9
その夜。
ミネルバを取り敢えず『狩人の山』(オムニド)に帰したユーノは、ふと夜半に目覚めた。
何かの気配が夜闇に動いている。
目を開ける。じっと耳を澄ませる。
隣では、疲れ切ったジノがすうすうと寝息を立てているだけ、あたりは静まり返っている。
だが、その気配は確かに天幕の外にあった。そうして、微かな異臭、肉が焼けるような、きな臭いような。
「………」
ユーノは手元に剣を引きつけたまま、なおもしばらく待った。が、気配の目当ては天幕にあるのではないらしく、いつまでたっても攻撃を仕掛けては来ない。
ユーノは剣を腰に帯び、ジノを起こさないようにそっと寝床を忍び出た。出入り口まで進み、気配の動きを伺う。
気配はこちらには全く興味がないようだ。
「…っ」
垂れ幕を掻き分けてするりと外へ出ようとしたユーノは、思いもかけぬ光景に棒立ちになった。
『泥土』が燃えている。
いや、『泥土』が、と言うよりは戦場が、と言った方がいい。胸をむかつかせる臭いは一層きつくなって鼻腔に満ち、息をするのさえ躊躇われるような熱気のこもったどろどろした大気、火の海となった戦場のほぼ中央に炎が踊っている。
敢えて踊っていると表現しなくてはならないほど、それは妙な動きだった。燃え上がる、のではない。かと言って燃え広がっている、と言うのでもない。強いて言えば、炎の塊が何の関連性も計画性ものなく、あちらへふわり、こちらへふわりと舞っている。
ひょっとすると、それは『炎』と呼んではいけないのかも知れない。確かに金色の光の塊なのだが、炎に見られる様々な色がない。立体感もない。何と言うか、ぼうっとした金色の塊が、戦場を、落し物でも探すように動いている。降りた先々で火を放ち、死者もろとも大地を焼いている。野辺送りにしてはあまりにも無神経な火の放ち方、ある者の手を焼いたかと思うと、こちらの者の髪を焼き、手前の者の足先を掠めたかと思うと、向こう側に倒れている者の腹だけ爛れさせていく。
見ているうちに、ユーノは次第に苛立たしくなって来た。
ここに倒れている者は敵味方魔性の者も居るとは言え、各々死力を尽くして戦った武人、それをおもちゃにするとはどう言うことか。
剣を抜き放つ。都合によっては、一戦交えるつもりで、
「何者だ」
声を掛けた。
ふっと炎は動きを止めた。人で言えば、訝しげにこちらを振り返る……と、突然『それ』は空を飛んだ。探し物を見つけたように、見る見るユーノに迫る。
(狙いは私か)
舌打ちして、こんなことならジノもミネルバと一緒に帰せば良かったと臍を噛みながら、ユーノは剣を構え直した。得体の知れない者だけに体力の落ちている今やり合うと言うのはありがたくなかったが、引っかかってしまったものは仕方がない。覚悟を決めて、柄を握り締める。
だが、金色の塊はユーノに襲いかかりはしなかった。軽々と炎の戦場を飛び越え、ユーノの前に降り立ち、そのままじっとしている。僅かに揺れる、だが風にではない。まるでユーノに会ったことが決まり悪そうな、そのくせ心配で堪らなくて側に居たがるような、どこか甘い気配をたたえてユーノの前で大人しくしている。
「何者だ?」
ユーノは再度問うた。
相手は答えない。
「…なぜ、あんなことをした……皆、名のある武人、悪戯に火を放って良い理由はない」
弁解するように、金色の塊はユーノの側に擦り寄ろうとするように揺れた。けれどユーノが、なおも剣を厳しく構え続けるのに固まる。
やがてためらうような、あたりの大気を震わせる声が響いた。
オマエガ、シンパイダッタ。
「…え?」
ダカラ、カラダヲ、ステテキタ。
その声、その気配。
何かがユーノの感覚を開いた。
「…あ…」
まさか。
でも確かにこれは。
でも、まさか。
「…ア…シャ……?」
ソウダ。
声は嬉しそうに応じた。
ケガハナイカ……キズハダイジョウブカ……ゆーの…。
『怪我はないか。傷は大丈夫か、ユーノ』
オマエハイツモ、ムチャバカリスル。
『お前はいつも、無茶ばかりする』
アシャの生身の声が重なり、胸を詰まらせた。
アシャは魔性。
ユカルの声が記憶の中から蘇る。
(こういう……ことか…)
呆然とするユーノを説得できたと思ったらしい金色の塊は、いそいそと近づいてきた。
イッショニ、カエロウ。サア、ゆーの、イッショニ…。
我に返ったユーノの鼻を異臭が突く。振り返る目に燃えていく戦士達が映る。
燃えていってしまう、シャイラの誇りも、グードスの潔さも。ただ一つの形見なしに。ユーノがその骸を踏みつけた、その謝罪もさせずに。
アシャの声を聞いた時と別の熱いものが、胸に溢れた。
ゆーの…。
「アシャなら…一層…」
振り返る。睨みつける。
「なぜ、あんなことをした?」
剣を握り直す。金の塊に真っ向から向け直す。
「弔いもさせず、誇りも称えず!」
ゆーの…。
「武人のアシャはいなくなったのか。死者への礼を忘れたのか!」
オマエヲ、サガシテタ…。
「仮にもラズーンのために死んでいった者達を!」
オマエヲ…サガシテタンダ…。
「あまつさえ、混乱の極にあるラズーンを捨てて、何をしに来た!」
ゆーの……ゆーの……。
声はおろおろと狼狽えた。
オレハ……オマエガシンパイダッタ……オマエヲサガシタカッタ……オマエヲマモリタカッタ……。
(アシャ…!)
何よりも聴きたかったことばが、ユーノの胸にこの上もなく切なく苦く広がった。
アシャは魔性……ユカルが繰り返す。
魔性とは何だ。己の想いに囚われて、他に何も見えなくなることだ。それを貫いたリディノはどうなった。『運命』の手先となり、その命を散らしたのではなかったか。
(アシャ……アシャ!)
愛しい、大切な人、この上なく大切な……人。
息を吸う。目を閉じ、きっぱりと言い放つ。
「お前は……アシャじゃない」
ゆーの…!
悲鳴じみた哀しい声に、心が引き千切られていく。
案じてくれた、探してくれた、そのために、人の形まで捨ててくれた、けれども。
「お前は、アシャの名前を持った、ただの『魔物』だ」
ゆーの………。
「『魔物』ならば……切る」
力を込めた指先と動かぬ剣に、ユーノが本気だと知ったのだろう、金の塊は弱々しく揺らめいた。ためらい、なおもユーノのことばを待っていたが、やがて淡く消え入りそうな声で告げた。
らずーんニ……イル……カエッテキテホシイ…。
ユーノは唇を強く結んだ。
……。
答えがないのに、諦めたように空へ舞い上がる。そのまますうっと西の空へ向かう金の塊を、ユーノは身じろぎもせず見送った。