『スタンド・バイ・ミー』
【3月13日 木曜日】
陽葵は、屋上にいた。小都が河原崎と向き合う後ろで、溜息をつく。確かに、最後まで責任持って付き合うとは言ったが、小都のやつ、いろんなところに喧嘩売りすぎじゃない?
「以前に協力してくれたことに対してはお礼を言う、けど」
小都は、じろりと河原崎を睨みつけた。一方、河原崎はニヤニヤと笑っている。陽葵はあまり話したことはないが、軽薄な雰囲気の奴だった。
「江麻ちゃんが危ないことに関わってるって、知ってて止めなかったの?」
河原崎は、両方の手のひらを上に向け、両肩をひょいとあげる。俺に聞かれても、みたいなポーズだった。
「君さ、孝市のこと好きじゃないよね? 本当に好きなのは……」
「それ江麻ちゃんに言ったら許さないから」
わかったよ、と河原崎は軽く頷く。……訂正しよう。全部の行動が胡散臭い奴だった。
「どうして好きなのさ」
「いいよ。わたしと江麻ちゃんの馴れ初め、きっちりと聞かせてあげる」
「え? この流れだとあたしも聞くの?」
陽葵が口に出したが、小都はちらりとこちらを見ただけで、口を開いた。……無視しやがった。このやろう。
≪第三章≫
今もはっきりと覚えている。小都が江麻と出会ったのは、小学6年生の夏だった。クラス替えで、友達と軒並み別れてしまった小都は、7月、もう1学期が終わろうとしているにもかかわらず、どうにも馴染めない日々を過ごしていた。
その日、放課後、小都は、何気なく窓の外を見ていた。周りの喧騒が耳に届くけれど、気分はどこか浮いている。学校はつまらない場所だと思っている自分にとって、ここにいる意味が感じられない。居場所がないわけじゃないけど、心から居心地がいいわけでもない。
そんなとき、突然声がかかった。
「ねえ、下迫さん」
思わず振り向くと、そこに立っていたのは、あまり話したことのない、クラスメイトだった。確か、萩森、江麻……だったか。
「え?」
小都は一瞬驚いたが、座ったままでその顔を見上げた。無表情のままでこちらを見つめている江麻の顔が、どこか不思議な印象を与えてくる。
「明日、廃トンネル行かない?」
ニコリともせずに江麻が言った言葉に、反応できないまましばらく固まった。突然の誘い、しかも廃トンネル。意味がわからない。でも、どこか面白いことをしてみたいという気持ちが湧き上がってきた。
「え、廃トンネル? あの、街外れにあるっていう?」
思わず言葉を返すと、江麻は小さく頷いた。彼女は無表情で、どこか不気味な印象だった。
* * * * * * * * * * * *
「え、なに、江麻ちゃんって小学校の時そんなだったの?」
「江麻ちゃんはぐるぐる考えすぎちゃうタイプだから。考えてると無表情になるみたい。普通に笑うようになったのは、最近だよ」
「うわ、すっげえ意外。ずっと底抜けに明るいもんかと」
「続けるね」
「やっぱこれあたしもこのまま聞く感じ? いやまあ責任持つって言ったけどもさ」
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「そう。怖いかもしれないけど、行ってみない?」
その一言に、少し心が躍ったのも事実だ。しかし、次第に感じたのは、なぜか少しだけ「怖いな」と思う気持ちだった。だってほぼ知らない子だし。
「うーん、でも……なんでわざわざ……」
「ちょっと変わったことをしようと思って。それに……」
「それに?」
「死体があるかも」
江麻が、まるで何気ないことのように言う。それを聞いた小都は、体が硬直してしまった。何言ってるんだろうこの子。思わず言葉をつまらせ、小都は何も返せずに目を見開く。
「ちょっと、それって本気で言ってるの?」
江麻は無表情のまま、まるで何事もないように答える。
「うん。覚悟しておいて」
その言葉が、小都の胸に重く響いた。背筋をゾクッとさせるような恐怖感が、確実に小都の中に広がる。しかし、怖さだけじゃない。自分が怖がっているのを他人に見せることが、なんだか癪に思えてきた。
「……分かった、行くよ」
小都は無理に顔を引き締めた。自分の中で決めたのは、「怖い」と言いたくない一心だった。誰かに怖がっているのを見られたくないという意地が、自然と口から出させた言葉だった。
江麻はその言葉を聞いて、ほんのわずかに目を細めた気がしたが、すぐに無表情に戻った。
「じゃ、明日9時ね」
江麻が言い残し、何事もなかったかのように去っていく。その後ろ姿を見送りながら、小都は改めて考えた。
