始まりの先
冷える朝、牢のような正方形の部屋で彼女は目を覚ました。かけられた二重の毛布は十分に暖かく、備え付けられた洗面台に向かって顔に冷たい水をかける。ぶるりと震えてタオルで拭き、息のつまる軍服を手にそれを身に纏う。
扉を開ければテラスのように開け放たれた風景と、大理石の廊下が広がり、冷気を振り払うように廊下を歩いていく。調度品のような庭の向こうに見える柵はどうしようもなく重くのしかかる。すれ違う数は少ないものの、その度奇妙なものを見るような視線に苛々して二階へ上がった。軍の設備は直接王宮に繋がっている。中央の王宮を挟んで左に軍備施設、右に政府。飾りのように思える王宮であるが、その実、王は政府人間と渡りあってこの国を治めている。しかしそれはただの権力争いにすぎない。戦争時、この国に留まって協力した他国の人間が殆どを占める政府は虎視眈々とこの国を乗っ取ろうと画策しているのだ。二階は壁がついていることもあり、一階程寒くはない。自身に与えられた第二の牢獄、執務室へ向かう途中、背後から声がかかった。
「中佐! おはようございます」
いかにも真面目なその挨拶に振り返る。癖っ毛の目立つ、少し背の高い青年だ。リリューシャとそう変わらない歳だろう。赤茶からワインレッドへ鮮やかに変わるその色合いの髪は今日も少々跳ねている。それを指摘すれば多少恥ずかしげに直らないんですと呟いた。押し殺すように笑う。
「それで、どうした。何か用があるんだろう」
「あ、はい。フェルトネート中佐から、伝言を頼まれました」
「フェロから? 何かな」
「仕事の前に執務室で話をしよう、だそうです」
「……またろくでもない事だろうな。君もすまないな、使いっぱしりのようなことをさせて」
「いいえ、当然のことです」
一癖も二癖もある知り合いの中ではかなり常識人な彼は綺麗に頭を下げてその場を去っていく。槍の手入れだろう。部下達への指南は自分の役目だ。苦笑しながらその部下、レーテと別れて執務室へ向かう。
その途中、鳩小屋の前を通りかがり、中に入った。作業服を着る、十五程の年齢の少女は鳩に餌をやっている。彼女はリリューシャに気付いたのか、顔を強張らせて頭を下げた。
「報せは?」
「来ておりません……」
怯えるようなその声色に、何を言っても緊張を解くことが出来ないだろうと判断してはあ、と内心溜息をつく。部屋の外に出た。
三か月前から一切の連絡をよこさない、自分とフェロの共通の友人、レイナードの安否の事についてだ。彼女は深く後悔している。リリューシャと関わり、この国の裏側を知ってしまった二人は彼女と同じように自由を奪われた。リリューシャは外に出ることは許されず、フェロとレイナードも滅多に任務で街の外へ行くこともなくなったのだ。それでも行く時は必ず三人の内二人を王宮に置き、人質代わりとしている。そして今はレイナードが任務を与えられ、東の砂漠へ行ってしまった。エルドラントからきた学者の地質調査の護衛、という名目でだ。けれどその任務の本音はと言えば、鳩以外連絡のつかない砂漠へ追いやり、刺客を差し向けて始末する、これにつきるだろう。五年前の戦争を生き抜いた英雄と称えられていた人間達は不審死を遂げている。少しでも過去を消そうと足掻く上層部の仕業だろう。
リリューシャは決して上層部に始末されることは無い。猛威を奮ったその力が、永遠に彼女の中にあると思っているのだ。万が一他国と戦争になれば彼女も駆り出されるだろう。そうして今度こそ彼女は死ぬだろう。それだけはあってはならない、彼女は戦争を毛嫌いしていた。自身の手で人を殺すことだけは、吐く程受け付けない事だった。戦う事にはこれ以上なく高揚するけれど。
執務室の扉を開けば、背の高い椅子のがこちらに背を向けている。音に気付いたのか、くるりと背もたれが周り、そこに座る男がにやにやと胡散臭い笑みを浮かべた。
「リリューシャさん、こんないい椅子に毎日座って仕事してるんだ。いいなー。俺のとこなんて酷いもんだよ。座ったら刺さるよ?」
「それは君が座るんじゃないだろう」
機嫌がいいのか笑顔のまま彼は立ちあがった。彼は表向きには隊の編成や人事を担当しているが、それだけではない。嬉々として彼はスパイの拷問を執り行うのだ。歪んだ精神性の原因は相手国にあるが、その恨みを、鬱憤を晴らすためだけのものなのかと言えば疑問だ。最早目的は目的ではなく、傷つける事だけが彼の生きがいなのかと思ってしまう。
「レイの安否については不明だそうだ。もう三ヶ月だな」
通常は一週間に一度は鳩が行き来するものだが、それはとうの昔に途切れてしまった。溜息を隠そうともしないリリューシャに、辛気臭いなあ、とフェロが文句をつけた。
「これからもっと辛気臭い話になるのに」
「何だ、勿体つけるな」
「昨日ちょっと会議室に穴開けてさ、話聞いてたんだ。リリューシャさん、殺されちゃうらしいよ。お偉いさん方はエルドラントとバキッツァにへこへこ頭下げて同盟国になるんだって。最近この国、色々物資不足だから。あるのは鉱山ばっかり、石なんて食えるかっての」
にこりと微笑んだままのフェロに、リリューシャはぴしゃりと固まる。しかし疑う理由は無かった。フェロは友人には嘘はつかない。ついている気配もまるでなかった。机にばんと手をついて、不満を向けるようにずいとフェロに近寄った。
「…………盗聴だのなんだのには突っ込まないが、君、軽いな。私の話は君の空腹と同列か?」
「肉食いたいよー」
「猪でも狩ってろ。全く……どうしたものかな」
「大人しく殺されるとか止めてよ」
「しかし逃げれば君が殺されるだろう」
「どうかなあ。だって戦争の可能性を度外視する輩だし、見逃してもらえるかもね。……まあ、万が一リリューシャさんが必要になったら俺が人質になるんだ。暫く大丈夫だと思うけど」
「いや、そもそも何故私がそれだけで殺されなければいけないんだ。戦争するつもりがないからと言って、戦力を態々処分する理由は?」
「今ね、あっちのお偉いさんの一部と話し合ってる状態なんだって。んで、同盟結んでもいいけどリリューシャさんが乗り込んできたら対抗しようがないから殺せって言ってたらしいよ」
散々あの戦争で目立ったつけが来た。頭を押さえてへなへなと机に倒れ込む。あらら、と他人事のようにフェロは呟き、またへらへらと笑う。
「逃げればいいじゃん。リリューシャさんならいくらでも生き延びる手段はあるし。俺も色々手を回して解決を図るよ」
金の瞳が細く光る。何かを企むその色について追及は出来なかった。戦争が終わってから暫くした後から時折見せるその不穏な空気は今でも彼女の背筋を震わせる。戦いのにおいがするのだ。それを問い詰めて明かしたとしても、きっと自分には止めることは出来ない。それが彼の人生を、命をかけたものだと感じ取ってしまった。それを止めると言う事は即ち彼を殺すと言う事だ。嫌な考えが浮かんで、それを払いのけるように起き上がった。
「じゃあ、今日の夜、馬小屋でね。詳しい時間はまたあとで伝えるよ。逃げる手筈は実は昨日から急いで準備してたから間に合うと思うけど。じゃあねー」
なんでもないことのように部屋を出て行く。取り残されたリリューシャは、はあ、と朝からまた思い溜め息をついて天井を見上げた。呆然とするしかなかった。




