偽魔王軍暗躍
人類と魔族が暮らすアルテンシス大陸。
その南端に、魔王ネスター・ロニカ・イストリアの居城はある。ネスターは強大な力とカリスマで大陸の各地に住まう魔族を統率し、人類との共存を掲げて棲み分けのために苦心していた。
彼の功績は計り知れない。ネスターが魔王として君臨するようになってからというもの、人類と魔族の間で戦争は起きていないのだ。
それゆえに、宣戦布告にも等しい王国の進軍は彼にとって寝耳に水であった。ネスターは珍しく動揺した。王国が魔族に敵意を抱くような理由に思い当たる節がなかったからである。
「いかんな。仕事が手につかん」
数日後、山積みの書類を前に、ネスターは途方に暮れていた。
魔王の仕事とはすなわち頭脳労働である。
毎日送られてくるトラブルの報告書とにらめっこし、時には部下にまかせ、時には自ら陣頭指揮をとる。
ただでさえ気が滅入るような過重な責務。そこに戦争の危機という頭痛の種が降って湧いたことでネスターの心労は限界であった。
それでも仕事は待ってはくれない。
遅々として進まない作業と格闘しながら、執務室に引き籠る日々が続いていた。
そんな時、部屋の扉が突然開いた。
「ネスター様!新情報でございます!」
ワイゼンの言葉にネスターは飛び跳ねる。気がかりが解消されるかもしれないからか、出てくる言葉も心なしか弾んでいる。
「おお、待っていたぞ。早く報告を聞かせてくれ」
その言葉に対し、神妙な声色でワイゼンが答える。
「それが、どうやら魔王軍の名を使って人間どもの領地で悪行を繰り返す者たちがいるようなのです。人間どもはそれを真に受けて、こちらに矛先を向けたのでしょう。まだその偽物を見つけ出すことはできておりません。引き続き調査を……」
ワイゼンは言いかけてネスターの只ならぬ様子に息を呑んだ。
「薄々そうではないかと思ってはいたが、やはりか……」
ネスターはワナワナと拳を震わせ不意に立ち上がる。
眉根を吊り上げ、明確に怒りを露わにする。
「我が名を騙って悪事を働くとは風評被害もはなはだしい。そのせいで戦争が起きかけているのだぞ。ゆるせん!」
ネスターの怒気に呼応するように、室内の空気が震える。ネスターの体から膨大な魔力の波動が溢れ出し始めた。部屋のあらゆる構造物が共鳴するようにビリビリと激しく振動する。その余波は目の前にいるワイゼンを吹き飛ばしかねないほどの衝撃を放つ。ワイゼンは怯えながらも、大声で呼びかけた。
「ネ、ネスター様、落ち着いてくだされ!」
それでもネスターは溜まった鬱憤を晴らすように声を上げる。
「これが落ち着いていられるものか。我が一体どれだけ苦労して今の平和を維持していると思っている。それをあっさり台無しにされたのだぞ!」
切実な叫びが辺りにこだました。それをなだめるように、ワイゼンが声を張り上げる。
「いえ、まだでございます。防戦姿勢を貫いたことで、人間どもは様子見を続けています。これもひとえにネスター様が身を粉にして無用な争いを防いで来られた結果……!なればこそ、今まさにネスター様の明晰な采配が必要な時でございます。どうか冷静になってくださいませ!」
ワイゼンの必死の懇願が届いたのか、ネスターは我に返ったように椅子にがっくりと腰を落とす。瞬間、建物自体が崩壊するかと思われるほどだった揺れがピタリと収まる。机に肘をつき、額に手を当てしばらく無言になってしまう。
「ネスター様?」
ワイゼンが近づいて心配そうに声をかけると、ネスターは恥ずかし気に小さな声で呟いた。
「いくら憤慨したところで詮無いことであったな。すまない、ワイゼン。……少しばかり気疲れしていたんだ、取り乱して悪かった」
ワイゼンは息を吐くように顎を開き、安堵した。
「めっそうもございません。ネスター様がお心をわずらわせるのも無理からぬ話です。罰せられるべきは偽物の魔王軍にほかなりません。調査を再開する準備は整ってございます。ご命令くだされば、すぐにでも見つけ出してごらんにいれますが。いかがいたしましょうか?」
ややあって落ち着きを取り戻したのか、ネスターは咳払いしつつ口を開いた。
「そうだな。もちろんその偽物を放置はできん。これ以上我々の評判が下がって、戦いが激化する前に手を打たねばならない」
ネスターはゆっくりと起き上がると、腕組みをして室内をグルグルと歩き回り始めた。
「早急に犯人を見つけて捕まえるべきだが、場所が悪いな。今我が軍の実働部隊を派遣すれば、いらぬ誤解を与えかねん。魔族だと悟られずに街へ潜入し、秘密裏に解決する必要がある」
ネスターは独り言のように考えを羅列していく。
「となれば、最も確実な方法は」
