1.すれ違い
「オレは瀬戸ユウだ」
「知ってるよ」
体質は電撃を操れることらしい。
『咎』とは、その際に各個人ごとに宿る能力の事。曰く、罪と呼ぶのは、そのような体質と能力を有する彼らが、かつて世界から『咎人』と称して人として扱われなかったものの名残である。
今ではその言葉自体が持つ意味を問わず、簡略であると認められ、使用されることが多々。
「正直、見くびってた。マジですげぇよお前。咎無しであの《狂狗》を翻弄するなんてよ」
落ち着いた雰囲気の喫茶店の中、手放しで褒める瀬戸はしかし、その場に適した声量である。
存外に常識を弁えた男を前にして、少年はなみなみと注がれている炭酸飲料に口をつけた。
――特異体質が発現するには契機がある。もちろん、常時特異的な体質を持つ者も居るが、大多数は前者である。
例えば、瀬戸ユウはある一定以上のストレス――難題を看破した時、あるいは手先を使う作業が終了した時――や、緊張状態からの解放がソレだ。
精神状態の変異を、または肉体による物理的な刺激を機にする場合もある。
しかしどうあっても発現しない場合がある。
刺激を、強制的に遮断されるなど、肉体や精神に反応を及ぼさない状況などである。
彼ら第一実験部隊の場合は、各々が左手首に嵌める腕輪。もっとも、少年はそれを隠すようにリストバンドをつけているのだが。
「ん……電話かよ」
ぶぶぶ、とテーブルの上に置いた携帯電話が振動する。手にとって、画面も見ずに通話ボタンをプッシュ。
一言ふた言、味気なく相槌を打ち、簡単な報告だったのだろう、通話は少年が目の前の炭酸飲料を飲み干す間に終えてしまった。
「追跡に失敗したらしい。《狂狗》は世に放たれて、俺たちはまた奴さんと向かい合わなきゃならねえ」
「それで?」
「二人が犠牲に、だとよ。頭が消滅したんじゃなく、さっきみてェに内部から破裂したように死んだらしい、と。まるで世紀末だな」
「追跡部隊って、機関の?」
「じゃねーのか? 自衛隊が協力してくれるわけじゃあるめえよ」
男がすするのはアイスコーヒー……だが、半分以上がガムシロップで満たされているそれをアイスコーヒーだと呼んで良い代物なのかは定かではない。
見るだけで胸焼けするそれを一息で飲み込んでから、がたりと椅子を弾くように立ち上がる。
「ともあれ、これからもよろしく頼む。今回のことが終わった後も、良くしてくれよ?」
「戦友で十分じゃないのか?」
「戦いが終わったらオシマイってのも、寂しいだろうよ」
「……ああ」
戦いが終わったら――かつての、そして今でも、少年にとっては考えも及ばぬ後の想像に、思わず全身の筋肉が張り詰める。
終わりは即ち、死。終焉は――希望が潰えた時でしかない。
勝利を望みながらも、人に、組織に、世界に抗いながらも、彼らは終わりを背に出来ずに突き進んでいた。
少年は桐谷洵という新たな形を得たが――持続する少年の精神は、平穏とも言い切れぬ新たな世界に対する違和感を抱き続けている。
終わりは新たな戦いの始まり。そして、己らの平穏のための、そして望むだけではなく己が手で掴みとる勝利。
夢に見て。
皮肉にも、かつて敵だった組織の為に尽くす己が、その代償に得た理想。
吐き気を催す、が。
「そういうのも、いいかもしれないね」
微笑む少年に、悪意や絶望、嫌悪感が無いとは言い切れない。
桐谷洵は己を疑わない。機関が知らぬと想っていることを、知っているからだ。
だから――既に、あらゆる出来事に絶望し無感であるといっても、過言ではない。
ならばその表情の変化や反応は何か、と問えば、一言に尽きる。
外部からの刺激による反射的な反応。顔の周りに羽虫が飛べば手で払うように、目が乾く前にまばたきをするように、少年にとっての怒りや悲しみ、その微笑すらも反射的なものにすぎない。
二号――少年は、かつての名を忘れることは決してなかった。
◇◇◇
奇しくも翌日が土曜日で、学校が休みであるのに気づいたのは、自室で飛び起きてからだった。
