泡沫花火ニ君ハ散ル
『日常』に潜む刹那の瞬間こそ儚くも美しい
『ソレ』はきっと貴方の身近にもきっとあるはず。
見落としていませんか?
貴方も魅ればきっと大切な人に見せたくなる…
遠くの空で花火が泣くように弾けている。
大きな音で弾けては、音を置き去りにして散っていく。
隣には大好きな彼女が腰掛けていた。
これが夢であると気が付くのに、そう時間はかからなかった。
「好きだよ」
拙い言葉で告げる俺に彼女はただ微笑む。きっと幼馴染として好き、と捉えたのだろう。
しかし、更に言葉を重ねるほどの勇気はない。
そっと溜息を吐くと、遠くの空を見上げた。
花火が淡く広がり悲しそうに散っていた。
俺は高校二年生になって初めて恋というものを知った。
だが、実際はもっと前から彼女のことが好きだったのだと思う。
俺と彼女は幼馴染だ。親同士の仲も良く、家も隣り合っているため、幼い頃から一日のほとんどを共に過ごしていた。
彼女は頭脳明晰で運動神経もいい。
さらに何事にも努を怠らない人だったから、多くの人から信頼されていた。
彼女は人前で弱音を吐いたり、涙を流したりするようなことは全くと言っていいほどなかった。
常に作り笑いを浮かべ、自分の気持ちを押し殺していた。しかしそれに気が付く人はほとんどいない。
常にし続けていたせいか、彼女の作り笑いは、本物の笑顔のように見えてしまうのだ。俺は彼女を幼い頃から見ていたおかげで、気が付くことができる。
それもあって彼女が本当の意味で頼れるのは、俺だけだろう。そのため何かあるとすぐ俺を頼ってきた。
どうして自分の抱く恋心に気が付けなかったのだろう。気が付いたときには遅すぎた。
ー彼女はもうこの世界のどこにも存在していないー
俺はそんな彼女が亡くなる前に言ったことが忘れられない。
祭りにクラスメイトと行った時のことだ。偶然彼女に会った。
一緒に来ていた奴らとはぐれてしまったが、落ち合うのも面倒だと思い、帰ろうとしていたらしい。
なんなら一緒にくるか、と誘うと嬉しそうに付いてきた。クラスメイトにそのことを伝える。
すると、快く了承してくれたので、彼らの後ろを俺たちは並んで歩いた。
彼女は青に夕顔の花が咲いた浴衣を着ていた。
『似合ってるよ』と普段言わないような言葉をかける。お世辞は良いよ、と言いながらも、彼女はとても嬉しそうに笑っていた。
いつも浮かべている作り笑いではなく、ふにゃりと頬を緩めている。
それは俺と一緒のときにはよく見せるが、他のやつにはなかなか見せない笑みだ。
俺はそのことに喜びを覚えながら、歩みを進めた。
屋台を回って暫くすると花火が打ち上がる。祭りも終盤のようだ。
クラスメイトと歩いていたが、花火を見るべく動き出した人ごみに押されて俺と彼女ははぐれてしまった。
仕方なく、人ごみから少し離れた静かなところまで行く。
傍にあったベンチに彼女を座らせると、クラスメイトと連絡を取る。
すると俺たちはもう帰る、お前たちはもう少しゆっくりしていったらどうだ、と言われた。
どうする、と彼女に訊くと花火を見たいと言うのでそのまま見ていくことにする。
彼女の隣に座ると、ふわりと優しい香りが漂った。
空に目を向けると周りに人がいないため視界が開けていて、夜空に咲いては散る花火が綺麗に見えた。
それぞれ祭りを楽しむ人々の雑踏をバックにどのくらいそれを眺めただろうか。
彼女が唐突に口を開いた。
「ねえ、人ってどうして死ぬんだろうね」
そう訊く彼女はいつになく弱々しかった。
まっすぐ前を向いているものの、その瞳はどこか遠いところを見ている。
その横顔は普段の様子からは想像できないほど悲しげで、今にも消えてしまいそうなほど儚い。
今までも何度か彼女が弱気になるのを見たことはあるが、このようなことを聞かれたのは初めてだ。
黙りこんでしまう俺を気にも留めず、言葉を続けた。
「もっと生きていたい、死にたくないって思う人は沢山いるのに、どうして死んじゃうのかな」
「……それが人間だからじゃないかな」
独り言のように続ける彼女は、何かを思い詰めた表情をしている。
苦し紛れにそう答えるが、彼女に訊き返された。
「自分で命を絶ってしまう人だっているのに? それも人間だから当たり前だって言えるの。――あんまりじゃない」
