Event.3《第二実験部隊》
うたた寝をしていた――筈である。
初老の男は殆ど私室と化している会議室の革張りのソファーで、身を横たえて少しの間目を瞑っただけのはずだった。
「目が覚めたか」
目蓋を開けて瞳が捉えるのは漆黒。
肉体が感じたのは、首筋に触れる良く冷え冴えた刃の感触。
男の落ちついた声には、聞き覚えがあった。
「不躾だな、リッシュ。貴様を自由に動けるようにしたのは、下克上を図らせるためでも、暗殺を試みさせるためでも無いんだがな……」
しかしこの状況は、いつかやってくるものだと思っていた。
仲吉良治は、だから驚愕しない。
咎人はどうあっても、己の手を汚して道を切り開く手段しかしらないのだ。
「貴様のやっていることは謀反だ」
「構わない。わたしは、あんたを殺してここを乗っ取る。まず始めの一歩だ――連中を取り込み、世界特異機関を支配する」
「夢が壮大なのはいいが、大きすぎる夢が叶うと信じているのはどうかと思うがな」
「十八年前から考えていた。壮大な夢が完結するに、充分すぎる期間だとは思わないか」
「十八年も働いて一度の昇進もないんだろう? 諦めろ、貴様は一生日の目を見る事はない」
刃が首の肉に食らいつく。たわんだ肉が容易く裂けて、鉄さびの臭いが鼻孔に刺さる。
痛みが鈍いのは、寝起きのせいだろうか。
「最期にいいかな」
「殊勝な態度はいい。どちらにせよ――わたしの決断が、遅かったことになる」
男は刃を携える歩兵銃を握ったまま、硬直した。
横たわる男の喉元に、そのまま体重をかけて切っ先を落とせばすべてが終わる。だが、その直前で彼は動きを全て封じ込められていた。
「ここの施設は世界でも特別でな。際立って有用性の高い咎人を寄せ集めている、唯一研究所単独で活動しているんだ」
「……なるほど、あんたも」
「そうだ。おれも、咎人なのだよ――むろん、貴様などとは格が違う!」
喉に食い込む刃が引き剥がされる。だがその着剣した歩兵銃には、触れられた形跡はない。
目に見えぬ、それは力場のようなものが発生して男の武器を、男ごと宙空へと弾いていた。
ぐわん、と頭が揺れる。リッシュと呼ばれた男が認識したのは、突如としてその身に満たされる浮遊感だった。
直後、背中が堅い壁に、否、天井に打ち付けられる。為す術もなく、彼の肉体はそこに張り付けられた。
身体が天井に押し付けられる。眼球が、不快なまでに圧迫された。
「全く、おれは今年の十二月で五九だぞ。いい加減に、肝の冷える事は辞めて欲しいんだが……貴様はついに、行動してしまったわけだな」
仲吉が指を鳴らす。同時に、壁のスイッチが押し込まれて照明が明滅した。
ややあってから、眩い輝きが室内を照らす。仲吉の瞳孔が、きゅっと縮んだ。
――長い金髪を後頭部で一括りにする男は、長身痩躯。決して肉付きの良いとは言えぬその肢体は茶けた軍服に包まれていた。
手には骨董と言っても過言ではない『三八式歩兵銃』が握られており、着剣されているそれは容易に少女ほどの長さを有する。
「おれはここで、正当な理由で貴様を殺すべきだと思う。だがな、しかしおれはどうして中々、生真面目で仕事に忠実な男なんだ。わかるだろう、長い付き合いだ」
「ああ……子供の頃からの、な」
ほのかに、意識が揺れる。
意識する暇もなく、鈍く記憶が回想の海へと浸り始める。
リッシュ=デモ・リッシュ――それは十一歳の頃だった。
ギルティ・プロジェクトと呼ばれる計画が立案された。
どれほどの時間と費用を費やしても究明されぬ咎をそのままにして、咎人の有用性を図る計画である。
今から十八年前、危険を承知で発令した擬似的な災害は、ある施設内に警報を鳴り響かせた。隙ができたと誤認する咎人らは、己等が収容されている施設からの脱走を図る。
