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ラズーン 6  作者: segakiyui
9.人として
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8

 泣きじゃくるユーノは気づいていなかっただろう。だが、顔を上げたアシャとは視線があった気がした。そのまま戸口から廊下へ、駆けるイリオールの手には、月光を浴びて光る短剣が握られている。

「…」

 無言で走り続けるイリオールの頭には、今しがた聞いたユーノの叫び声が谺している。

『まだあなたはアシャじゃないか! 「魔」じゃなくて、アシャ・ラズーンじゃないか! 「魔」に抗しもしないで、何がアシャ・ラズーン、ラズーンの正当後継者だ!!』

 その声はイリオールの胸にこう響いた。

『まだあなたはイリオールじゃないか! 「魔」じゃなくて、まだあなたはイリオールじゃないか!』

 誇りを取り返せ。

 心の底に押し潰されていたものが熱く応じる。

 お前は虫けらのような自分が哀しくて、ギヌアの元から離れたのではないのか。夜伽の場に繰り返し侍ってきたギヌアでさえ、自分を物のように扱うのが辛くて、そのギヌアが執着しているユーノ・セレディスと言う人間を見たくてここまでやってきたのではなかったか。

 なのに、お前はもう一度、自ら望んで虫けらに戻る気か。誇りも何もない、人の欲望に弄ばれる姿に自ら堕ちていくつもりなのか。

『あっ……あなたを切りたくないんだから! な…なのに…っ…どうして……私に切れって言うんだ!!』

(そうだ、ぼくも嫌だ。あなたを切りたくなんかない。なのに、どうして、ぼくにあなたを切れって言うんだ)

 血が泡立つような、毛が逆立つような、誇りと怒りが湧き上がってくる。

『嫌だ! まだ、諦めるのは嫌だ!』

 しがみつかれたアシャがユーノを抱き返す、見上げた顔がイリオールを凝視した気がした。

 諦めるな、逃げるな、お前の真の願いは何だ。ユーノを切ることか。違うはずだ。ならば目を逸らすな、ごまかすな。

 ああ、そうだとも。本当にするべきこと、しなくてはいけないことから、イリオールはどれほど遠回りをしてきたのだろう。

 イリオールはジュナの休んでいる部屋の前まで来て、少し息を整えた。

 戸を開ける。自堕落な半裸姿で寝そべっていたジュナはぎくりとしたように戸口を振り返り、忌々しそうな表情になった。

「なんだ、お前か。ここへはあまり来るなって言ってる……」

 途中でことばを切り、乱れた髪や微かに息を切らせている様子に気づいたように口調を変える。

「おい……失敗したのか?!」

 返り血がないところから判断したのだろう、部屋の中ほどまで歩いて来るイリオールに歩み寄り、両肩をつかんで覗き込む。深緑の鮮やかな瞳がどす黒い怒りと殺気を満たして睨みつけた。

「答えろイリオール!」

「…触るな」

「何?」

「汚い手で…触るな」

「な…に?」

 ジュナは呆けた。耳がおかしくなったのかと訝るように、中途半端に浮かせた手とイリオールの強張った顔を見比べていたが、やがて下卑た笑みで再びイリオールの両肩に手を置き、体重をかける。

「おい…何を不貞腐れてる?」

「…聞こえなかったのか、ジュナ・グラティアス」

「おいおい、呼び捨てとは穏やかじゃねえなあ」

 笑みを一瞬強張らせ、声に恫喝を加える。

「その俺に悦んでいたのはどこのどいつだあ…?」

「…ぼくさ……そして、今ここにいるのも…ぼくだ」

「ぐっ?!」

 どすっと鈍い音とともに突っ込んだイリオールに、ジュナは呻いてよろめいた。信じられないと言う表情で2、3歩後退る。逃すまいと、イリオールは歩を進める。

「イ…リオ……ル…」

「…お前なんかに……あの人を傷つけさせやしない…」

 粘り気のある雫が音を立てて床に、イリオールの脚に零れ散る。呻いたジュナの唇からも、同様の紅がぼたぼたと首や背中に落ちてきて生温く広がる。じわじわ後退るジュナ、詰め寄るイリオール、2人の体がベッドに当たってジュナが座り込み、イリオールがのしかかる。

「ぐう…」

 呻いたジュナの手が枕元を探った。枕の下から取り出した短剣を、傷ついた男とはとても思えぬ素早さで閃かせ、次の瞬間イリオールの首を抉る。


「ひゅっ!」

 悲鳴と呼吸の漏れる音が同時に空中に響き、鮮血がジュナの全身を染めた。

 一瞬に絶命したイリオールの腕から力が抜ける。少年の喉笛を掻き切った短剣を放り出し、ジュナはのろのろとイリオールの体を押しのけた。物と化した少年がぼとりと重い音を立てて床に落ちる。

 腹に突き刺さった剣を押さえてジュナはよろよろ立ち上がった。目に血が入ったのか、視界が赤く滲んでいる。加熱した頭の中で、こんなことがあるはずはない、と呟き続けていた。

 イリオールは完全に支配下にあったはずだ。イリオールはあの憎らしいユーノを殺してくれるはずだ。アシャはリディノへの手回しで死ぬはずだ。そしてジュナの未来は『運命リマイン』の覚えめでたく輝いていたはずだ。

「う…」

 痛みに砕けそうな腰に何とか上半身を乗せる。揺れる体は自分のものではないようだ。イリオールが自分を襲う……どこに誤算があったのか。一歩、また一歩と扉に向かって歩いていくジュナの視界、ゆっくりと戸が開いた。ユーノ・セレディスだ。だが大丈夫だ、小娘1人ぐらい、この場の状況を言いくるめれば…。

「あ…」

 傷の痛みに耐えつつ忙しく頭を働かせていたジュナは、続いて現れたアシャに呆気にとられた。傷一つない、それどころか、前より一層艶やかで華やかな姿ではないか。そんな馬鹿な。そんなことはあるはずがない。そんなことが。

「そんなことはあるはずがない、とはご挨拶だな」

 アシャの冷ややかな声に、口に出していたと気がついた。

「生憎だが生きている。お前の企みに乗ってやれなくて悪かったが」

「し…って…」

「ああ知っていた。今、それさえも悔やんでいるよ、ジュナ・グラティアス」

 静かに足を進めたユーノが、転がったイリオールの虚ろな目を優しく閉ざしてやりながら応じた。

「もっと早く…手を打つべきだった」

「違う…」

 そうだ違う、そう言うことじゃない、この状況はもっと別の。

 続けようとしたことばは、再び遮られる。

「違う? 冗談を仰らないで頂きたい」

 深草色の衣に身を包み、深い青の瞳を滾らせたジノが現れる。その右手に構えられた剣に目を惹きつけられた。

 それはリディノを屠った剣、己の栄光を刻みつけたはずの剣……。

「覚えておいでだろう? 姫様の剣だ。今こそ鞘に戻そう、ジュナ・グラティアスと言う肉鞘にな」

 待ってくれ、とジュナは叫ぼうとした。きっとこれは何かの間違いだ、少し待ってくれれば、確かな説明ができる、ジュナのせいではないと、リディノ自身の愚かさのせいだと。

 だが、剣の先は容赦なく、よろめいたジュナの胸に吸い込まれた。

「あ…あ…あ…」

 か細く頼りない声を上げて、ジュナ・グラティアスと呼ばれた視察官オペは、いつか自分が葬った小さな姿の沈む、昏い澱みの中へ引き摺り込まれて行った。


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