竜 傲慢と強欲
「あの勇者 生かしてなるものか!」瞼に押し潰され、虚無へ落ちてゆく。
起キル、携帯ヲ見ル、着替エル、食ベル、身支度ヲ済マス、今日モマタ昨日ト変ワラヌ明日ニナル。
我々は生きる時間のほぼ全てを社会の歯車量産工場に費やすことを生まれる前から強制されている。毎日6時間、週休2日、2ヶ月間の長期休暇で年に1303時間。毎日10時間、週休2日で年に2607時間。我々はこの労力生産ラインを外れることはできない。外れたが最後、欠陥品の烙印を押され続け、彷徨う生霊と化す。夢や希望を高らかに歌う詩あれど、一体どれだけの人間が夢を叶えられたのだろうか。それでもまだ夢などとほざくか。いや、ほざかねば生きていく気力が続かぬか。寝ても覚めても夢を見るには、この世という名の努力の蠱毒を生き残らねばならない。皆が夢へ向かって這い回るが、光を見るのはたった一握りだけである。この世は宝籤に過ぎない。誰しも生まれは選べぬが、生まれる前から当たり外れは決まっているのだ。もし外れを引いたなら御気の毒。二度と当たりはしない。番号を選ぶことも、引き直すことすら叶わない。こんな外れ籤なら破り捨ててしまおうか。そうだ、私はきっと生まれる世を間違えたのだ。己の将来には閉ざす口が、弱音ばかり倩々と吐き出す。もう駄目だ。寝てしまおう。一刻も早く残酷な現実から目を背けよう。一層のこと、寝たまま瞼なぞ開かなければ良いのに。押し潰すように瞼を閉じ、黒すらない虚無へ逃げ隠れた。
その日、夢を見た。薄らがかる靄から光と声が漏れる。「止めなさいエル、下魂で遊ぶものではないですよ。」「えー、だって毎日いきたくないって言ってるよ。可哀想じゃん。」「リエラ、良いじゃないか。遊ばせてやりなさい。この子にとっても勉強になるだろう。」霧がかった音が止むと、世界が崩れ始める。
ばんっと飛び上がり、叩音が響く。私の眼前に奥深い暗闇が広がった。洞窟だ。辺りを見渡すと、後ろに金銀玉石が聳え立った。一生使い切れぬ程の財宝の山である。赤い宝石が転がり落ちそうになったので、そっと尻尾で受け止めた。待て、なんだこれは。二足歩行にとって到底不要なものは。急ぎ手に一瞥をくれると、樹齢を重ねた幹のような爪に、冷え固まった溶岩のような鱗が連なっていた。私は一体何だ。鏡を探しに洞窟を出ると、青々とした森林と、山と、空が私を出迎えた。遠くには小さな城と家が側を固めた街が青の中に佇んでいる。目に入る自然に気圧されて、先程までの心の揺らぎは疾うに静まり返っていた。私は背中に生えている二枚の自信を大空へ開いた。私は竜であると。
竜である自覚を通せば、自らの身体に何の疑念も抱かない。背を伸ばすと、鱗が逆立ち、長く突き出た鱗板が擦れる。一つ一つの動作に地響きが付いて回る。実に気分が良いものだ。私の一挙手一投足に世界が驚嘆し、身震いをする。正に夢見心地である。精神と肉体は相互関係にある。偉大な身体は心の余裕を齎す。落ち着くと腹が減っていることについて気付く。これでもかと宝が積まれているのだ。豪勢な馳走も直ぐに現れるだろうと、舌鼓を一回、二回、三四と打つが虚しく響くだけ。何とも中途半端な夢だと僅かな憤慨を押し除け、重い巨体を引き摺った。しかし、探せど探せど岩ばかり。到頭、岩窟に突っ伏し、腹の音が反響して何度も耳を行ったり来たり。夢よ、此処で覚めれば良し悪し差し引いても悪夢には成らぬぞ。項垂れた犬のように細長い舌を岩へ降ろすと仰天。奥床しい旨味が舌先から登ってくるではないか。まさかと壁の凸凹模様に歯を宛てがうと、噛み合わせるよりもぴったり合う。