起床時刻は午前九時三八分。いつもならば遅刻であり、やむなく学校に電話して架空の病症と病理について担任に告げなければならなかったが、しかしカレンダーを見てほっと胸を撫で下ろした。
ともあれ、もし学校があればその時刻に家を出れば辛うじてホームルームに間に合う頃に、お隣さんがインターホンを押してくれるのだ。心配する必要はない。
お隣、『火群つぐみ』は長い黒髪と豊満なバストがセクシーな二十代である。今では年齢を詐称して学校に忍び込んでいる自称十七だが、しかしそれが通用してしまうのが末恐ろしい。
彼女の風貌ではなく、最近の女子高生の発育の良さに感謝する他ないだろう。
眠気を誘う大あくびをしてから、窓の外を見る。結露の張った外の景色は、気持ちがいいくらいによく晴れていた。
ワンルームのその部屋は、歩けば床が軋む安普請のアパート。月五万円の家賃は、毎月口座に振り込まれる機関からの給金から支払われている。残るのは三万円――だから少年は、出来るだけ家には帰らない。
部屋には寝台とテーブル、着替えしかないし、テレビも無ければ新聞も取っていない。殺風景なことこの上ないが、しかし辛辣な感想を述べる者も、当然居ない。この部屋には彼以外、誰も入らないのだ。
「さあて、どこかにでも行くかな」
顔を洗い、歯を磨き、食パンに鮭フレークをまぶして食べる。
着替えて外に出れば、十月も中旬だというのに空気がやけに寒かった。
「――おおい」
屋外通路に出れば、眼下から声。
柵から見下ろすように顔を向ければ、この寒い時期にタンクトップ姿の変人が見受けられた。
寒そうにジャケットの襟を立てて、少年は嘆息する。言葉も無く、階段を降りて彼が居る駐車場まで移動した。
「また、追われてるのか?」
「バッカ、んなヘマすっかよ。二週間つきっきりの仕事がようやく昨日、見事失敗ってェ形だが終わったんだ。たまにゃ遊んだっていいだろう。誰も俺を責めたりするもんか」
告げる男の左手には、少年同様に腕輪が嵌められている。
機関の狗の証であり、飼い殺しの証左だ。
「さて、どこに行く?」
瀬戸の提案に、少年は心底驚いたように顔を上げて目を剥いた。
あまりの驚きようだったから、さしもの青年もぎょっと身を引く。
「着いてくるのかい?」
「ツレねえなあ、いいだろ? 別に邪魔なんかしねェからよ」
「……君はさぁ」
「なあ大将、いいだろ? 別に死にゃしねえし、お前が五年前まで敵だったから――なんて、気にもしてねえし、頼ってもねえ」
「そんな事言ってないだろ」
「ツンケンしてっから」
「苦手なんだよ――君みたいに、ズンズン人に寄ってくるのは」
元来、そもそもは消極的な質である。その冷静さは持ち前のものであり、体質さえなければ極めて静かな少年だった。
出生が出生ゆえに誰よりも平穏を望んだし、だが体質ゆえに強大な闘争を胸に抱くこともあったが不本意にならず、少年はそもそも、上に立つ器など持ち合わせていないことを自覚していた。
だから、彼のような積極的に全てにぶち当たり生気をむんむんに振りまく存在には後ろめたくなってしまう。
もしあの時、自分などではなく彼のような人間が居れば、と。
「おいおい」
相変わらずの表情で瀬戸は肩に手を置き、
「だから大将、お前はいつまで経っても見た目がガキなんだよ」
「……なんだよ、突然――」
「好き嫌いばっかしてんだろ。糞ガキめ、だったら徹底的に克服させてやるために俺についてこい!」
まくし立て。
手を握り。
瀬戸は自慢の力任せに前へ踏み込み、一本釣りの如く少年を引いた。
研究機関に捕獲されるよりも遥かに強引な強制連行に、少年はどこか嫌な予感を覚えずには居られなかった――。
喧騒しかないゲームセンターを巡り、本屋で漫画コーナーだけを回り、公園で人心地ついたあと――ファミレスで腹ごしらえをしようとした頃合いは、ちょうど午前十一時になるところだった。
午前九時に家を出て早くもニ時間が経過した時である。
少年は見た。
