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終末世界で、トモダチの怪物とゴミ拾いをしています

掲載日:2026/06/23

 世界が終わってから、ゴミは宝物になった。

 たとえば、商店街の隅に転がっている単三電池。

 雨に濡れてふやけた段ボールの下から見つかる、まだ穴の空いていない靴下。

 誰かが落としていったらしい、半分だけ残った固形石鹸。

 世界が終わる前なら、見向きもしなかったものばかりだ。

 紬は割れたショーウィンドウの前にしゃがみ込み、ガラス片を避けながら、棚の下に手を伸ばした。

 かじかんだ指先に、缶の冷たさが伝わった。

 引き抜くと、桃の缶詰だった。ラベルは水に濡れて剥がれかけていたが、缶自体はへこんでいない。


「当たり」


 誰に聞かせるでもなく呟くと、白い息と一緒に、自分の声だけが無人の商店街に小さく跳ね返った。

 朝凪市の駅前は、今日も金色だった。

 歩道の真ん中には、買い物袋を片手に持ったまま立ち尽くす女の人がいる。信号機の下には、制服姿の男の子が、自転車のハンドルを握ったままうつむいている。

 どちらも、肌も髪も服も、鈍い金色の金属に変わっていた。

 怪物が通ったあと、人はみんなこうなった。

 金なのか、鉄なのか、それとも地球にはない何かなのか、紬にはわからない。ただ、雨に濡れても錆びず、冬の薄い陽を受けて鈍く光るその姿を見ていると、昔テレビで見た美術館の彫像を思い出した。

 けれど彫像と違って、彼らには元の名前があった。

 きっと家族もいた。

 紬は缶詰をリュックにしまい、金色になった店員らしい人影のそばを通るとき、いつものように小さく頭を下げた。


「借ります」


 返事はない。

 返事がないことに、慣れたくなかった。

 今日は駅前の西側を回るつもりだった。古いリサイクルショップがあり、その裏には家電量販店から流れたらしい雑貨が積まれている。使える充電器や電池、鍋、カセットコンロのボンベが見つかることがある。

