水族館をいかがわしい施設か何かだと思ってるんですか?
(11月14日 木曜日)
そして、音を立てて冷たい木枯らしが吹き抜けるようになってきた頃。来たるクリスマスイブの決戦に向けて、夜、私がランニングをしていたある日のことだった。
公園の中、遊歩道の真ん中で、微動だにせず空をじっと見上げている人影を見かけ、私は足を止めた。シルエットからして、すらりと痩せた女性だ。気配を感じたのか、その人は、そっとこちらを振り向く。薄い銀色の腰まで伸びる髪と、透き通るような緑と青のオッドアイの瞳。月明かりに照らされて佇む姿は、まるで人ではないみたいだった。
「こんな夜更けに、危ないですよ」
「日の光が苦手だから」
もしかして、と思い、私はおそるおそる口にしてみる。そういえば、ちょうどそんな存在がこの町にはいたはずだから。
「ひょっとして、お姉さん、吸血鬼だったりします?」
すると、女性は目を丸くした。そして、すっと目を細める。面白そうなものを見つけたような表情だった。そのまま、こてりと首を傾ける。
「うん、わたし、実は吸血鬼」
「あの、私、孝市の幼馴染です。いつもお世話になってます」
「そう」
全然リアクションがない。本当にこの人に孝市と添い遂げる未来があるのだろうか。しかし、「そういえば、外国の人だったな」と思い出した。確かに、発音が外国の人のような感じである。
女性がベンチにそっと座ったので、私も隣に座り、一緒に月を見上げた。最近は夜になると冷えてきているせいか、呼吸のたびに、私の口元から白い息が立ち上る。
会話もないまま、寒さを感じた私はしばらくして立ち上がり、その場を去ることにした。
「さようなら、吸血鬼さん。またお会いできたら嬉しいです」
「さよなら、多重世界。わたしもあなたに興味がある。またね」
……。多重世界? 振り向くと、ベンチにはもう誰もいなかった。
『吸血鬼の人と知り合いましたよ。公園で2人でお月見をしました。寒かったです』
《シチュエーションが意味不明で草》
《リアって人見知りのはずなのによく知り合えたね》
『あんまり人見知りって感じしなかったです。なんだかあだ名で呼ばれましたし。そういえば普通に日本語で話してましたよ』
《なんてあだ名?》
『多重世界、って呼ばれました』
《それほんとにリアか? 外見は?》
『色の薄い銀髪で、目は色違いっていうか、オッドアイでした』
《メインヒロインじゃないか……なんでそっちと知り合ってるのさ……》
『じゃあ私って違う人に「吸血鬼さん」って堂々と言っちゃったんですか? 恥ずかしい』
《気にするところ変で草》
これはいけない。相手を間違えるなんて。反省した私が、もう1度、原作について復習したところ、吸血鬼のリアとの話が本格的に動き出すのは、十一月の後半からであることが判明した。つまり、少し猶予がある。今のうちに、小都と動いて孝市にアプローチしていかねばならない。そこで、さっそく私は2人のデートについてプランを練った。
(11月16日 土曜日)
そして、孝市、小都、私の3人で出かける約束をしていた週末。私は迷いなく、欠席の連絡を入れた。体調が悪い、だとお見舞いに来られそうだから……うん、ちょっと急用が入ってしまったということにしよう。とりあえず、解散しないかどうかを確認して、と。
三つ編みに眼鏡、帽子、マスクを完備した私が、待ち合わせ場所の駅前広場に到着し、手ごろな物陰に身を潜めようと見回すと、ちょっと離れた場所から手招きをしている、マスクとサングラス完備の人物が目に入った。なんて怪しい格好の人間なのだろう。
怪しい人物がサングラスをずらすと、見慣れた顔が現れた。河原崎さんだ。そして、孝市から話を聞いたらしい彼は、あろうことか2人のデートを追跡しようと持ち掛けてきた。
「やですよ、そんなのぞき見みたいな」
「じゃ、しょうがない。俺、江麻ちゃんが帰ったらあそこに合流するよ。1人で寂しいし」
