3.桐谷洵
少年が目の前の相手に集中する時、既に火群は無傷の高層ビルの上へと”跳躍”した。火焔の尾を引いて跳び上がった彼女は、そのまま三十メートルを超える屋上を越えてから、ゆっくりと降り立った。
そこには誰もいない。
誰かが入る前に新田による大量殺人は起こったし――警備員や会社に泊まった者なども、死んでいない限りは隠れているか、逃走なりを成功させているだろう。
動いている二つの影だけを見ながら、彼女は思う。
桐谷洵が戦うべき相手はリッシュ=デモ・リッシュだけなのだ。なのに、ホープの戦友だっただけの少女を相手にして無駄な体力を消耗させて良かったのだろうか。
否。
桐谷が未だホープという存在を引きずっているならば。彼が救済行為を望むならば、正しいのかもしれないが。
リサ・イマジンの《空想投身》は己の想像をその身に投影する。極めて傍若無人にして凶悪な咎は、故に《適応人格》ないし、それを上回る力を持つ者が対応しなければ倒せぬと思われた。そうして、それは事実であった。
もっとも、そのようなものがいくら咎人といえどもノーリスクで扱えるわけもない。
その《空想投身》の投影精度によって、思い出を失うのだ。その精度が高ければ高いほど、強く胸に抱き己の人生に深く関わってきた記憶に関連する。
だから彼女は目の前の少年を見て、躊躇っていた。
「リサ」
偽物の声は極めてホンモノに近い。その温度、声色、音量、言い方、その全てがホープ・ウォーレスそのものだった。
だから失いたくないと思っていた。
ホープ・ウォーレスの事を苦手とし、嫌悪し、和解し、共闘して、じゃれあい、惹かれ合い――最後の夜に交わした口づけだけの別れを、彼女は手放したくなかった。
だから躊躇う。
目の前には彼が居る。だから、思い出せずとも、己は満たされたままでいられるかもしれない。
「……僕は、桐谷洵だ」
その発言には、己が複製体であることを理解したという意味合いと、そこに納得があることが含まれている。
それこそが不安定なその精神構造から来るものであるのを、しかし彼女は認識できない。数多の挫折と自己嫌悪と憎しみとを超えてきたのだと、その一言で曲解したからだ。
少年は救済という義務を経て桐谷洵を保っている。
彼女は、だがその救済を、少年の複製体なりの偽善行為にしか感じられなかった。
「君を救済する」
その術など知らぬくせに。
噛み締めた唇が噛み切られ、つうっと血が流れ出る。
「何から?」
問う声は震えてなど居ないだろうか。彼女にはそれだけが心配だったが、桐谷の表情を見る限り、問題はないらしい。
「君に強いる悪意から」
「わけがわかりません」
肩を竦めて鼻を鳴らす。
馬鹿だ。
そんな所まで、受け継いでしまったのか。たかが偽物の癖に、大きく出たものだと思う。
「多くの人たちが死んだ。もう、君しか居ない」
「リッシュが居ますよ」
「奴は――レイドさんを、殺したんだぞ?!」
「知ってます。死ぬことまでが――残酷だけれど――私達の作戦だった。彼女もそれを覚悟してた。だけどね、偽物さん……貴方は、それを目の当たりにして涙一つ流さなかったらしいですね?」
ああそうだ、とリサは思い出す。リッシュがここで待機する彼女にだけ知らせた報告を、彼女はここで回想する。
やはり偽物だ。死んだホープ・ウォーレスは、二度と戻らない。
手放せないと思う。この記憶は大切だった。
だが同時に許せなかった。そんな男がホープと同じ顔を、声を、身体を持って生きている事が。その為に彼を忘れてしまっても、彼はただ苦笑して抱擁してくれるだろうと思って。
緩やかに、まずホープと初めて出会った幼少期の記憶が曖昧になり始めた。そうして髪は背中を超えて腰まで伸び、深い緑色に染まり上がる。
この十三年の記憶が消えるまでおよそ十分。咎はそれまで持続する。
「ごめんね、ホープ」
溢れて頬を伝う熱い涙の意味を忘れてしまう恐怖に苛まれながら、彼女は拳を握らずには居られなかった。
彼女が知るかぎりで最強の力が肉体を満たす。