 細い路地へ入ると、空気がいっそう冷えた。

 建物の隙間に入り込んだ風が、剥がれたポスターをぺらぺらと鳴らしている。どこかで金属同士が擦れるような音もした。

 その音を追って、紬は足を止めた。

 壊れた家電や家具が、山のように積み上がっている。

 その前に、ひとりの女の子が座っていた。

 紬と同じくらいの年に見えた。白っぽい髪が肩のあたりで揺れていて、薄いワンピースの裾は泥で汚れている。靴は履いていなかった。

 こんなに寒いのに。

 その子は、片方だけの赤い長靴と、ひびの入った青いマグカップと、壊れたラジオを腕いっぱいに抱えていた。

 まるで、そこにあるものが全部、大事な宝物であるかのように。


「……何してるの」


 紬が声をかけると、女の子は顔を上げた。

 瞳が、夕暮れ前の蜂蜜みたいな色だった。

 金色に近いのに、冷たくはない。光を受けて、内側に火を閉じ込めているような色だった。


「……集めてる」


 女の子は言った。


「何を?」


「これ」


 抱えていたものを、少し持ち上げる。


「それ、壊れてるよ」


「壊れてる?」


「使えないってこと。たぶん、ゴミ」


 女の子は、腕の中のラジオをじっと見つめた。


「ゴミは、いらないもの?」


 その問いかけは、あまりに真っ直ぐだった。

 紬は一瞬、答えに詰まった。


「……そう。だいたいは」


 女の子は少し考えたあと、また顔を上げた。


「じゃあ、紬もいらない?」


「え?」


「紬も、ここにひとりでいる」


 どうして名前を知っているのかと思ったが、リュックにぶら下げている学生証が目に入った。

 写真の自分と、今の自分はずいぶん違って見える。髪は伸びっぱなしで、頬は痩せ、顔色も悪い。

 それでも、名前だけは変わっていなかった。


「……ひとりでいるからって、いらないわけじゃないよ」


 女の子は、その言葉を確かめるように繰り返した。


「ひとりでいるからって、いらないわけじゃない」


「そう」


 紬は自分でもよくわからないまま頷いた。

 変な子だ、と思った。

 でも、久しぶりに見た人間だ。会話を続けたくて、つい饒舌になってしまう。

 女の子は安心したように、ほんの少し口元をゆるめた。

 けれど、その笑い方はどこかぎこちなかった。口角を上げる角度を、誰かから教わったとおりになぞっているみたいだった。


「あなたの名前は?」


 紬は尋ねた。


「名前?」


「うん。あるでしょう?」


 女の子は首を傾げた。


「……ない」


「ないの?」


「知らない」


 紬は、風に揺れる白い髪を見た。陽の光を受けると、ところどころに淡い金が混じっている。瞳も同じ色だ。

 外国人なのだろうか。

 それにしては、日本語が上手だけれど。


「じゃあ、コハクって呼んでいい?」


「コハク?」


「琥珀みたいな目をしてるから。嫌なら別のにするけど」


 女の子はしばらく、口の中でその音を転がすように繰り返した。


「コハク……」


 そして、今度はさっきより少し自然に笑った。


「わたしは、コハク」


 それが、紬とコハクの出会いだった。

 怪物が街を金色に変えてから、もう二か月あまりが過ぎた、冬のことだった。


◇◆◇


 紬が暮らしているのは、朝凪市の外れにある古いマンションの一室だった。

 怪物が現れたのは、秋の終わりだった。街路樹が最後の葉を落としていた頃のことだ。

 その日、紬は高校から帰る途中だった。

 駅前で空が金色に染まり、遠くで何かが崩れる轟音を聞いた。人が叫びながら走り、次の瞬間には、その背中が金属の光に飲み込まれていった。

 紬はとっさに近くの団地へ逃げ込み、物置の中で息を潜めていた。

 スマホで家へ電話をかけても、誰も出なかった。

 何度かけても、呼び出し音が鳴るだけだった。

 三時間ほどして外に出ると、辺りはもう真っ暗だった。

 電車も街灯も止まり、住宅地からは物音ひとつしない。道端には、奇妙な格好で固まった金色の人影が並んでいた。

 どうにか家へ戻れたけれど、何日待っても両親は帰ってこなかった。

 同じマンションの住人たちは、みんな金色の像に変わっていた。

 ——何が起こったのだろう。

 しばらくして、紬は考えるのをやめた。

 毎日を細々と生き延びることだけで、精一杯だったから。

 秋が終わり、街はゆっくり冷えていった。

 気づけば、それは紬が、たったひとりで迎える初めての冬だった。

 夜になると、紬は古いラジオの電源を入れた。

 雑音の向こうで、女の声が同じ案内を繰り返している。


『生存者の方は、朝凪市立第二中学校の避難所へお集まりください。食料と水を配布しています。負傷者の受け入れも行っています。生存者の呼びかけは、非常用呼出チャンネルを使用してください』


 声はところどころ途切れ、また同じ言葉へ戻る。

 いつ録音されたものかは、紬にはわからない。

 けれど怪物が現れた直後には、避難所に人が集まり、誰かがこの案内に従って助けを求めていたのだろう。

 父が防災用に買っていた小型無線機には、「非常用呼出」と書かれた父のメモが貼られていた。

 父は昔から無線機が好きで、休日になるとアンテナを調整したり、聞こえの悪い機械を分解したりしていた。

 紬も隣で見ているうちに、周波数の合わせ方や、電池が切れたときの確かめ方くらいは覚えていた。

 紬は毎晩、ラジオで案内されていた非常用呼出チャンネルに無線機を合わせ、送信ボタンを押した。


「こちらは朝凪市の紬です。自宅にいます。お父さん、お母さん、聞こえていたら返事をください。ほかに生存者がいたら、どうか返事をください」


 何度繰り返しても、返るのは砂嵐だけだった。

 それでも紬は、避難所へ移り住むことができなかった。

 父も母も、紬が帰るはずだった家を知っている。

 もし二人が戻ってきたとき、ここに紬がいなければ、今度こそ会えなくなる気がした。

 だから紬は、この家を離れずに待ち続けていた。

 ただ、避難所の場所だけは、一度だけ確かめに行ったことがある。

 朝凪市立第二中学校。

 体育館の床には、畳まれたままの毛布が並んでいた。受付らしい長机には、名前を書く用紙とボールペン。封を切っていない水のペットボトルが、埃をかぶって積まれている。

 壁際のホワイトボードには、消えかけた字が残っていた。


『山岸、無事。家族を探しています』

『三階に水あります』

『ミケを見ませんでしたか 茶色の猫です』


 どれも、ずいぶん前の日付だった。

 人の姿はなかった。

 放送を聞いて集まった人たちは、しばらくここで待って、それからどこかへ行ったのだろう。紬と同じように、誰かを探して。

 紬は、ホワイトボードの隅に一行だけ書き足した。


綾瀬(あやせ) (つむぎ)。市の外れ、緑ヶ丘三丁目の古いマンション、朝凪ハイツ二〇一号にいます』


 それから、たまにそこへ行くようになった。

 誰かが返事を書いているかもしれない。

 放送を聞いた誰かが、ここを通るかもしれない。

 ボードはいつも、紬が書いたままだった。

 それでも、消さずに帰った。


◇◆◇


 コハクを連れ帰った夜、紬は玄関の鍵を二度確認した。

 古いガスコンロに火をつけ、鍋で湯を沸かす。

 灯油ストーブは燃料がもったいないから、よほど冷え込んだ日だけと決めていた。


「座ってて」


 紬が言うと、コハクは床にそのまま座った。


「座布団、使って」


「座布団?」


「お尻が痛くならないように敷くもの」


 コハクは座布団を両手で持ち上げ、裏表を確かめるように眺めた。

 それから、紬の真似をして上に座る。

 しばらくして、両手を膝に置き、紬を見上げた。


「……お尻が痛くならない」


「よかったね」


 いくら外国暮らしでも、座布団くらい知っていてもいいだろうに、と紬は思った。

 乾麺を茹で、少しだけ残っていためんつゆを薄めてかける。

 香りが立ち上ると、紬の腹がきゅうと鳴った。

 コハクの前にも器を置く。


「お腹減ってる? 食べなよ」


 箸を持たせると、コハクは不思議そうに指を動かした。

 指先は器用で、すぐに麺をつまめるようになった。けれど、口に入れたまま飲み込もうとしない。


「おいしくない?」


「おいしいって、どういうこと?」


「え」


「紬は、これを食べると、顔がゆるむ」


 紬は自分の頬に触れた。


「それが、おいしいってこと?」


「……そう、だね」


 コハクは頷いた。


「でも、わたしは、変わらない。お腹も、空かない」


「空かないの?」


「ならない」


 紬は箸を置いた。

 お腹が減らない?