ネスターは自然な動作で室内の広い空間の前に右手を差し出した。両の目を閉じ、ぶつぶつとなにごとか呟き始める。すると、ネスターの全身から青白い光が放たれ、彼の目の前に収束していく。
その様子を見て、ワイゼンが慌てふためく。
「ネスター様、なにを……。まさか、『分霊の秘術』を!?いけません、おやめください!」
ワイゼンはなにかに気づき、急いで止めようとしたがネスターは気にも留めなかった。
「はあっ!」
ネスターが叫ぶや否や、一際大きな輝きが室内を満たす。
光が収まるとそこには、ネスターとは別の人物が現れていた。一糸まとわぬ姿のそれはネスターと瓜二つの容姿をしていたが、頭に角はついていない。人間の男のような姿である。ネスターより背格好は一回り小さく、年もより若く見える。十代後半と言ったところだろうか。
それはまさに超常としか言えない現象であった。
その光景を形容するなら、ネスターが己に似た姿の分身を作り出したかのように見える。
しかし、出現した男はただの分身ではなかった。
男は目を開けると、身体の感覚を確かめるように四肢を動かし始める。
「成功だな。力は1割くらいと言ったところか。まあ、さすがにこれが限界だろう」
男はそう言って、目の前に立っているネスターに向けて目配せする。するとネスターは無言のまま部屋の隅の衣装棚へ向かい、適当なローブを引っ張り出してきて男に手渡した。男がそれを羽織ると、ネスターはそのまま元居た席に戻り、仕事を再開した。
一部始終を目撃していたワイゼンはしばらく茫然としていたが、気を取り直すとネスターではなくぶかぶかのローブを着た男の方に駆け寄って縋りつく。
そう、ワイゼンはネスターがなにをしたかをよく理解していた。
「ネスター様、なんてことを。『分霊の秘術』はお控えになるよう何度も申し上げましたのに……。これで分身は5つ目。いくらネスター様がお強いとはいえ、これほど魂を分けてしまっては命に関わります!」
分霊の秘術とはネスターだけが使える特別な魔術だ。魂を分割することで、本物と変わらない分身を作り出す秘術。この術で作った分身は、分身であると同時に本体でもある。
先ほどネスターによって作り出された人間態の分身は、本物のネスターと全く変わらない調子でワイゼンに語り掛ける。
「お前は心配性だな。これくらいたいしたことはないさ」
分身とは言え、魂を分けたそれは紛れもなくネスター本人であった。
そして、人間態のネスターは両手を広げ、高らかに宣言した。
「これで準備は整った。よく聞け、ワイゼン。偽物の魔王軍とやらは我が直々に退治しに行く。これは決定事項である」
ワイゼンは顎の骨が取れそうになるほど仰天したが、うろたえながらもネスターを思いとどまらせようと追及した。
「お待ちになってください!ネスター様が旅に出てしまったら、一体誰が魔王軍を統率するのですか?」
「そこにいるもう一人の我に任せておけばよい」
執務室の真ん中で作業中のネスターが振り向き、軽く首肯した。
「う……、しかしわざわざネスター様がそのような弱々しいお姿で出向く必要はないでしょう。魔王軍の優秀な戦士たちに解決させればよいのでは?」
ワイゼンはネスターを止める理由を絞り出そうとする。しかし、明らかに語気が弱い。ネスターはそこをすかさず畳みかける。
「この事件は我の沽券に関わる問題でもある。ならば、自ら足を運んで解決するのが筋というものだ。それに、さっきも言ったが人里に行って犯人を探し出すのに異形ばかりの魔王軍を使うのは悪手。こうして人間に化けられる我が行くのが道理であろう」
ワイゼンは諦めたように首を垂れる。
「激情に任せたご決断でないことは分かりました。それに、ためらいなく秘術を使われるほどの覚悟を見せられては、これ以上お止めするのも無礼というものです」
それでもワイゼンは空っぽの眼窩に憂いの色を覗かせて、引き留めるように頼み込む。
「ですが、分霊の秘術は諸刃の剣。分割された不完全な魂では力が制限され、死の危険が増します。万が一、分身が命を落とせば魂の一部が失われ、ネスター様の存在そのものが揺らいでしまう。そのような弱点を抱えて正体不明の敵に挑むなど危険すぎます。せめて何人か護衛をつけるべきではないでしょうか?」
ワイゼンの気遣いを受け、ネスターは顎の下に手をあてがって少し考える。
「そうだな。確かにこの身体では少々心許ないかもしれない。人間に化けられる配下を探して連れてきてくれるか?ある程度戦えることは前提だ。あと、できれば早く出立したい。候補は少なくて構わないから、なるべく急ぎで頼む」
ワイゼンはホッとしつつ、頭を下げた。
「お任せください。すぐに用意いたします」
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