Event.0《計画、再起》
全身の骨が軋み上がる。
その凶暴な寒気に、全身が震え上がっていた。
既に周囲は凍りついた純白の大気に飲み込まれ、少年が歩いてきた方向の区別はもうつかない。
凄まじい暴風は、氷嵐なのかと錯覚するほどに激しく全身を嬲り、体温は瞬時にして二桁を下回る。肌は凍りつき、衣服とて同様だ。どれほど着込んでも、北極の吹雪を防ぐ術は無い。
少年は呼吸を乱しながら、その白く染まる呼気が薄れていくのを実感した。
彼を囲む扇状の陣形――およそ二十余人は、風が弱まった時にその人影を見せるだけで声すら聞こえない。されど、そこに確かにいるのだと言うことは、なぜだか確信できていた。
そんな彼らは、しかしそれほどの数で固まりながらも十三になったばかりの少年に太刀打ち一つできはしない。彼らが有するただ一つの特異能力は、同様に少年が保持する特異能力に対してことごとく”相性が悪い”。
だから、この少年が統べて来た。
この地で居を構え、来るべき敵を打ち滅ぼし、生き抜いてきた。
肉体を鍛え、能力を研ぎ澄まし、あらゆる火器を手にさえした。
世界の弊害で、奇特な存在で、研究対象で、唯一の”とある疫病”の副作用で生まれた特殊な能力を保有する危険なモノたちは、大きな組織を築いていたのだが。
ここ五年――彼らはその構成員を、半数以下にまで減らしていた。
理由はただ一つ、殲滅対象として認められたということである。己らを敵視していた世界が、ついに本気を出して駆逐しようと決めたからだ。
だから、世界に抗うことはもう辞めにした。
一つの物語は、ここで終えて――。
「僕はだから、君たちには普通の世界で、もっと普通に、安心で、安全に、生きて、老いて、終えて欲しいと思った」
――だけど君たちには、ここに僕が居て、こういう話があったのだと覚えておいて欲しい。
あらゆる爪痕を残して、それを見ても僕はもう思い出すことができなくても。君たちがそれを見た時、僕と過ごしたその全てに思いを馳せて欲しいと思う。
世界にとって、僕たちは罪だ。
だけど世界に産み落とされた、一つの命なんだ。
淘汰される謂れはない。
だからせめて、この世界で過ごすことが、僕らが望んだたった一つの、最後の抵抗なのだから。
「僕は君たちを生かす。君たちに強いる、最後の命令だ――平穏の中に生きてくれ」
凍りついた風が、身体中を嬲り尽くす。やがて芯が凍った身体は、もう吐き出す息を白くしない。
またたきごとに、影が一つずつ消えていく。やがて一分も経たぬ内に影は、少年の願いを聞き入れたようだった。
やがてこの地に生まれ、ただ一人になった少年は緩やかに、腰から抜いた拳銃を、口に咥えようとして。
心変わりだ。
それはちょっとした気の迷いだった。自分を殺せば、自分に課せられた責任は霧散する。そう錯覚したがための迷走は、やはり是正されたようにとりやめられる。
拳銃を握り、ただ待った。見据える闇は純白で、冷気は瞳を凍らせる。時間は執拗なまでに薄く長く細分化されて一秒を永劫に思わせる中、少年はしかし堪えていた。
やがて。
ただ立ち尽くす数時間が過ぎた時。己はもう、凍えた死体なのかと誤認しかけたその頃。
死ぬことすら選択させぬ敵の影が、白い闇の中で色濃く現れたのを認た時、少年は「ようやく来たか」と腹を括るその時。
認識した影はただ、一つ。その姿は少年が思わずその影を錯覚か何かと誤解するには十分すぎるものであり――。
「……なぜ」
問いかけは、かつて崇めたその男の姿へと投げられるも、しかし頬を嬲る暴風の中に溶けて消えた。
少年の肉体は震えることを忘れ。
その手に握られる銃が零れ落ち。
終焉の間際に、あらたな絶望を、少年は覚えていた。
◇◇◇
冷たく、暗く、何も存在しない闇の中に彼はたゆたっていた。
四肢に食らいつく感触は鉄のソレであり、骨にまで至る拘束具はさらに図太い鎖に繋がれている。体を動かそうにも、その余裕はなかった。
眼を開ければ、淡い緑色の間接照明が視界の中に色を付ける。しかしただ、それだけだった。
冷たい液体のような何かの中で、現実感の喪失したその世界で、少年の精神は既に向上も何もなく。ゆえにそれは崩壊も同然で。
虚ろな瞳が捉える先は随分と前からぼやけた視界の向こう側――というのが、どうにも、自分が既に霊体になって現世を覗き見ているような気分だった。
だから、なのだろうか。
『おはよう』
声が聞こえた時。
図らずとも、停止していた心臓が動いたかのような衝撃が、全身へと駆け巡っていた。
『五年の歳月が貴方を精神肉体ともに摩耗させたように、貴方の贖罪はここで終わる……ねえ、貴方は――外の世界に、興味はない?』
頭の中に響くような声。澄んだ、どこに居ても届いてくるようなその女性のそれを、少年は受けて答えようとして。
ごぽり、とすら音もならない。口を開けて、肺から空気を吐き出して――当たり前の行動は、だが胸の奥に満たされた水とも空気とも判別付かぬ何かを嘔吐するだけの結果になり、声帯は震えず、声として干渉ができない。