 終末直後の放送では、眠れなくなった人や、食べられなくなった人の話も流れていた。

 生き残った人たちも、きっとまともではいられない。

 けれど、コハクの言葉には、そういう壊れ方とは違うものがあった。


「じゃあ、無理に食べなくていいよ」


「これは紬の分?」


「うん」


 コハクは器をそっと紬のほうへ戻した。


「紬は、お腹が空くから」


 その言い方が妙に真剣で、紬は笑いそうになった。


「そうだね。私はお腹が空く」


 おかしなことをしているな、と思った。

 どう考えても、変な子を家に入れてしまった。記憶もないと言うし、空腹も感じないという。

 ——それでも、独りきりで眠るよりは、ずっとよかった。

 夜、紬は布団を二組敷いた。


「コハクはこっちで寝て」


「ここにいる」


「寝るんだよ。目を閉じて、朝まで休むの」


「わかった」


 コハクは布団に横になった。

 けれど、しばらくすると、目を開けたまま天井を見つめている。


「眠れない?」


「眠るの、難しい」


「目を閉じるだけでいいから」


 紬は背を向けた。

 少しして、隣から小さな声がした。


「紬」


「なに」


「あなたは、眠ると、いなくなる?」


「ならないよ」


「朝になったら?」


「朝になってもいる」


 コハクは安心したように黙った。

 翌朝、白い光で目を覚ますと、隣の布団はきれいなままだった。

 コハクは窓辺に座っていた。

 窓の外には、その冬はじめての霜が白く降りていた。


「寝なかったの?」


「難しかった。でも」


 コハクは窓の外を指さした。


「朝になった。紬がいる」


 それだけを確かめるために、一晩中起きていたのだと気づいて、紬は胸の奥が切なくなった。

 きっと、この子も自分と同じ孤独を抱えている。

 そう思うと、放っておけなかった。


◇◆◇


 コハクは、ゴミ拾いが好きだった。

 正確には、紬が喜ぶものを探すのが好きだった。

 最初のうちは、壊れたぬいぐるみや、片方だけのサンダル、割れた皿まで拾ってきた。

 紬が「これはいらない」と言うたび、コハクは残念そうに眉を下げた。

 それでも何度か一緒に歩くうちに、使えるものと使えないものの区別を覚えていった。


「これは?」


「缶切り。使える」


「これは?」


「穴が空いてる。使えない」


「これは?」


「……それは植木鉢。割れてるけど、底に穴があるから、土を入れたら使えるかも」


 コハクは嬉しそうに、割れた植木鉢を抱えた。

 数日後、マンションのベランダには、コハクが拾ってきたプランターが並んだ。

 土は近くの公園から運び、紬が非常食用に残していた小松菜の種を植えた。

 冬に強い野菜だと、昔、母が言っていた気がした。


「芽、出るかな」


「芽?」


「土の中から、緑が出てくるの。そうしたら、いつか食べられる」


 コハクは土をじっと見つめた。

 それから毎朝、紬が目を覚ますより先に、ベランダのプランターを見にいくようになった。


「紬。まだ、芽が出ない」


「すぐには出ないよ。気長に待つの」


「気長」


 コハクは、その言葉も大事そうに繰り返した。

 ある日のゴミ拾いで、コハクが小さな箱を見つけた。

 古い文具店の奥、倒れた棚の下に落ちていた、木でできた箱だ。


「これは?」


 紬は手に取って、側面のつまみを回してみた。

 ぜんまいが、かちかちと巻き上がる。

 手を離すと、箱はたどたどしく音を鳴らしはじめた。

 オルゴールだった。

 知らない曲だ。

 けれど、誰もいない冬の街に、小さな金属の音が、ぽろん、ぽろんと落ちていく。

 コハクは動きを止めて、箱に耳を寄せた。


「……これは、なに」


「音楽。オルゴールっていうの」


「おんがく」


 コハクは、瞬きも忘れたように箱を見つめていた。

 曲が終わると、つまみを自分で回し、また鳴らす。

 何度も、何度も。


「使える?」


「うん」


 紬は笑った。


「これは、すごく使える」


 その夜は、この冬いちばんの冷え込みだった。

 紬は、めったに焚かない灯油ストーブに火を入れた。

 ぽっと青い炎が灯ると、部屋の空気がゆっくりほどけていく。

 粉末のミルクをお湯で溶いて、ひびの入った青いマグカップに注ぐ。

 湯気が、ストーブの灯りに白く光った。


「贅沢だね、今日は」


「ぜいたく?」


「特別ってこと。たまにしか、しないこと」


 コハクは、ストーブのそばでオルゴールを鳴らしていた。

 紬はミルクをひと口飲んで、息をついた。

 暖かい部屋。

 小さな音楽。

 隣に、誰かがいる。

 世界が終わる前なら、なんでもなかったことだ。

 それが今は、胸が痛くなるくらい特別だった。


◇◆◇


 種をまいて半月ほど過ぎた、寒い朝のことだった。

 コハクが珍しく大きな声で紬を呼んだ。


「紬。紬、緑」


 ベランダへ出ると、プランターの土から、細い双葉がいくつも顔を出していた。

 淡い、頼りない緑色だ。


「出たね」


「出た」


 コハクは双葉のひとつに、そっと指を近づけた。

 けれど、触れる手前で止める。


「触ったら、折れる?」


「うん。だから、見るだけだよ」


「見るだけ」


 コハクは、しゃがんだまま、しばらく芽を眺めていた。

 その横顔を見て、紬は思った。

 この子は、壊れたものや、いらなくなったものを拾ってくる。

 けれどほんとうは、何かが育っていくのを、いちばん嬉しそうに見るのだ。

 その日、紬は道端に咲き残った白い花を摘もうとした。

 寒さの中で、それは健気に咲いていた。


「全部、取らないでね」


