記憶の赴く先
歌が聞こえる。知らない言葉で、誇るように、踊るように。水面の上で跳ねる女がくるりと回って、白い翼でどこかへ行ってしまった。寝ぼけ眼にそれを伝えればけたけたと可笑しそうに笑って、面白いねと褒めているのか貶しているのか分からない言葉。零れるようなアルトの声が響く。と思えば途端低くなり、最後にはどちらか判断がつかなくなってしまった。透き通る声が旅の中で絶え間なく続く。そうでない間はひい、と息を切らせて道を登る癖して、一度旋律を紡ぎ始めればそれは微塵も崩れない。
いくらか登って背後を見れば、背の低い草が覆う丘の上に木々が茂って一面に広がっていた。その隙間から少しだけミーシャの街が、大きな川が見えた。その新緑の、自然の色が混じり合う絵画のような風景に目を細めて、更に上、先を見た。山肌に突きだすように出っ張った崖の上に大きな神殿といくらかの民家が見えた。立ち止まったリリューシャに気付いてアルヴは振り返る。歌は丁度区切りを迎えたようで、心地よい音楽は止まってしまった。
「見慣れてる?」
主語の抜けた質問に、いいや、と首を振った。
「知識としてだけなら、沢山の事を知っている。しかし見るのとはやはり違うよ。外に出てから、興味と好奇心は尽きない。邪魔をする兵士が鬱陶しいぐらい」
「ボクが前に来た時は山なんて禿げちゃってて、見るのも可哀そうだったよ。どうしてって聞いたら」
「皆食べてしまったんだ」
「そう、それ。ここは首都の近くだから、特にね。でも山ごとすり替えたみたいに元に戻ってるよね」
「おお、偉大なる我らが母よ! とか言って神官共が竜になんとかさせたよ、あの生命力をこの国に与えたんだ」
「ええ? それじゃあ竜が死んじゃうじゃない」
「死んでないよ。子を産んで、今は隠居生活さ。けれど可哀そうなものだろう、未だに白痴のままなんだ」
近くの草むらに腰をおろして、そっと目を瞑る。どれだけ苦しんだろう。直に自分に伝わるその感情の生々しさはまさしく人のものだった。当たり前だ、そういう生き物なのだから。竜は人を食べる。けれど一生に一度だけだ。竜の血を継ぐ人間を食べて、その人間に分かたれた本来の知性を取り戻す。そうして王として相応しくなれば三国に住まう竜と、己の力を拮抗させて世界に害がいかないようにするのだ。歪なものだと思う。けれど一匹でも欠ければバランスは崩れ、世界は崩れて行くらしいのだ。
「……リリューシャは竜なの?」
ぼんやりと、進むのにも疲れていれば、アルヴが質問を投げてくる。馬鹿な、と半ば嫌になって返答した。
「竜は竜だよ。決して人にはならない。彼らは強大だ。人の身に堕ちれば、その力を抑えることが出来ずにすぐ死んでしまうだろう」
「でもさあ、なんとなくそういう気がするんだよ。ボクは竜を見たことがある。エルドラントの山奥で、子供を残して勝手に死んじゃったけど」
「その子供は?」
「村の子を食べてどっかに行っちゃったよ。嫌になったから、出て来たんだよ」
懐かしむと同時に忌々しさを含む声色に、彼女はなにも答えず首都ファヴニルの方角を見た。そこは決していい思い出ばかりではなかったが、彼女を構成するものは全てそこにあった。離れる事は彼女の雰囲気を変えるまでに至った。剣を握っていた時の、冷たく鋭利な人格は何処かに行ってしまったのだ。今の、とっつきにくいだけの彼女と何が違うのだろう。どちらが本当の自分なのだろう。そよ風すら身を凍らせる寒さであるのに、木漏れ日に照らされたかのような眠気が彼女を襲う。考えることから解放されたがっているようだ。
そもそもの原因である魔女は今どこで生きていると言うのだろう。村娘に扮して虎視眈眈と魔力を蓄えているのだろうということは容易に想像できた。竜によって完全な不死を与えられた彼女は精神だけで生き続けることができる。そうして己の子孫に取りついて、何度でも人間達を滅ぼそうと画策しているのだ。その方法だけは皮肉にも、彼女が竜にかけた呪いの結果と酷似していた。叡智を誇る竜の知性を人間に分けるだなんて、それを元に戻す方法ですら、人に対する最高の嫌がらせだ。
「……ねえ」
