チリ惨殺編
第一章「チリ惨殺編」
《違和感》
足音が、遠くから響いてきた。
硬い石床を踏みしめる、しずかで、重い足音。
パルデアポケモンリーグ。四天王の間。
その最初の部屋に、チリは立っていた。
白い制服の上に羽織った、こだわりのロングコート。
いつもと変わらぬ、明るい微笑みを湛えたまま。
だが。
ドアがゆっくりと開いた瞬間――
彼女の胸の奥に、妙な“重さ”が生まれた。
「……やあ、はじめまして。緊張してる?」
にこやかに、声をかけた。だが、返事はない。
ただ黙って、こちらを見ている。
表情は、ある。口元にうっすら笑みのようなものさえ浮かんでいる。
だが――目が笑っていない。
それどころか、その視線には“光”そのものがない。
空虚。何かが、欠けている。魂のない目。
「……挑戦者の名前、聞いてもいい?」
沈黙。
まるで、自分の声が空気に吸われたかのように、何も返ってこない。
「……ふうん。無口なんだね……まあ、いいけどさ」
笑顔のまま、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
チリは戦う前に、相手の雰囲気を読むのが得意だった。
「どれくらい強いのか」「どういうスタイルか」――直感が働く。
しかし、今目の前にいる男からは、なにも読めない。
(嫌な予感がする)
心の奥で、かすかな声がした。
⸻
《バトル開始:ホエルオー》
「じゃあ――いこうか。ホエルオー!」
ボールを放つ。彼女の相棒のひとり。
どっしりとした体躯で、水と地面の力を司る大きなポケモン。
場をコントロールするのに最適な開幕要員だ。
対して、男が投げたボールから現れたのは――
……ゾロアーク?
だが、違う。
“なにか”が、違う。
その体毛は赤黒く、目は真っ赤。動きが異様に静かで、殺気すら漂っている。
「……あんた、それ……ほんとにゾロアーク?」
瞬間、男がぽつりとつぶやいた。
「――イリュージョン、解除。」
ゾロアークの姿が“崩れる”。まるで粘土の像が溶けるかのように、ぐにゃりと形を失う。
現れたのは、黄金の身体をした異形のポケモン。サーフゴー。
しかし、チリが知っているサーフゴーではなかった。
目が……笑っていた。血を浴びたように濡れた笑み。
「ホエルオー、“なみのり”!!」
反射的に叫んだ。だが――遅かった。
サーフゴーの身体から、金の波動が飛ぶ。
ただの攻撃ではない。“殺す”ための一撃だった。
ホエルオーの頭部が、爆ぜた。
肉の裂ける音、骨が砕ける音、そして最後の咆哮。
チリの顔と制服に、生温かいものが飛び散る。
ホエルオーの胴体はその場に残り、首から上は…もう、なかった。
⸻
チリは、一歩も動けなかった。
目の前で、自分の大切なパートナーが、ただの“バトル敗北”ではなく、命を絶たれた。
これは事故ではない。
敵意だ。殺意だ。悪意だ。
心の奥底で、何かが小さく音を立てて崩れ始める。
「……う、そ……そんなの……バトルで……こんなこと……」
声が震える。指も震える。頭がついていかない。
まだ、1体目。
これで、まだ……“始まったばかり”。
⸻
《迷いと拒絶》
ポケモンが死んだ。
その言葉を、頭が認識するのを拒んでいた。
ホエルオーの肉片が広間の床に散り、静寂の中で、何かが滴る音がする。
目の端で、尻尾の断片がゆっくりと小刻みに痙攣していた。
「っ……っ……ぅ……」
チリは、息を止めていたことに気づいた。
吸おうとしても、空気が入ってこない。喉の奥が痺れている。