 つられて手を伸ばしたコハクを、紬は止めた。


「どうして?」


「全部なくなったら、次の年に咲かないから。また会いたいなら、少し残すの」


「また、会いたいなら」


 コハクは花を見つめ、それから一輪だけをそっと摘んだ。

 夜、紬が無線機の前に座っていると、コハクがその花を差し出してきた。


「紬に」


「どうしたの?」


「紬、今日、顔がゆるまなかった」


 紬は笑ってしまった。


「心配してくれたの?」


「心配は、大事な人が、悲しいときにするもの」


 以前、紬がそう説明したのを覚えていたらしい。


「紬は、コハクの大事な人」


 紬は息を飲んだ。

 世界が終わってから、大事な人という言葉は、触れれば痛む古傷みたいになっていた。

 使うたびに、失ったものがそこからこぼれ落ちる気がした。

 けれど、コハクはただ答えを待っている。


「……ありがとう」


 紬は花を受け取った。


「コハクも、私の大事なトモダチだよ」


 コハクは、少し間を置いてから笑った。

 今度の笑顔は、最初のように形だけではなかった。


◇◆◇


 ある日、紬はコハクを連れて、第二中学校へ行った。

 体育館に入ると、コハクは珍しそうに、畳まれた毛布や積まれたペットボトルを眺めた。

 それから、ホワイトボードの前で足を止める。


「これは、なに」


「伝言。会えなくなった人に、言葉を残していくの」


「ことばを、残す」


 コハクは、消えかけた字を一つずつ指でなぞった。

 山岸、無事。

 ミケを見ませんでしたか。


「この人たちは、いる?」


「……わからない。でも、いるかもしれない。だから、消さないの」


 コハクはしばらく考えてから、ポケットに入れていた小さなものを取り出した。

 今日のゴミ拾いで拾った、青いビー玉だった。

 それを、ボードの下にそっと置く。


「お供え?」


「いや、それは……」


 紬は言いかけて、やめた。


「うん。そういうのも、いいね」


 コハクは満足そうに頷いた。

 紬は、いつものように一行を書き足そうとして——ペンを、コハクに渡した。


「コハクも、書く?」


「書く?」


「名前。ここにいたよ、って」


 コハクは、たどたどしい手つきで、ひらがなを並べた。


『こはく』


 それだけだった。

 けれど、誰もいない体育館で、その三文字は妙に温かく見えた。

 紬は、その隣に自分の名前を書いた。


『紬。コハクと、ふたりでいます』


 ふたりで、と書いたのは初めてだった。

 その帰り道のことだった。

 紬は、いつも漁っているコンビニの跡で足を止めた。

 棚の下の奥まった隙間。

 前に来たとき、取りにくくてそのままにしておいた缶詰が——なくなっていた。

 埃の積もった床に、新しい靴跡がひとつ、ついている。

 紬のものより、ずっと大きい。

 心臓が跳ねた。


「……誰か、いるの?」


 声を張ると、店の奥で、何かが軋む音がした。

 けれど、返事はなかった。

 しばらく待っても、人影は現れない。

 紬は、缶のあった場所をもう一度見た。

 誰かが、ここを通った。

 自分とコハクのほかにも、この街のどこかに生きている人がいる。

 怖いような、泣きたいような、おかしな気持ちだった。


「紬、顔が、変」


「……うん。なんでもない」


 その日は結局、誰にも会わなかった。

 けれど紬は、家に帰ってからも、その靴跡のことをずっと考えていた。


◇◆◇


 コハクには、おかしなところがいくつもあった。

 コハクは眠らない。

 食べない。

 寒がらない。

 壊れた窓ガラスで手を切っても、血は出なかった。

 白い肌に細い裂け目ができたかと思うと、その奥で金色の粉がきらりと光り、しばらくすると何事もなかったように傷が閉じる。

 ある日、崩れた棚の下敷きになった腕を、コハクは自分で引き抜いた。

 ぱきり、と乾いた音がした。

 紬は思わず声をあげた。

 けれどコハクは、肩から外れた自分の腕を不思議そうに見て、それを拾い、元の場所に押し当てた。

 外れていた部分はゆっくり馴染み、何もなかったようにつながる。


「だ……大丈夫? 痛くないの?」


「痛い?」


「苦しいとか、嫌だとか、そういうの……ないの?」


 コハクは少し考えた。


「紬が、びっくりした顔をしたから、嫌だった」


 それを聞いて、紬は泣きそうになった。

 痛みも、恐れも知らない。

 それなのに、紬の表情ひとつを「嫌だった」と言う。


 ——この子は、人間ではない。


 ずっと前から、わかっていたはずだった。

 それでも、ときどき胸が締めつけられるのは、どうしてだろう。

 その夜、紬は布団の中で、声を殺して泣いた。

 昼間のことがきっかけだった。

 けれど、いざ涙が出ると、押し寄せてくるのは、もう会えない人たちのことばかりだった。

 二度と電話の向こうから聞こえない母の声。

 帰ってこない父。

 誰もいない部屋で、ひとりで目を覚ます朝。

 袖口を口に押し当て、息が漏れないようにする。

 涙が、枕の端を冷たく濡らしていった。


「紬」


 すぐ近くで、コハクの声がした。


「……起きてない」


「泣いてる」


「泣いてない」


 自分でも、子どもみたいな言い訳だと思った。

 しばらく、コハクは何も言わなかった。

 やがて布団がわずかに沈み、背中に細い腕が回された。

 コハクの身体は、やはり冷たい。

 けれど、その腕は逃がさないようにではなく、壊れやすいものを包むように、そっと紬を抱きしめていた。


「……大丈夫」


 コハクは、紬の背に頬を寄せたまま、ゆっくり言った。


「大丈夫。紬が泣いても、わたしがいる」