新たな奇人の登場である。
◇◇◇
リサ・イマジンは辟易していた。
己の美貌は認めるし、それゆえに周囲の――主に男からの視線を多く受けてしまうのは仕方のない事だろう。
そして自分でも目立つ格好をしているのはむろん自覚している。白いフリルのついたスカートは足元まで伸び、身体はそれと一体化している、黒と白を基調とした給仕服。つまりメイド服だ。
張り裂けんばかりのバストを強調し、歩くたびに揺れるそれを、己でも意識せざるをえない。
淡いエメラルドの髪は異国情緒溢れ、長いそれを後ろでゆるい三つ編みにする。
瞳はブラウン。
唇には燃えるような赤いルージュ。
「――だからさあ、いくら? お店の子より、君がいいなあ? いい髪の色だし、キュートな瞳だしさ」
「体質なんで」
胃液が腐ったような臭いが相手の口から零れてかかる。
男に負けぬ長身を自負しながらも、自身より頭ひとつ高いその男の指には、センスの欠片もない無骨なシルバーアクセサリーが嵌められていた。
しゃれこうべに、しゃれこうべに、しゃれこうべ。たまにロザリオ型があれば僥倖、といった程度。
この平穏で平凡な繁華街は、割合に学園に近い。だから娼婦などが、こんな所で客引きしているわけもないのは周知な筈なのだ。
「いいじゃん、一回だけだって」
往来で立ち止まる彼女らを迷惑そうに一瞥しながら、通行人は止めもせず、逆に楕円形に空間を作りだしてくれてしまう。
男の脳はウジに食い荒らされている。そう判断しなければならぬほど、愚行で、愚昧で、その言動や体臭や口臭は万死に値した。
これがニッポンの歓迎なのかと勘違いするほど、リサは落ちぶれても居ないが――そもそも、己の出身国すら忘れてしまった彼女には、他国に対して大きく出ることは出来ない。
「いい加減にしてください。わたし、そういうんじゃないんで」
「出稼ぎでしょ? 大丈夫、君なら十万でも良いから」
「だから――」
いい加減にしなければ。
ぎゅっと握る拳。骨が軋み、力を入れれば急速に筋肉が全身を締め付けた。
隆々と筋肉が猛る。メイド服の下で、アスリートと言うよりはボクサーのような体つきに変異するのを、しかし男は気づかない。その秀麗な顔と豊満な胸に目を奪われているからだ。
彼女の特能体質は、己が恥辱と感じれば発現する。その思いが強ければ強いほど、彼女の力は”正確に体現”するのだった。
《空想投身》と呼ばれる咎である。
髪の色、瞳の色の変質がソレだった。
だから彼女の拳は固く握られていたし、次の刹那にも男の頭が吹き飛んでいてもおかしくはない状況だったが……。
「おい」
張本人よりも早く、堪忍袋の緒を素手で引き裂き、我慢の限界に至ったのは金色の獅子――ではなく、金髪のチンピラだった。
そしてリサが反応するのはその好意ではなく、質の悪い手合いの肩を掴んだ左手首。首輪ならぬ腕輪、件の飼い犬の証だった。
「嫌だつってんだろうが」
「はあ? 誰だてめ――」
大柄の男は、いい体格をしたチンピラを見下ろすように激怒する。だがそれが仇になった。
下方からの拳を認識できない。だから、彼にとって何が起こったのかを正確に理解するには、視覚情報と、頭が足りなかった。
――瀬戸ユウは横柄な態度と口臭に耐え切れずに拳を突き上げる。電撃を纏わずとも神速を得たのは激昂に寄るものであり、男は顎を叩き上げられ、呆けたように空を仰いだ。
さらに腰を落とし、いい具合にあった水月へと、彼は身体ごと肘を叩きこむ。男はたたらを踏むように後退したと思えば、足が利かずに尻もちをつく。またよたよたと、おぼつかない足取りで立ち上がっては、幾度も転びそうになりながら、彼はその場を辞していった。
瀬戸ユウは嘆息混じりに振り返る。苦笑して、後頭部を掻いて口を開いた。
「悪ィな、大将。動いちまった」
「勝手にしろ」
突き放す声は、高いとも低いともつかぬ少年らしい、ゆえに歳相応などではないソレだ。
だからこそ、リサは少年から目を離せずに居た。