それでも、立っていなければならない。
四天王だから。
子どもたちに憧れられる存在だから。
ポケモンたちの…主だから……。
だが、手が言うことを聞かない。
2体目のボール――バクーダ。
温厚で、少しのんびりした性格。
いつもバトル前にあくびをして、チリの心を和ませてくれる子だった。
「バ……バクーダ……」
呼びかけた声が震える。
それでも、ボールは手にある。自分の意志で投げられる。
そう信じていた。
だが、右手が、震えて止まらない。
それは、ボールを握る力が足りないからではない。
手が、拒絶しているのだ。
(これ以上、あの“なにか”に、触れさせてはいけない)
(……それをしたら、この子も……殺される)
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《理性 vs 本能》
「……ダメ……このままじゃ、わたし……!」
唇が乾く。目の奥が熱い。
まぶたを閉じると、ホエルオーの爆ぜた肉の感触が瞼の裏に焼き付いている。
殺されたポケモンの姿が、もう頭から離れない。
それでも。
「バクーダ、たすけて……!」
叫ぶようにして、ボールを放った。
これは“指令”ではない。“懇願”だった。
現れたバクーダが、小さな声であくびをした。
それが、あまりにも“いつも通り”で――
「……っ、ごめんね……!」
涙が一粒、頬を伝った。
だが次の瞬間。
サーフゴーが動いた。
音がしなかった。ただ、瞬きの間に、バクーダの胴体が凍りついた。
そして、砕けた。
まるで氷像が崩れるように、バクーダの体が地面に散った。
破片の一部がチリの頬をかすめた。
冷たかった。ひどく、冷たかった。
⸻
《チリ、逃げ場を失う》
「ひ……っ……!」
チリはその場に座り込んだ。足に力が入らない。
息が荒く、涙と嗚咽が止まらない。
これは夢だ。
誰かが、変な技を使ってる。
本当のバトルじゃない。
ポケモンは、こんなふうに死なない。死なせない。
「ねぇ、やめようよ……!
わたし、バトルしたいんじゃない……こんなの、戦いじゃないよ……!」
返事はない。男は静かにこちらを見下ろしていた。
目に、感情はなかった。
まるで「言葉」が届かない生き物のようだった。
サーフゴーの体が再び動き始める。
淡々と、次の獲物を求めるように。
⸻
《3体目:ドンファン》
チリの指は、勝手に3つ目のボールに触れていた。
もう思考は何もついてきていない。
ただ、本能が「投げろ」と叫ぶ。
ドンファンが出る。
咆哮をあげ、前脚を鳴らす。
だが――サーフゴーは、相変わらず一言もなく、それを引き裂いた。
鋼のように硬いドンファンの身体が、真っ二つに裂かれる。
その瞬間、チリの中で“何か”が音を立てて壊れた。
⸻
《壊れる》
どん、と重い音がした。
それはドンファンの胴が地に落ちた音。
その切断面から溢れた赤が、チリの靴を濡らした。
「……あっ……あぁ……」
立ち上がれない。呼吸ができない。
震える指が、自分の喉元を掻く。苦しい。酸素が入ってこない。
もう無理。
戦えない。
わたしは、もう、四天王じゃない。
ドンファンの首が半ば残った状態でこちらを見ていた。
もう、動かない。だが、その目がチリに何かを訴えているように見えた。
「どうして呼んだの」
「なんで、こんなやつに僕を……」
「ごめん……ごめん、ごめん、ごめん……っ!!」
チリは額を地につけて泣き叫んだ。
もう誰に謝っているのかもわからない。
ポケモンに? 相手に? 自分に?