逃走者は百余名。
暫く泳がせた後、
WSOは全責任を以て指揮棒を振るった。
第一段階は軍隊への対応能力。
そこに一般人との差は無く、障害があるとすれば戦闘の中で際立って活躍する咎の存在だろう。
第二段階はサバイバル能力。
咎人による社会への適応能力と、何もない状況からどう生き残る術を見つけるか。統率能力は、生存力は――十三年間、第一段階と合わせて観測を続けたが、やはり特に目立って異なる部分はなかった。
第三段階は対咎人への対応能力。
つまりは咎を使用した、咎人同士の戦闘だ。
咎と呼ばれる特能体質が遺憾なく発揮される状況は、正にソレだった。
己の生命が危機に瀕した時、己が力を望んだ時、彼らが強く感情を昂ぶらせた時――咎は咎としての役割を思い出したように能力を飛躍させる。
また、呼応するように特異的な固有能力が動き出す。障壁、雷、火焔、破壊、増幅、治癒。数多の種類を持つそれらが、どれほど戦闘からかけ離れている能力であったとしても、生き残るために活用される。
六年前。日本で起こった小規模の脱走事件は、その第三段階に含まれた。
そして第四段階――これから移行し始める、実質的な最終段階。
十八年前から続いた、その終焉である。
リッシュ=デモ・リッシュは十八年前の逃走者の中に含まれていた。
分かれた三十余名の集団を極北の、建造物が生きている廃村がある孤島へ誘ったのも彼であるし、当分の間指揮をとったのも、彼だった。
しかし、リッシュは八年前に死亡した、という事になっている。
離脱する必要があったからだ。
彼が二十余名に減った中で、目をつけた少年に全てを託すためである。
「桐谷洵は順調だ。おれが見る限り、オリジナルに最も近い」
「正規の手段による”唯一の複製体”だ。当たり前だろう……しかし」
「そう、最期だ。もう後はないと思う。手遅れになってしまうのも忍びない。貴様に最期だけ、機会をやろう」
オールバックの髪を撫で付けるように頭に手を添え、リッシュを見上げる。
虚ろな瞳で仲吉を見下ろす男に、しかし熱が灯らぬと言えば偽りになるだろう。
「従来通りの作戦で桐谷洵を殺害できれば、貴様の自由を確保する。改めておれに挑もうが、逃げようが最早関与せんわ」
是か否か。
その問いかけは、選択肢を見せているようで見せていない。この状況で、彼が選べるものなどただひとつしか無いのだ。
「わかった。わたしは、これまで通りの予定に沿って対峙しよう。どのみち、今のままではあんたに全てが通用しない」
男の視界は歪んでいる。奇妙な力場が、眼球内の水晶体に力を加えているからだ。
だから、リッシュの咎が発動できない。彼は本当に、白旗を上げることしか出来なかったのだ。
仲吉は頷き、指を鳴らす。
同時に照明が落ち――どさりと、天井から直下し床に叩きつけられたリッシュは、思わず言葉を失って肺の中から全ての空気を吐き出した。
ソファに手をかけ、呻きながら立ち上がる。
「乱暴、だな」
「安眠妨害されたからな。その分は痛い目にあってもらわんと、据えかねる」
「まったく、敵わないな、あんたには」
さながら旧友のような気軽さで交わされる会話は、先ほど行われた命のやり取りの中にあった殺伐さが存在していなかった。
切り替えの速さ、というよりは、ある種の信頼関係だろう。
両者ともに、本気で殺しても良いと思っている相手だ。その中で、状況が改善されぬまま長年が経過したその結果である。
今更、事故や事件でどちらかが死んでも感慨すら無い。「ついに死んだか」と思う程度で、そこに無念さや悲哀などはあり得ないだろうと、彼らは考えていた。
だから、計画は如実に、淡々と先へと進む。
ギルティ・プロジェクトは、人知れず最終段階へと、移行していた。
◇◇◇
