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クサリヲトイテクレ。
その声は遠い彼方の闇より、幼い頃からアシャの心に囁き続けていた。
鎖ヲ解イテクレ。
巨大な力の気配。圧倒的なエネルギー、他者の存在を許さぬほどの強烈な自己肯定、猛々しい『魔』の匂い。
鎖ヲ、解ケ!
(駄目だ)
アシャは心の中で身もがいて拒否した。
ナゼダ。
(お前は『魔』だ)
オ前モ同ジダ。
(違う。俺はお前と『同じ』ではない!)
ドコガ違ウ。
気配は心底不審そうに問いかけた。
オ前ハ俺ノ分身、イヤ、オ前ハ、俺デハナイノカ。
(違う!)
叫ぶアシャの心には、幼い頃のことが蘇っている。
『氷の双宮』の中、ひとりぼっちの遊びの毎日。
気に入りの『鳴き鳥』(メール)がいた。青と銀がかった羽根、美しい声で囀っていた。
ある日、何に怯えたのか、アシャの手から逃げ、いくら呼んでも戻って来ない。近くの木の枝に止まり、囀りながら跳ね回っている。アシャは何度も呼び、ついには焦れて木に登った。呼びながら上へ上へと登ってゆき、手を伸ばし、チチチッと口真似をしながら指を伸ばすが、あちらこちらへと動く『鳴き鳥』(メール)は落ち着かない。ようやく指先までやってきて乗るかと思った次の瞬間、まるでからかうように『鳴き鳥』(メール)はアシャの指を飛び越え、逃げた。
はっとして体重を前に掛け手を伸ばす。一瞬後、枝はアシャの体を支えきれず、音を立てて折れた。悲鳴、木から転げ落ちて地面に全身を打ち付けた、その痛みがアシャの心のどこかを切った。眉をしかめながら見上げた空に、今しも消え去ろうとする『鳴き鳥』(メール)、「行かないで!」と叫ぶ声と同時に心が命じていた、「行クナ!」
びくっと『鳴き鳥』(メール)が羽ばたきを止めた。鈍い、濡れた布を叩きつけながら引き裂いたような音、チュグッと呻くような声が空に響き、『鳴き鳥』(メール)の姿が四散し赤いものが飛び散った。ぽたっとアシャの額に生温かいものが降り落ち、呆然と空を見上げているアシャの眉間を伝って頬へと流れ落ちる。何もなくなってしまった空にふわふわと舞う儚げな青い羽根……熱いものが瞳に溢れた。
こんなことを望んだんじゃない。側を離れて欲しくなかっただけだ。こんなことを望んだんじゃない。
子どもの姿で立ち竦むアシャの背後の地面がいきなり割れた。暗い気配が立ち昇る。男とも女ともつかぬ顔がにんまりと妖しく嗤う。
王よ、と『それ』はアシャに呼びかけた。
我ら『運命』、『魔』の王、アシャよ。
(違う!!)
叫ぶアシャの前で、その顔は『運命』のシリオンと名乗る姿に変わった。
『運命』の軍門に下れ、いや、王として迎えもしよう。
いつかの夜に誘いをかけてきた相手は、ゆるゆると形を変え、やがてギヌア・ラズーンの酷薄そうな禍々しい笑みになった。
ドコガ第一正当後継者、オ前ニハ『魔』ノ匂イガスルゾ。
殺した『鳴き鳥』(メール)、足を失った馬、傷だらけになった『太皇』。
繰り返された封印は、ユーノの危機に切れ、今やアシャの力は自制しか『魔』を抑える術は無い。
だが、ユーノ、あの愛しい娘は戦場へ旅立っている。守るものなく、ただ1人、刃の中にその身を晒して。
空に雲散霧消した『鳴き鳥』(メール)の最後がユーノと交錯した。折り重なる屍、噎せ返る血の臭い、その中にユーノの朱に塗れた身体!
(ユーノ!!)
叫んで走り寄ろうとするのに、体が動かなかった。
ソノ身デハ無理ダ。
昏い嗤いを含んで声が囁いた。
生身ノオ前ハ床ニイル。ゆーのガ死ヌノヲ黙ッテ見テオレ。
(やめろーっ!!)
影が走り、倒れたユーノに覆い被さった。華奢な首をぐいと掴む。そのまま無造作に持ち上げる、体は踏みつけたままだ、ごぶっとユーノの口が紅を吐いた。細く白い首筋に朱色の亀裂、見る見るちぎれてぬるりと肉塊がはみ出る、ユーノの瞳がガラス玉となり反転する。
声にならぬ声が己の喉を突き、何かがアシャの体を押し出した。金の炎が己の指先から爪先から髪から噴き出し、アシャは全ての枷を断ち切って、東へと走り出した。
「ふ…うっ…ううっ…」
「アシャ?」
レアナは不意に呻いたアシャを訝しく覗き込んだ。眠っているアシャの額には玉のような汗、濡れた髪が絡んで張り付き、厳しく結ばれた口元には薄く血が滲んでいる。
「血…?」
悪夢にうなされて唇でも噛んだのか。案じてレアナは水に湿した布で汗を拭き、口元を拭おうとしたが、
「ひっ」
小さく声を上げ、体を強張らせた。今の今まで目を閉じていたアシャが、カッと目を見開いている。瞳は紫紺、深く遠く、人間の体の一部とは思えぬほど硬質な輝きを宿して虚空を見つめている。
「アシャ…?」
レアナは恐る恐る声をかけた。だが、次に起こった出来事に、今度は声もなく立ち竦んだ。淡い金色の靄のようなものがアシャの体から湧き上がり、ゆっくりと中空に凝縮していくのだ。
「レアナ姫、アシャの容態は…」
「っ!」
無作法に合図もなく開けられた扉が、レアナの呪縛を解いた。身を翻し、入ってきたイルファの体にしがみつく。驚いたのはイルファの方で、思わずうろたえて剣に手をかけ、
「な、何です! 何があったんです!」
「イルファ、待って!」
叫んだイルファをレスファートが制した。指差す先に空中に凝った金の靄、見つけたイルファは剣を引き抜き、レアナを背後にかばいながら
「何者だ!」
「…」
金色の靄はイルファの声に一瞬たじろぐように揺れた。だが、再び凝縮を始め、次第に形を成していく。凝視していたレスファートがはっとしたように声を上げた。
「アシャ?!」
「何ィ?!」
「アシャ…?」
目を見張るイルファ、驚きを隠せないレアナ、唯一『こういう類』への理解は早くて的確なレスファートが続ける。
「どうしたの? どうして体を置いていくの?」
「………」
金の靄は揺らぎためらい、けれどやがて振り切るように開いた窓へ滑り寄った。
「アシャ、だめ!」
レスファートが慌てて靄を追う。
「イルファ、止めて!」
「止、止めてっても…」
「アシャ、何かおかしい! …アシャ!」
イルファが困惑しきった声を出すのに、助けにならないと悟ったのだろう、レスファートは金色の靄が出て行った窓を開け放ち叫ぶ。
「アシャ! だめ! 帰ってきてよ! 帰って、アシャ!!」
が、既に金色の靄は一筋の光となって、暮れかけた空を東へと疾って行った。