アルヴが虚空を指差した。木々の隙間、青空に灰色の煙が立ち上っている。はっとしてリリューシャも立ち上がり、近場の背の高い木によじ登った。軽快に地面を蹴り枝を足場にして登っていくその様にアルヴは目を丸くして、どうなの、と声をかけた。
「……ファヴニルが……燃えているのか、あれは。民家ではない、王宮が。近くの施設も燃えている」
「火事? でも王宮からって、それって事故とかじゃないよね?」
「間違いなく故意だろう。外で人が……戦っている」
すとんと降りて来たリリューシャは冷や汗をかいて唇を噛みしめた。犯人の見当はついている。止めることは簡単だが、根本的な解決には至らない。それは長年続いてきたこの国の負の部分の表れなのだ。少なからず恵みを受けて飢えることなく育ったリリューシャが説得できるものではない。
「どうするの?」
「何がだ」
「カーラとバーナードさん、首都に向かってるって言ってたし。もう着いてる頃合いでしょ。良い人そうだったし、戦いを止めようとしてるんじゃないのかな」
「戦い慣れていた。死ぬことは無いだろう」
「いやいや、案外分からないよ。この国の人たち、とくに首都の人達ともなれば外国の人なんて嫌いでしょうがないと思うけど。騒ぎを起こした原因だって勘違いされることだって十分に有り得るよ。全力でかかってくるだろうね」
「…………」
沈黙でしか返すことは出来ない。全力で殺しにかかる民間人や軍人を、彼らは殺せるのか? いいや、そうすれば国家間の問題になる。出来るわけがない。手加減して無事でいられる人数差なのか。そうであるわけがないのだ。二人と、国。戦力差は歴然としている。あくまでそれは可能性の話であるが、そうならないという確証はどこにもない。
アルヴはまた淡々と言葉を紡ぐ。責めるような言い方ではないが、過去をただ指摘されるというのは堪える。やったことだけを並べれば自分はただの悪女で殺人犯で国に押しつぶされても仕方のない人間だ。極悪非道の冷血人間とどれだけ上の人間に嫌味を吐かれただろう。
「ねえ、これも勘だけどさ。君って見た感じサーカス団の格好してたり、そうでなかったら民間人としか思えないけど、仕草の所々が軍人っぽいんだよね。ボク、見たことあるよ。五年前の戦争で、敵以上にこの国を焼き払った子」
「はっきり言え。そう、人を追い詰めるような言い方は好きじゃない」
「五年前の戦争の英雄の一人なら、あの騒ぎだって止められるでしょ。事実を伝えなくたって、君がいるだけで矛先は変えられる」
「随分酷な事を言うんだな。二人を助けるために、私を犠牲にしろと言うのか」
「出来ると思うけど。いや、言わなくたってやるんじゃないかな。君みたいなタイプ、割と色んな所に居たよ。他人が犠牲になるんなら、自分がなってやるってやつ」
「…………覚えてろよ」
あくまでアルヴに唆されたのだと、その態度を崩さず地を這うような声で恨み言を吐いた。今から山を降りても間に合う事はないだろう。自分の身体を強化するための魔法ならばいくらでも使っているが、こうして再び精霊を使役するのはいつぶりだろう。そうだ、あの港町のコンテナによじ登った時以来だ。溜まりきって濁った魔力が喜んで指示に従う感触。そよ風がリリューシャを中心としてくるくると流れ、次第にそれは突風へと変化する。隣に立つアルヴの服がばさりと音をたてる。今にも風に吹き飛ばされかねない勢いが最高潮に達しようと言う時、白い手が手袋に覆われたアルヴの腕ごと掴んで白い光が二人を包んだ。そしてどこか硬質な毛並みがアルヴの頬に当たり、ひらひらとした布だけが風に煽られている。辛うじて目を開ければ、森が、山が、街並みが。遠くに見える海や、その奥の大陸でさえも。全て二人の下に在った。
「捕まっていろ。着地は少々乱暴だ」
白から黄緑色のグラデーションに包まれた大きな鳥が二人を乗せて飛んでいる。温かさはない。本能的にそれは生き物ではなく、精霊達が集まり具現化させられた姿なのだと察した。
「君、精霊にこんな無理をさせるなんて、一体――――」
吹きあがる風が声を遮る。聞こえていたのかそうでないのか、彼女は口元を少し緩ませて、何事かを呟いた。