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《記憶のない4体目》
「だ、……ダグトリオ……行って……!」
どうやってボールを投げたのか、チリは思い出せなかった。
気づいたときには、砂の中から3本の頭が覗いていた。
ダグトリオは、チリのパーティで最も素早い存在だった。
相手が誰であろうと、一撃を与える使命を背負ってきた。
けれど。
サーフゴーの金属の腕が、ダグトリオの一頭を握り潰した。
「ぎゃ……やっ、やああああああっっっ!!!」
他の二頭が悲鳴を上げて暴れようとしたが、
その前に――地面から引き抜かれた。
あああああ、というかすれた声をあげて、
頭部が床に叩きつけられ、ぐしゃりと潰れた。
血が、脳が、砂と一緒に四方に飛び散る。
「あああああああああああ!!!!!!」
それはチリの悲鳴か、それともダグトリオの魂の断末魔か、もう誰にもわからなかった。
⸻
《盾としての5体目:ドオー》
「ま、待って……待って、お願い……!」
「やめて、やめて……もういいでしょ!? なにがしたいの!? あんた、なに……!?」
男は無言だった。
ただ一歩ずつ、こちらへ近づいてくる。
チリは、自分の手持ちの最後のボールに手を伸ばした。
投げたくなんてない。
出したくなんてない。
この子まで、こんなことになるくらいなら、自分が――
(……でも、助かりたい)
その本音が、指を動かした。
「ドオー……お願い、わたしを、守って……!!」
彼女の叫びは、命令ではなかった。
それは悲鳴であり、懇願であり、ポケモンを盾にする卑劣な願いだった。
現れたドオーが、のそのそと前に出る。
テラスタルを試みようと、チリが腕を伸ばす。
でも震えていて、クリスタルがはまらない。
「動いて……お願い、動いてよぉ……!」
そしてその間に。
サーフゴーが、腕を突き出した。
ドオーの体が、ぐらりと揺れる。
次の瞬間、地面にどさりと落ちたのは、心臓だった。
ドオーの身体に、穴が空いていた。
テラスタルをする前に、彼は終わっていた。
⸻
《崩壊》
「……あれ……?」
チリは、自分が何をしていたのかを忘れていた。
何かを叫んでいたような気がする。
誰かを呼んだ気もする。
何かを投げた……? いや、拾った……? わからない。
目の前に、ポケモンの死骸があった。
誰の?
……思い出せない。
彼女の目は見開かれ、焦点が合っていない。
瞳孔がぶるぶると震えている。
指先が、勝手に服の裾をひっぱっている。
「ぉ……っ……あ……あぁぁぁあ……っ……」
口から漏れたのは、言葉ですらなかった。
唇がただ動くだけ。発音にならない。
頭の奥で、「考える」という機能がもう止まっていた。
⸻
《記憶の混濁と嘔吐》
胃がねじれる。
次の瞬間、チリは横に身体を倒し――吐いた。
喉を焼くような酸味がこみ上げ、唇から胃液と涙が混ざってこぼれ落ちる。
息をしようとしても喉が痙攣し、咳と嗚咽で顔を歪ませる。
目の前に転がるのは、自分のポケモンの一部だった。
ドオーの脚部。
内臓が絡みつき、未だ微かに痙攣していた。
「いやだ……いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ……!!」
服に、指に、髪に、血と肉片が張りついている。
ちぎれた皮膚が、額に当たっていた。
「やめて……なんで……なんで……なんでっ……!!」
拳で自分の頭を何度も叩いた。
思い出したくなかった。
でも思い出してしまった。
さっきまで、彼らは笑っていた。
ボールの中で、戦うのを楽しみにしていた。
自分と一緒に、これからも旅が続くと思っていた。
「わたしが……わたしが、殺した……」
⸻
《祈りと懺悔》
「神様……誰でもいい、お願い、お願いだから……もうやめて……!!」
地面に伏せ、手を合わせ、泣きながら祈る。
「おねがい……お願いだから、時を戻して……!
夢でいい、幻でいい、なんでもするから、全部なかったことに……!」
目の前の男は、ただ静かに立っているだけだった。
返事もしない、動きもしない。
それが――いちばん怖かった。
相手は、“怒ってもいない”のだ。
これは憎しみでも、復讐でもない。
ただの執行だった。
「わたしが……間違ってたの……?
ポケモンを信じちゃいけなかった……?
愛しちゃ、いけなかった……?」
嗚咽が止まらない。
涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになり、視界が滲む。
⸻
《現実逃避》
「これ、バトルだから……ただの試合だから……ポケモンセンターに行けば……生き返るもんね……」
ぶつぶつと、誰に言うでもなく呟き始める。
「いつもどおり、治して、
またみんなで冒険行って、
きんのたま集めて、カフェ行って、
ホエルオーは、パフェ好きだし、ドオーは……」
言葉が途切れる。
彼女の腕の中にある肉の塊は、もう動かない。
それがドオーの“頭”だったことに、ようやく気づいた。
「うぁ……っあああああああああああああああああ!!!!!!!!!!」
喉の奥から、もはや悲鳴ともつかぬ“獣の声”が漏れた。
膝を折り、顔を血の水たまりに押しつけるようにして――泣き叫んだ。
「いやぁあああああ!!! かえして!! かえしてよおおおおおお!!!
