5
(アシャが私を呼んでいる)
廊下を歩きながら、ユーノは体のあちこちが引き締まり固まっていくような緊張感を覚えていた。 広間に籠っていた熱気もとうに体から抜け、火照っていた頬も熱を含んでいた髪も、廊下の冷えた外気に触れて見る見る冷たくなっていく。
(何のために)
心の中には問いが繰り返し浮かんでいた。足を踏み出して、今更のように腰に吊っている剣が足に触れ、一つの考えが頭を過る。
(もし、アシャが『魔』と化していたら)
他の誰もアシャの変化に気づいていない。恐らくはセシ公さえも知らない。
正体を知っているのは、今、ユーノだけだ。もし『魔』となったアシャが狙うのなら、これほどの好機はない。
「……」
唇を噛んで、剣を片手で押さえた。
もし、アシャが『魔』と化していたら。東の原での金の塊に、レスファートの笑い顔、イルファの得意げな顔、レアナの優しい瞳などが重なる。もし、アシャが『魔』と化していたら。正体を知っているのは自分一人だ。もし、アシャが『魔』と化していたら。紫の瞳、穏やかな笑み、温かな声。もし、アシャが『魔』と化していたら………ユーノは『本当に』アシャを切れるだろうか。
煩悶に耐えきれず、立ち止まった。
風が渡る。広間ではまだ人々の騒ぐ声が響いていた。賑やかさが逆に怯えを浮き彫りにしている。周囲の闇を見まいと背を向け炎を囲むように、人々は『運命』の影に怯え切っている。
「……」
再びユーノは歩き出した。前方、アシャの私室に明かりが灯っている。
逃げるな、と心の奥で声がした。『星』は精一杯生きよと命じた。ならば、逃げるな。何がお前を待ち構えていようと、それは他の誰のものでもない、お前の運命、お前だけに与えられた、たった一つの運命だ。
(逃げるな、ユーノ)
息を吸い、止め、吐く。
目の前に扉がある。ユーノはゆっくりとそれを開いた。暗い廊下に部屋の中の明るさが眩く零れ、わずかに目を細める。剣にかけた右手は離さず、目を瞬いて前方を見つめる。ベッドに半身起していた相手が振り返り、自分の名前を呼ぶまで、ユーノは身動きできなかった。
「ユーノ…」
圧倒的なまでの美しさだった。長い間臥せっていたとはとても思えぬ鮮やかな黄金の髪、白い額の下には深い紫青の瞳、紅の唇が少しためらう。
「………」
こちらを見つめていた瞳が少し動いて、ユーノの右手を見た。長い睫毛が伏せられる。低い声が懇願するような調子を帯びて吐き出された。
「戸を閉めて、こちらへ来てくれ。話したいことがある……不安なら、剣を抜いていろ」
「…」
ユーノは戸を閉めた。黙ったまま数歩、アシャに近寄る。胸の中、アシャの美貌に酔わない部分は長い旅の恩寵か。その醒めたままの部分がポツリと呟いた。
(人間じゃない)
あれほど長く飲まず食わずで眠り続けて、この美しさはどうだ。毒酒に命を攫われかけながら、この生気は何だ。淡く、金の光がアシャの全身を包んでいる。それがアシャをより一層妖しく、人の心を魅きつける存在としている。
その引力は、人間の持つそれと異なっていた。何か、自分でも気づかない心の奥底の熱い感情、それがアシャの眼や唇に引きずり出されるような気がする。理性も知性も何もかもを壊し尽くして、己の勢力範囲の中へ誘い込んでいくとてつもない吸引力。
アシャの美貌を知り尽くしているはずのユーノでさえこうなのだから、なまじの人間ではとても抵抗しきれないはずだ。一にも二にもなくアシャの前に膝を突き、ほんの一瞬の笑みのためになんでもすると誓ってしまいそうだ。