だが、もし仮に少年が本気で相手にしてくれるならば――それでも、敵うかわからなかった。
桐谷洵は思わず狼狽した。
彼女の一言が、鋭く図星を貫いたのだ。
涙もない――泣いて嘆くほどの思い出がないからと正当化してきて、それが当然で仕方がないことだと思ってきた。だが、もしかしたら異常なのではないか、と。
恐らく、先ほどの爆発でディメン=レイクは死んだだろう。無念だ。
事後報告でマッグ・インの死も知らされたが、残念だとしか思えなかった。
この感情は、他の誰かとは異なっているのだろうか。いや、そもそも人の感情なんて酷く不安定で、常にたわんでいる老朽化の進んだ吊り橋のようなものではないか。
ちょっとした刺激で直ぐに揺れる。だから己は、少しだけ冷静なだけで……。
しかし、と思う。
オクパス=レイドの死は、果たしてあらゆるメディアで知るどこか遠くの見知らぬ誰かの死を凌駕し得るものだろうか。
同等なのではないのか。誰が死んでも同じで――まだそれを知らないから、思い出がないからと言い訳しているのではないか。
「僕……には」
何があるのか。
技術も、言葉も、思考も、知識も、全てがホープ・ウォーレスのものだ。
ちょっと待て、と少年は怒涛の勢いで流れる思考に制止をかける。だがそれは到底、止まるものではなかった。
――今更ながらに少年は思った。
僕は本当に、今この瞬間に桐谷洵として存在できているのだろうか――。
自分はどうあっても、己の意思など関係なしに、やはりホープ・ウォーレスの複製体第二号であり、所詮はクローンとしての一生を全うして死ぬのではないか。
「……く、僕は!」
感情が揺れる。
そこに人間と同じ共通の部分を見出して、安堵してしまう自分が酷く虚しかった。
僕は……。
それ以上の言葉が続かぬまま。
動揺の様相を呈したまま。
少年はリサ・イマジンの肉薄を許し。
《絶対障壁》を張るという以前の思考状態のまま、土手っ腹に体重をかけた全身全霊の拳撃が炸裂した。
砲弾よろしく吹っ飛んだ身体は、誰に受け止められることもなく商社ビルの自動ドアを突き破った。そのまま受付窓口デスクを越えて壁に叩きつけられ、少年は落ちる。
全身に突き刺さったガラスから滴る鮮血が、彼が自覚するより遥かに大量に床に溜まる。
内臓も骨も滅茶苦茶に引っ掻き回されていて、とても無事とはいえない。むしろ、致命傷に致命傷を重ねた連撃を受けたような気分にもなる。
瀬戸ユウが受けた一撃より、遥かに重い。
そして桐谷洵は青年より、筋肉量も体格も下であるがゆえに、受けたダメージは筆舌に尽くしがたい。
ただ咳き込んだだけで、胃に空いた穴から溢れる鮮血が逆流して吐き出される。びしゃり、と音を立てるようにそれは衣服を濡らした。
「まさか……ね」
今更悩むとは。
もう、決定的なまでに決別したと思っていたのに。
痛みをおして立ち上がり、デスクの脇を抜けて歩き出す。支えにするのは虚空に出現させた壁だ。
既に死に体。知っていながらも、破れた自動ドアを突き抜けて迫るリサの姿がった。
振りかぶる一撃。顔面を穿つそれは、だが少年に触れずに数センチ手前で停止した。
「待って、僕は」
「何ができるのです?! たった一撃で、死んでしまいそうな貴方が!」
「君を――」
「救ける?! ちゃんちゃら可笑しいですよ。私が貴方を狙うただひとつの理由は、貴方がホープ・ウォーレスの偽物だからです!」
故に彼女にとっての救済は桐谷洵の死。
少年がそこから連想した思案は、極めて彼女の要望通りに完結した。
「ああ、わかった。殺してくれ」
偽物ではない――否定しきれなくなった。そこに、自信が持てなくなった。
だが、それは自虐的で自暴的な選択などではない。
彼女がそれを望み救われるのならば。そういう、彼なりの桐谷洵の装いを精一杯した一つの判断だった。
「なに、を……」
「君がそれで救われるなら、それでいい。僕を好きに殺して良い、だけど――」
少年の言葉が止まる。
視線の先で――リサの奥に、新たな人影を見たからだ。
「折角弁明に来たのに、勝手に殺すだの死ぬだの勝手ですわね」
