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「聞いておきたいんだけど」
「え?」
アシャのスープを準備に、自ら調理場にきていたレアナは振り返って、背後にあったアリオの挑戦的な黒い瞳と向き合った。
「あなたがどこの誰で、どこの姫なのか、そんなことはどうでも良いの」
「……」
「私はあなたがどういうつもりでアシャの側にいるのか、それを知りたいのよ」
「どういうつもり…って」
レアナは困惑して、手にしたスープの皿に視線を落とした。
「アシャは私達にとって素晴らしい付き人…お友達でしたし、困っている人を助けるのは当然のことだと思いますけど…」
「付き人…それだけ?」
「……どういう意味ですの?」
「どういう意味って……あなたがアシャをどう想っているか、ということよ」
「先ほどもお答えしました。付き人であり、良き友人であった、と」
怒りのためか、それとも違う何かのせいか、レアナは頬が赤らむのを感じた。レアナの返答から、アリオはレアナがアシャに対して想いを寄せているのだと邪推したようだ。きっとした顔になって、いよいよ目を光らせ、レアナに詰め寄る。
「本当にそれだけ、なの?」
「だから、どういう意味ですかとお聞きしています」
「……アシャは綺麗な男よね。女なら一度はあの男を手にしたいと想っても不思議じゃないわ。けどね、物には釣り合いってものがあるわ。あなたじゃ役不足よ」
「……」
「それとも、付き人だったそうだから、一度ぐらいは命じて……っ!」
バシャッ、とレアナの手にしていた皿の中身がアリオにかかった。
「何をするのよ!」
「良い加減になさい」
上品で柔らかな物腰と一転して、レアナは厳しい口調で応じた。
「これ以上の侮辱は私の国、父母をも辱めること、セレド第一皇女として聞き置くことはできません」
冷ややかに続ける。
「あなたと同様、私もあなたがどこの姫で、どのような地位におられるのかは存じ上げません。公式の場でならご挨拶も拒みませんが、今はどのような礼も尽くす気はございません。ご機嫌よう」
言い捨てて、別の皿にスープを入れ、平然とその場を去っていく。アリオは完全に呑まれて立ち竦んでいた様子だったが、やがて背後で激しい物音が響いた。怒りの矛先を物言わぬ皿に向けたのだろう。
「何て失礼な!」
詰る声を背中に、レアナは厨房を離れた。
胸の中に自分でもよくわからない、もやもやとした感情が渦巻いている。急ぎ足にアシャの部屋に向かいながら、耳の奥にアリオの声が蘇る。
『本当にそれだけ、なの?』
ことばが何度も繰り返して心の水面に落ちては浮かび、浮かび上がってはまた落ちて、新しい波紋を広げていく。アリオの問いに、これまで思っても見なかった疑問が形を成す。
(アシャは私の……何……?)
妹ユーノの付き人。腕の良い楽師。ラズーンの煌びやかな王子。旅においては力強い導き手であり、レアナは幾度もアシャに救われてきた。整った容姿に鋭い頭、感受性の強い人柄は憂い顔さえ美しく見せる。
(アシャは私の……)
レアナの心が悩ましく揺れた。
「ユーノ様が戻られるぞ!」
「ユーノ様が御帰還される!」
ばたばたと慌ただしく女官達が走る。風呂の用意。宴の用意。寝室の用意。その他、凱旋した勇者を迎える様々な用意に。
ユーノの生還、それも万に一つの成功もないと思われた東の戦での勝利は、沈みきっていたミダスの屋敷に久しぶりの活気を与えた。男も女も、ユーノを知る者は皆忙しく走りながら、ひょっとしたら、このままラズーンが盛り返すのではないかと言う希望を持ち始めていた。
確かに戦況は良くない。世間の噂も芳しくない。けれど、あの東の戦で勝利をもぎ取ったユーノ、それもたった17、8の少女がやり遂げて帰ってくるのだ。このままむざむざ負けるはずはない、そうだ、きっと。
奇しくも、シートスはユーノに掛けられる期待を見事に見抜いていた、と言えた。
だが。
「……」
走り回り喜びに立ち騒ぐ人々の中で1人、イリオールは物思いに沈んでそれらの光景を眺めた。
耳にはジュナの命令が残っている。過去をユーノに知られたくないなら、ユーノを殺せ。帰還の宴は絶好の機会、東の戦で疲れ果てて帰ってくるユーノのこと、多少は気も緩もう。この先、あの少女が生きていることは『運命』の勝機を減らすこと、遠からず強大な敵となって立ち塞がってくるのは目に見えている。
いつものように気怠い床で、イリオールは何度も何度も誓わせられた。狂うような泥沼に落ちて行こうとする度、引き止められてはそれを誓い、何もかも振り捨ててその闇へ飛び込んだ、今度こそ、今度こそ死ねる、そう思いながら。
けれど目覚めはいつもやってきて、イリオールの心を苦い酒で満たしていく、またユーノを裏切ったな、と。
違うと言い切れぬ自分が辛かった。どこかでジュナに抱かれるのを待っている自分が切なかった。
「…っ」
入り口の方で華やかな声が弾けた。ユーノが戻ったらしい。
イリオールは搔き合せた長衣の内懐にそっと手を入れた。ひやりとする細長い物が革に包まれている。手触りを確かめて、イリオールはゆっくりその場を離れた。