婚約破棄された子爵令嬢のひみつ
王都アルディナの夜会場は、まばゆい光と香水の匂いで満ちていた。
水晶のシャンデリアがいくつも吊るされ、貴族たちは色とりどりの礼装に身を包み、さざめくように談笑している。
スカーレット・グレイシアは、その中心から一歩引いた場所に立っていた。
「……相変わらず、居心地が悪いわね」
子爵家令嬢という立場は、決して低くはない。
しかし、伯爵家や公爵家の子女が幅を利かせるこの場では常に評価の目に晒される。
それでも今日の夜会は、彼女にとって特別な意味を持っていた。
――婚約者、ルビン・アルバートと共に出席する、公式の夜会。
「スカーレット、少し話がある」
呼びかけてきたのは、そのルビン本人だった。
金色の髪に整った顔立ち。伯爵子息として申し分ない容姿だが、その瞳に宿るのは、以前からスカーレットが感じていた冷たさだった。
「あらっ? 一体何が始まるのかしら?」
彼に寄り添うように立つのは、伯爵令嬢アイリーン・リュミエール。
ピンク色の髪をふわりと巻き、余裕に満ちた微笑みを浮かべている。
「皆様に聞いていただきたいことがある」
ルビンが声を張り上げると、周囲の視線が一斉に集まった。
スカーレットの胸が、嫌な予感とともにざわめく。
「私は本日をもって――スカーレット・グレイシアとの婚約を破棄する!」
凍りつく夜会場。
(ああ、やっぱり……)
スカーレットの心を襲ったのは驚きよりも深い「諦め」だった。
以前から彼の視線は自分を通り過ぎ、常に隣にいるアイリーン・リュミエール伯爵令嬢へと注がれていたからだ。
「ルビン様……本気で仰っているのですか?」
声を絞り出す。
スカーレットの脳裏には、彼のために寝る間を惜しんでアルバート伯爵家の事業を手伝った日々が走馬灯のように駆け巡る。
「当たり前だ! お前のような無能な女、アルバート伯爵家の妻に相応しくない。それに、アイリーンから聞いたぞ。お前が裏で彼女をいじめ、さらには事業の売り上げを横領していたということもな!」
アイリーンが、ルビンの腕にしがみつきながら、か弱い悲劇のヒロインを演じて見せる。 その瞳の奥にある冷酷な輝きを、スカーレットは見逃さなかった。
「ひどいですわ、スカーレット様。あんなに親切に接していた私に、陰でいじわるばかりして……」
(嘘……。全部、あなたが私にしてきたことじゃないっ!)
今までアイリーンはルビンに興味をまったく示していなかった。
ところが、アルバート伯爵家の事業が大成功したとたん、アイリーンはルビンにすり寄ってきた。
伯爵家の自分よりも裕福な婚約者がいる子爵令嬢の私が気に入らないのだろう。
伯爵家の地位を利用してグレイシア家の事業を妨害したり、社交場で私の悪評を流しまわっている。
それに、事業の売り上げを横領するなんて考えたことすらない。
「私は一度もそのようなことは……。それに、私がアルバート家の経営を手伝ってきたことをお忘れですか?」
「はっ! 手伝いだと? お前がやっていたのは、帳簿に落書きをしたり、気まぐれに鉱山を散歩するだけだったではないか。我が家の繁栄は、ひとえに私の経営手腕によるもの! お前のような『疫病神』など必要ない!」
(疫病神)
――その一言が、スカーレットの心を鋭くえぐった。
彼女には秘密があった。
子どもの頃に授かった『幸運の女神の加護』だ。
悪用されることを恐れ、家族以外の誰にも伝えていない。
彼女が『良い』と感じることには必ず幸運がもたらされ、彼女が『危ない』と思うことは必ず大惨事が起こる。
アルバート家が急成長したのは、スカーレットが密かに金脈を指し示し、大赤字の投資を止めさせてきたからだ。
けれど、彼は私を『疫病神』と切り捨てた。
(……もう、いい。この加護は、あなたのために使うべきものではなくなったのね)
スカーレットの心の中で、何かが音を立てて冷えていった。
「……分かりました。そこまで仰るのなら、謹んでお受けいたします。ですが、後悔なさらないでくださいね」
「後悔? するはずがなかろう! アイリーンこそが私の運命の女性だ。さあ、疫病神はとっとと出て行け!」
いやらしくあざ笑うルビン。