背部から二対の触腕。常に唸り、滴る粘液はさながら洋画に出てくる地球外生命体のよう。
「勝手ですわね。勝手じゃなくて? 勝手すぎますわ……ねえ、マコト」
オクパス=レイド。
リッシュの手によって頭を穿たれ即死した少女。だが――治療が間に合ったのか、彼女は紛れもなく彼女として、そこに居た。《精製素子》がそれほど優秀だったのだろう。
蘇生まで可能とするとは、やはりそれは正真正銘の咎らしい。
「ねえ、リサ」
呼ばれて、彼女はやっと振り返る。
死んだと聞かされていた彼女の姿に、やはり驚愕が禁じえずに目を見開いた。
「レイドさん……どうして」
「彼は一度でも、ホープ君だと自称しました? その関係性を声を大にして主張しましたか?」
「……だけど!」
「マコトは一度もホープ君だなんて言ってない。むしろ、ずっと否定し続けた――だけど、あたしたちは模倣品と贋作の違いも知らずに、彼を偽物だとなじり続けましたわ」
一息に告げて、大きく息を吸い込む。
少年はその間に身体中のガラスを引き抜きながら、妙な快感が胸の奥から湧き上がるのを感じていた。
痛みが快楽になったわけではない。
誰かに認められている、その言葉が、全身に染み込んでくるようだった。実感である。己が確かに己であるという証明は、オクパス=レイドの言葉によってようやく成された。
桐谷洵が桐谷洵であるために。
複製体であろうとも、それはホープ・ウォーレスの偽物ではなく――ホープ・ウォーレスの複製体である桐谷洵という――別個体だという証明が。
「あたしたちは、どうしても彼をホープ君にしたかったのですわ。まだあたしたちが、彼を諦められなかったから。全く関係ない別人だという事で、彼の存在が薄らいでしまいそうで」
――リサの髪が透き通る金髪に戻る。
全身から迸る殺気と共に、全てを威圧するような気配が緩やかに萎んでいった。
「戦う理由はない。殺す理由なんて尚更ですのよ」
「……わかります、理屈では、わかるんです。でも、私は……彼を前にすると、どうしても……」
「だからさ」
少年が口を挟む。
「僕の目的が終わったら、殺していいよ。君の癇癪で殺されるっていうのもアレだけどね」
「リッシュの所へ行くのでしょう? 貴方では、とても敵うとは思えませんけれど」
「行くよ。来いって言われたからね」
「真面目、ですね」
リサのつぶやきに、少年は苦笑した。
他にもっと気の利くことが言えれば格好いいのだろうが、少年にとってはそれが精一杯だった。
「レイドさん、ありがとう」
歩き出して、リサの脇を抜ける。対面した彼女は、桐谷の例にはにかんだ。
「どう致しまして。頭痛をおして来たのですから、どうせなら生きて戻ってきてくれると嬉しいですわ」
「あれ、リッシュはどうでも良いんだ?」
「まぁ……彼は、ねえ?」
と、言われてからレイドはリサと顔を見合わせる。少年の背後のリサも、眉をしかめて困ったように笑った。
「会えばわかりますよ」
「そうかい……ちなみに、僕は勝てると思うかな」
少年の問いに、また二人は顔を見合わせた。
「勝負にならないと思いますわよ」
それはどちらが? そう訊き直すのも気が引けて、少年は歩き出した。
外に出る。
雨は先程とは比べ物にならないくらいに強くなっていて、豪雨に打たれればさながら滝行をしている気分にもなる。
少年は前に一歩歩く。雨と共に全身から血が流れていくが、同時に傷口からの出血が絶え間なく総身を汚す。だから彼にとって、たかが一歩も酷く重かった。
歩き出す。身体はゆっくりと地面から離れていく。
後ろではそんな少年を見守るような二人の姿。少年は展開した障壁を階段上にして上り出す。
――やがてビルさえも超える高さで、遠くの方に学校の存在を認めた。
私鉄で二駅離れた場所。ここからならば、およそ十キロ近い距離。
現時刻は九時を少し回った所。制限時間はおよそ五時間。
歩けば、なんとか間に合うだろうか。桐谷洵は早くも朦朧とし始めた意識を、冷えきった雨滴によって冴え渡らせながら、重い足取りを繰り返して前に進んだ。