何も言えなくなった俺を見て、彼女はただ、ごめんねと謝った。
この話をしたことに対してか、それ以外のことなのか、謝罪の意図は分からなかった。
彼女は無理矢理普段の作り笑いをしようとしたが、へにゃり、と力のないものになってしまっている。
そのときの力ない彼女をみて、どこか遠くへ行ってしまいそうだと感じた。
俺はそんな思いを掻き消すように、彼女の頭をくしゃくしゃと撫でると、立ち上がった。
突然立ったことに驚いているようだが気にせず、俺は彼女の前に身を屈める。
そして彼女と目を合わせると、言った。
「俺はあんまそういうこと考えたことないけれど、生まれ変わって新しい生を歩むために区切りをつけなきゃ進めない。
だから人は死ぬんだと思う。だからきっと最後には必要なことなんだよ」
彼女の瞳が揺れた。必要なこと、と繰り返すか細い声が妙に耳に残って――。
俺は衝動的に、彼女を胸に引き寄せる。そしてそのまま軽く背中を叩くと彼女は泣いた。声を殺して涙を流す彼女の体温を感じた。
もらい泣きしてしまいそうで、俺は涙を堪えるように空を見上げる。
花火が打ち上がっては咲き、枯れていく。
光の粒がはらはらと零れていく様はとても幻想的で、目を奪われた。
俺は後々、自分の言葉と、彼女が問いかけた理由について考えようとしなかったことを後悔した。
あんなありきたりな言葉ではなく、もっと他の言葉を伝えるべきだったのだ。
シルバーウィークの最終日、彼女の母親が家を訪ねてきた。
泣きながら差し出された白い封筒には、俺の名前が記されている。
やけに丁寧なその字は見覚えのあるものだった。
この手紙は何かと訊くと、彼女の遺書だと言う。
ーーー頭の中が真っ白になった。ーーー
嘘だ、ひどい冗談だ、と頭の中で何度もその言葉が反芻する。
震える声で嘘ですよね、と訊くが彼女もその母親も、こんな嘘を吐く人ではない。
頭では分かっていてもそう言わずにはいられない。
彼女の母は俺の問いに対して頭を振るばかりだ。
ずっと、ずっと長い間病気だったの、と仕舞いには泣き崩れてしまう。
俺の母親が駆け寄り宥めているのを、俺はどこか遠くの出来事のように眺めていた。
彼女の火葬はそれから四日後に行われた。三日目の通夜にも出たが、あまりよく覚えていない。
記憶に残っているのは、微笑む彼女の遺影と、安らかな死に顔。
しかし、体温を失った彼女を見ているのはあまりにも苦痛で、すぐに目を逸らしてしまった。
昔は、悲しい時や辛い時ほど涙が出ないと聞く度に、そんなことはないだろうと思っていた。
しかし、実際にその立場になってみると、この言葉の意味がよく分かる。
悲しい、苦しい、心に穴が開いたようだ。
その穴は、がぱりと大口を開けて、心も俺自身も食べつくしてしまう、そんな錯覚にさえ陥る。
痛みともよく似た喪失感に苛まれながら、同時に彼女との思い出が蘇る。
どんな時でも俺の横で笑う君。
一緒にいる時に当たり前に感じていた安心感。
2人の時に少しばかり早くなる鼓動。
自分の中に残っている印象深い出来事。
幼い日、公園で遊んだこと。
小学生になって不安と期待が入り交じった中、手を繋いで初めて学校に行った日の事。
中学生で部活の応援にかかさず毎回来てくれて、誰よりも通る声で応援してくれた事。
高校生で京都での修学旅行の班を抜け出して、色々なところに2人だけで行ったこと。
夏祭りやクリスマス、年を越す時も、当たり前に一緒にいた事。
その全てに、君がいたこと。
思い出して、気が付いた。
そうか、俺は彼女が好きだったのだ。しかし、それももう遅い。
いっそ泣き叫ぶことができたなら、どれだけ楽になれるだろうか。
泣きたいと強く願えば願うほど、一粒の涙も出てこない。
泣くこともできなければ、忘れることもできないのだ。
火葬当日は、俺の心とは裏腹に、憎たらしいほどの晴天だった。
空へ溶けていく灰色の煙を何気なく眺めながら、俺は先日渡された彼女の遺書の文面を思い返した。
『拝啓、私の大好きな幼馴染君へ』
そんな言葉で始まっていた遺書には、やたら綺麗な字が書き連ねられていた。
手紙に書かれた今までのお礼や思い出話はやけに鮮明で、彼女の死を受け入れさてくれない。
『敬具、君が大好きな幼馴染より』
