6.真実の行方
壁に張り付き、ゆるやかな速度で腐敗を始めていた死体は、しかし死後の屈辱を受けることはない。マッグ・インの肉体は、どれほどの施術を施したとしても決して蘇らぬ程に破壊されていた。
脳が複雑に抉られて居たのだ。その剣先で、死と同時に行った忍者による最期の仕事というものだろう。
その身体が、意思が、不純な動機のもとで使われぬよう。
そして――たった今、突如として肉体に炎が灯った。
否、その表現は正しくない。何の前触れもなく全身を焼き尽くして飲み込む業火には、灯ったなどという表し方は相応しくなかった。
火葬を容易くする熱量だった。
男の巨躯は瞬く間に溶けて、乾いて、骨を残し、灰と化して――それさえも、焼きつくされて姿を残さない。それは、一分にも満たぬ時間の内に行われたものだった。
「ご苦労様」
ねぎらいを零す。
これで、面識のない気高き戦士が弔えたかはわからない。だが、少なくとも機関の手にかかるよりはまだ、安らかに逝けるだろうと思えた。
《人体発火》は彼女の思った通りに炎を操作する。自在に出現させ、自由に熱量を調整し、好きなものを舐め尽くす。
それに伴う体質の変容は、その炎が灯ったような髪の色に――極めて高い興奮。ある一定以上の火力を放てば限界を越えて、その身を防護すら出来ぬ炎を纏って攻勢に出る。
制御できる範疇はここまで、つまり人を瞬く間に焼き尽くして灰すら残さぬほどの熱。どちらにせよそれで、今は充分だった。
「じゃあね、マッグ・イン。彼はあなたを、継いでくれると思うわ」
忍者のお墨付きなのだ。言うまでもないとは思ったが、彼女自身、半信半疑であった瀬戸ユウの咎を、しかし口にすることで改めて認めることができた。
――この通路の先は修羅場だろう。
考えながら、彼女は自身が降りてきた穴の下へと移動する。
地上に、不純な動機で動くものを感知する。
マッグのように気高くもなく、レイドのように純朴故でもない。それは主にツバを吐きかけ己の道を探す獣。
人知れず去るべき害悪だ。
轟々と大気を食らいながらその身に纏わりつく火焔が、一筋の閃光と化して一直線に虚空を貫き空を目指す。障害物の概念が通用しない火群はやがて、さらに天井をぶち抜いて――闇夜を舐める業火となった。
◇◇◇
「私に、任せて……!」
上肢前面の肉を剥き出しにするトロイが、脳髄を垂れ流す少女を抱きかかえて集中する。彼女の左肩に展開しかけた赤い装甲が、まるで意思を持つかのように流体化してレイドの砕けた頭蓋の中へと滑りこんでいった。
「お願い、お願いよ! どうせ人じゃないなら――咎と呼ばれる力なら! ヒトの禁忌くらい簡単に踏み込んでよぉっ!」
人の蘇生。
人の創成。
いずれも倫理的面から大禁忌とされる施術であり、この機関では確立された技術である。
人が持つならば、あるいは。トロイの《精製素子》の精度は、鍛錬不足により不安しか無いが――あるいは。
昂った少女が全力を尽くして集中する咎である。展開された装甲は肉体の鉄分から精製されたものである。それをレイドへ流すということは、命を削るに等しい行為。
これで何も起こらねば、現実は無情という他ないだろう。
「無駄な足掻きだ」
リッシュの銃口が少女を捉える。ボルトが引かれ、冷めた空薬莢がはじき出されて床を叩く。新たな実包が装填され。
射線上に少年が立ちはだかった。
「不躾だね。怪人がヒーローの変身を待つように、女の子が泣きながら頑張る姿は見守るものだよ」
「言ってるあんたは極めて無感だというのにか」
「僕は怒っているんだよ」
「オクパス=レイドの死に対してではなく、死なせてしまったという事に対してだろう? あるいは――複製体を騙ったわたしに対してか? 嫉妬、なのだろう?」
バチン、と弾ける音が反響した。太いゴムが大気を殴り飛ばしたかのような、鈍い打撃音だった。
そして、気がついた時にはそこに居た。金髪を総立ちさせる、タンクトップ姿のチンピラ風の男。リッシュが、桐谷が知っている姿と異なるのは、その手に血塗れの忍刀を握っていることだけだろう。
「てめェに、だろ? ノータリン」
神速で少年の傍らに出現した男の表情は、どこか達観したような清々しさがあった。
だから、いつものように眉を顰めるその顔はどことなく頼もしく、
「なあ、大将?」
「ああ」
忍者の死を悟る。
言及はしない。追求は要らない。
彼がその忍刀を握るという事自体が、おおよその出来事を推察させたからだ。
「大将、オレァよ、もうお前に否定されようが誰に拒まれようが、知ったこっちゃねえよ。オレはオレを貫く……守りたい奴を守るために、障害をぶち抜く閃光になるんだよ」
だから、と刀を突き出す。その表面で、電撃が迸った。
「救済、するんだろ。手伝うぜ」
「ああ……救済、か」
桐谷洵が唯一肯定して継いだホープの一面。
彼が命を賭して守りぬこうとした仲間たちを、彼が失せた今でも守ろうと考えた。だが守るべき彼らが己に牙を剥いた今、ならば救済しようと思った。
彼らにとって最上と思われる選択を、目の前に突きつけてやろうとしたのだ。
だが――忍者が死んだ。レイドが殺された。
残る二人は、果たして何を望むだろうか。
裏で画策していた、ようやく姿を現した男に何を吹きこまれたのか。
