2.少女――敗北、そして
一枚の内開きの扉に手をかけようとしたところで、彼女は気がついた。
それは半ば口を開けていて――突き出る、棒状の影があった。鋭く冴える刃があった。
銃声が轟く。火花が瞬く。
己の意思とは別に、左手首が勢い良く弾けた。
宙空を飛んだ金属の破片が視界を横切る。ニア・トロイの中で、二人の少女がタッチした。
破壊された腕輪が地に叩きつけられるより尚速く。
彼女の左半身に、屈強な装甲が展開された。
「く、ぐぅっ――」
肉が引きちぎれ骨が砕ける。左手首は半分以上腕から離れていたが、装甲が介入して金属とともに癒合する。
担いだ剣を片手で構え、途端に荒くなる呼吸を必死に押さえつけながら、全身から脂汗が滲んで流れるのを、彼女は場違いに感じていた。
死ぬかもしれない。
本当にそう思った。
「死ぬか生きるかは、あんたの運次第ということになる」
静かに、湧くように染みこんでくる呟き。
毒々しく、禍々しい空気を孕んだその男は、ゆっくりと扉の隙間から身を滑らせて登場した。
「ベツに、どうでも……いい、です」
「すまないと思っている。しかしあんたの腕輪を破壊する術を、わたしは知らないんだ」
「にしては、壊れないことを可能性の一つとして考えないですよね」
「最悪、手首を引き千切ればいいと思っていた。そうでなければ、あんたは何も出来ずにわたしに殺されてしまうから」
狂ってる。極めて冷静な様子だが、おそらく完膚なきまでに精神は崩壊していると考えて良い。
男は狂人だった。
少なくとも、まともな頭で冷静に「最悪手首を引きちぎる」と考えられる者は居ないだろうし、殺そうとしている相手に、「咎が使えぬまま死ぬか」「抵抗して死ぬか」の選択を与えずに、後者が幸福だと断ずる相手は、いささか背筋が凍る。
「正直――怖いです」
心情の吐露は、己がそう認めることでいくらか緩和される。
相手の表情は、暗がりの中でよく見えない。
「そうか。あんたは生きたいか」
「……わからない。でも、死にたくはない。あの少年より先に死ぬのは癪だから」
「張り合いのある相手が居るのはいいことだ。あんたは……もし、自分と同じ人間が居るとしたら、どう思う?」
不意の問い。
銃口は彼女を捉えたままだが、しかし戦闘開始の気配を見せない。
何もかもがわからない、未知ゆえの恐怖。
だが狂気の中にある確かな穏やかさを、トロイは感じていた。
「よくある話ですね。どうもしませんよ、同じ人間でも、別個体の時点で似通った他人です」
「なら、その別個体がオリジナルで、あんたがそのコピーだ。あんたは常にオリジナルに比べられ、別人だ、別個体だと思っていても、誰もがコピーとしてしか見てくれない。あんたは、どう思う」
「まるで実例のあるような質問――とても、苦しいでしょうね。自分は自分であるのに、誰も自分として見てくれていないのは。でも、誰か一人でも理解してくれる人がいれば、乗り越えられる……そんな気がします」
「脆い状況だ。その一人を喪失した時点で、あんたは崩壊へ向かう――だが安心して欲しい、あんたもオリジナルだから」
あんた”も”。
意味深な言葉だが、彼女にそれに対して思考を働かせる余裕はなかった。
だから剣を構える。これ以上、激痛を湛えている余裕はない。長話はいくらか緊張を和らげてくれたが、その分体力を消耗してしまった。
「行きます」
剣先が揺れ、迫る。
発砲。
弾丸は、彼女の額を穿つように飛来し――閃撃。6.5mmの鉛弾はトロイに近づくよりも速く、その二歩先の剣先によって真二つに切り裂かれていた。
背後の床に、二つの火花が弾ける。
トロイがさらに剣を突き出し、刺突。男の胸を狙った攻撃は、しかし銃剣で受けることによって弾かれ、
「なっ……」
鍔迫り合いの要領で、銃剣部分から銃身へと流された剣が、そのまま力でねじ伏せられ封じられる。
彼女が男の力に『適応』する時間など、ありはしなかった。
銃剣がトロイのむき出しの右の脇腹を穿つ。
ボルトが起き、前後する。手早い挙動の為に、その金属の摩擦音はただの一度だけ響き――発砲。
刺創を引き裂き、骨を砕き、内臓を穿つ。銃弾は彼女の腹に留まり、その傷口を、突き刺さったままの銃剣が横に翻ることで捻り、貫通。
「すまない」
腕をふるう。ただそれだけで、刺創が切創になった。
脇腹に空いた穴が、横一閃に斬り裂かれて開く。
ニア・トロイに言葉が届いたかは定かではない。彼女はゆっくりと膝から崩れ落ちれば、同時にその身に纏う装甲が消失した。
少女は床に倒れ、男は後頭部に銃を照準する。だが、腕が震えて正確に射抜けない。
その理由が、空間全体を震わせる轟音のせいだと理解できたのはその後の事で。
理解した男、リッシュは暫し思索してから、踵を返した。
止めを刺す時間を逃走に回したほうが安全だと断じたのだ。
この轟音は『あの男』によるものであると理解していて、さらにその男が暴走してしまえば、この地下空間も無事では済まない。
何よりも、肌に弾けた静電気が、その気配を垣間見せていたのだ。
「……運がいいのかな」
悪いのかもしれない。
彼女には生き残るための一縷の希望が舞い降りた。この少女がそれを掴めるかは果たして不明だが、しかし可能性はある。
だから不運なのだろう。彼女の傷は、いっその事死んだほうが楽だと思えるほどに深いのだから。
しかし、悲哀するつもりなど彼にはない。
踵を返し扉へ向かった時点で、既にリッシュ=デモ・リッシュの頭から彼女に対する興味は失われていたからだ。
――漏れる欠伸を噛み殺して、目尻にこぼれた涙を拭う。
時刻は深夜。
だが今夜は、眠れないだろう。そう考えながら、彼は静かにその場を辞した。