秩候研究所は、地方都市郊外にある山中にあった。森を切り開き、二車線ほどの広さを持つ道路はその研究所のために舗装されている。
山麓から『関係者以外立入禁止』の有刺鉄線を張り巡らせるその場所を通過した桐谷らは、併設される医療施設で治療を受ける瀬戸らと別れて、先に施設の中に迎えられた。
時刻はおよそ十四時頃のことだったが。
身体検査。血液、薬物検査。様々な病気や怪我などに罹患していないかなどの検査を含め、十数に至る作業を通過すれば、時刻は既に深夜。
それまでに食事の時間も休憩もなく、ようやく通された先は広い会議室のような場所だった。
両開きの大きな扉を開けた先には、大きな円卓。無数のチェア。
その隣の空間には、賓客を持て成すような革張りのソファーが対面する応接室のような場所。彼らはそこに腰を落とし、既に用意されていた紅茶に口を付ける。
それはもうぬるかった。
「……さすがに遅い」
「ええ。同意するわ」
三十分が経過した。無音の中で、窓の外から見える闇は刻一刻と深く濃くなっていく。
いい加減眠くなってきたし、最悪ここで夜を明かしても良いと思われたが――。
「言い訳は必要かね」
扉が開き、制服なのだろう茶けた軍服じみた衣服を纏う男が、かつかつと足音を鳴らしてやってくる。
仲吉良治は細葉巻を口に咥えているが、しかし火がついているわけでもないし、そもそも頭が切れてすら居ない。タバコが吸えないタチなのだろうが、妙に絵になっているその風貌がなんだか癪に障った。
やがて彼は、対面のソファに身を沈める。
足を組んで、一つ大きなため息をつく。そこでようやく、首に巻かれている大袈裟な包帯に気がついた。
「寝違えたのかい」
「んん、ま、そんなもんだな」
ポケットをまさぐるが、ナイフも無ければマッチも、ライターもない。口唇に挟まれて上下に揺れていたそれは、やがて本来の役目を果たせぬことが発覚して、口元から引きぬかれた。
葉巻はやがてテーブルの上に投げられ、
「僕たちを呼んだ理由を聞いてもいいかな」
本題は、導入部分も置かずに投げられた。
「リッシュ=デモ・リッシュ。この名に、聞き覚えはないか?」
少年の問いかけに返されたのは、さらに直球の本題。
およそ予測し得ない名の登場に、息を呑んだ桐谷は、それから目をつむって首を振る。
「聞いたこともないね」
ただ一度の躊躇もなく、間も置かぬ否定の言葉はだが、妙な違和感の手触りを残した。
――知らぬわけがない。
ホープ・ウォーレスにとって、その男は師であり、友であり、肉親とも等しい唯一の人物だったのだ。
かつて十八年前の逃走者を一つに纏め上げた、彼らにとっての偉人。奇しくも残った仲間を逃がすために討ち死にしたが、リッシュが少年を任命しなければ彼が上に立つという選択肢はそもそも存在しなかっただろう。
リッシュの存在は大きかった。八年前から、五年前まで――ホープ・ウォーレスが、凍土での死を甘受するまでは。
「貴様の知らぬふりを見に来たわけではない。話を続けさせてもらうぞ、一方的にな」
両腕を引いて、背もたれに乗せる。極めて横柄な態度に見えたが、しかしそもそもの口調がそうであるので、ようやく言動が一致したというところだろう。
そこに緊張や緊迫感など無く。
男は平然と口にした。
「この研究所では複製体と呼ばれる人工的なクローンを精製する技術が確立されている」
唐突だった。
だから、桐谷が覚悟する暇もなく。
傍らの火群でさえも、不意打ちに言葉を失った。
「咎人の肉体は、健常者との違いは際立って見られない。むしろ、異常は何一つとしてない。連中は脳に障害を得ていた。ペキュリアウイルスによる後遺症だろう」
「……脳に?」