本当に行くことになるのだろうか。ほぼ知らない相手と、どうして行こうと決めたのか、自分でもよくわからない。ただ、「怖がっているわけじゃない」と言いたかっただけ。自分が怖がる姿を他人に見せるのが、どうしても耐えられなかった。
小都はそのまま、思いを巡らせながら教室を後にした。
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「ちなみに、これが、江麻ちゃんが私に話しかけてきた最初の日だよ」
「怖すぎる……死体があるってなんだよ……」
「後で分かったんだけど。江麻ちゃんが廃トンネルに行きたいって思った理由が、子供が線路の上を歩いて死体を探しに行く映画をちょうど見たから、なんだって。でも、そのときの私は、意味が分からなさ過ぎて心底怖かったよ」
「江麻も言えよ……!」
「いや、俺には江麻ちゃんの気持ちがちょっとわかるね。そういう時は、ネタ元を言わない方がかっこいい気がするんだ」
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翌朝、小都は目を覚ますと、すでに明るい光が部屋に差し込んでいた。カーテンの隙間から、朝の眩しい日差しが差し込んでいるのが見える。あの時の、江麻の言葉が頭に浮かんだ。結局行くことに決めた自分が、少しだけ、不思議だった。
だが、今更どうこう言っても仕方がない。とりあえず、9時に駅で待ち合わせ、ということを確認して、ベッドから起き上がる。外の空気は、今までと少し違う気がした。昨夜のうだるような熱さが嘘のように、爽やかな風が吹いていた。
駅までの道を歩きながら、小都はどこか緊張していた。いくら無理して行くことにしたとはいえ、心の中ではまだ半信半疑だった。果たして、江麻は本当に待っているのか。あれだけ突拍子もない提案をしてきた江麻だし、もしかしたら、遊び半分でこのまま放っておかれるのかも……そう、思っていたが。
江麻の姿はすぐに見つかった。江麻は、普段と変わらない無表情で、まるで何も気にしていないかのように立っていた。リュックを背負っている姿も、いつもと変わらない。ただ、頭にはぶかぶかのヘルメットが、斜めになってちょこんと乗っていた。
「おはよう」江麻は、少しだけ顔を上げて、小都に向けて言った。
「おはよう」小都は少し小さな声で返しながら、やや不安げに歩み寄った。心の中での呟きを、口に出さずに済んだのは奇跡みたいなものだった。
わざわざ学校サボって、本気で廃トンネルなんて行くの? 本気? たぶん本気なんだよね。だってこの子、ヘルメット被ってるもん……!
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「へー。江麻ちゃんってサボりとかしないタイプだと思ったわ」
「当時の江麻ちゃんはけっこうやさぐれてて、お母さんの声色で欠席の連絡をするのが得意な子だったんだって。まあ、基本的に今も変わらないかな。江麻ちゃんはすごく気分屋っていうか、やりたくないこと、絶対しないから」
「なんでその後真面目になったの?」
「それは……たぶん、わたしのせい、かな。続けるね」
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江麻はそのまま、軽く一歩踏み出すと、何も言わずに駅の外に向かって歩き出した。
街の空気は昨日と変わらず澄んでいて、静かな雰囲気だった。静かな街の音が耳に心地よく響く。しばらく歩いていると、どんどん街の喧騒が薄れていき、周りは少しずつ畑や空き地に変わってきた。歩いている人は、2人以外には、誰もいない。
しばらく歩き続けると、ついに目的地が見えてきた。古びた鉄道の廃線が目に入る。線路は錆びつき、ところどころに雑草が生えていた。今ではほとんど使われていないその線路を見つめて、小都は何となく胸がざわつくような感じがした。
「この先に、廃トンネルがあるんだ」
小都は、トンネルのことを想像しながら歩みを進める。しかし、どこかで「本当に行くの?」と自分に問いかけながらも、身体は自然と江麻の後ろをついていく。
やがて、廃線の先に、ひっそりとしたトンネルが現れた。小都はその暗く、ひんやりとした空気が急に身体に冷たく感じて、ちょっと背筋が伸びる。
「さて、行こうか」と、江麻が無表情のままで振り返り、小都に声をかける。
小都は、心臓の鼓動が速くなったのを感じたが、意地でも「怖い」と言いたくなかった。ただ、このまま江麻に見せてしまうのは嫌だった。少しの緊張感を感じながら、ゆっくりと足を踏み出す。