そう締めくくられた遺書には、涙の痕と思わしきものが残っている。
あの幼馴染が泣きながらこれを書いたのか、と思うと胸が苦しかった。
書かれた言葉の中にこんなものがあった。
『死ぬのは生まれ変わるのに必要なこと。そう言ってくれてありがとう。私、明日が見えなくて苦しかったんだ』
初めて遺書を読んだとき、その言葉を見て驚いた。まさか、と思って慌てて読み進める。
『でも、あの言葉を聞いた時、ああ、必要なことならもう休んでいいんだ。って思えたの。病気を受け入れられたんだ。今こうして手紙をかけてるのもその言葉のおかげ。本当にありがとう』
目の前が暗くなった。
自分の言葉で、彼女は生きるということを諦めてしまったのではないだろうか。
「死ぬのは、必要なことか……」
彼女はこの言葉を、どのような気持ちで聞いていたのだろう。
遺書に書いてあったことから想像はできるが、実際には分からない。
「どうして、お前が死ななきゃいけねえんだよ。――俺は、お前ともっと一緒にいたかった」
言葉が彼女に届くことはない。
それを分かっていながらも口に出してしまうのは、やはり俺が女々しいからかもしれない。
遠くの空で、花火が咲いては枯れる。俺の隣には彼女の姿があった。ああ、また夢か。現実ではまだ信じたくないのに、夢だと彼女の死を認めている。
皮肉なものだ、と自嘲気味に嗤うと、口を開く。
「好きだよ」
何度夢でこの言葉を告げただろうか。もっと恋愛ドラマなんかの主人公みたいに格好良く言えたらいいのに、と思う。しかし、いつも俺が告げるのは拙い四文字。
優しく笑う彼女を見て胸が締め付けられる。夢でもいい、彼女をもっと見ていたい。もっと一緒にいたい。
しかし、そんな願いは叶うわけもなく、夢は覚めてしまう。冷酷で、それが当たり前な世界が、今日も夜明けを迎えた。
生きるのを止めて彼女の元に行きたいと何度考えただろう。
しかし、生きたかったはずの彼女に対して、そんなことができるわけもない。ただ叶わない想いだけが募っていく。
自分の想いに気が付いていて、それを伝えることができたら何か変わっていたのだろうか。
とっくに答えは分かっているのだが、そんな意味のない問いを繰り返してしまう。
「きっとお前は夢の中と同じように、優しく笑うんだろうな。今更気が付くなんて遅すぎる――俺はとんだ間抜けだ」
彼女の死から百日目、そう呟くと、不意にあることを思い出す。今日は、冬の花火大会だ。
あの夏の祭りと同じ場所で行われる。
行ってみようかな、などと考えて支度をしていると、突然の眠気に襲われた。
支度なら後でもできると、ベッドに寝転ぶ。俺は睡魔に身を委ね、深い眠りに落ちていった。
遠くの空で花火が泣いている。隣には大好きな彼女が腰掛けていた。
ああ、いつもの夢か、と思いながらゆっくりと立ち上がる。すると唐突に彼女が口を開いた。
「ねえ、人ってどうして死ぬんだろうね?」
普段、彼女が話すことはないのに、今日の夢は少し違った。
優しい声で訊く彼女は、何かを悟ったような穏やかな笑みを浮かべている。俺はあの時の言葉を言いたくなかった。そのまま黙っている俺に、彼女は微笑みかけて話を続ける。
「生まれ変わってくるため、でしょう?」
そう言う彼女の表情はすごく柔らかくて、思わず息を呑んだ。
彼女の向こうに見える花火の、一つ一つの花びらが、泡のように崩れていく。
「生まれ変わるために必要だから死ぬんだよ。私、きっとまた、会いに行くから」
彼女がゆっくりと俺に手を伸ばし、頬に触れる。夢だと分かっていても、その温もりが心地いい。少しでも長く触れていたくて、その手を掴むと彼女を抱き寄せた。
涙が出そうになるが、ぐっと堪える。彼女の香りが鼻腔をくすぐった。胸いっぱいにその香を吸い込むと、募った思いが溢れてきた。
いつものように自分の気持ちを伝えたとしても、彼女は優しく笑うのだろう。そうは分かっていても口から言葉は零れでてしまう。
「好きだよ」
ありふれた、たった四文字では伝えきれない想いに、嘘や偽りはない。彼女はそっと俺を押し返すと、悲しそうに顔を歪めた。そして泣きそうになりながら、優しく笑う。
俺の告白に対する答えはない。しかし、彼女の態度や表情から、拒絶されているようには感じなかった。