「……君は、何を望む? リッシュ……君だ、君が選ぶ未来はなんだ?」
「強いて言うならば」
パン、と。呆気無く銃声が響いた。
火花が瞬く。それを認知した時には既に、少年は己の前に障壁を張っていたはずだった。
――疾走る激痛。
腹部に燃えるような痛みを覚え、腹に力が入らず、思わず膝を折って屈みこむ。
どっと額から汗が噴き出た。
「あんたらのような咎人の殲滅かな」
冷めた眼で、にやけすらしなくなった顔で、恐らく真意なのだろう心情を口にする。
「人として扱われてないんだ。出生からして殆どがモルモットなんだ。なぜ生きようとする、死ねばいいだろうが。あんたらの命に、価値なんて無い」
「ああ? だったらてめェも同じだろうが。率先して死ねや」
「提案した者なりの責任がある。わたしは全てを見届けるよ」
「必要ねェな。オレが殺してやる――」
拳を握る。忍刀の柄が軋む。
大地を弾く、瞬間。突如として瀬戸の眼前が白く染まった。鼻頭に触れるか否かの位置に、純白の壁が現れたのだ。
そして間髪おかずに脇から飛び出してきた少年が瀬戸を突き飛ばし、直後、僅か一秒足らずの内に壁が消滅した。
《絶対障壁》は四秒間だけ絶対的な堅牢さを誇る――筈だったのだが。
空の薬莢が排出される。
発砲。
胸を穿つ弾丸は、しかし褪せた赤褐色の刃に触れてひしゃげ、潰れて止まる。
少年の胸の手前に突き出された忍刀の表面が、弾丸を受け止めたのだ。
さらに瀬戸が踏ん張り、振り払う。潰れた弾丸がリッシュへと戻っていき、その額にぶち当たるより速く。
粉々に砕け散った。
砂ほどの細やかさは、まるで電子欺瞞紙のように男の周りでキラキラと煌めいた。
「もっとも、安心してほしいことが一つある」
「ああ?」
「わたしは仕事を優先する」
踵を返し、男は無防備な背を見せた。
無防備に見える――だが、その背には何者も寄せ付けぬ殺気が漲っていた。
近づけない。無鉄砲な瀬戸ですら、そこに警戒した。
「十二時間後までに、わたしのいる場所まで来い。わたしと、あんたの最後のチャンスだ」
「場所、だって? 着いて来いって、いうのかい」
血が止まらない。痛みで思考もままならない。
だが、吠えなければならなかった。意識が誰かに向いている、それだけで痛みが少しだけ和らぐから。
「ヒントは、オクパス=レイドの格好だ。あとそう、もう一つ加えるなら――覚悟してこい。わたしからの、最初で最後の助言だ。身に染みて感じるが良いよ」
男が、開け放たれた扉の向こうへと姿を消していく。
跪いたままの少年はその場にうずくまって動けず。
己より遥かに重傷であった少女ですら頑張っているというのに――青年は、腹に空いたただひとつの風穴を契機に、意識をゆるく緩やかに深淵へと転げ落としていった。
◇◇◇
「ちっ、惜しいなぁ」
背にした大木が、突如として幹の一部分を喪失して倒れてくる。
だがそれは、彼女に触れるよりも速く発火して、地に触れるより速く炭となる。
追っていた影はその間に遠くへと消えていき――。
金髪の男が、そのポニーテールを揺らして立ち止まった。
そこは研究所と山麓を繋ぐ、関係者のみしか利用しない二車線の道路。山を切り開いたが故に、周囲は濃密な森林に覆われていた。
「なによ、見惚れた?」
路上のど真ん中で立ち止まるリッシュへと、物怖じの一つもせずに火群が微笑む。
「マコトの保護者か」
「あら、そんな歳に見えるかしら」
「緊張感の欠片もない……むしろ、あんたはこちら側に近そうだが」
「言いがかりね。むしろ、私は共生を望んでいるのだけど」
「くだらない――あんたも、真相を知れば」
「知ってるわよ」
腕を組んで、前に出る。
着剣したままの銃を肩に担ぐリッシュの前へと、無防備に出る彼女の髪は、まだ赤い。
両者とも油断ならぬ状況だったが、しかし彼女らはただ会話だけを目的としていた。
「自作自演なんでしょ? ペキュリアウイルスも、何もかも。でもどうでもいいのよ、私達がこうして存在しているのは、そこに起因しているんだから」
「しかし――」
「女々しいわねえ」
「……女々しくもなるさ。わたしは、いつでも現実を目の当たりにしていたのだから」
男は彼女の長い髪を一瞥したあと、背を向けて歩き出す。
「止めて欲しいのかもしれないな……わたしは、期待しているのかもしれない」
だから口走ったのかもしれない。
わざわざ私情を口にして、作戦に、ではなく己に注視してもらうために。
「ほんと、女々しいわ。彼だけじゃなくて、私にも止めて欲しいんでしょう」
「――はは、かもしれないな」
図星を突かれて、もう笑うしかない。
誰かにかまって欲しいだけなのかもしれない――桐谷洵のように、自分を、リッシュだからと取り巻いてくれる誰かがほしいのかもしれない。
オリジナルなのに。
空いた左手を強く握る。爪が肉に食い込み、骨が軋むほどの力が溢れる。
「わたしは……いや」
立ち止まり、口にした言葉を改めて飲み込んだ。
また「女々しい」と呆れられるだけだ。
「彼に訊いてみれば? 真面目だから、笑わないでしっかり答えてくれるわよ」
「それも、いいかもしれないな」
リッシュはゆっくりと、再び歩みを進めた。
最後の時。
最後の戦い。
五年の空白を経て動き出した刻は、あと一周でゼロへと至る。