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自分には、何か絶対的な情報が欠落している。
それは、父よりセシ公の地位を受け継いだ時から、いや、それよりも昔からセシ公、いや、ラルの中に存在していた疑問だった。
自分には、生を受けた世界の真の姿が見えていない。存在に対する根本的な認識が欠けている。
ラルに地位を譲るや否や逝ってしまった父親は、最後までラルを諭した。それはお前の思い過ごしに過ぎない。世界は確固として今在る通り、眼前に開けているものがその全てだと。
また、こうも言った。余分な好奇心は人生というものが与えてくれる豊かさの味を消してしまう。お前が今手にしているものを失いたくないのなら、黙って与えられた恩恵に感謝しているがいい。
だが、父の諭しはいつもいつも、ラルの裡に在る本能を刺激しただけだった。
長じるにつれ、ラルは、何一つ根拠はないのだが、世界にはもう1つの顔があると確信するようになった。
平和で穏やかな園の陰には、それを保たせるもう1つの園がある。そこは遥かに躍動的で逞しく、どくどくと脈打つ血潮を底にたたえ、燃え上がるような情熱を溢れさせ、いつもどこかへ、時には未来、時には破滅へと流れ続けている。
その姿を見てみたい。その流れを、この両手にしっかりと掴み取ってみたい。
そしていつか、偽りの夢を貪るこの世界の皮を引っ剥がしてみたい。
ラルの話を笑わずに聞いてくれたのは、不思議なことに後のジーフォ公、カートだけだった。
「この世界はどこかおかしいと思わないか、カート」
少年から青年になろうとする時、カートに投げかけたことがあった。
「おかしい?」
酒杯を傾けかけていたカートは不審そうに手を止め、ラルのことばを繰り返した。
「そうだ」
「どうおかしい? どうせお前のくだらん妄想だろうが」
「例えば『私達』、四大公の存在だ」
「『私達』?」
まだ地位を継いでいないくせに、とからかいかけたカートは、次のことばに真顔になった。
「なぜ『こういうもの』ができたのだろう」
「なぜって…昔語りにあっただろう? 昔、諸侯群立し、戦乱世を覆い、時の君主が憂えて諸侯を御前試合に呼び、勝者4名を四大公と称し…」
「馬鹿馬鹿しい」
「何?」
「子どもの喧嘩じゃあるまいし、御前試合で権力者を決めるなんて、あまりにも馬鹿馬鹿しいよ。君みたいに単純な奴はそれで納得するだろうが、仮にも世の覇者となろうとして争っていた人間達が、時の君主だかなんだか知らないが、その男がこうしろと言ったからと素直に言いつけを守ったとは思えない」
「じゃあ…どうしたって言うんだ?」
単純と言われてむっとしたらしい相手が尋ねるのに、
「御前試合でも何でもいい、とにかく時の君主が四大公を決めた。問題はその後だ」
「その後?」
「そう。きっと何か…その『言いつけ』を守らなくてはならないような事があったんだと思う」
「その『守らなくてはならないような事』ってのは何だ?」
「わからない。けれど、そうやってお大事に四大公を置き、視察官を置き、ラズーンを統合府たらしめるために万全の配慮を尽くした……『なぜ』四大公を選んだんだろう、時の君主が『居た』はずなのに。『なぜ』諸侯が群立するような事態になったんだろう」
「…ふうん…」
「…『氷の双宮』に時の君主が居たことは間違いない。ラズーンはこの世の統合府、だからね。でも諸侯が群立、なんて、まるで『氷の双宮』は世の中の動きに無関係だったような言い方じゃないか。ところが、その世の中に無関係だった『氷の双宮』は、四大公が決まり、視察官が配置されるや否や、一気に世の中心に成り上がってしまう。周囲はあっけにとられたはずだが、暴挙に抵抗も反乱もなく、それどころかその後覆される気配さえない。それほどの動乱の後だ、一揉め二揉めあるのは当然だろうに」
カートは無言だ。
「何かの意図を感じるんだよ、カート。何か、『氷の双宮』をひどく大切に扱おうとした意図を。わざわざ『圧力』を全世界にかけてまで、『氷の双宮』への手出しを拒む何かの意図を」
(今ならわかる)
セシ公は右目にかかかる銀髪を払いのけながら考える。
初めて『運命』が出現し人々を恐れさせた時、不思議と『太皇』はうろたえた様子を見せなかった。セシ公の報告をじっと聞き、ぽつりと一言、「ついに来たか」と短く吐いた。
『太皇』は知っていたのではないか、この世の闇に暗躍するそれらの存在を。ひょっとしてそれは、昔四大公を決めた時、反対し抵抗しようとした輩を血に沈めた無言の『圧力』として使われた者達ではないのか。
その圧力があったからこそ、ラズーン内部の治政も四大公に任せきりのように見える『氷の双宮』が、世の頂点として君臨し得たのではないか………人間ではない、『神々』の住処として。
セシ公の大胆な仮説は続く。
今巷で囁かれている浮き足立った噂のような、実は世界を救う素晴らしい武器が『氷の双宮』には納められていて、それを守るために『太皇』が『氷の双宮』から出てこない、そんなことは考えられない。
だが、『氷の双宮』には何かとても大事なもの…『太皇』にとってだけではなく、下手をするとこの世の全てにとってもかけがえないものがあるのは確かだろう。そこへ到達する情報が極端に少ないことからも想像できる。重要な秘密であればあるほど、情報が流れにくいのは当然だ。
(ならば、『氷の双宮』には一体何がある?)
「セシ公」
呼びかけられてセシ公は顔を上げた。配下の『金羽根』が1人、音もなく近寄ってくるのを凝視する。
「ミダスが動きました」
男は淡々と報告した。ちらりと無念そうな表情になったのは、獲物を己が仕留められなかった事が悔しいせいと見えた。
「…やはりか」
「?! 出られるのですか?」
セシ公が立ち上がるのに、男はぎょっとしたようだ。
「主の留守とあれば、な。アシャ殿は病床、残るは女子どもとあれば、荒事は好まぬが命がある、背くわけにもいかぬ。ワツール?」
「はい」
「ミダスを狩る……来るか?」
「喜んで」
男はにやりと笑った。