「ねえ、今の言葉、今夜の花火大会の後でもう一回言ってよ。――ああ、そうだ。生まれ変わった時には、君はおじいちゃんだろうから」
だから、きちんと好きな人見つけるんだよ、と彼女が小声で言った。
その時、近くの空で花火が笑った。驚いて目をやると、青く、美しい花火が煌いている。いつもは、どんな色の花火でも悲しく見えるのに、今は寧ろ幸せそうに見えた。
彼女に視線を戻すが、既にその姿はない。辺りを見回すが見つけることは出来なかった。ただ彼女の香りと温もりだけが腕の中に残っていた。
支度の続きをしてから、あの日彼女と腰掛けたベンチへ向かう。
西に傾いた太陽が辺りを橙に染めている。冷たい外気が夕暮れと共に押し寄せてくるが、不思議と寒さはあまり感じなかった。
夏祭りのあの日繋いだ手の温もりが
未だに残っている錯覚に襲われる。
俺を包んでくれているみたいで、自然と顔が少し綻んだ。
ベンチに座っていると、喧騒が聞こえ始める。そろそろ祭りが始まるのだろう。この場所には相変わらず人は、いない。
暫く待つと、ドォン、という音が聞こえ始める。
宵闇に染まる空を赤、橙、黄、緑、様々な色が彩っていく。
その中に夢で見たような青色の花火はなかった。
しかし、珍しく不発弾があった。淡い光の線を残し、咲かずにしぼんでいく。
咲いては散り、闇に溶けていくそれは泡に似ている、と唐突に思った。
そこから泡と花火と人の生は似ているな、と考え付く。
たとえるならば、彼女はきっと今の不発弾なのだろう。
ならば、自分はどんな花火だろう、と考えたが止めた。今はただ華を見ていたい。
打ち上げが終わると、夢の中で彼女とした約束を果たすために、立ち上がる。そして深く息を吸い、空に向かって大声で叫ぶ。
「好きだ。ずっと――ずっとお前が好きだった!」
彼女の笑った顔が好きだ。普段の作り笑いよりも、俺の前で見せてくれる飾り気のない笑顔。
突拍子もないわがままを言ったり、子供染みた悪戯をしたりするときに輝く瞳。
嘘を吐くとき、違和感を覚えるほど真剣に目を合わせる癖。
拗ねると頬を膨らませたり、唇を尖らせて返事をしたりするところが好きだ。
自分の本心を隠しても相手を優先する優しさ。
こうと決めたら貫き通さないと気がすまない頑固さ。
普段と違ってあどけない寝顔。
瞼を閉じれば今でも鮮明に思い出せる。
彼女の表情や癖の一つ一つ。
全てが大切で、とても愛しい。
「お前が生まれ変わってくるの、信じてるからっ」
今まで夢の中でしか言えなかった想い。
届かなくても、伝わらなくても、言葉にしたかった。
しかし、言葉にすると、何かがぷつりと切れてしまったようだ。
今まで一粒たりとも出てこなかった涙が溢れてくる。ずっと我慢していたのかもしれない。
心に乗っかっていた、重い石のようなものが取れたような気分だ。
そしてやっと、本当にもう彼女はいないんだな、と実感する。
今まではなかなか受け入れられなかったのに、今になってあっさりとそれができた。不思議なものだ。
暫く声をあげて子供のように泣いていると、突然、冬の夜空に一輪の花が咲いた。
青く、透明感のある大きな花火。あの日彼女が着ていた浴衣と同じ色をしている。
驚いて涙が引っ込む。俺に不発弾と言われてしまった彼女がリベンジしているように見えて、つい笑ってしまう。
「こんなところで、負けず嫌い出していかなくてもいいじゃんか。バカ」
その時、俺の背後から彼女の香りが漂う。
「生まれ変わったら……会いにいくから。だから、君は前を向いて歩いて。私の、大好きな幼馴染君」
急いで振り向くが彼女の姿はない。俺は涙を拭うと、雑踏に足を踏み入れた。
「またな――」
彼女がこの世を去って、もう五十年が経った。
長い歳月が過ぎたが、あの話はずっと俺だけの秘密にしている。
俺は彼女のことを忘れないでずっと待っていた。
そして今日、やっと再び会うことができる。何故分かるか、と言われても、運命だとしか返せない。しかし、彼女であるという確信が俺にはあった。
娘やその旦那と話し合って、あらかじめ名前は決めさせてもらっていた。小さく寝息を立てる小さくも温かな命を愛でるように、そっとその頭を撫でる。
「生まれてきてくれてありがとう。君の名前は――」