トンネルに近づくにつれ、空気がひんやりと変わり、しんとした静けさが一層深くなるのを感じた。中に入ると、少し湿った空気が鼻を突く。その暗闇は、昼間にも関わらず、どこか物悲しい雰囲気を醸し出している。
トンネルの壁には苔が生え、時折、古びた鉄の足場が見えるが、全体的に放置されたまま、まるで時間を忘れたような場所だった。
その静寂に包まれたトンネルの中に足を踏み入れると、まるで違う世界に入り込んだような気がした。ここは、まるで別の時代から切り取られた場所で、今もまだそのまま存在しているようだった。足を進めるたびに、まるで歴史の扉を開けるかのような、わくわくとした気持ちが湧き上がってくる。
小都は、江麻が足を止めるのを横目に、気持ちが先走るように廃トンネルに足を踏み入れた。江麻に何か言われる前に、と、無意識に早足になってしまったのだ。自分がこの場所に来たのは、江麻と一緒に行動するのが面白いからでもあり、同時に、どこかで感じている対抗心からだった。
江麻の、無表情のままでの軽い言葉が、何となく気に障った。やっぱり、あの子には簡単にできることなんだろうか。江麻が本当にこういう場所に来るのは、無理に決まってると思っていたのに。それでも、そう感じたくない、否定したい一心で、足を前に進めた。
その足音がトンネルの中で響き、どんどん大きくなっていく。何も見えない暗闇の中を、ただ進み続けていた。
振り返る気にはなれない。早く進んでしまいたくて、必死だった。江麻に追いつかれるのが嫌だったのか、気がつけば自分一人がどんどん前に進んでいた。
そして、ふと気が付くと、背後で聞こえていた足音が完全に消えていた。目の前の暗闇が無限のように感じられ、どこまでも続くトンネルの道を、一人で進む恐怖が心を締め付ける。まるで、今、目の前にいるはずの世界が、すべて消え去ってしまったかのような孤独な感覚。
江麻は、どこかで立ち止まったのだろうか。それとも、もう来ないのだろうか。まさか、私が先に行こうとしたから、途中で戻ったのか。それとも、最初から私のことを試すつもりだったのだろうか。頭の中でぐるぐるとそんな考えが渦巻き、気づけばもう声も出せないほど、自分の中に湧き上がる不安が押し寄せてきた。
心臓が速くなり、息が苦しくなる。その不安を胸に抱えたまま、歩き続けていく。振り向けば、暗闇の中には、何も聞こえず、何も見えない。やっとここまで来たのに、あんなに前に出たことを後悔し始める。
それでも、足を止めたくない。進み続けなければならないと思った。そのうち、いつの間にか、江麻が後ろから追ってきてくれることを信じて、無言で歩みを止めずにいた。
どれだけ歩いても、足音だけが虚しく響く。何も見えない、何も聞こえない、その世界で、小都は、ただ一人歩いているだけだった。
……こんなに静かなのは、おかしい。ひょっとしたら、外で核戦争でも起きて、わたし以外の人類が全員滅んでしまったのかもしれない。音のしない闇の中をひたすら進む小都は、本気で思った。息を呑むと、周りの空気が息をひそめたように感じられ、全てが遠い未来に消えたかのような錯覚に襲われる。
意識を手放さないように、ただ足を動かす。しかし、進む先には何もない。無音の世界だけが広がっていて、たった一人でいることが、こんなにも心細いのかと実感する。
ふと、歩き続けていた足が止まる。ここまで進んできたことに何の意味があったのか分からない。どんなに足を動かしても、振り返れば江麻の姿はなく、耳を澄ませば声一つ聞こえない。いよいよ自分が、この世界でただ一人の存在のような気がしてくる。
ついに小都は、トンネルの端に腰をおろし、膝を抱えた。冷たいコンクリートの感触が背中に伝わり、体温が奪われていく。暗闇の中でのひやりとした感触が、冷静な心を引き戻してくる。息が荒くなるのが分かる。身体が震え、思考がどんどん曖昧になっていく。
一体、どうしてこんな場所に来てしまったのだろう。江麻は、最初から本気でこのトンネルに来たかったのだろうか。それとも、ただの遊びのように引き込まれてしまっただけなのか。そんなことが、無意味に頭を駆け巡る。
座り込むことで、身の回りの闇がどんどん濃くなっていくのがわかる。空気がひんやりと冷たく、唯一感じるのは、膝に抱えた自分の手と、背中のひやりとした感触だけ。それが今、ここにいる証のように感じられた。何もかもが遠く、何もかもが消えてしまったような感覚にとらわれる。
――このままずっと、誰も来ないんじゃないか。