その美はどこかギヌアの持つ支配力と似ていた。確かにあれほど酷ではない、残忍でもない。だが、目に見えぬ触手が心に絡みつき、縛り上げ、その者以外目に入らなくさせる凄まじい影響力は、ひょっとしたらアシャの方が上かも知れない。
「もう少し側へ」
「いや…ここでいい」
アシャの誘いにユーノは喉が絡んだ声で応じた。醒めた部分に必死にしがみつく。万が一にも、これが『魔』の操るアシャならば、ユーノが崩れるのが世界の崩壊に繋がることは、目に見えている。
今にしてユーノは『太皇』がアシャを第一正統後継者に選びながら、他の候補も選び続けたのか、わかる気がした。
確かに、平和な世なら、アシャと言う類稀なこの長は、この上なく強大な『太皇』となるだろう。頭脳、才能、美貌、支配力、どれを取っても世の人々の頂点を極めるにふさわしく、人々はアシャの元、最後の一滴まで命を振り絞って従うだろう。
だが、戦乱のこの世、特にギヌアと言うアシャとは永久に相容れないもう1人の長を生み出している世界、2人がぶつかるのは必死、その時にアシャが完全にラズーンを継いでいればどうなるか。
世界は相反する勢力に真二つに裂かれ、図らずも『星』の来る以前の、東西の神々の争いを再現することになってしまう。配下は強力な長の元、最後の一兵に到るまで消耗し尽くされ、後には草木一本、小鳥一羽も居ない、荒廃と死の世界になるに違いない。
いわば、アシャと言う存在は、この世界にとって諸刃の剣なのだ。永遠の平和と永遠の抗争を、同時に実現してしまう。
「……昔」
ユーノがそれ以上近づこうとしないのに、アシャは小さく吐息して、話し出した。
「人の命は『氷の双宮』の中で育まれていた。『氷の双宮』の生命の空間の中では、3つの存在が予測されていた」
今更何を、と不審に思ったユーノは、アシャのことばにぞくりとした。
(3つ?)
「1つは人…1つは後に『運命』と呼ばれる人の変異亜種………そして、もう1つは、その双方の特徴を受け継ぐ存在」
アシャは物憂げにことばを継いだ。
「が、始めの2つはともかく、最後の1つ、人と『運命』から産まれる生命体というのは机上の空論に過ぎない。人は男女が交わって子を産み、『運命』は『氷の双宮』から産まれる。2種の生殖には共通点はない……少なくとも『氷の双宮』の外では、な」
アシャが何を話し出したのか、ユーノにはまだわからない。
「…ある日、きっと何十万、何百万に1回のミスが起こったんだろう……その、起こらないはずのことが起きた。普通なら生命体にならない可能性が高く、もし万が一形を取っても、突然変異の不適応と言うことで自動処理されたか、『運命』亜種として辺境に放り出されていたか………だが『俺』は生命体の形を取り、『運命』として辺境に放り出されることもなく、ただ恐れを抱いた『太皇』が能力を封印し、『氷の双宮』に留め置くことで、命を永らえた」
ユーノはかろうじて驚きを出さずに済んだ。
アシャはこう言っている、自分は人と『運命』が混じったものだ、と。
(アシャが)
それでは、今までの戦いは、アシャにとって敵となる恐怖の対象を葬るものではなく、己と同じものを抱えた、ある意味仲間を屠る戦いでもあったのか。
アシャはどこか遠くを眺め、それからゆっくりとユーノに視線を戻した。
「『氷の双宮』の中で、昔からの古文書を全て読んだ。初めは、なぜ自分に封印が課せられているのか、わからなかった。だが、色々なものを傷つけて、自分がどうして生まれて来たのか、この世界の中でどう言う意味を持っているのかに気づいて、自らを鍛えるのに務めた。『氷のアシャ』の名も人々の評価も全ては他人事だった。『俺』の中の不安定な秤は、いつかきっと壊れるだろう……その時にどこまで自分を制し切れるか、わからなかった」