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セアラが、姉がカザド兵と1人で戦っているのを知ったのは13歳頃だ。夜に寝ぼけて母のベッドに潜り込むつもりが、よほど眠気が強かったのだろう、誤ってユーノのベッドに潜り込んだ。すぐに違和感に起き上がり、あたりを見回し気づいた、そこが姉の部屋であって、しかも姉は居ないと。
理由がわからなかった。真夜中、事もあろうにセレドの皇女が皇宮を抜け出さなくてはならない、どんな理由があるのか。そうして訝り戸惑うセアラの前に、いきなりユーノは窓から飛び込んできた。驚くセアラ、驚くユーノ、そのまま数瞬、時が歩みを止める、セアラが血の臭いに気づくまで。
「姉さま?」震え声の問いかけにユーノの眼が一瞬かぎろい、次にはこの上なく優しい微笑を浮かべて応じた。「どうしたの、セアラ? 眠れないのかい?」
答える術なく立ち竦むセアラに、ちょっと待っててね、とユーノは隣室へ姿を消した。ほどなく戻ってきたユーノの右腕には白い布、重ねた服でも隠せぬ妖しくも猛々しい血の香り……それでも、ユーノはセアラに笑いかけたのだ、「一緒に眠るかい?」と。
ううん、とセアラは答えた。答えて慌てて身を翻し、姉の居室を飛び出した。ここに居てはならない。これ以上姉に話をさせてはならない。これより先は、セアラが関わってはならない。
翌日、辺境でカザド兵が6、7人、何者かに殺されていたと言う噂を聞き、セアラは悟った。それは、あの夜の姉と関わりがあることなのだ、と。
(あの時の姉さまの眼は忘れない)
部屋を飛び出していくセアラを、ユーノは引き止めることなく見送っていた。最後に思わず振り返った視界には、不思議に哀しい、不思議に優しい、諦めと深い思いやりが入り混じったようなユーノの眼が、怯えて走り去る妹をただじっと見詰める姿があった。
次の日も、そしてその次の日も、ユーノの態度はいつもと全く変わらなかった。
日々が静かに過ぎていく。
けれどもセアラの眼には、それまで見えなかった幾つもの光景が飛び込むようになっていた。
朝食の時にどことなく青く見える顔、身動きするたびに耐えかねるようにそっと噛まれる下唇、広間で談笑する輪に入りながらも、倒れるのを支えでもするように柱に寄り添う姿、居室に漂う微かな血の臭い、そして、時々寝床を汚している赤黒い染み。
何度も父母に訴えようとした。レアナに助けて欲しいと懇願しようとした。
だが、その度ごとにユーノの巧みな話術に遮られ、優しく厳しい視線に留められる。
駄目だよセアラ、と語る声が胸の奥に届いてくる。ありがとう、けれどもそれは、駄目だ。
(姉さま、ユーノ姉さま、一体どんな想いで夜を迎えていらっしゃったの…?)
夜。たった1人で、またもや剣に体を晒さなくてはならない夜。
セアラはシィグト1人を失うと思っただけで、これほど不安なのに。
(勇気を与えてね、ユーノ姉さま、お帰りになるまでセレドを守る勇気を)
シィグトの部屋の扉を開け放つ。中に居た数人の親衛隊が、驚いたように振り返る。
「何を…しているのです」
「は…いや、シィグトの見舞いを」
「医術師は居ないのですか?」
「は、はい、ここに」
「そう」
セアラは静かに親衛隊の顔を見回した。にっこりと満面で、けれど皮肉を込めて微笑んで見せる。
「聞きたいのですが」
「何でしょう、セアラ様」
「今何者かが皇宮に攻め入った時、お父様達を守ってくれるのは誰なのですか?」
「え…?」
「…あ…」
ぽかんとしていた隊士達の間に動揺が走る。互いに顔を見合わせ、うろたえたように1人2人と部屋を出る。
「待ちなさい」
「は」
「ゼラン無き後、誰が隊長を務めていますか」
「え、いや、その」
「決めてもいない、と言うわけですね」
「は、はい」
これは酷すぎる。子どもの親衛隊ごっこの方がまだましなのではないか。
こぼれそうになった溜息を噛み殺して続ける。
「ならば、私が隊長を務めます」
「は?」
怠慢さを指摘され、消え入りそうな声で答えていた隊士が呆気にとられた表情になる。
「あ、あの」
「何か?」
「セアラ様が、ですか?」
「不服ですか」
「不服というより……セアラ様は姫君であらせますし…」
女子どもに務まる役職ではないと苦笑いしかけた相手に、冷ややかに言い捨てる。
「女子どもでも、負傷した人間を見舞うしか才のない男よりはましでしょう」
「っ」「セアラ様っ!」
さすがに聞き捨てならないと血気に逸った若い男が抗議しようとする。その自分より10歳以上歳上の人間を、セアラは不敵とも言える傲慢さで押さえつけた。
「お黙りなさい!」
息を呑む相手に厳しく続ける。
「私が不服なら辺境の守りについて答えなさい。守りの配置は? 役目の分担は? 北西のカザドの動きは? レクスファとの国境協定は?」
「……」
ただの1つも答えられない相手をもう振り向きもせず、セアラはベッドの上のシィグトに向き直った。不満そうな気配を残し退室していく親衛隊を気持ちから追い出す。医術師よりようやく小康状態になったと説明を聞き、その医術師も人払いする。
ぱたりと閉まった扉に、そっと優しくシィグトを覗き込んだ。
左眼は刀傷を受け眼球は崩れており、恐らくは失明するだろうとのこと、当てられている包帯が所々朱に染まっているのが痛々しい。
気配に気づいたのか、ふ、とシィグトが右眼を開いた。
「セアラ様…」
「馬鹿ね、どうして1人で行ったの」
「…つい……油断していたんです……が」
「が?」
「えらく……彼らに厳しく……当たりましたね……まるで……魔姫だ…」
掠れた声で呟く相手に、ほっとしつつも詰る。
「だから、あんたは子どもだって言うのよ、シィグト」
声を低めて囁く。
「女の子の気持ちなんか、全くわかっていないんだから。誰だって『愛する人』を傷つけられたら魔にも化け物にも……なるわ…」
「セア……」
驚きに大きく開いた眼が痛んだのだろう、軽く顔を歪めたシィグトは、降りてきたセアラの唇にゆっくりと目を閉じ受け止めた。