「……わかりました。いますよ! もう!」
そっと、怪しい格好の河原崎さんと2人で物陰から顔だけ出し、様子を窺う。そんな私たちを、通行人は怪訝そうな顔でちらちらと見ながら通り過ぎていった。
さて、少し離れた噴水の側に立っている小都は、「行けない」という私からの連絡を見たらしく、スマホを見つめたまま、ぷくーっと頬を膨らせている。その光景に、確かな友情を感じた。うん、好きな人と2人きりより私がいないのを惜しんでくれてる。ていうかすごくお洒落してる。あれは時間がかかってる。さすが好きな人の前。うんうん、と私は何度も頷いた。
そんな小都の前に、孝市が急いで走り寄ってくる。待たせたのは駄目だけど走っていく姿勢はいいね、と私は頭の中の良かった探し表に〇をつける。一方、小都は、口を尖らせたまま、孝市に向けて小さく手を振った。
「……あれ?」
眉間にしわを寄せ、河原崎さんは小都を見つめる。……何か気になったのだろうか。
「ちなみに小都を好きになったとか言ったら、あなたが目を覚ますまで平手打ちする準備ができています」
「違うって! ただ、なんか……あれさ、違わない?」
「自分の存在に疑問を持つのは後にしてください」
「だからそうじゃないって! ていうか江麻ちゃんマジで俺に冷たいよね」
そして、孝市と小都は何言か会話を交わした後、連れ立って、駅に向かって歩き出した。今日は電車で5駅ほど離れた場所にある、大きな水族館に行く予定だった。
「ところでなんで水族館なの? 今日のセッティングしたの江麻ちゃんなんだよね?」
「小都は海が好きなんです。だからたぶん魚も好きかなって」
「うわ、適当!」
面白そうに笑う河原崎は、楽しそうだった。しー、と指を口に当て、私は2人の後を追う。こうなったら、2人が仲を深めるところを直接確認するくらいはしたかった。
水族館の中は、静寂に包まれながらも、水槽から漏れる青い光が優しく揺れていて、どこか幻想的だった。私は、その光の中を歩く小都と孝市を遠巻きに追いながら、こっそり見守っていた。
……しかし、どこか引っかかるものがある。私は、水槽を眺めながら軽く笑みを浮かべている小都の表情を、そっと窺った。
……小都は、怒っていた。瞳に浮かぶ微かな苛立ちのような色が、私の胸を冷たく刺した。隣の孝市が何か話しかけても、小都は反応が薄く、視線は遠くを見つめている。……明らかに、怒っている。でも、いったい、何に?
水族館はそこそこ混んでいたので、身を隠しながら追跡はしやすかった。孝市と小都から30メートルほど離れた場所で、身をかがめながら、私はひそひそと河原崎さんに囁く。
「もっと小さくなってください。背高いんだから」
「もう少し近くで見ない? ……あ。ほら、江麻ちゃん、ペンギンだって」
河原崎さんの言葉に水槽の方へ視線を移すと、ペンギンが何羽も氷の上に立ち、上から降ってくる氷を動かずに浴びている。みな目を細め、気持ちよさそうな表情(?)だった。
やがて、一番水辺に近い場所に立っていたペンギンが、身じろぎした時に足を滑らせ、足と羽をじたばたさせながら、水にばしゃんと落ちた。
「江麻ちゃんみたいなペンギンがいるね」
「水族館の入口にも噴水ありましたけど、河原崎さんも泳いでみます?」
「今日は水着じゃないから遠慮しとくよ」
そして、河原崎さんは前を行く2人を見つめ、そっと目を細めた。孝市と小都は、50センチほどの距離をキープして、ゆっくりと順路の奥の方へ進んでいく。
「孝市と小都ちゃん、手も繋がないんだね」
「奥ゆかしいんですよ。いいじゃないですか、そういう距離感でも」
「そうやってうかうかしてるから……痛っ」
げしっと河原崎さんの向こう脛を蹴飛ばし、私は先に急いだ。
「クラゲの展示場所なんて暗いんだからキスくらいすればいいのに」
「河原崎さんって水族館をいかがわしい施設か何かだと思ってるんですか?」
