怯えと理解の先
安宿の壁は薄い。ちゅんと鳴く鳥の声が一層はっきりと聞こえた。
「……ねえ、起きて」
カーラがリリューシャを揺り起した。抑えた声色はどこか焦っていて、何かあったのかと、瞼をぱちりと開けて勢いよく起きあがった。その拍子に額同士が当たって痛みに悶絶する。それはカーラも同じであったのか、蹲り自身の額を押さえていた。
「すまない、……何かあったのか」
「昨日アルヴが言っていた事よ。首都に近いのにも関わらず追手が一人もいない理由。居たのよ。ただ小さい街だから少人数でいいと判断されたんでしょうね。子供よ、貴女とそう変わらない。軍服を着てたのは一人だけど、襟元のバッジって、あれは軍人ってことでしょう? なら二人かしら」
「急いで支度しよう。目立たず逃げた方がいいか」
「……その。ちょっと耳を貸してくれないかしら」
言い辛そうにするカーラは周りを忙しなく見た。監視されているかのような落ちつかなさだ。いつもの彼女からは考えられないその態度に、疑問符を浮かべながら耳を近づけた。吐息と共に、耳元でカーラが囁く。
「隣の部屋に泊まってるみたい……」
カーラの視線の先は丁度リリューシャが横になっていたベッド際の壁だった。はっと声を上げそうになる。口元を押さえて壁とカーラを見比べた。
「あっち?」
「あっち」
頭を抱える。先程とは違う理由でだ。
薄い壁越しに耳を澄ませて、人の気配がないかを探る。物音は一切しないし、そう早い時間と言う訳でもない。軍人と言うなら今はもう起きているだろうし、部屋の中に人はいないと判断した。荷物を急いで纏めた。もしかしたら宿の主人が何かぽろっと零しているかもしれない。待ち伏せされている可能性も無きにしも非ず。ドアノブを回して少し押す。細く開いた隙間からは何も見えない。壁にはりつかせていた背を離して反対側の隣室へ飛び込んだ。鍵が閉まっていたらどうしようかと思ったが、開いていたらしい。もう一つの二人部屋に入っていたバーナードとアルヴがぎょっとしてこちらを見た。朝からチェスに興じていたのか、その拍子に駒がころんと落ちた。続いて入ったカーラが急いで、しかし音をたてないように扉と内鍵を閉める。
「なに、なに? ちょっとなんでそんなに目が据わってるの」
「荷物を纏めろ。別行動だ、下に行ってチェックアウトを済ませる。私は窓から脱出だ。急げ、もたもたするな!」
「なな何で命令口調なの!? ボクらなんかしたっけ!?」
「いいからさっさとやれ! シメるぞ!」
今にも襟元を掴まれかねないアルヴを尻目にいそいそとバーナードが準備をする。カーラは窓を開けて周りを見た。今の所人影はないらしい。ひい、と悲鳴をあげたアルヴは普段の呑気さはどこ吹く風、俊敏に荷物に触れた。
「合流地点はエレフィナ高原手前だ。民家の陰に隠れている。仮に追手と遭遇しても何食わぬ顔でいるんだ。むしろ遭遇するな。いいか!」
ばっとリリューシャは窓枠に足を駆けて飛ぶ。すたっと着地する音が下から響いた。ちらりとカーラが下を見れば、早くと言わんばかりに鬼気迫る表情をしたリリューシャが居た。冷や汗をかいたまま彼女は踵を返して扉を開けた。木の床は三人分の重さに耐え、しかし階段はぎしりと音を立てた。木自体が古くなっているのだろう。急なそれを降りれば直ぐにカウンターが見える。外開きの扉の近くでうたたねをする老人を起こし、鍵を返してチェックアウトする。がらりと扉を開ければ鈴がりんと鳴り、外の寒気が肌を撫でた。
向かいの民家の脇で行商人が品物を並べている。朝からそれを何人かの旅人が眺めていた。値切りに興じる街の人間を過ぎて、北の方向、エレフィナ高原へ向かった。しかし街の出口、明確には定められていないが土と草の境界線の近くで、何か諍いがあるのか騒がしい。何事かと民家から出る人間も居た。嫌な予感がして、三人は互いを見て肯き、そして走った。
「――――どうして逃げるんです! 本当に何もしていないのなら、逃げる必要なんてないでしょう」
「君の知るところではない。退け、君達を傷つけたくはない」
「説明してもらわなきゃ退けません。あたし達だって中佐を捕まえるだなんて嫌です! 本当に無実ならあたし達、戻ってちゃんと調べます!」
「甘い。調べて分かる事なら君達の耳に入っている。知るべきではないんだ」
何人かの男女の声。リリューシャは手前で剣を構え、その奥、三人組が出口を塞ぐようにして横に並んでいる。遠目にその内二人の男女の襟元に金のバッジが光っているのが見えた。率先して喋っているのも彼らのようだ。