恐る恐る壁に沿わして咀嚼してみれば、これが結構、更々と喉を通っていく。粗目のような食感と控えめな味わいが空いた腹に沁み渡る。私は壁一面の幸せを削り、気がつく頃には洞窟も前より広く快適になった。鱗に覆われた空洞が狭まった頃、下に落ちた小岩を舌で掬っていると、うぅむ、少し催してきた。厠なぞあるはずもなく、致し方無しと小さな洞穴へ尾の下を捩じ込む。矗々と刺すような痛みが肛門を貫いて行く。岩を食べれば腹も下そうと半ば納得し、振り返ると仰地。そこには小高な貴金が聳えた。岩を食べ、金便をするとは飛んだ一人錬金術である。しかしどんなに絢爛な姿とて、尻から出るなら有り難みも薄れよう。無闇矢鱈に光り散らすだけで、糞の役にも立たないではないか。じゃらじゃらと崩れ落ちる金粒の音が、段々と不快に思えてくる。人が、况してや、竜に変わると価値観も違ってくる。腐臭を出し、奇怪な蟲を寄せつけるない分、処分する手間が掛からない。獣のそれよりも幾分上品ではある。一通りの欲求を済まし、寝転びながら物思いに耽る。私は此処から出る必要が一寸も無い。言うなれば、御菓子の家に住み、金を排し、何者も私を追い出させること叶わない。孤高とは自分一人で全てが満たされることを言う。力も、欲も、安らぎも、何一つ欠けることない様を表す。おぉ、ここが楽園か。一眠りする前はあれだけ願っていた場所も、来てみれば案外つまらない穴倉である。やることも無し、眠りに就く。やはり眠りとは他人や予定、事情など何事にも邪魔されるべきではない。妨げられれば眠りとは言うまい。瞼が雛鳥の羽毛のように飜々と、下瞼に被った。意識が深い深い水底へ沈んでいく。
少しばかり経ち、先程の小洞から数人の男が顔を覗かせた。大きな眼が暫く閉ざされるを見るに、一目散に金山に飛び移り、急ぎ袋に詰めに詰め込む。袋が腫れても尚、今度は貴金を見定め、戻したり。詰め終えると、奥の宝の大山を目に映し、駆け跳ねる。上の服を脱ぎ、詰め込み、下の服を脱ぎ、詰め込み、下着まで脱ぎ…抱えきれな程の欲望を両手に引っ提げる。不快が響けばあんなに恋しい睡眠すら止めざるを得ない。人が入れる蛇目を覗かせると、下着に詰め終えた一人の男と目が合い、腰を抜かす。一人で逃げ出しても、重しの詰まった布だけは手放さない。まだ気付いていない他の男は至高の糞に別れ惜しく頬擦り等している。ふんっと鼻息一つ、面白いように吹き飛び、転がる。
「今貴様らが損ねた機嫌を取り戻せれば、再び光を見る権利を与えようぞ。」頬擦りしていた赤い服の男が怖気ながらも胸を張って「我らにも貴方の財宝を少し分けて頂きたい。」「何故だ。申してみよ。」「貴方の一挙手一投足が街を震わせ続けております。恐怖で気が狂い、流離の勇者などという下らない妄信を唱え続けけねおります。この金銀財宝で襤褸の家を建て直せば、気も収まりましょう。」「私は唯、生きているだけだ。街に行くでも無し、ずっと離れた山奥にひっそりと暮らしている。地鳴が嫌なら、何処へなりとて移れば良いだろう。」「貴方が原因なのだから、貴方が移るべきではないですか。」羞恥心の欠片も無く、全裸で私の糞へ頬擦る姿を見せておきながら、あのような綺麗事なんぞ言えたものだ。腰を抜かした緑の服の男がそっと後退ると、尾で小洞の周りを崩して塞ぎ「では何故、無断で住処へ盗みに入ることが許されるか。」唸りを上げて、目を血走らせる。赤服が「溢れんばかりの財宝を貴方が迷惑をかけている者たちへ、ちょっとだけ恵んで頂きたいのです。」「盗んで良い理由を言え!」全鱗が逆立ち、咆哮が山々へ轟く。言い訳を連ねた赤服も流石に万言尽きたか。暫し沈黙の後、苦し紛れに「この山は貴方だけの物では御座いません。この付近に住む皆のもので御座います。」「では貴様らの街も皆のものであろう。更地にしても文句は言うまい。家庭の残骸へ好きなだけ宝石を飾るが良い。」