「松果体という場所を知っているか。脳の中にある内分泌器だ。そして、第三の目、あるいはチャクラと呼ばれるものに深く関するとされている。つまり超能力には、そこが関係しているのでは無いかと言われているのだ。一説では、だがな」
馬鹿げている。
少年が鼻を鳴らす。だが、否定出来ない。
その知識が無いせいでもあるし、そもそも否定するほどの興味が無い。
「そこにペキュリアウイルスがなんらかの形で影響しているのではないか――とな。だから我々は脳髄の複製技術を発達させた。生体から脳髄を摘出し、一つ一つ、細胞をコピーするという地道な工程だが……成功したよ。莫大な時間を要したがね」
「だからなんだ」
「リッシュ=デモ・リッシュの複製体が脱走した。唯一の成功体だったのだがな」
――ということにでもしておこう。
彼は考えた。言っていて、自分でもあまりにもおざなりな感じが拭えずに頬が釣り上がりそうだったが、大きく咳払いをしてそれを抑える。
「……八年前に死んだらしいけど、その死を、誰かが確認したのかい」
少年の指摘に、男は年甲斐もなくドキリとする。
鋭い、と思った。
さすがはホープ・ウォーレス――だと、認める。
「さあな。報告書によればリッシュは既に包囲されていて、仲間から離れて数時間が経過していたらしいから、確認できたのは我々だけだろう」
「その複製体とやらの成功体は、本当にリッシュ=デモ・リッシュなんだね?」
「ふむ……貴様は、何が言いたい」
「別に、他意はないよ。他の複製体が居て、敵に回ったら厄介だろうと思ってね」
「可能性はないな。まともな複製体で、確かに動いているのは世界どこを探しても一つしかない。これはおれの全てを賭けて誓ってもいい」
「――はは、そういう事か」
悟った。
もう、疑いようがない。
複製体はリッシュである。そう断じていた仲吉が、なぜその台詞の中で「まともな複製体は一つしか無い」と言い換えたのか。一つ、をリッシュに差し替えれば極めて自然なものになっただろうに。
「真面目だね、仲吉さんは」
「貴様は聡いな」
その返しで、仲吉良治も認識した。
少年は全てを知っている。だが、未だ納得しているわけではないようだ。
比較対象が居て、いつでも彼は比べられる。同じ顔で、身体で、言葉遣いで、声で、咎を持っているからだ。
「それで、僕は彼を殺せばいいのかい」
「ああ。しかし厄介なことに、現在日本に潜伏している逃走者を利用しているらしい。一筋縄にはいかない相手だな」
「そういえば、クローンは寿命が短いってよく聞くけど、実際どうなんだい」
「そうさな――成功体ならば、最低十年は大丈夫だろうが」
言葉に詰まる。
少年は理由を、なんとはなしに察していた。
脳と肉体は別にコピーしている。だから、肉体はまだ保つだろう。
しかし脳となると、普通のコピーとは異なってくる。異端たるウイルスの干渉が、決して無視できぬ範疇で蝕んでいるのだ。
「頭の方は、五、六年といったところか。劣化した脳に異常が現れるのはその数ヶ月前程であり、症状は認知症に似ているらしい」
「まだ、正確に確認されたわけじゃないんだね」
「まあな。色々と面倒な説明は省くが、つまり成功体についての多くは未だ観測中だからな」
仲吉は言ってから、ふうと息を吐く。
いささか、久しぶりに気を張って疲れたのだ。さらに言えば、それも限界だった。
背もたれに置いていた両腕を下ろして膝の上で組む。組んでいた足をほどいて、やや前傾姿勢をとった。
『ホープ・ウォーレス――』
『――偽物』
頭の中で反響する言葉は、ついに誰かから放たれたものだった。
危惧していた。
気にしないつもりだった。
「僕は、桐谷洵だ」
「ああ。少なくともおれはそう認めているし、お前らの仲間だって、そうとしか見てないだろう」
それは、仲吉が初めて見せる本心からの擁護であった。