「なあ、事情があるのは分かるけど、武器を仕舞わなきゃどっちもぴりぴりして話にならないぞ」
「黙ってて! これは中佐と、レーテとあたしの問題よ」
「トト。こんな空気になった以上、武器を仕舞った所でどうにもならない」
「だからって!」
「いいからお前は黙ってろ。……中佐、俺達は貴方が無実だって確かめたいだけなんです。
外国の奴らを連れていることは報告にあがっています。これじゃ、あの噂だって」
「……噂?」
「貴方が他国と戦争を起こそうとしてるって噂ですよ! スパイ紛いの事をして、他国に逃げる気だって! だから真っ先に港を封鎖した」
リリューシャはそれを聞いて可笑しそうに口端を歪める。酷い言いがかりだ。国の為に命も未来も賭して戦った結果がこれか。澱む空気に息苦しさを感じて、レーテは更に問い詰めた。それに首を振って、もう答えるつもりはないと意思表示をする。リリューシャ、と真っ先についたカーラが彼女の肩を叩けば、その異様な雰囲気は立ち消えて、どちらへ逃げるか目配せをした。前を突破するのは骨が折れるだろう。威嚇に剣を出しているが、それはもうハッタリに近い。体調が良くなったと言えど、手加減して戦うのは神経に負担がかかる。もう倒れるようなことがあってはならないのだ。
「一度下がる。予定は狂うが、森で時間稼ぎだ。その間に私が再び精霊を呼ぶ」
「分かったわ……、っ!?」
背後から突如として矢が飛ぶ。当てる気は無かったのか、次は当てるぞという宣告なのか、カーラとリリューシャの間を縫うように走った。そちらへ視線を遣れば、軽装の弓を持った少女と、高い背の格闘家らしき格好の男が居た。トトの話では四人だった筈、と冷静に推理する余裕を失ってリリューシャは唯呟いた。
「レイ? ……どうして」
「彼らに助けられた。何が起こっている? 俺に刺客が差し向けられたことと、関係があるんだろう」
半ば八つ当たりに近い感情を、背後に向けた。視線を受けたトトは冷や汗をかいて弁明した。
「口止めされてたんだって! レイナードさんは目立っちゃいけないからって。でも回り道したとか、ちょっと言っちゃったけど」
「お前……後で殴る。口の軽い奴は嫌いだ」
レーテが冷ややかな視線でトトを睨みつけた。そのコミカルな風景とは真逆の緊張感がレイナードとリリューシャの間に生まれていた。互いに戦えばこの辺りは無事では済まないだろう。挟まれている以上、前後に逃げることは叶わない。これまでか、カーラは唇を噛んで憔悴したような表情を見せた。ちらりとリリューシャの視界の端に、深い掘りが入る。神殿だ。罠だらけであるが、それはどちらにも苦戦を強いるということだ。中に入って撒く方が幾らか戦闘を避けられるだろう。近くのカーラの服の袖を引っ張った。
「……向こうの穴。あの中に神殿がある。逃げ込むぞ」
カーラの前方に立つバーナードとアルヴは気付いていない。カーラはそれとなく二人に呼びかけた。何かを仕掛けるつもりかと少女と男は身構えるが、直ぐにそれは解かれた。四人が民家を迂回して飛びだしたからだ。追いかけるようにそれを覗きこめば、斜面をずるずると滑って神殿へ向かう四人の姿。少女は背負った矢筒から矢を一本取り出した。
「撃つ」
短くそう告げて矢は飛ぶ。前方を滑るカーラを庇うようにして、リリューシャの肩に突き刺さった。しかし悲鳴は上がらず、ふらふらになりながらも神殿の中に入っていく。
「シルヴィア! 当てるなと言った!」
レーテが怒号をあげる。詰め寄られたにも関わらず少女は涼やかな顔を保った。明確な意思のこもった橙の瞳は冷静さを失ったレーテを見つめた。色素の薄い、髪と同じ色をしたミルクの睫毛が揺れ動く。
「当たらないと思っていられてはこちらが舐められる。我々は追う側、捕まえる側。いつでも仕留めることが出来る状態であると示した」
「これは狩りじゃない」
「追う事、捕まえる事、狩りの基本。獲物が魔物から人に変わっただけ。ましてやあれはこの国に争いをもたらす大罪人。あなたが庇うのは、情から?」
「……いや、あの人に会って確信に変わった。だから当てるな。説得して連れ帰る」
「甘いと言われた。わたしは理解できない。何が確信に足りた? ペルネア、あなたは」
「あたしにも分からないわ。でも、レーテはそういう奴よ。中佐と同じ。嘘も、善いも悪いも、全部分かるんでしょ」
難しそうな顔をして、レーテは厳しい視線を神殿に投げかけた。その神殿がどういったものなのかは把握している。だからこそあの肩の治療も難しいだろう。シルヴィアの弓の腕は十分知っている。回復魔法をかけるにしても、時間がかかるだろう。急げと四人を先導した。