――濃紺のジャケットに、黒のタートルネックをインナーに。濃い緑色のカーゴパンツ姿の少年は、いかにも少年らしい顔立ちだった。
成長期の子供は、五年の時を経て大きく成長するだろうに――信じられない。
リサは彼に訝しむ視線を投げ、眉をひそめ、唇をきゅっと締めた。
五年前と”何も変わっていない”なんて。
「ホ――」
言葉よりも早く。
呼びかけより疾く。
少年は踵を返し、リサへと一瞥もせずに道を引き返していく。
「あんた、怪我は?」
瀬戸は少年の背を眺めてから短く舌を鳴らし、そうして思い出したように傍らの彼女へと声をかける。下心はなく、純粋な献身的な声掛けだった。
「私は大丈夫です、貴方は?」
「どうもねえさ。まあこんな事も言いたくねえが――趣味だか知らねえが、時と場所をわきまえた格好のほうがいいぜ。ここらは治安がいいかもしれないが、無いとはいいきれないからな」
「ええ、ありがとうございます」
「んじゃまあ、気をつけて」
背を向け、手を掲げる。背中越しの別れの辞儀に軽く頭を下げ、男がやがて少年に追いつくのを見る。また彼を見て、初恋を知る乙女の如く胸が高鳴る――その理由を、彼女は忘れられていなかった。
ここで告げるべきではない。
ここで誤る訳にはいかない。
「《狂狗》の話は本当だったのね――」
呟き、リサは少年らに背を向ける。
ごったがえす人並みは、先ほどの空間を喪失させ、彼女の目立つ姿格好さえも容易く飲み込んでいった。
「居たわ、本当でした。彼が、生きていたなんて」
「いや――彼奴は死んだ筈。機関が派遣した軍隊が彼奴を保護したのは死亡から十八時間後。いくら極北の島とは言え、自然が可能なのは死体保存程度だろう」
巨漢と言ってしまえばそれだけになってしまう男は、頭巾のような覆面で顔を隠していた。剥き出されるのは唯一目元、されどその瞳さえも、視線が合えば即座に外してしまう殺人的な鋭さがある碧眼だ。
「だったら」
「そう、”ならば”だ。連中には死者を動かす、あるいは死者を蘇らせる咎人が居る――現実的に考えれば、あるいは……」
「ふふ、本当に、そのままの意味で”咎人”ですよね。それじゃあ」
「是。学問という分類でない以上、基本的な倫理の部分で大禁忌と言えようぞ」
長身を自負するリサ・イマジンの頭を二の腕の位置で留める男はニメートルを超える巨体であり、さらにその身は着物のような黒装束に包まれる。
そこに浮き出る骨格は強靭の一言に尽き、仔細を申せば、無駄のない筋肉のつき方、さらに筋肉自体の鋼鉄が如き無骨さはある意味で美術的観点でも目を瞠る。
言ってしまえば忍装束なのだが、だからこそ変哲もない喫茶店にメイドと忍者が向い合って顔をあわせて居るのがあまりにも時代錯誤であり、文化交流的な外観であった。
「でも、だとしたらあの落ち着きようは? 《狂狗》に、一発も入れられなかったのに」
「咎の気配も未だ無し――やはり、あの腕輪が強制的に精神に干渉するらしい」
「彼は、わたしたちを狩りに来るのでしょうか……」
悲しげと言うよりは、そんなものか、と卑下するような口ぶりに、忍者は苦笑する。
口調はどれだけ強気であっても、その眉尻が下がる一方の悲しげな表情ばかりは変わっていないからだ。
「救済だと言ったそうだ。ディメンには意味がわからなかったそうだが……」
「平穏を、まだ望んでいるのでしょうか。だから、私達を救済しようって」
「最も遠い場所に居る我らが、ようやくたどり着いても”ここ”だというのにな」
「戦わなくては、ならないのでしょうか」
最早隠さぬ不安の声に、忍者は小さく頷いた。
「我々は、その為に来た」
平穏のために。
己らの自由のために。
だがそれを知るものはそう多くない――僅か四人の旧友たちの中であっても。
「彼、とも?」
「それが救済だと、言い張る愚昧ならばな」
どちらからともなく、十数分前に来たカフェオレを手にとって口に運ぶ。
一息でそれぞれを飲み干した彼らは、一も二もなく、そそくさとその場を後にした。