何と傲慢で怠愚な生き物か。潔く己の痴態を受け入れれば糞の山如きくれてやろうと思うたが、辛抱ならぬ。怒りに任せ、空へ飛び立つが、巨漢を浮かせる羽ばたきは街まで耐えられない。跳び、ついに地に足付ける。しかし、怒りは地を這ったままだ。あの猛々しい盗人共の為に、街一つ地図から消え失せるのだ。悪を産む巣窟に生を受けた憐れな運命を呪うが良い。苛立ちを巡らす間に、大きな歩幅は城壁まで二、三十と持たない。街の隅まで聞こえるよう「私は山奥に潜む竜だ。この街から我が財宝を持ち出そうとした愚か者が現れた。盗品を街から出すな。出せば、これだぞよ。」城壁を見下し、齧り付き、入り口を増やしてやった。「私に盗品が出たと言伝した者は、財宝を一摘みやろう。」財宝欲しさに告げ口すれば、その時は終ぞ。慈悲を与えた偉大さを自褒しながら、横の木々を薙ぎ倒し広げた街道を足取り軽く歩を進める。その道の真ん中に、人にしては巨漢な男が仁王立つ。
男は手の入っていない黒髪、焼かれた肌、無数多種の傷、大きな毛皮を腰に巻き、擦り切れそうな鞘に地味な剣を背負っている。肉薄しても男は一向に退く素振りも取らない。「何者だ。」男は何も言わず、剣を構える。何の変哲もない鉛色の両刃を、両手で軽く握る。矮小な、其方がその気なら此方も言うまい。前脚を上げると、男はぱっと消える。上げた脚から生まれた死角へ潜り、後脚の爪へ剣を突き立てる。大爪が真っ二つに割れ、劈く刺激が右足を襲った。痛がる間もなく左前から倒れる。木を切るように上から下へ綺麗に腱を伐採した。私はどうにか奴を潰面にしたいと、手当たり次第に転げ回った。男は頭を押さえて伏せると、地面と同化した。膨大な重さが大地へ分散され、私が痛みの余り縮こまる。それを待っていたと言わんばかりに飛び起きて、丸まった首裏に猛突進。剣を深く根刺し、柄に踵落とし。横頚から刃が飛び出す。反射で体が跳ね上がり、視界の振子が揺れる。撓り落ちた頭に、男を既に背を向けて立ち去っていた。
私の唯一の夢が、こうも呆気なく、易々と完全に潰えたのだ。全てが手中であった。心までもが安寧であり、充足であった。エデンと呼ぶに値する代物になり得たかもしれぬ。現実では思えない時が、この世界では確かに存在していた。私なりにこの世界に一切不都合の無いようにしたつもりだ。盗人を懲らしめに、壁を一口喰らって大人しく帰っていった。実に謙虚其の者ではないか。問答無用で殺される筋合いは毛頭ない。あれが流離の勇者とやらか。全く相応しい名であるものか。只の辻斬りだろう。あれを野放す訳にはいかぬ。誰かが止めねば、否、私が止めねばならぬ。その為に私は世を超え、理を裂き、神に招かれたのだ。神よ、おぉ神よ、願わくばもう一度、奴と相見えさせてください。必ずや、奴の首を左右に振らして御覧に入れましょうぞ。最後に、私は残りの精魂を費やし、声にならない声で呪いをかける。「あの勇者 生かしてなるものか!」瞼に押し潰され、虚無へ落ちてゆく。
「言ったでしょエル。物だけ与えても、それを扱える知も技量も無い者には無用の長物ですよ。」「うぅぅ。」「良いじゃないかリエラ、失敗からが一番多く速く学べるんだ。エル、優しさから生まれた行為は決して無駄にはならないよ。次どうしてやればいい?」「いい子にしたい。」「その為には何にしてあげればいい?」「うぅーんと、小っちゃいの!」




