ぐるりと屋敷を囲む黒光りする鉄の柵と、それに沿うように並べられた花壇の花。門は固く閉ざされている。丘の上に建つからか、風は冷たく思わず身震いする。どこへ行ってもこうだ。ナギやジンに言わせれば、ルシアニアは南部の港町でもここよりずっと寒いと言う。小さいころの記憶しかないのに、その寒さだけは身に刻まれているのだ。寒いのは嫌いだ。彼女はさっさと中に入りたい衝動を抑えて、円に沿って歩く。
彼女が一度だけ外に出ることを許された日、その日は大きな船を見た。そしてそこから蹴られるようにして出てくる人間たちを見た。囚人のように手錠をかけられ、背の高い兄よりずっと大きい父親が、あれを上手く使う人間になるのだと言った。あれとは人間だった。老人だろうが、子供だろうが、流れるように色の変わる髪の人間たちは牢に入れられて、売られていった。それに現実味は湧かなかったが、兄妹の奴隷に目をひかれて、私はあの人たちが欲しいと兄と父にねだった。病気の兄は足を悪くしたが一命を取り留めて、自分は二人の恩人になった。二人の語る外の景色が、ハルの娯楽となったのだ。
「……ハル様?」
ぐるりと半周は周った頃、ハルよりかは幾分か背の高い女性が声を上げた。艶やかな鳶色の髪は日の光だけでは説明のつかない色合いをしていて、後頭部から纏められて垂れている。彼女もまた異国の人間であるのは容易に想像できる容姿だ。護衛の者だけが着る着物は薄手で、白い鼻は赤く染まっている。早く中に入ろうと促した。
「ええ。すみません、わざわざ、ご足労をかけてしまって」
「気にしなくていいんです。特に用はありませんから。……ただ、少しお話がしたくて」
「明日のことでしょうか? それなら、私がお供することになっていますが」
「そう、ですね。ただ、あの場所は貴方を傷つけます。お父様も、良く思っていません」
「……確かに、私はこの国の者ではありません。未だ差別されるルシアニアの生まれです。
ですがこうして、貴方の傍に置いてくださること、名を頂いたこと。身に余る幸福です。
兄も、私も、ハル様と、ユウ様のためなら、どんなことでも苦にはなりません」
「ナギ、そんなに畏まらないで。私はただ、貴方を悪く言われるのが嫌なだけだから」
傅くナギを立たせて、中に入る。僅かに入り込んだ冷たい空気が未だ肌を震わせるが、まもなく暖かくなった。彼女を見つけた使用人の一人が、紙束を抱えてハルに近づいた。
「ハル様。ゲルデッヒ家のシャーリー様から、お手紙が来ております」
白い封筒の封を破る。使用人は忙しげに遠くへ消えていく。ナギは一歩下がって控えている。
『ハル、明日の朝ぐらいにそちらに着くわ。迎えはよろしくね』
その一行だけである。消印は昨日、距離は街一つ分しか離れていないが、それにしても急過ぎる。何だろうと首をかしげていると、バン、と扉が大きく音を立てて開いた。伝令の男が急ぎ足をもつれさせながらも執務室の方向へ進もうとする。見覚えのあるその男に、ナギは近づき何事かと問い詰めた。
「あ、ああ、ハル様。大変なのです、当主が、現当主が、ご逝去なされました……!」
「お父様が!? そんな、病ではないのでしょう?」
「何者かに暗殺されたのです! 至急、ユウ様に連絡を!」
ばたばたと男は駆けていく。呆然とするように、ハルはその場に崩れ落ちた。ナギに支えられるが、ぐらぐらと頭の中がかき回されていくような感覚がする。開け放たれた扉の向こうで、馬の蹄、鳴き声。そしてばたんと閉まる音。凛とした仕草で赤毛のツインテールの影がハルに近づく。
「……ハル、聞いてしまったのね」
「シャーリー……ちゃん」
ゆっくりと振り返る。空色の瞳と目が合って、それが哀れむような色合いであったので、漸く言葉が現実味を帯びてハルを苦しめる。実の父だった。末の娘である自分を気にかけることは殆どなかったが、その代わり、次期当主に興味のない長男ごと、ハルをこの屋敷に遠ざけてくれた存在であった。幼いころの毒味の死はもうなかった。それを心底喜んだのだから、領地の人間が父を良く思っているのだから、彼女も父親を尊敬していた。明日会って、挨拶を交わすつもりで。
「私の父が最初に発見したの。だから、なるべく貴方を傷つけないで言うつもりだったのよ。
間に合わなかったようだけれど」
「お父様は殺されてしまったの?」
「そうよ。今は下手人捜して本家はばたばたしてるわ。
でも、そうね。ユウさんは本家に呼ばれるわ。彼だけじゃない、他の跡取り候補もよ」
「殺したって、疑われるの?」
「得をするのは彼らだけよ。当主争いなんて、下々の民にとってははた迷惑な話でしょ。
私の家も、周りの貴族も、オウカ家に助けられてきたわけだし」
「お兄様が殺したって言うの、あの人たちは!」
「容疑者ってだけよ。落ちついて。身の潔白が証明されれば解放されるわ」
シャーリーはそっとハルを抱きしめる。落ちつかせるように背中を撫でて、ハルの手を握った。
「ハル、貴方は少し、身を隠した方がいいわ。
私もユウさんを信じてる。だからこそよ。当主に興味のない彼を担ぎあげる人間が出ないうちに、他の人がやったのよ」
「……お兄様は狙われるの?」
「そうね。でも、貴方はもっとよ。人質にされてしまうわ。彼が貴方を可愛がっているのは周知の事実だから」
ちらりとナギの方を見る。彼女は肯いた。握る手の力は強くなって、彼女の頭の中で二択は選択されるのを待っている。情報は頭の中で整理されていく。馬車を背後にハルを見つめるシャーリーと、照明の下に出た兄を見比べて、そうして悲しくなった。このまま箱庭の中で何も知らないまま生きていくわけにはいかないのだ。血の臭いのする話が、自分達を引き離してしまうのだ。