 たどたどしいのに、不思議なくらい真っ直ぐな言葉だった。


「……それ、慰めてるつもり?」


「うん。大事な人が悲しいときは、そばにいるんでしょう?」


 紬は、また泣いてしまった。

 今度は、声を殺せなかった。

 肩が震えるたび、コハクの腕が少しだけ強くなる。

 冷たいはずなのに、離れたくないと思った。

 その胸に耳を寄せても、心臓の音は聞こえなかった。

 ただ、鎖骨の下に、花びらを散らしたような小さな黒い痣があるのに気づいた。

 生まれつきのものだろうか、と紬はぼんやり思い、すぐに忘れた。

 それでも、その夜だけは、世界にひとりではないと思えた。


◇◆◇


 けれど、もっと胸の奥に刺さることもあった。

 雪のちらつく日だった。

 紬とコハクは、いつものスーパーマーケットへ向かった。

 乾電池と、できれば洗剤がほしかった。

 店内の売り場はもう何度も漁ったあとだ。けれど、裏手の搬入口から続く倉庫なら、まだ何か残っているかもしれない。

 その建物の裏へ回る細い道を、紬はこれまで一度も通ったことがなかった。表の出入口しか使わなかったから、奥に何があるのかも知らなかった。

 コハクが店先で拾い物に気を取られているあいだ、紬はひとり、その道へ足を踏み入れた。

 雪に薄く覆われた、誰の足跡もない道。

 角を曲がった、その先で。

 紬は、足を止めた。

 そこに、ひとりの女の人が立っていた。

 買い物袋を片手に下げ、もう片方の手にはスマートフォンを握っている。

 金色に変わっても、薄いベージュのコートの形や、肩からずり落ちかけた紺色のバッグには、見覚えがあった。

 降りはじめた雪が、その肩に白く積もっていく。

 左耳には、小さな真珠のピアス。

 紬が中学生のとき、父と一緒に選んで贈ったものだった。


「……お母さん」


 声が、喉の奥でほどけた。

 もちろん、返事はない。

 それでも紬は、金色になった手に触れた。

 冷たくて、指先は昔と同じように細かった。

 スマートフォンには、薄紫色のケースがついている。

 高校に入る前、紬が「これがいい」と選んだものだ。

 画面はひび割れ、電源も入らない。

 母は、あの日、紬へ電話をかけていた。

 きっと迎えに来ようとしていたのかもしれない。

 スーパーへ寄って、紬の好きなものを何か買って帰ろうとしていたのかもしれない。

 その途中で、世界が終わった。

 紬は、何度もこの店に来ていた。

 乾電池を探し、缶詰を漁り、すぐそこまで来ていたのに。

 裏へ一歩、回るだけでよかったのに。

 そのあいだもずっと、母はここに立っていた。


「お母さん……」


 紬は、像の前にしゃがみ込んだ。

 涙がこぼれても、拭えなかった。

 コハクは少し離れて立っていた。

 いつもならすぐ隣に来るのに、今日は近づいてこない。


「この人が、紬のお母さん?」


「……うん」


「紬は、この人を見ると、悲しい?」


「……悲しいよ。でも、置いていくのも嫌」


 コハクは、母の姿をじっと見つめていた。


◇◆◇


 翌日、紬がスーパーの裏で台車を探していると、コハクの姿が見えなくなった。

 嫌な予感がして、あの裏道へ戻る。

 昨日の雪はやみ、路面に散った金色の光が、朝の陽にきらめいていた。


「……コハク?」


 コハクは、母の像の前にしゃがんでいた。

 両手を、像の肩に当てている。

 その指先から、金色の表面が、砂のように少しずつほどけていた。

 母の肩の縁が、欠けはじめている。


「やめて!」


 紬は叫んだ。

 コハクの手が、びくりと止まった。

 振り返った瞳が、紬の顔を見て、大きく揺れる。


「……紬、泣いてる」


「やめて。お願いだから」


 紬は駆け寄り、コハクの手を、母の像から引き剝がした。

 欠けたのは、肩の一部だけだった。

 砕けた金色の粒が、コハクの足元にひとつまみほど積もっている。


「……どうして」


 コハクの声は、小さかった。


「小さくすれば、紬の家に連れて帰れると思った。紬が、毎日ここに来なくてもいいように」


 その声に、悪意はなかった。

 だからこそ、紬は怖くて、同時に泣きたくなった。

 コハクは、紬を悲しませたくなかったのだ。

 母を置いて帰る紬を、可哀想だと思ったのだ。

 ただ、そのために壊してはいけないものがあることを、この子は知らない。


「……人はね、壊して持って帰るものじゃないの」


 紬は、できるだけ静かに言った。

 コハクは、しゃがんだまま、欠けた肩の跡を見つめていた。


「……ごめんなさい」


 それは、はじめて聞く言い方だった。


「ごめん」ではなく、「ごめんなさい」。


 誰かをほんとうに悲しませてしまったときの言葉。


「うん」


 紬は、それ以上何も言えなかった。

 コハクは、恐る恐る紬のほうへ手を伸ばしかけた。

 けれど紬が、母の像を見つめたまま動かないでいると、その手は宙で止まった。

 やがて、ゆっくり下ろされる。


「……もう、しないから」


 コハクは言った。


「紬が嫌なことは、しない」


 紬は、その場にしゃがみ込んだ。

 台車まで用意して、本当は、母を家に連れて帰るつもりだった。

 けれど像は、紬ひとりではびくともしないほど重い。運ぶことも、土に埋めることも、できはしない。

 壊して、小さくして持ち帰るなんて、絶対にしたくなかった。


 ——でも、すでにこぼれてしまった、この粒だけなら。


 紬は両手で、足元の金色の粒をそっとすくった。

 雪のように冷たくて、指のあいだからこぼれそうになる。

 ハンカチに包むと、思っていたよりずっと、軽かった。

 その日、紬とコハクは、近くの公園へ寄った。

