泣く女 ~優しい涙~
4000文字程度のショートショートです。
赤ちゃんは泣くことで意思を伝える。おっぱいが欲しい時、おむつが汚れた時、構ってほしい時、赤ちゃんは泣く。
犬や猫も鳴くことで意思を伝える。犬同士、猫同士はその鳴き方で複雑なコミュニケーションを取っているようだ。愛情深い飼い主ならその鳴き声から多少の意思を感じることができるのかもしれない。
自動車もそうだ。クラクションが鳴らされた時、人はその車から警告の意思を受け取る。逆に、ふんわり鳴らされたクラクションからありがとうを感じ取ることもある。ただし交通法上クラクションは警告のみの役割を持つ。ありがとうはルール違反だそうだ。
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ある女がいる。ひどい父親にずっと地下室に監禁され、成人を超えた今も言葉をしゃべることができない。飯時と夜のおぞましいひと時に父親と接する以外、TVやネットなども含め一切外界と接点がなかった。
女は夜泣く。成長するにつれ異様さを増したその泣き声は鳴くと言った方が適切か。遠吠えのような奇妙な鳴き声がきっかけで通報され、父親は逮捕、女は保護された。
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昔、未開の地に宗教を広めた人たちがいた。野蛮な文化のまま真の神の教えを知らないのは可哀そう。新たな信徒として迎え入れて再教育してあげよう。そのような考えに基づき世界各地の辺境へと進出して行った。
異端の話をしているのではない。自分達が正道だと信じて疑わない多数側の考えとして、これは実行された。
現在この考えを傲慢だと考える人がいる。そしてこれは監禁から保護された女の今後にも通ずる問題だ。どう生きていくのが幸せか。
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これまでにも事例はあった。同じような監禁事件の被害者だったりジャングルで動物に育てられた少年だったり。
それらの事例があった時代の正道として否応なしの再教育が待っていた。そしてそれらの人のその後の人生を現在の視点で見ると、再教育者の傲慢…その点に目がいく。再教育は過度な困難を当事者に課し、ほとんどの場合受けた者は不幸せになった。
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今回のケース、被害者女性に対してどう取り組むか。
少なくとも急がず緩やかに進めるべきだ。当人とのコミュニケーションを通じてじっくり考えていこう。それが有識者達で下した結論だ。
再教育の当面の見送り。コミュニケーションはとるが何らかの学習につながる能動的行為は控える。話しかけすら行わず、女のやり方に合わせる。
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研究者として同年代の女性が抜擢された。
教育を一旦棚上げにして研究だけを行う。当人の幸せを最大限考えた上で取られた措置だが、研究者にとってこれは最高の観察環境と言えた。
保護されて数日間、女はずっと泣きどおし。涙が枯れるまで奇妙な遠吠えを繰り返した。誰かに何かを伝えたいのではない…それは不安な心情の現れに見えた。
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女がようやく泣きやんだ。新しい環境に慣れたようだ。
次の段階として女の前に研究者が姿を見せるようにした。女は研究者に対して過度に怯えることはなかった。やがて研究者は自席を女の部屋に移して勤務時間はずっと一緒に過ごした。
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研究者は女への能動的な行為を控えていた。だからと言って無視するような態度をとる訳ではない。しっかり向き合って女の挙動を受け止める。しかし笑ったり頷いたりといった類の普通ならやりがちな反応は控えた。
言葉を持たない女からの意思伝達を見逃すまいと研究者は注意深く向き合った。
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研究者は研究対象である女にフルーと名前をつけた。くり返された遠吠えのような鳴き声がそのように聞こえたのが理由だ。だが本人の前でその名を呼びかけることはしなかった。また自分がアレクサンドラ…アレクサという名前だとも伝えなかった。
名前ぐらい良いんじゃないの?交流って、そういうところからでしょ。同僚の中にはそう言う人もいる。アレクサは研究者として、そうすることはもったいないと感じていた。この稀に見る無垢なる研究対象を安易に文化汚染したくない………
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序列。野生動物や異文化を研究する際に重要な因子だ。序列が集団組織を安定させ所属する者の心を落ち着かせる。
これまでフルーは父親という絶対的に隷属関係を強いてくる集団に属していた。我々の尺度で言うと辛く理不尽な関係だがフルーはそれしか知らず、それが当たり前。そんな中でなんとか自分の心を安定させてきた。
新たなる交流関係において、この序列認識が重要になってくる。フルーはアレクサをどう定義づけるか。これから様子見だが序列を決定づけかねない食事提供の立場からアレクサは外れておいた。
