赤の流れる先
ああ、頭が痛い。
「ねえ、あなた」
というより、それよりずっと体が痛い。少し気を抜いたらこれだ。
「ねえ、聞こえてる?」
周りはずっと煩いままだし、逃げるのも疲れた。しかしここで捕まるわけにはいかない。私の死に場所は既に決まっている。
「ちょっと? その傷、見せて!」
「うるさいぞ! 考え事をしているんだ、放っておいてくれ!」
「貴女ねぇ……、そんな大怪我を負って、まともに何か考えられると思ってるの? いいから診せなさい、回復魔法なら使えるから」
「そんなもの、私だって使えるさ。だから必要ない。君、親に教えられなかったか? 混血児には関わるなと」
「馬鹿ね。怪我人に、目の色なんて関係あるのかしら」
「……治したらさっさと立ち去れ。人に会いたくないんだ」
「はいはい、そうさせて貰うわ」
女は杖をとん、と地面に立てた。何かを唱え始めると同時に、その目の前、コンテナの隙間に身を隠すようにして背を預けていた少女の肩口が見る見るうちに塞がっていく。矢で射抜かれたのか、周囲には血塗れの矢が転がっていた。塞がる痛みに呻き声をあげて、しかし歯を食いしばって彼女は唯耐える。
「……終わったわ。事情があるんでしょうけど、まだ貴女、若いでしょう。そんな怪我をするようなこと、やめなさい」
「っ、好き勝手言って! 兵士でもない人間が! 不愉快だ!」
少女は肩口を押さえて立ちあがった。色素の薄い黄緑色の髪が、金、青緑に色が変わる。紛れもなく、その国の人間だった。しかし目を惹く要素は他にもある。左右の目の色が違うのだ。そしてその両方とも、忌み嫌われる色だった。赤と緑の、敵意に満ちた目だ。幾らか年下だろうその少女に気圧される、目の前にいる女は輝く金色の髪と橙色の瞳を不安げに揺らす。太陽のようなその色彩は、海を渡った向こう、バキッツァの出身だろう。僧侶なのか、白い簡素な服に身を包む彼女はそれでも、と道を説こうとする。
「貴女のことをしらないもの。けれど、人間にはいつだって選択の自由があるわ。やめられない状況って、やめることを周りや自分が許さない状況よ。貴女に選択権はある、必要なら、私が保護――――」
「いらない! そんなものいらない。私に選択権なんてない。許されたのは、逃げることだけだ。逃げる限り、奴らは私の命を狙う」
「命を? どうして」
「表の張り紙を見ればいい。怪我を治したこと、後悔するだろう。さあ、とっととどこかに行け」
少女の目には、ただ疑問を振りかざす聖女の姿がある。無知とは罪だ。その罪を作り出す大人は、どれだけ裁かれたって足りないだろう。整った顔立ちをひたすら激情に染めて、ここから逃げようとコンテナによじ登る。潮風が流れ込む。港町マーシュ、しかし船は一隻も存在しない。閉鎖されているのだ。全ては、人一人を逃さないため。どこまでも白い手は、雪の降る季節ゆえか、いくらか震えている。身に纏う奇抜な服は、ルシアニア各地を廻るサーカス団のもので、彼女のカムフラージュだ。どこかで落とした仮面を着ければ立派な道化となるだろう。
「……貴女、ちょっと待って!」
張り紙を見て来たのか、急いで駆け寄ってきた女性を見下ろし、嫌だと首を振って走り去る。高く積み上げられたコンテナから塀を飛び越えれば、観光地として栄えるこの町に建てられた別荘の敷地内だ。そこから更に北へ向かえば閉鎖された街を抜けることが出来るだろう。その意図があってのことだったが、女性の声に反応してか、軍服を纏う男が何人か集まってくる。当然その視線は少女に向けられ――――
「居たぞ! 指名手配番号62、脱走囚リリューシャだ!」
「誰が囚人だ! この木偶の坊共!」
リリューシャと呼ばれた少女は人指し指をふわりと軍人達に向けた。その瞬間、縫いとめられるように全員がコンテナに大の字で突っ込んだ。空気ごと全員を押し付けたのだと女性は理解する。詠唱もなしに高等魔法をやってのける少女は間違いなく天才だ、その場違いな感想に震えながらも、追うように増える声の方向を向く。増援だ。リリューシャの傷からして、恐らく全員が魔法か飛び道具を持っているのだろう。
再び応戦をするかとリリューシャの方を見やれば、彼女はふらついて頭を押さえながらコンテナの上で体を抱えていた。苦しそうな表情に、傷が開いたのかと直感する。このままでは彼女はやられてしまうだろう、咄嗟に女性は杖を男達に向けて、再び何かを唱え始める。杖先に嵌められた赤い宝石が輝きだし、女神か悪魔か、人ではない、半透明の女性が浮かび上がり、微笑んで両手を抱えるように差し出した。途端、男たちはぐらぐらと足元をふらつかせて倒れる。背中は上下して、ぐっすりと寝息を立てた。
コンテナの壁に手をつきながら何とか立っているリリューシャの元になんとか辿りつき、最早抵抗する力もないのかぐったりとした彼女の上着を脱がせ、シャツ越しに傷口があったであろう場所を見る。しかし新しい血は滲んでおらず、青い顔をする彼女の額に手を当てれば、手がむず痒くなる程熱い。
「……熱、いけないわ。連れて行かなきゃ」
女性はそろりそろりとリリューシャを抱え、同行人の元へ急ぐ。罪人であろうと、彼女にとってリリューシャとは迷える子羊であり、救うべき対象なのだ。二十歳もとうに過ぎた故か、それは母性と言っても過言ではなかった。