 母が、桜の季節になると毎年、紬を連れてきた公園だ。

 大きな木の根もとに、スコップで小さな穴を掘る。

 金色の粒を、そっと土へ置いた。

 その上に、いつかコハクがくれた白い花の押し花を、一輪。

 土をかぶせると、もう何も見えなくなった。

 それでも、ここに来れば、会える気がした。


「……春になったら、桜が咲くよ」


 紬は、土に向かって言った。


「そしたら、また会いに来るね」


 コハクは少し離れて、それを見ていた。

 帰り道、コハクは紬の隣を歩いていた。

 手をつなごうとはしなかった。

 今日はもう、何も拾わなかった。

 その夜、紬はふと、家を出ていきたくなった。

 コハクが怖いわけではない。

 ただ、人ではないこの子のそばにいると、自分がどんどん寂しさのほうへ引き寄せられていく気がした。

 怖いより、そばにいたい。

 そう思ってしまう自分が、少しだけ怖かった。

 リュックに水と缶詰を詰め、玄関のドアノブに手をかけたとき、背後から声がした。


「どこに行くの?」


 振り返ると、コハクが立っていた。

 月明かりを受けて、白い髪が淡く光っている。


「……少し、外に」


「夜なのに?」


「……ひとりに、なりたくて」


 コハクは、ゆっくり近づいてきた。


「トモダチは、そばにいるもの」


 紬の心臓が、痛いほど跳ねた。

 それは、以前コハクに教えた言葉だった。

 困ったときに心配し合う人。

 同じ場所にいて、明日もまた会える人。


「……紬は、わたしのトモダチじゃない?」


 紬は、答えられなかった。

 コハクの瞳には、金色の光が揺れている。

 けれど、そこに映った自分は、ひどくひとりぼっちに見えた。

 紬は、ドアノブから手を離した。


「——今日は、もう寝よう」


 コハクは、ほっとした顔をした。


「難しいけど、やってみる」


 その夜、紬は出ていかなかった。


◇◆◇


 無線機が壊れたのは、その三日後だった。

 送信ボタンを押しても、赤いランプが点かない。

 電池を替えても、アンテナを伸ばしても、無線機は沈黙したままだった。


「壊れた?」


 コハクが尋ねた。


「たぶん」


「直せる?」


「同じ型の部品があれば」


 紬は地図を広げた。

 朝凪駅の東側に、かつて大きな家電量販店があった。

 非常用の通信機器を扱う売り場もあったはずだ。

 父の無線機と同じ型の部品が、残っているかもしれない。

 けれど、あのあたりは行きたくなかった。

 怪物が最初に現れたと言われる区域だ。

 建物は歪み、道路は波打ち、金色になった人々は、ほかの場所よりも密集していた。

 それでも、無線機が壊れたままにはできない。

 父がどこかで自分を呼んでいたとき、答えられなくなってしまう。


「ここに行く」


 紬が地図を指すと、コハクはしばらく黙った。


「知ってる」


「え?」


「そこ、知ってる。ここに、ある」


 コハクは、自分の胸に手を当てた。


「あるって、何が?」


 紬は訊いた。

 けれど、コハクは答えなかった。

 胸に手を当てたまま、自分でも戸惑うように、小さく首を傾げる。

 言葉にできないのか、それとも、わからないのか。

 その横顔を見ていると、なぜか背筋がひやりとした。

 翌朝、二人は朝凪駅へ向かった。

 駅前に近づくにつれ、空気が変わった。

 風が止み、街全体が息を潜めているようだった。

 アスファルトには金色の筋が走り、建物の壁は、内側から押し広げられたように膨らんでいる。

 コハクは、今日は何も拾わなかった。

 家電量販店の入口は半分崩れ、店内は薄暗かった。

 割れたテレビ画面が、黒い穴のように並んでいる。

 紬は懐中電灯をつけ、コハクの手首を握った。

 ひどく冷たい。

 地下へ続く階段の前で、コハクが足を止めた。


「下にいる」


「誰が?」


「……わたし」


 紬の背筋を、冷たいものが走った。

 それでも、引き返せなかった。

 もう、確かめなければと思った。


 ——コハクが、何者なのか。


 地下の倉庫は埃っぽく、奥へ進むと、床が途切れていた。

 大きな空洞が、さらにその下へと続いている。

 縁に立つと、底の見えない暗がりから、甘い金属のような匂いが漂ってきた。

 コハクは、紬の手を振りほどき、縁に膝をついて暗闇を覗き込んだ。

 すると、ずっと下のほうで、かすかな光が灯った。

 黄金色の光。

 懐中電灯の届かない深さに、それはあった。

 巨大な、何かの抜け殻。

 白い金属のような外皮が、何層にも重なっている。

 崩れたビルの骨組みのようにも見えたが、よく見ると、それは生き物の形をしていた。

 人に似た胴体。

 長すぎる腕。

 指の多すぎる手。

 そして胸元には、黒い花のような紋章が刻まれていた。

 紬は、息を止めた。

 コハクの鎖骨の下にも、同じ印がある。

 あの夜、痣だと思って忘れた、あの模様だ。

 いつもは肌に沈んでいるそれが、今は呼応するように淡く光っていた。

 コハクが手を伸ばすと、抜け殻の表面から金色の粉がほどけ、彼女の指へと吸い寄せられていく。

 まるで、もともと一つだったものが、自分の続きを思い出していくように。

 コハクの瞳が、大きく見開かれた。


「……からっぽ」


 掠れた声だった。


「ぜんぶ、金にした。動くものも、声も。……そうしたら、欲しいものが、なくなった」


 コハクは、自分の手のひらを見つめた。

 指先が、震えている。


「なくなって、からっぽになって……だから、ここから、こぼれた」


 抜け殻の胸が、ひとつ、息のように沈んだ。

 それは恐ろしいものというより、ただ、ひどく寂しいものに見えた。