みんなを……わたしの……たからものを……かえしてよおおおおおおおお!!!」
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《男の影》
その哀願にも、嘆きにも、男はただ一言も発さず立ち尽くすだけだった。
その無音が、チリの壊れた精神を、さらにえぐり続けていた。
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《終》
血に濡れた広間の中心。
チリは、ドオーの頭部を抱えたまま、動かなくなっていた。
かすれた嗚咽。
ひくひくと痙攣する肩。
もはや泣いているのか、震えているのか、自分でもわからなかった。
目の前にあるのは――死。
自分のチーム、家族、仲間。
どの子も、もう動かない。
温もりはなく、硬直した肉体。
でも、チリはそれでも抱きしめていた。
「せめて、冷たくならないうちに」と。
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《壊滅した内側》
心の中は、すでに壊れていた。
四天王としての誇りも、
努力も、
旅の記憶も、
すべて、血と一緒に流れ出ていた。
だけど――ほんのわずかに、残っていたものがあった。
家族の記憶。
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《回想:家族の声》
「チリ、あんたは昔からポケモンの声が聞こえるって言ってたわね。
いいトレーナーになれるわよ、きっと。」
「お姉ちゃん、チリのポケモンって、みんな笑ってるね!」
「ポケモンも、人も、あんたが好きなんだよ。」
暖かい声たちが、頭の中で流れる。
涙がまた、頬を伝う。
(……ごめんね)
(わたし、そんな人間じゃなかった)
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《錯乱する希望》
(もしかしたら、まだ生きてるんじゃないか)
(こんなにしっかりしてる。温かいし……ね?)
(きっと、まだ間に合うよね? ねえ、そうだよね?)
「うん……そう、そうだよね。ホエルオーも……ドンファンも……だって……私の子たちだもん……!」
血まみれの肉の塊に、優しく語りかける。
だが。
それを見下ろす“何か”の気配が、すぐ背後にあった。
⸻
《最期の対話》
「ねえ……どうして、こんなことをするの?」
チリは、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、
その“男”を見つめた。
「わたしが……何をしたの……?
なにが……悪かったの……?」
返答はない。
だが、男はゆっくりと、しゃがんだ。
距離は、わずか数十センチ。
チリの手が、相手に触れられる距離。
だけど、怖くて伸ばせなかった。
「ポケモンを……守ってあげたかっただけなのに……」
声が震える。
「わたし、あの子たちが、戦うのを誇らしく思ってたの……
だけど……だけど、違ったの……?
それって……間違ってたの……?」
沈黙。
その沈黙に、チリは答えを知った。
(ああ――わたしは、裁かれているんだ)
(この人は……神じゃない。だけど、罰を与える者なんだ)
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《処刑》
「……なら、せめて……最期だけは……」
チリは、もう力の入らない両手で、肉の塊をそっと置いた。
最後に、指先でドオーの頭を撫でる。
「ごめんね。ありがとう。……また、どこかで……」
その瞬間。
光が走った。
見上げた視界の中、銀色の刃が振り下ろされる。
刃が喉元を裂き、気管を破壊し、声を奪う。
痛みは一瞬だった。
ただ、その後。
音が消えた。
世界がゆっくりと暗くなっていく中、
チリの頭の中に最後に浮かんだのは――
家族と、ポケモンたちと、笑っている自分の姿だった。
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《広間、静寂》
血に濡れた床に、首を失った四天王の亡骸が崩れ落ちる。
彼女の遺体は、愛したポケモンの死骸の上に、静かに覆いかぶさるように倒れた。
まるで――
「これでもう、離れずにいられる」
そう願ったかのように。
そして、男は何も言わず、振り返ることなく次の扉へと進んでいった。
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【To Be Continued】
次なる標的:ポピー――鋼に包まれた少女、その心が砕けるまで
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