一字分を口にした少年は悟る。己に会話ができぬのだと理解する。
だから否定した。ゆるやかに、首だけを振ってみせた。
――贖罪などではない。
己の罪は、未だ償われていない。この研究所で散々調べつくされ幽閉されただけで、かつて身勝手に見捨ててしまった仲間に対して何かができたわけではない。
いや、そもそも自分に仲間などは居ないから――。
万感を込めたその否定の意を、しかし彼女は狡猾に理解していた。
『なら罪は赦された、と言い換えてもいい。もっとも、生まれながらの咎は決して、貴方から離れることはないのだけれどね』
力があるのなら返事をして――肯定なら首肯、否定ならば首を振って、と。
その言葉に、頭は小さく上下する。
『正直を言えば、貴方のギルティ――能力が必要になった』
五年前解散した咎人達は、しかし当初少年が告げた通りの交換条件を飲まれずに駆逐されかけていた。
生き延びた少年の同志は早くも百から下回り。
その中でも屈指の余名が、ある街に奇襲を、と企てているという情報を小耳に挟む。彼女はその事態を未然に防ぐことを強いられ、そして駒の一つとして少年を与えられた。
『世界に抗っていた貴方達の中で、実力が全てだった彼らの中で、全てを統べて居た貴方だからこそ、彼らの前に立たなければならないと思う』
最後の最後で、世界に全てを委ねてしまったことに。
選択の放棄という選択を、せめて償うつもりがあるならば。
……僕、は――。
声帯が震えず、空気に干渉できぬゆえに音さえも出ぬ呟きは、首肯や首をひねるなどという曖昧で不誠実で怠惰極まる手段などに頼れるわけがないと断じて、彼のふやけた唇は動く。髪が、ゆっくりと揺れる。
――生きるためじゃない、言って、置くが、導けなかった者たちを、正す……その、為に……ッ!
早鐘のように鼓動が鳴る。およそ五年ぶりの興奮に肉体は堪え切れず、言葉を吐き終えた時には既に意識は朦朧とし始めていた。
ガラス越しに見る少女は微笑み、頷いた。
どうあっても間違いなく彼は彼で、そして手を貸してくれるのだと確信する。
『了解、なら上に話は通しておくから。貴方もこれで、私達とお仲間ね』
◇◇◇
野暮ったい茶色のブレザーに、チェック柄のスラックス。中にはパリッとした、独特の洗濯のりの臭いがするワイシャツ――そんな格好をさせられた少年は、つい先程散髪も強要されていた。
されど、やつれ髑髏が浮き出るような蒼白の顔に、落ち窪んだ双眸。華奢すぎる肢体は、本来幼さの残る様子をすっかり拭い去っていた。
「見ていられん風貌だ。一ヶ月時間をやるから、体力と体重を元に戻せ」
――大きな円卓を中心に置くその会議室。上座にどかっと座る中年の男は、口に細い葉巻を咥えたまま告げる。
特異機関を名乗る彼らは、件の疫病、そして罹患した患者と、そこから極めて低い出生率の中産み落とされた命――そして、本来ありえるはずのない、その子供の中で奇跡的に健康体のまま生まれた存在を主体に研究している世界的な『研究機関』である。
ここに来るまでは敵対していた機関だ。つまり、少年にとっては怨敵にも等しい存在だった。
「……ロクな死に方をしないぞ、あんた」
「我々に飼われた小狗が、何をほざく」
言われて、意識が左手首に集中する。
ようやく鎖から解放されたと思えば、今度は鉄のブレスレッドだ。同様に、また肉に深く食らいついている。
これが、本来の能力――咎と呼ばれる特能体質を抑え込んでいるのだ。
「にしてもだ、僕はこれから、何をする?」
先日の女の姿は見当たらない。
座る気にもならず、壁に寄りかかって腕を組んでいれば、相対的に見下ろせるからいくらか気分は紛れたが、あの幽閉の直後にこんなふざけた格好である。
いくら穏やかさを信条としていたとしても、はらわたが煮えくり返るのにそう時間はかからない。
「とある学校に侵入することになる。貴様はともあれ、これから少なくとも半年は現代の日常に身を沈ませてもらうことになる」
「……まだ、何を始まっていないのか」
「始まってからでは遅いのだよ」
ふふん、と鼻を鳴らし、胸いっぱいに吸い込んだ紫煙を吐き出す。灰を円卓の上の灰皿に落とし、再び咥える。まるでどこぞの富豪か政治家のような態度だが、公的機関のトップであるこの男はあるいはそれ以上の権利を有しているのだろう。
「貴様が放棄した終焉の再来だ。今度は、淘汰されるべきものを貴様が駆逐するのだ」
「しない。無力化だ……僕は、彼らを死なせることはしないし、ましてや護るんだ。あんたらの好きにさせてたまるか」
「出来るのならばしてみせろ。それを含めて、私は貴様を評価しているのだからな――」
とある冬の昼下がり。
少年の人としての生き様は、かつての同胞の現状を知り、現在の怨敵に身を委ねることから開始する。
五年の空白を経て今、最後の刻が、ゼロへと動き出した。