 紬には、わかってしまった。

 目の前の少女は、この怪物そのものではない。

 世界を空にしてしまったあと、抜け殻からこぼれ落ちた、最後のひとかけら。

 何も持たないからこそ、壊れたラジオや片方だけの長靴を、宝物のように抱えていたのだ。

 奪い尽くした手が、今は、拾い集めている。

 あの日、空を金色に染めたもの。

 母を、二度と動かなくしたもの。

 父もまた、どこかで同じ光に呑まれたのかもしれない。

 街のすべてを、奪ったもの。

 それが——今、目の前で、自分の手を見て震えている。


「紬が悲しいのは、わたしのせい?」


 コハクが訊いた。

 紬は、答えられなかった。

 答えれば、何かが決定的になってしまう気がした。


「ごめんなさい」


 コハクが言う。

 けれど、その言葉を、紬は今、受け取れなかった。

 ——お母さん。

 ——お父さん。

 金色になって、二度と動かない母。

 どこにいるのかすら、もうわからない父。

 こんな状況にしたのは、この子なのだと。


「……帰ろう」


 紬は、それだけ言った。

 コハクが、おずおずと手を伸ばしてくる。

 紬は気づかないふりをして、先に歩き出した。

 空洞の奥で、巨大な抜け殻が静かに光っていた。


◇◆◇


 それから、紬はコハクと、ほとんど口をきかなくなった。

 部品は手に入った。

 けれど、無線機を直す気力が、なかなか湧かなかった。

 毎日ゴミ拾いのために外にひとりで出て、母に会いに行った。

 コハクが付いてこようとしたけれど、「家にいて」と冷たく突き放した。

 コハクは、何も言わずに従った。

 自分のためにご飯を炊いても、味はしなかった。

 ベランダの小松菜も、見にいかなくなった。

 コハクは何も言わない。問い詰めることも、すがることもなかった。

 どうすればいいのかわからないように、ただ窓辺に座って紬を見ていた。

 紬がうつむいて通り過ぎても、傷ついた顔ひとつしなかった。

 ときどき、小さな声で言った。


「……ごめんなさい」


 紬は、返事をしなかった。

 四日目の夜、紬はとうとう無線機を直した。

 生きているかもしれない父と自分をつなぐ、たった一本の糸だったから。

 父の工具箱に残っていた小さなドライバーで、ケースを開ける。

 家電量販店で見つけた部品を使い、外れかけていた接点をつなぎ直す。

 父の手元を何度も見てきたから、やり方はわかった。

 何度か電源を入れ直すと、無線機からいつもの砂嵐が流れ出した。

 紬は、マイクを握った。


「……こちらは、朝凪市の紬です。お父さん、お母さん、聞こえていたら、返事をください」


 砂嵐。


「お父さん。お母さん。……ねえ、聞こえてる?」


 砂嵐。

 ——わかっていた。

 母は、もう帰らない。

 あの店の裏で、金色になったまま、紬の呼びかけには二度と答えないのだから。

 父がどこにいるのかは、まだわからない。

 生きているのかもしれない。

 どこかで無線を聞いているのかもしれない。

 けれど、わからないまま、待つことだけに希望を預け続けることは、もうできなかった。

 紬はずっと、両親が帰ってくる日まで、息を止めていたのだ。

 マイクが、手から滑り落ちた。

 紬は声をあげて泣いた。

 腹の底から、子どものように。

 両親を待っていた時間ぜんぶが、いっぺんに崩れていくみたいだった。

 コハクは、少し離れた窓辺で、じっと紬の様子を見ていた。

 近づいてはこなかった。

 触れないで、と言われたことを、覚えているのかもしれない。

 けれど、ずっとそばにいた。


◇◆◇


 翌朝、紬は泣き腫らした目で起きた。

 体が、鉛のように重い。

 何もする気になれないまま、ベランダへ続く窓のカーテンを開けた。

 そして、息を呑んだ。

 小松菜が、育っていた。

 紬が見にいかなくなったあいだも、双葉は本葉になり、しっかりと立ち上がっている。

 土は、ほどよく湿っていた。

 ベランダの隅に、じょうろが置いてあった。

 紬が水やりを忘れていた数日、コハクが毎朝やっていたのだ。

 紬は、その場にしゃがみ込んだ。

 すぐには、声が出なかった。

 しゃがんだまま、ただ、水に濡れたじょうろを見ていた。

 本葉の先で、水滴がひとつ、冬の朝の光に小さく光っている。

 どれくらい、そうしていただろう。

 奪うことしか知らなかったはずの手が、いちばん小さな緑を、枯らさないように守っていた。

 紬が、いちばんつらいときに。

 ようやく、口から声がこぼれた。


「……コハク」


 振り返ると、コハクが窓辺に座っていた。

 いつものように。

 一晩中、紬のそばに。


「水、やってくれたの」


「……うん。折れないように、水だけ」


「どうして」


 コハクは、少し考えてから言った。


「紬が、育つのを、見たいって言ったから」


 紬の目から、また涙がこぼれた。

 けれど今度のは、さっきまでとは少し違った。


「……ねえ、コハク」


「なに?」


「どうして、私なの」


 紬は訊いた。


「コハクは、世界中のものを、金にできたんでしょう。なのに、どうして、私のことなんか……私はただの、普通の女子高生だよ」


 コハクは、しばらく黙っていた。

 それから、たどたどしく、言葉を探した。


「……からっぽになって、なんにも、欲しくなかった」


 コハクは、自分の胸に手を当てた。


「ぜんぶ、金にできたから。ぜんぶ、いらなかったから」


 金色の瞳が、紬を見る。


「でも、紬は、言った。ひとりでいるからって、いらないわけじゃないって」


 紬は、息を止めた。

 それは、いちばん最初に、自分がこの子にかけた言葉だった。