その考えが頭に浮かんで、心臓が締め付けられるのを感じた。暗闇に包まれて、そこにただ一人、取り残されてしまったような感覚。だって、江麻がトンネルを去ってしまえば、小都がここにいることは、誰にもわからない。あれだけ早足で進んできたのだ。江麻が引き返してしまった可能性は、十分にあった。
そのとき、誰かの足音が聞こえた気がした。小都は思わず身を縮める。誰も来るはずのない場所に来るなんて、そんなのこの世の物じゃないに決まっていた。江麻が言っていた言葉が頭をよぎる。「死体があるよ」と言っていたはずだ。死体だ、死体がやってきた。小都はそっと息を潜めた。
そのやってきた誰かは、手探りしていたかと思うと、がっしりと小都の手を取った。小都は思わず叫ぶ。
「ぎゃあああああああああああ!」
「うわぁぁぁぁぁぁぁ⁉」
その誰かも、小都と同じように叫んだ。小都とその誰かの叫び声は、トンネル内を反響しまくり、小都の鼓膜に多大なダメージを与えた。
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「えっなにこれ。トンネル内で迷子になって探してもらいました、をこんなに長く話すことある?」
「だって……」
「だって、なんだよ?」
「江麻ちゃんが、手をつないでくれたから」
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暗闇の中では、ただ足元に落ちていく感覚しかない。なにも感じず、当然、誰にも告げられるはずもなく。ただただ、何も無いまま――。
だが、江麻は小都の手をそっと取り、そっと歩き出した。「歩いてると、どっちが出口か分かりづらいよね」とか言っていたが、小都の耳には入ってこなかった。そして……。
それからトンネルを出るまでの10分間――小都にとって世界とは……江麻の触れている指先の感触が全てだったのだ。
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「え、終わり?」
「ううん、その後ね、江麻ちゃんとわたしは両方のお母さんからすごく怒られて」
「まあ、そりゃそうだよねえ」
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そして、友達と一緒に探検しただけだと弁明した江麻は、それはそれは怒られた。
さらに小都の母から、優秀じゃないとうちの子と友達とは認めないと言われた江麻は……次の期末テストで、学年3位を取った。
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「行動が今と一緒じゃん。極端にも程がある」
「だから、江麻ちゃんは今も昔もあんまり変わってないんだと思う」
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江麻と一緒にいるようになってから、ずっと後になって。どうしてあのとき、友達だと言ってくれたのかを小都は聞いてみた。たぶん売り言葉に買い言葉、みたいなものだったのだろうけれど。
しかし、江麻は少し視線を外して答えた。
「私って、感情を表に出すのが苦手で。どう出していいのかわからなくて。小都ってさ、素直じゃない。だから真似してたら、なんとなく出せるようになった。それが嬉しくて。一緒にいられたら私も変われるかなって、そう思った。……あと、隣にいて、楽しいから」
そう聞いた、翌日、いつも通りの朝。学校へ向かう道を歩いていたはずなのに、目に映る景色が、小都にはいつもより鮮やかに感じられた。青い空が透き通るように見えて、風に揺れる木々の葉がキラキラと輝いているのが不思議と目に留まった。道端に咲く小さな花さえ、今までとは違う、何か特別なものに思える。
普段は重く感じていた習い事も、なぜかやる気が湧いてくる。面倒だと思っていたはずのことが、「頑張ってみよう」と思えるようになった。最初は気づかない程度の変化だったけれど、ある日ふと振り返った時、その違いの大きさに驚くほどだった。
江麻の感情の表し方は、小都の真似だという。江麻がそう思うだけで、自然に感情を出せるようになったのなら、きっと素養はあったのだろう、とも思うけれど。江麻にとって、どこまで行っても自分の感情は小都の真似なんだと、江麻は確かにそう言った。それは、江麻の中にそれだけ小都の存在があるということだ。
でも今も、本当は、江麻は人の気持ちがあまりよく分からないのかもしれないな、と小都はそう考える。江麻がギリギリ分かるのは、自分の気持ちだけだとも言っていた。あれはおそらく真実だったのだろう。それでいい、と小都は思う。