「まあ、かわいそうなこと」
アイリーンはわざとらしく嘆く。
周囲からの失笑を背に、スカーレットは背筋を伸ばして会場を後にした。
◇◆◇◆◇◆◇
それからわずか三ヶ月。
アルバート伯爵家の屋敷は、重苦しい絶望に包まれていた。
「どういうことだ! なぜ金が出ない!?」
ルビンは、鉱山の採掘責任者であるドミニクの胸ぐらを掴んでいた。
スカーレットを追い出した直後は、溜まっていた蓄えで贅沢三昧ができた。
しかし、鉱山からの産出量が激減し、今や一粒の金すら出なくなっていた。
「分かりません……。今まで掘っていた場所で金の採掘がパタリと途切れてしまったのです。他の場所を掘っても、出てくるのは石ころばかりで……。まるで、山が意志を持って金を隠したようです……」
「無能め! 新しい金脈を探せと言っているだろう! 借金の返済期限が近いんだぞ!」
ルビンの心は焦燥で焼き尽くされそうだった。
そこに、華美なドレスを揺らしてアイリーンが入ってくる。だが、その顔に以前のような甘さはなかった。
「ルビン様、今月のドレス代の請求がまだ未払いですわ。どういうことかしら? 事業で大成功をしているアルバート伯爵家がこんなはした金も払えないなんて、ありえませんわよね?」
「アイリーン、今はそれどころじゃないんだ! 鉱山が止まっているんだぞ!」
「……はあ? あなた、私に言ったわよね? 『俺と結婚してくれるなら欲しいものはなんでも買っていいって』って。嘘だったの? 私、貧乏暮らしなんて絶対に嫌よ!」
アイリーンの冷たい言葉がルビンに突き刺さる。
彼女が愛していたのはルビンという男ではなく、彼の「金」だった。
その事実にいまさらながら気づく。
ルビンは震える声でドミニクを問い詰める。
「……教えろ。以前はどうやって金脈を見つけていた? 私が知らない秘密を隠しているんじゃないだろうなっ!?」
ドミニクは軽蔑の混じった眼差しでルビンを見返した。
「……それは……スカーレット様に指示された場所を掘っていたからです」
「何だと……?」
「スカーレット様は現場に来るたび、作業員の体調を気遣い、『ここを掘れば、みんなが笑顔になれる気がするわ』と微笑んで指をさされました。そこを掘ると、必ず金脈に突き当たったのです。我々にとって、彼女こそがアルバート家の心臓でした」
「そんなバカな……なっ……なんで今まで黙っていたんだっ!?」
「金脈発見をルビン様の功績にしてほしい。だからこのことは口外しないようにとスカーレット様に言いつけられておりました」
「そ……そんな……」
「それにスカーレット様の帳簿管理は完璧でした。無駄遣いはせず、適切な予算を必要な場所に当てておりました。おかげで採掘作業が回っておりました。しかし今では多くの鉱夫は辞め、残っている鉱夫も過労でまともに仕事ができる状態ではありません」
「なんとかするんだ! お前は採掘責任者だろ!!」
「一度悪評が流れた鉱山で新たな鉱夫を集めるのは簡単ではございません。それに鉱夫を雇える予算ももうございません。私も本日付でこの仕事を辞めさせていただきます」
「なっ! 何を言っている!? 待ってくれ、ドミニク!」
ドミニクは何も言わずに侮蔑の眼差しだけをルビンに向け、軽く会釈してから部屋を去っていった。
ルビンの脳裏に、かつてのスカーレットの姿が浮かぶ。
暇つぶしだと思っていた鉱山の散歩。
帳簿の落書き。
それらすべてが、自分を支えるための献身だったのだ。
彼女がいなくなったことで、幸運は去り、残されたのは自分の無能さと、莫大な借金だけ。
「あ、ああああ……っ! なんてことをしてしまったんだ……!」
ルビンはその場に崩れ落ちた。
誇りも、財産も、そして自分を支えてくれていた唯一の女性も。
すべてを自分の手で捨ててしまったのだと、今さら気づいて絶叫した。
◇◆◇◆◇◆◇
スカーレットは実家の庭園で、穏やかな陽光を浴びていた。
婚約破棄という不祥事があってからは、社交界には顔を出していない。
でも、暖かい家族の励ましと、実家の新規事業の手伝いに没頭するうちに、少しずつ心を取り戻していた。
(なんであのときだけは幸運の女神の加護がなかったのだろう?)