「あれが、はじめてだった」


 コハクは言った。


「……いらないって、思わなかったの。紬が、はじめて」


 空っぽになったコハクの手が、はじめて手放したくないと思ったもの。

 ——それが、自分だった。

 紬はしゃがんだまま、コハクの冷たい手を両手で包んだ。

 あの裏道で、触れられなかった手だった。


「……許せるかどうかは、まだ、わからない」


 紬の声が震えた。


「お母さんも、お父さんも、戻らない。それは、たぶん、これからもずっと悲しい。怖い日も、あると思う」


 コハクは、うつむいた。


「でもね」


 紬は、コハクの顔をまっすぐ見た。


「私がやめてと言ったとき、コハクは止まってくれた」


 コハクの瞳が、わずかに揺れる。


「おいしいを覚えて、花を残すことを覚えて、私が泣いてるあいだ、ずっと芽に水をやってた」


 紬は、コハクの手を少しだけ強く握った。


「——そんなコハクを、いらないものになんて、できないよ」


 コハクの唇が、かすかに震えた。


「それは……拾うってこと?」


「ううん」


 紬は、泣きながら笑った。


「一緒に生きていくってこと。トモダチだから」


 コハクは、しばらく紬の顔を見つめていた。

 それから、ぎこちなく、でも確かに笑った。


「一緒に、生きていく」


◇◆◇


 その夜、紬はもう一度、無線機の前に座った。

 マイクを握り、けれど今度は、いつもと違う言葉を口にした。


「——こちらは朝凪市。紬とコハク、ふたりでいます。生きてる人がいたら、返事をください。こちらは朝凪市。聞こえていますか」


 お父さん、お母さん、とは、もう呼ばなかった。

 待つのは、終わりにする。

 二人が帰ってくるのを待つためだけの毎日は、もう終わりにする。

 父のことは、まだわからない。

 けれど、父がどこかで生きていたなら。

 ——いつか会える日がくるなら。

 そのとき自分は、ただ待っていた子ではなく、ここで大切なトモダチができたと伝えられる自分でいたかった。

 返事はない。

 けれど、隣にはコハクがいた。

 コハクは、青いマグカップを差し出した。

 ひびは、見つけた接着剤で直してある。

 中には、いつかの桃の缶詰が一切れ入っていた。


「紬、お腹が空くから」


「ありがとう」


 コハクは、少し胸を張った。


「どういたしまして」


 その言い方がおかしくて、紬は笑った。

 コハクも、少し遅れて笑う。

 窓辺では、オルゴールが、ぽろん、と最後のひと音を鳴らして止まった。


◇◆◇


 怪物が街を金色に変えた、あの秋の終わりから。

 長い冬を越えて、もうすぐ、春がくる。

 ベランダの小松菜は、紬の手のひらほどに育った。

 軒先の氷柱は溶け、風に土と日向の匂いが混じりはじめていた。

 ある朝、紬が目を覚ますと、コハクがいつものように窓辺に座っていた。

 逆光で、白い髪の輪郭が金色に滲んでいる。

 その横顔が一瞬、地下で見た抜け殻と重なって、紬の胸が小さく軋んだ。

 怖い日は、たぶん、これからもある。

 それでも紬は、布団を出て、その隣に座った。


「おはよう」


「おはよう。朝になった。紬がいる」


 コハクが振り返る。

 瞳の金は、もう怪物の色ではなく、ただ朝の色をしていた。

 その日、二人は第二中学校へ寄った。

 ホワイトボードの『紬。コハクと、ふたりでいます』の文字は、まだ消えずに残っていた。

 その下に——見覚えのない字が、一行、増えていた。


『無線、聞こえました。生きてる人がいてよかった。私は東地区のさくら荘 三〇二号室にいます。会いに来てください』


 紬は、しばらくその字を見つめていた。

 あの日、コンビニに残っていた靴跡の主も、この人かもしれない。

 無線機の声も、届いていたのだ。

 東地区へ行けば、人がいる。

 言葉が通じて、ごはんの味が同じで、夜になれば眠る——自分と同じ、人間が。

 紬は、隣のコハクを見た。

 コハクは、また拾ったビー玉を、ボードの下にそっと並べている。

 眠らない。

 食べない。

 心臓の音もしない。

 人ではない、この子を。

 ——それでも。

 紬はペンを取り、返事を書いた。


『ありがとう。春になったら、コハクと会いにいきます』


「紬、行くの?」


 コハクが訊いた。

 少しだけ不安そうな声だった。


「うん。コハクと一緒に」


 紬は笑った。


「二人で会いに行こう」


 コハクは、その言葉を口の中で確かめるように言った。


「二人で、会いに行く」


 帰り道、商店街の角で、コハクが欠けた白いカップを拾い上げた。


「紬。これはゴミ?」


 紬は、カップを見た。

 縁は欠けているが、持ち手は残っている。

 洗えば、まだ使える。


「ううん。拾いもの」


「拾いもの」


 コハクは嬉しそうに袋へ入れた。

 それから、紬の横に並ぶ。


「トモダチは、持って帰るもの?」


 紬は少し考えて、首を振った。


「友達は、そばにいるもの」


 コハクは、その言葉を大事そうに繰り返した。


「そばに、いる。ずっと」


 春のはじめの光の中を、二人の影がゆっくり伸びていく。

 世界は、もう終わっていた。

 失ったものは、戻らない。

 許せないものも、きっと、まだ胸の中にある。

 それでも紬は、トモダチの怪物と並んで、芽を出したばかりの緑を育てながら、今日も生きていた。


 ——いつか春がきたら、東地区へ二人で歩いていこうと思う。


 ただ、待つのではなく。

 自分から、大切なものを迎えにいくために。


 



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