8
その夜から、ミダス公の心にはいつも、倦怠と疲労と嘲りが渦巻くようになった。一人娘のリディノの美しさ健やかさも、民の従順さも、それになおさら拍車をかけた。
表面上は何食わぬ顔をしてラズーン四大公の1人、『ミダス公』を務めながら、時折鎌首をもたげる己の禍々しい衝動を容認した。夜に1人、闇に紛れて屋敷を出る。長衣は暗い色に変え、被り物をつけ、懐には小剣、路地に入り込み、出会った最初の人間を一突きに殺す。
悲鳴を上げ、己を責める相手の目に、ほっと一瞬安堵が湧く。今夜こそ何かが変わるに違いない。今夜こそ彼は咎められ、責めを受け、罪人として引き出され、そして何かが変わるに違いない………。
期待はいつも裏切られた。国境を走る黒い影の噂に人々は怯え始めており、悲鳴を聞いても誰も外には出てこなかったからだ。あれは人の悲鳴ではない。何か他の小動物の声だと己をごまかしながら。
人々は知らなかった。自分達の危険を恐れるあまり、別の魔性を、本当はそれこそ恐れなくてはならなかった、『運命』と相通じるものを、自らの内に育てていたのを。
ミダス公の剣は夜毎に血濡れるようになった。なのに、いつも虚しさだけがミダス公の心に残る。その虚しさを埋めようとして、再び夜の中へ忍び出る。抱いた期待はやはり裏切られ、ミダス公は拠り所のなさに夜を1人で過ごせなくなった。
リディノと居る時もふと思うのだ。
もし……もし。
ここでこの娘を殺したなら、何かが変わるだろうか。
さすがに慌てて考えを打ち消したものの、次第にミダス公はリディノの側を離れるようになった。禁忌の中でも最大の禁忌を犯せば、何か変わるのではないか………その誘惑が心を去らなくなるのを、ミダス公は凍てついた思いで見つめていた。
心の揺らぎを読んだように、『運命』シリオンはミダス公の前に姿を現した。
我らは世を変える。我らに従い、ラズーンを裏切れ。四大公としての仮面を我らが為に使うのだ。
シリオンのことばは強くミダス公を揺さぶった。
ラズーンを裏切る。それは四大公としての最大の背徳となるに違いない。『運命』に従う、それは人間として最も恥ずべきものに屈することになろう。しかし、だからこそ、ひょっとすると何かが変わりはしないだろうか。『ミダス公』と言う呪縛を断ち切れるのではないか。
ミダス公は『『運命』の『眼』として動き始めた。ラズーンの情報を流し、守りの手薄なところを知らせる。ラズーン内に『運命』軍を少しずつ引き入れ、来たるべき時に備える。
人々の恐怖の呻きも叫びもミダス公を引き止めなかった。狂って行く世の中を、むしろ喜びを持って眺めた。アシャやセシ公などの手練れが必死に『運命』を食い止めるのを、疎ましくさえ感じていた。
そして今、南へ下って行くジットーを追いながら、ミダス公の脳裏には、つい先日知らされたリディノの死に様が物憂く残っている。知らせたのは『運命』側とミダス公の連絡役を務めるジュナ・グラティアスだった。人の心を失ったとは言え、やはり愕然として立ち竦むミダス公に、ジュナは凄んだ嗤い声を含ませながら嘲った。親子共々、定めは『運命』にあった様子、血の絆は争えぬ、と。
明滅しながらぐるぐると回るミダス公の頭の中に、幼いリディノの姿、美しかった妻、裏切りと告別の末路への想いが次第に凝り、やがてそれは、ことん、とどこか虚ろな音を立てて固まった。
もはや、これまで。
ジットーが南へ下るのを押さえ、野戦部隊の救援を食い止める。その役をミダス公は自ら請うた。動きが派手すぎると忠告したジュナには虚ろに笑って応じた。堕ちる先が見えている者に何のためらいがいる、結末を待つ者はひたすらそこに駆け込むだけだ、と。
自暴自棄の様子を見てとったのか、『眼』の役目も不要と判断したのか、ジュナはそれ以上ことばを継がなかった。
(我が子に生まれたがそなたの身の不運…いや、世がもう少し平和であれば…の…)
混乱と激動の世に、乙女らしい純情の果ての死を迎えたリディノ……その一途さが今のミダス公には苦い。己の生き様を貫けただけ幸せだったと言えなくもない、未だ迷いの淵を歩く己よりは。
黒みがかった灰色の長衣を翻しながら、ミダス公は歩を進めた。狭苦しい路地を抜け、古びた家並みを過ぎ、町外れに来る頃にはジットーの薄汚れた後ろ姿を目にしていた。どこに『運命』が潜んでいるかわからぬ土地を行く密使らしく、旅人を装いながらも緊張が伺え、すぐそれとわかる。
「…」
ミダス公は首に引き下ろしていた布を口元まで引き上げた。被った布と口を覆った布で、目だけを光らせた刺客の姿となって気配を殺しながら懐の小剣の鞘を払い、一気にジットーの背後へ迫る。
いくら気配を殺しているとは言え、素人の刺客、並の人間にはそれと分からなくても、戦場をくぐり抜けてきた兵士には、凄まじい殺気は形に見えるほどのもの、はっとジットーが振り返るのと、ミダス公が無言で斬りつけるのがほぼ同時だった。
「何者!!」
叫んでジットーが飛び退る。追って二の太刀、三の太刀、躱しながら剣を引き抜いたジットーがこちらの目を見てぎょっとしたように、
「まさか、あなたは…」
「!!」
言わせまいと斬りつける己の無様さを、未だ『ミダス公』に未練があるせいだとは気づかなかった。刃と刃が切り結んで火を散らし、不意を襲ったミダス公にさすがに利が出る、瞬間、低いけれどもよく張った声が場を通った。
「ミダス公!」
「っ」
ぎくりとした一瞬、ジットーの刃先が頬を掠め、痛みとともに被りものの布を裂いた。パラリと仮面のように剥がれる口元の布、頬に伝う生ぬるい雫、振り返った視界に、夕暮れの紫の光の中、目を奪うほど鮮やかな金髪を風に乱れさせたセシ公の姿があった。
背後でジットーが追撃も忘れて息を呑む気配、対照的に落ち着き払ったセシ公の茶色の瞳が全てを知っていると語り、ミダス公はゆっくりと身体中の力が抜けていくのを感じた。深い……『安堵』の溜息が体の奥から漏れる。
そのミダス公にじっと目を据えたまま、セシ公は命じた。
「行け、ジットー」
「…」
「ジットー!」
「!」
懸念を確かめるように近づいていたジットーが我に返る。狼狽えたようにミダス公とセシ公を見比べる、その頬が次第に怒りと戸惑いに紅潮していく。
「し…しかし…」
「東の軍を見殺しにするな」
「っ」
セシ公のことばにぐっと詰まったジットーは、激情を必死に堪え……が、ついに堪えきれずに叫んだ。
「…ミダスの……長がっ!!」
吐き捨てて背中を向けたジットーの胸には、東で倒れていった多くの仲間が、そして何より、少ない軍を指揮しながら故国を守ろうとした『銀羽根』の長、シャイラの死がせり上がっていただろう。無理に背けた頬に流れたのは悔し涙だったのか、汚れた拳で汗をふき取るように擦り落とし、南へと走り出す。