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フルーの日常の振る舞いはどんなものか。歩き始めた幼児のような何にでも好奇心を示す天真爛漫さはなかった。いつもどこか警戒し少し怯えてる感じ。興味はあるけど興味なさそうなフリをする感じ。アレクサに対して体の接触をはかる時も偶然を装う感じ。
でも常に心を許さない暗くて可哀想な人という印象はない。何故だろう。アレクサは研究者なのでこの印象を何とか統計化したかったが、まだ情報不足だった。
その印象も関係するが、フルーの序列認識はアレクサを自分の下に置いたようだ。いつもの食事提供担当者とは別の大柄な男性が部屋に入ってきたことがあった。その時フルーはアレクサを守るような振る舞いを見せたのだった。付け加えておくと大柄な男性はフルーの父親とよく似た風貌と言えた。
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二人は触れ合うようになった。言葉のない交流だ。相手のすることを注意深く伺うこと。見つめ合うこと。ちょっとした体の接触。いや、それらの交流って犬や猫とその飼い主のそれと変わらないでしょ。むしろ飼い主からありがちな一方的な話しかけが無い分、交流度合いは薄いよね。アレクサのやり方に懐疑的な同僚から言われる。
でもそうだろうか。アレクサとフルーの関係を犬猫と飼い主の関係に喩えられて釈然としない、というより不愉快だった。フルーを単なる被害者=心許さない暗く可哀想な人とは思えない理由を明確に言えないもどかしさ。それにも通じる因子がここにはある。一言で言うなら尊敬だろうか。
フルーの序列認識がアレクサを下に置いているように、アレクサの序列認識もまたフルーを上に置いていることに自分自身で今気づいた。アレクサは自分を超える何かをフルーから感じ取っていた。
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フルーが泣きだした。以前のような悲しげで奇妙な遠吠えではない。それは何だか心地よい泣き声だった。
赤ちゃんの泣き声は人をイラつかせたり不安にさせたりする。人間が持つ本能が赤ちゃんを生存させるためにそう感じさせているそうだ。泣き声が気になって仕方ない。泣きやませるために立ち上がらずにはいられない。
対してフルーの泣き声は何とも言えない心地よさがあった。ずっと聴いてられるというやつだ。この泣き声は不快感や不安の表明とは違うトーンを持っていた。かと言って嬉し泣きほど感極まっている感じもない。もっと複雑な何かを語っているように思えた。
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アレクサによってフルーはフールーに名前が改められた。
最初の名前は夜通し泣いていた彼女の泣き声をヒントにアレクサがつけたものだ。正確に表現するなら、フゥルゥゥゥゥッ!といったような遠吠え感ある泣き声だった。その泣き声はもう久しく聞いていない。
彼女は今や日常的に泣く。犬や猫が日常のコミュニケーションをとるに鳴くのと同じ感覚で泣く。言葉にならない発声というだけなら鳴くなのだろうが、必ず涙も伴うので泣くが正解だろう。
不思議なことに、大の大人が泣いているにも関わらず目を背けたくなるような痛々しさがない。
その泣き声は詩的な響き、音楽的な響きを持つ。
悲しそうというよりも、敢えて言うなら恍惚感を伴ったような魅惑的な表情。しかしだからと言って淫靡な印象を与える訳ではない。
その涙が持つ穢れなき存在感。その涙は必ずしも切迫感を伴わない。緊張感を解いた時に不意に流れる涙のような意外性を伴う場合もある。
それらの要素が混じり合ってアレクサの泣く姿は魅力的に映った。
泣き声、表情、涙。時にはその組み合わせの妙によって茶目っ気さえ感じさせる。そんな楽しげな時の泣き声はフールーと聞こえる。
フルーとフールー。字面で言うと微妙な違いだが、実際の印象はだいぶ違う。今や次の段階に進んだ彼女に相応しい名前を冠したいと思いアレクサは改名することにした。
アレクサは研究者として手応えを感じながらフールーの泣き方の統計化に取り組んだ。
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フールーが泣く。アレクサも泣く。これでコミュニケーションが成り立つようになった。アレクサは理解を深めるほどその泣き方に奥深さを見出した。そしてこの意思伝達手段は言葉よりもシンプルで純粋だ。
言葉は便利すぎる。人間の思考さえ言葉を知ったあとは言語化されて思いを巡らせる手段として使われる。それは便利なことだが存在する言葉に思考を落とし込み単純化させているとも言える。
泣くことによるコミュニケーションはもっと曖昧で感情的だ。微妙な感情の発露がそのまま泣き声、そして流す涙としてアウトプットされ意味を持つ。
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それから数年経ち、フールーはセラピストと呼ばれるようになった。相変わらず人語は解さない。セラピーを受ける人はただ彼女に寄添って共に泣くだけ。泣き声で意思伝達できるようになる頃にはすっかり心が癒されている。
このセラピーはフールーが癒した元患者達が門下生となり広がりを見せている。彼女の研究者であるアレクサもそんな門下生の一人だ。
結局アレクサはフールーを再教育をすることはなかった。教えるよりも彼女から教えられることを選んだのだ。
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それは何だか心地よい泣き声だった。泣き声は言葉よりももっと複雑な何かを語っているように思えた。手にはハンカチ。水分補給も欠かせない。
(泣く女 ~優しい涙~ おしまい)