「え? 合法的にいちゃつける場所でしょ?」
「いかがわしい施設だと思ってた……っ!」
しかし、確かに、小都と孝市の距離は全く縮まる気配を見せない。河原崎さん案は論外としても、もっとこう、もう少し近寄ってもいいのではないか。
「俺ならここまででもう10回くらいキスしてるよ」
「キス好きなんですね。どうでもいいですけど」
しかし、私がそう言うと、河原崎さんは私のあごにそっと手を当て、くいっと上を向けさせてきた。私の目線が、近づいてくる河原崎さんの目とはっきりと合う。
「じゃ、俺たちも試してみる? ……あいった!」
思いっきり足を踏みつけて脱出すると、河原崎さんは涙目で睨んできた。会心の手ごたえだっただけあって、ダメージは大きかったようだ。
「もう。追跡中だってこと、忘れてません?」
「へー。誰を追跡してたの?」
河原崎さんと相対していると、私の後ろからそんな声が聞こえた。おそるおそる振り返ると、そこには笑顔の小都と、付き従うような位置に孝市が。その孝市の表情に、私は救われた者の表情をなぜか見た。「助かった」と明らかに思っている顔だった。まずい状況にもかかわらず、私は頭がすうっと冷える感覚を味わう。……そうか、そんなに小都と2人きりが嫌だったか。
「江麻ちゃん? 用事が急に入ったんじゃ?」
「ごめんごめん、俺が呼び出しちゃって。でもやっぱり2人のことが心配だって言うから、こうして追いかけて来たんだよ」
私の頭をポンポンと叩きながら、河原崎さんがしれっとフォローしてくれた。すると小都は、まるで「親の仇が目の前で楽しくバーベキューしているのを見た」みたいな物凄い形相で、河原崎さんをギッと睨みつける。美人だからそんな顔をされると余計に怖かった。
「こら、小都。そんな目で他人を見るのをやめなさい」
「……うん」
結局、それからは4人で水族館を回ることになった。必然的に、小都と私、孝市と河原崎さんのペアとなってしまい、もはやデートではなくなってしまった感満載だったが、機嫌を直したらしくずっとニコニコしている小都と一緒に回るのは、楽しかった。
私がイルカの水槽をじっと眺めていると、トン、と隣の小都と肩が何度も当たる。ふわりとどこか甘い匂いがした。
「あ、ごめんね江麻ちゃん、近かった?」
「ううん、でもそういうのは孝市としたらいいと思うな。さっき見てたけど、何あの距離。ギリギリ同行者かどうかってくらい離れてたけど」
「だ、だって……! 恥ずかしかったんだもん……!」
こっそりと囁いてくる小都の赤くなった頬を見て、ほんとにこれを孝市に見せればいいのに、と残念に思った。こんなに可愛いのに。
その日、解散後、私が屋根を伝って孝市の部屋に行き、「デートどうだった?」と尋ねてみたところ、それはもう渋い顔をされた。もうお前がそういう感じなのはわかった。
そして、しばらく会話が途切れた後、孝市がぽつりと呟いた。
「そういやお前さ、最近ちょっとかわいくなったよな」
「え、私? 急にどしたの?」
「いや、なんとなく言いたくなっただけ。今日さ、珍しく三つ編みだったじゃん。あれ見て、昔の江麻のこと、何となく思い出した」
そう言って、孝市は所在なさげに目をそらした。そして部屋の中に、何とも言えない空気が満ちる。私はその居づらさに少しもじもじとしながら、非常に焦った。なんで、なんでそんな感じにならない相手No.1の孝市と私が、こんな雰囲気になってるの。
やがて、苦笑しながら孝市が口を開いた。そして、ぽん、と私の頭に手を置いた。
「お前もさ、そろそろ屋根から入ってくるのはやめろ。玄関からなら歓迎するからさ」
《おいこら寝取りはやめろやめろ》
《発狂してて草、寝てから言え》
『寝取りません』
そして、小都と孝市の関係が進んだのかどうかはいまいちわからないまま、次のヒロインとの季節がやってくる。