ルビンと婚約破棄したことは後悔していない。
ルビンと結婚していればもっと不幸になっていたからだ。
ただ、スカーレットにはどうしても分からないことが一つあった。
ルビンとの婚約話を聞いたときに、『良いことが起こる』と直感したことだ。
幸運の女神の加護は絶対に間違えないにもかかわらずだ。
そんなことを考えていると、一人の来客が告げられた。
「グレンフィールド公爵家、エリオット様がお見えです」
「……えっ?」
その名を聞いて、鼓動が早くなる。
エリオット・グレンフィールド。
王国中に名を轟かす名門公爵家の嫡男。
貴族令嬢たちの憧れのまと。
かつて幼い頃、一度だけ言葉を交わした、スカーレットの初恋の相手だ。
現れたエリオットは、眩しいほどの美貌と、それ以上に温かな瞳をスカーレットに向けていた。
「久しぶりだね、スカーレット。……顔色が良いようで安心したよ」
「エリオット様……。どうしてこちらに?」
エリオットは彼女の隣に座り、慈しむように見つめた。
「君の家が始めた新しい香水のビジネス、素晴らしい出来だね。私の家で全面的に出資させてもらうことにしたよ。……それから、もう一つ。君が自由の身になったと聞いて、どうしても伝えたいことがあって」
エリオットの言葉に、スカーレットの胸が高鳴る。
「恩返しをさせてほしいんだ。……覚えているかな? 十年前、私が盗賊に襲撃されて森で立ち往生していた時。君が『あっちの道は暗くて怖いから、こっちに行きましょう』と手を引いてくれたことを」
スカーレットの記憶が鮮やかに蘇る。
あの時、彼女はただ「嫌な予感」がしたから彼の手を引いただけだった。
「あの後、私が行こうとした道はすぐに大規模な崖崩れが起きたんだ。君が私を救ってくれたんだよ。君をずっと探していたんだ。私の運命を変えてくれた、小さな幸運の女神を」
「そんな……私はただ……」
「謙遜しないで。君のその『幸運』は、君の心が優しく、純粋だからこそ宿るものだ。ルビンはそれを理解できなかった。……スカーレット、どうか私のそばで、その微笑みを見せてくれないか。今度は私が、君を一生かけて幸せにすると誓う」
エリオットの手の温もりが、スカーレットの凍えていた心の奥底を溶かしていく。
(この人は私を見てくれている。私を認めてくれている。でも……)
「お気持ちは嬉しいですが、エリオット様には婚約者がいると噂で聞いたことがございますが……」
「ああ、以前はね。でも、あれは政略結婚だったんだ。うちの国では金が取れない。だが、金は通貨にも使われている重要な資源だ。だから、金が豊富な隣国の貴族と結婚して金を確保するという王族からの命令だったんだ」
「でも婚約が破棄になってしまい大丈夫なのでしょうか?」
「ああ、もう心配ないんだ。不思議な話だよ。君との婚約を破棄したアルバート家が大量の金を発掘した。その時に国は大量の金を買い取ったから、しばらくは隣国に頼る必要がなくなったのさ。まあ、アルバート家は金が突然取れなくなって破産寸前らしく、その鉱山は国が買いとっているけどね」
「そうだったのですね。ずっと考えていた疑問がいま解けました。それなら私も喜んで――」
スカーレットが返事をしようとしたとき――
「スカーレット! すまなかった! 私が悪かった!」
無粋な叫び声が響く。
現れたのは、かつての威厳を失い、泥にまみれたルビンだった。
背後にいるアイリーンのドレスも汚れ、髪もボサボサだ。
「頼む、戻ってきてくれ! お前がいないとアルバート家が潰れるんだ!」
スカーレットはゆっくりと立ち上がった。
「ルビン様。私はあなたの所有物ではありません。それに、私は『疫病神』でしょう? どうぞ、ご自分の経営手腕で乗り切ってくださいませ」
「なっ、そんな……! 頼む! お前だけが頼りだっ!!」
ルビンがスカーレットの足首にすがり付こうとした瞬間、エリオットがルビンの前に立ちふさがる。
「こっ、これはエリオット様! 誇り高い公爵家のご嫡男様がどうしてこのような辺境の地に!?」
「……私の婚約者に気安く触れるな! あなたは自分の意志で彼女との婚約を破棄したハズだ!!」
「スカーレットがエリオット様の婚約者……」
ルビンは目を大きくパチパチさせる。
「エリオット様! お会いできて光栄です! わたくし、リュミエール伯爵家のアイリーンと申します。スカーレット様とは昔からのお友達です。お話がございますので、向こうの部屋で二人だけでお話なさりませんか?」
アイリーンは声色を変えてエリオットに近づく。
「アイリーン嬢、申し訳ないが、あなたのことは調べさせてもらった。あなたがグレイシア家の事業を妨害し、スカーレットの悪評を流したことが複数の証言から確定している。貴族にあるまじき行いです。罰として2年間の修道院への幽閉が確定しています」
「そ……そんな……」
アイリーンはその場にへなへなと座り込む。
「この二人を連れ出せ」
エリオットは護衛に命令する。
ルビンとアイリーンは自力で立つこともできずに、呆然としたまま、護衛に引きずられて去っていった。
再び静寂が訪れた庭園で、エリオットは少し照れたように微笑んだ。
「……少し、強引すぎたかな?」
スカーレットは、彼の大きな手に自分の手を重ねた。
「いいえ……とても、嬉しかったです。それと先ほどのお話のお返事ですけど……」
ルビンとの婚約話を聞いたときに、『良いことが起こる』と直感した理由が今なら分かる。
「私でよければ喜んで。 エリオット様と生涯をともに歩ませてください」
満面の笑みで答えるスカーレット。
――幸運の女神の加護は絶対に間違えない
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